PBSUCCESS作戦
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PBSUCCESS作戦︵ピービーサクセスさくせん、英: Operation PBSUCCESS︶は、アメリカ合衆国・中央情報局︵CIA︶が1954年に行ったグアテマラのハコボ・アルベンス・グスマン︵西: Jacobo Árbenz Guzmán︶政権に対する転覆計画である。この作戦が後のグアテマラ内戦に繋がった。﹁Operation PBSUCCESS﹂というのは、立案に当たって名付けられたコードネームで、本事件は1954年グアテマラクーデターともいう。
駐グアテマラアメリカ大使ジョン・ピュリフォイ
その後1953年10月には、過去にギリシャでの反共主義活動を支援し、保守派の結合を実現させ共産主義勢力を一掃させた実績もあるジョン・ピュリフォイがアメリカの駐グアテマラ大使として就任した。
その後ピュリフォイ大使は内外でアルベンス政権に対する批判を繰り広げたばかりか、反アルベンス派として知られた大地主のマリアン・ロペス・エラルテやグアテマラ軍内部の反アルベンス派への接触を行うなど、アルベンス政権打倒の姿勢を明確にした。また、このような一連の動きの裏で、アメリカ合衆国政府は反アルベンス派の兵士に破格の報酬を与えて秘密キャンプでの軍事訓練を開始した。
このように、アメリカ合衆国政府が反アルベンス派への軍事物資の供給を強化し活動を活発化したために、グアテマラ軍はこれに対抗して軍備の増強を図ろうとしてアメリカ合衆国企業に兵器の購入を打診したものの、アメリカ合衆国政府はこれを阻止しただけでなく兵器の禁輸措置を行った。このためにやむなくグアテマラが共産圏のチェコスロヴァキアからの兵器を輸入しようとしたが、この事実が1954年4月に明らかになると、ピュリフォイ大使はこれを﹁アルベンス政権の容共姿勢を象徴するもの﹂として大々的に批判し、アルベンス政権打倒に向けた一貫の行動を正当化する口実とした。
これらのアメリカ合衆国の露骨な内政干渉と政権打倒の姿勢を受けて、アルベンス政権もアメリカ人ジャーナリストの入国を拒否するなど対立姿勢を明確にすると、アルベンス政権とアメリカ合衆国との関係はもはや修復不可能なものとなり、1954年5月にグアテマラはアメリカ合衆国と断交するに至った。しかしピュリフォイ大使は公然とグアテマラ市内の大使公邸に居座り続け、反アルベンス派との接触を続けた。
クーデターを描いたディエゴ・リベラ﹁輝かしき勝利﹂
1954年6月25日に、反アルベンス派の亡命グアテマラ人で、アメリカ合衆国政府およびCIAからの豊富な資金支援を受けたカルロス・カスティージョ・アルマス元陸軍大佐は、隣国エルサルバドルの首都のサンサルバドルで﹁グアテマラ反共臨時政府﹂樹立を正式発表した。
アメリカ合衆国は直ちにこれを承認し、アルマスはアメリカ合衆国及びCIAからのマーチンB-26爆撃機や火砲などの武器援助を受けた傭兵軍を率いてグアテマラ国内への侵攻を始めた。アルベンスは応戦の構えを見せたが、グアテマラ軍の装備が貧弱であった上に、反共的思想を持つ者が大勢を占め容共的なアルベンスに対して反感を覚える者が多かった上に、アメリカ軍や政府との関係も強かった軍部の高級将校の多くはこれを拒否した。軍部からの支持を失ったアルベンスは6月27日に大統領を辞任し亡命した。
その後すぐにアルベンスの行った改革は全て水泡に帰し、再びグアテマラはウビコ時代のようなアメリカ合衆国からの全面的な支援、支持を受けた上での弾圧、独裁政治の時代に戻ってしまった。