鳥谷部春汀
鳥谷部 春汀︵とやべ しゅんてい、元治2年3月3日︵1865年3月29日︶ - 明治41年︵1908年︶12月21日︶は、明治時代の日本のジャーナリスト。本名は銑太郎、春汀と号する。
略伝[編集]
南部藩士・木村忠治の子として、陸奥国三戸郡五戸村︵現青森県三戸郡五戸町︶に生まれる。幼時より母方の鳥谷部氏を嗣ぐ。 明治24年︵1891年︶に東京専門学校︵現早稲田大学︶を卒業し、翌年には島田三郎の知遇を得て、毎日新聞社に入社し社説を担当する。明治27年︵1894年︶に退社し、明治28年︵1895年︶に近衛篤麿から雑誌﹃精神﹄︵後に﹃明治評論﹄︶を託され、人物評を連載し始める。明治30年︵1897年︶から雑誌﹃太陽﹄の記者となり、人物評を連載する。明治33年︵1900年︶に報知新聞社に移るがそこでも人物評を続ける。明治41年︵1908年︶、享年44で没する。東京本郷駒込の吉祥寺に葬る。 森銑三は、春汀のことを﹁明治の硬派の文人の中でも最も敬意の表せられる人﹂と書いている[1]。参考文献[編集]
- 木村毅・編『明治人物論集』(『明治文学全集』に収録)
著書[編集]
脚注[編集]
- ^ 森銑三『落葉籠』中公文庫、2009年、下・80p頁。