黒沢準
黒沢 準︵黒澤、くろさわ ひとし、1878年︵明治11年︶8月19日[1][2] - 1927年︵昭和2年︶9月5日[1][2]︶は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸軍有数の戦術家といわれた[3]。
経歴[編集]
宮城県出身[1][2][4]。黒沢嫡の長男として生れる[1]。仙台の第二高等中学校[注 1]︵後の旧制第二高校、その後東北帝国大学を経て現・東北大学︶を経て、1898年︵明治31年︶11月、陸軍士官学校︵10期︶を卒業[1][2][5]。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第29連隊付となる[1][5]。1902年︵明治35年︶8月9日陸軍大学校︵19期︶に入学するが、日露戦争期であったため1904年︵明治37年︶2月9日一時中退し、1906年︵明治39年︶3月20日に復校し、1907年︵明治40年︶11月30日に優等で卒業し参謀本部出仕となった[2][4][6]。 1908年︵明治41年︶4月、参謀本部員となり、以後、ロシア駐在、陸大教官、参謀本部員を経て、1914年︵大正3年︶8月、独立第18師団参謀に発令され青島の戦いに出征した[1][3]。1915年︵大正4年︶2月、参謀本部員に転じ、1916年︵大正5年︶1月、歩兵中佐に昇進。同年8月から10月まで閑院宮載仁親王に随行しロシアに出張した[1]。 1917年︵大正6年︶2月、関東都督府陸軍部付︵ハルビン駐在︶となり、1918年︵大正7年︶9月、歩兵大佐に昇進[1][4]。関東兵站参謀長︵諜報担当︶を経て、1919年︵大正8年︶2月、浦塩派遣軍司令部付︵チタ特務機関長︶に発令されシベリア出兵に出征した[1][2][3][4]。1920年︵大正9年︶8月、参謀本部作戦課長に転じ、1922年︵大正11年︶8月、陸軍省軍務局軍事課長となる[1][3][4]。1923年︵大正12年︶8月、陸軍少将に進級し参謀本部第1部長に就任[1][2][4]。1925年︵大正14年︶5月、歩兵第37旅団長、1926年︵大正15年︶7月、参謀本部総務部長を経て、1927年︵昭和2年︶1月、参謀本部付、同年7月に休職し、同年9月に死去して陸軍中将に進級した[1][2][3][4]。栄典[編集]
- 位階
- 勲章
親族[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版、61頁では仙台高等中学と記されている。