デジタル大辞泉
「イエズス会」の意味・読み・例文・類語
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イエズス‐かい‥クヮイ 【イエズス会】
(一) ( [ ラ テ ン 語 ] S o c i e t a s J e s u の 訳 語 ) 一 六 世 紀 に イ グ ナ チ ウ ス = デ = ロ ヨ ラ が 創 立 し た 男 子 修 道 会 。 戦 闘 的 な 布 教 を 目 標 と し 、 わ が 国 に も 一 五 四 九 年 フ ラ ン シ ス コ = ザ ビ エ ル に よ っ て 伝 え ら れ た 。 耶 蘇 ( や そ ) 会 。 ジ ェ ズ イ ッ ト 会 。 ゼ ズ ス 会 。 ゼ ズ ス の コ ン パ ニ ヤ 。 エ ス イ タ 。
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イエズス会 (イエズスかい) Societas Jesu[ラテン]
目次 創立と精神 盛衰と現状 東アジア・インドにおける活動 新大陸における活動
カ ト リ ッ ク 教 会 内 の 司 祭 修 道 会 の 一 つ 。 16 世 紀 イ グ ナ テ ィ ウ ス ・ デ ・ ロ ヨ ラ に よ っ て 創 立 さ れ た 。 耶 蘇 ︵ や そ ︶ 会 と も 書 か れ , 同 会 士 は ジ ェ ス イ ッ ト J e s u i t と も 呼 ば れ る 。
創 立 と 精 神
イ グ ナ テ ィ ウ ス は マ ン レ サ の 神 体 験 後 , パ リ 大 学 で 出 会 っ た 6 人 の 同 志 P . フ ァ ー ブ ル , ザ ビ エ ル , D . ラ イ ネ ス , N . ボ バ デ ィ リ ャ , A . サ ル メ ロ ン , S . ロ ド リ ゲ ス と と も に , 1 5 3 4 年 8 月 15 日 パ リ の モ ン マ ル ト ル に お い て ︿ 貞 潔 ・ 清 貧 ・ エ ル サ レ ム 巡 礼 ﹀ の 悲 願 を た て た 。 36 年 同 日 の 誓 願 更 新 に あ た っ て , さ ら に 3 人 の 友 C . ル ・ ジ ェ , J . コ デ ュ ー ル , P . ブ ロ エ が 加 わ っ た 。 彼 ら は 37 年 6 月 こ ろ イ グ ナ テ ィ ウ ス の 著 書 ︽ 心 霊 修 行 ︵ 霊 操 ︶ ︾ の 精 神 に 従 っ て 自 分 た ち を ︿ イ エ ズ ス の 友 ﹀ と 呼 ぶ こ と に し , 教 皇 に 従 う こ と を 決 め た 。 ベ ネ チ ア か ら ロ ー マ へ の 途 上 の こ と , ロ ー マ 近 郊 の ラ ・ ス ト ラ ダ 小 聖 堂 で イ グ ナ テ ィ ウ ス は , 生 涯 で 最 も 決 定 的 な 神 的 直 観 ︿ イ エ ズ ス の 小 さ い こ の 共 同 体 が ど こ ま で も 十 字 架 に つ け ら れ た キ リ ス ト の 友 と な る ﹀ と い う 恵 み を 受 け た と い わ れ る 。 こ の 神 的 直 観 は イ エ ズ ス 会 の 心 の 拠 点 と な っ た 。 イ グ ナ テ ィ ウ ス は 38 年 , 復 活 祭 に 同 志 一 同 を ロ ー マ に 招 集 し , 修 道 会 創 立 の 計 画 に つ い て 数 週 間 討 議 し た 結 果 , 教 皇 認 可 を 願 う こ と に 決 め た 。 39 年 9 月 3 日 彼 ら は ︽ 会 掟 草 案 ︾ を 教 皇 パ ウ ル ス 3 世 に 提 出 し , 口 頭 で 創 立 の 承 認 を 受 け た が , 同 教 皇 は 40 年 9 月 27 日 , こ れ を ︽ イ エ ズ ス 会 創 立 勅 書 ︾ を も っ て 正 式 に 認 可 し た 。 41 年 4 月 8 日 イ グ ナ テ ィ ウ ス が 初 代 総 長 に 選 ば れ た 。 イ エ ズ ス 会 は ︿ よ り 大 い な る 神 の 栄 光 の た め に ﹀ ︿ 諸 所 を め ぐ り , 神 に 対 す る す ぐ れ た 奉 仕 と 人 類 救 済 の た め , 希 望 の 存 す る 世 界 の ど こ に も 居 住 す る ﹀ こ と を 念 願 と し て い る 。 こ れ は ︿ 人 間 は 主 な る 神 を 賛 美 し , 敬 い , 神 に 仕 え , そ れ に よ っ て 自 己 の 救 霊 を 完 成 す る た め に 創 造 さ れ た ﹀ と す る 精 神 に 基 づ い て い る 。
盛 衰 と 現 状
イ エ ズ ス 会 は 修 道 会 史 上 新 転 換 を 画 し , 一 定 の 修 道 服 や 歌 唱 祈 禱 な ど の 古 い 生 活 形 式 を 廃 止 し て 全 世 界 に と び 立 っ て い っ た 。 創 立 者 イ グ ナ テ ィ ウ ス の 没 年 ︵ 1 5 5 6 ︶ に は 会 士 1 0 0 0 , 管 区 12 , 中 興 の 祖 第 5 代 総 長 ア ク ア ビ バ C . A q u a v i v a 時 代 ︵ 1 5 8 1 - 1 6 1 5 ︶ に は 会 士 1 万 3 1 1 2 , 管 区 32 に 達 し , そ の 使 徒 的 活 動 , 学 校 教 育 , 学 問 研 究 は 世 界 各 国 に お い て 進 展 し た 。 し か し 18 世 紀 末 の 反 教 会 的 嵐 の 中 で ポ ル ト ガ ル ︵ 1 7 5 9 ︶ , フ ラ ン ス ︵ 1 7 6 4 ︶ , ス ペ イ ン や ナ ポ リ ︵ 1 7 6 7 ︶ , そ の 他 の 国 に お け る 同 会 の 禁 止 と 追 放 が 断 行 さ れ た 。 こ の よ う な 政 治 的 圧 迫 に 直 面 し て 教 皇 ク レ メ ン ス 14 世 は 1 7 7 3 年 7 月 21 日 ︿ 教 会 の 平 和 の た め に 親 し い も の さ え 犠 牲 に し な け れ ば な ら な い ﹀ と 書 き , イ エ ズ ス 会 解 散 を 命 じ た 。 し か し 同 会 は ロ シ ア の エ カ チ ェ リ ナ 2 世 の 下 に 合 法 的 に 生 命 を 保 っ た 。 ナ ポ レ オ ン の 失 脚 後 , 教 皇 ピ ウ ス 7 世 は フ ラ ン ス 幽 閉 か ら ロ ー マ へ 帰 還 し て ま も な く , 1 8 1 4 年 8 月 7 日 勅 書 ︽ 全 教 会 の 憂 慮 ︾ を も っ て イ エ ズ ス 会 再 興 を 宣 言 し た 。 20 年 ロ シ ア は 一 転 し て 全 国 土 か ら 会 士 を 追 放 し た 。 多 く の 盛 衰 の 運 命 を 体 験 し た が , イ エ ズ ス 会 は 創 立 当 初 の 生 命 力 を 保 持 し , 教 会 奉 仕 に 献 身 し た 。 1 9 8 3 年 現 在 同 会 は 第 29 代 総 長 コ ル ベ ン バ ハ P . H . K o l v e n b a c h の 指 導 の 下 に 会 士 2 万 6 6 2 2 を 有 し , 管 区 83 に 分 か れ て い る 。 日 本 で は , 教 皇 ピ ウ ス 10 世 の 命 令 に よ っ て , ザ ビ エ ル の 遺 産 を 継 ぐ べ く 1 9 0 8 年 10 月 18 日 再 渡 来 し , 上 智 大 学 ︵ 1 9 1 1 ︶ , 六 甲 学 院 ︵ 1 9 3 7 ︶ , 栄 光 学 園 ︵ 1 9 4 7 ︶ , エ リ ザ ベ ト 音 楽 大 学 ︵ 1 9 4 8 ︶ , 広 島 学 院 ︵ 1 9 5 6 ︶ の 創 立 そ の 他 の 使 徒 的 事 業 に 活 動 を 続 け て い る 。 日 本 管 区 は 日 本 人 会 士 と 世 界 各 国 か ら 集 ま っ た 会 士 を 合 わ せ て 3 3 7 , 国 際 的 性 格 を も っ て い る 。
執 筆 者 ‥ 鈴 木 宣 明
東 ア ジ ア ・ イ ン ド に お け る 活 動
ジ ェ ス イ ッ ト と 総 称 さ れ る 教 団 会 士 は , 軍 隊 制 度 に 倣 っ た 厳 し い 規 律 と 強 固 な 結 合 を 誇 り , 反 宗 教 改 革 運 動 と 東 方 伝 道 に と り く ん だ 。 彼 ら の 出 身 は ポ ル ト ガ ル , ス ペ イ ン を は じ め , イ タ リ ア , フ ラ ン ス , オ ラ ン ダ , ベ ル ギ ー な ど で あ っ た 。 ポ ル ト ガ ル の 進 出 に 伴 っ て , 教 団 は ゴ ア に 本 拠 を 置 き , 東 南 ア ジ ア , 中 国 , 日 本 を 含 む 広 大 な ︿ イ ン ド 管 区 ﹀ を 布 教 地 域 と し た 。
1 5 4 9 年 ︵ 天 文 18 ︶ , ゴ ア か ら 東 南 ア ジ ア を 経 て 鹿 児 島 に 上 陸 し た ザ ビ エ ル に よ っ て 日 本 で の 布 教 が 始 め ら れ た 。 そ の 後 , 織 田 信 長 の 保 護 も あ り , フ ィ ゲ レ イ ド M . d e F i g u e r e i d o , フ ロ イ ス , バ リ ニ ャ ー ノ ら は 京 都 , 長 崎 を 中 心 に 教 化 を 進 め , 17 世 紀 初 め に は , 全 国 の 信 徒 は 約 20 万 人 に の ぼ っ た 。 そ の 中 か ら , 大 村 純 忠 , 大 友 宗 麟 , 有 馬 晴 信 ら の キ リ シ タ ン 大 名 も あ ら わ れ , ま た 天 正 遣 欧 使 節 も 派 遣 さ れ た 。 し か し , 87 年 ︵ 天 正 15 ︶ , 豊 臣 秀 吉 に よ る バ テ レ ン 追 放 令 , 1 6 1 2 年 ︵ 慶 長 17 ︶ , 徳 川 幕 府 に よ る キ リ シ タ ン 禁 教 令 に よ っ て 教 団 は 厳 し い 弾 圧 を 受 け た 。 教 団 は 実 践 的 な 布 教 対 策 を と る べ く , 日 本 の 風 俗 , 文 化 , 気 候 な ど の 理 解 に 努 め , そ の 関 心 の あ り 方 , 内 容 は フ ロ イ ス の ︽ 日 本 史 ︾ , バ リ ニ ャ ー ノ の ︽ 日 本 巡 察 記 ︾ な ど に 詳 し く み ら れ る 。 ま た ︽ 日 葡 辞 書 ︾ の 編 纂 や 活 版 印 刷 術 の 導 入 の よ う に , イ エ ズ ス 会 が も た ら し た 文 化 的 功 績 は 大 き い 。
→ キ リ シ タ ン
中 国 で は , リ ッ チ が 1 5 8 3 年 に 広 東 に 布 教 活 動 の 第 一 歩 を し る し た 。 教 団 は 皇 帝 や 中 央 , 地 方 の 士 大 夫 な ど 主 と し て 当 時 の 指 導 層 と 接 触 し , 彼 ら の 改 宗 を 心 が け た 。 瞿 太 素 , 徐 光 啓 , 李 之 藻 ら の 士 大 夫 信 徒 は 暦 学 ・ 数 学 ・ 地 理 学 の 科 学 知 識 を 習 得 し , 会 士 と と も に そ の 普 及 に 力 を 尽 く し た 。 イ エ ズ ス 会 は , 中 国 の 伝 統 的 慣 習 を 受 容 す る 布 教 方 針 を と り , そ れ は 他 教 団 と の 意 見 対 立 を も た ら し た 。 や が て ︿ 典 礼 問 題 ﹀ を 契 機 と し て , 1 7 0 6 年 ︵ 康 熙 45 ︶ 以 降 , 布 教 は 禁 止 さ れ , 会 士 も 追 放 さ れ た 。 そ の 後 , 19 世 紀 半 ば ま で 禁 圧 さ れ た 教 団 は , 1 8 4 2 年 ︵ 道 光 22 ︶ に 再 び 活 動 を 認 め ら れ , 江 蘇 , 河 北 , 安 徽 を 中 心 に 拡 大 し た 。 中 国 の イ エ ズ ス 会 受 容 の 要 因 に は , 西 欧 科 学 技 術 ・ 知 識 の 吸 収 が あ っ た 。 そ の こ と は 一 面 , 弾 圧 下 に あ っ て も 欽 天 監 ︵ 国 立 天 文 台 ︶ の 職 員 な ど に 任 じ ら れ た 中 国 人 信 徒 を 通 じ て 布 教 の 維 持 を 可 能 に し た が , 他 面 で は 民 衆 の 教 化 に つ い て は 弱 く , 清 朝 期 に は 仇 教 運 動 ︵ 反 キ リ ス ト 教 運 動 ︶ の 中 で 民 衆 の 激 し い 排 斥 ・ 批 判 の 対 象 と も な っ た 。
東 南 ア ジ ア で は , 16 世 紀 末 に ス ペ イ ン の 強 い 影 響 下 に あ っ た フ ィ リ ピ ン で , イ エ ズ ス 会 は 諸 教 派 と と も に カ ト リ ッ ク 勢 力 の 一 派 を 形 成 し た 。 タ イ で は , バ ル グ ア ル ネ ラ T . V a l g u a r n e r a 神 父 を 主 と す る フ ラ ン ス ・ イ エ ズ ス 会 が 要 塞 そ の 他 の 建 築 の 設 計 ・ 技 術 を 援 助 し , ナ ラ イ 王 の 信 を 得 た 。 そ の た め 17 世 紀 後 半 の 20 余 年 間 に , バ ン コ ク , ア ユ タ ヤ , ピ サ ヌ ロ ー ク に 教 会 , 学 校 , 病 院 を 開 設 し て , 布 教 , 医 療 活 動 に 従 事 し , そ の 他 タ イ 文 字 の ロ ー マ 字 化 を 行 っ た 。
イ ン ド で は 教 団 の 本 拠 地 で あ っ た ゴ ア 周 辺 で 1 5 6 0 年 こ ろ か ら 強 力 に 布 教 が 進 め ら れ た 。 そ の 結 果 , 96 年 に は 13 の 会 堂 と 3 万 余 人 の 信 者 を 得 る に 至 っ た 。 も っ と も , 当 時 の 布 教 活 動 は , 日 本 , 中 国 に お い て も み ら れ た よ う に , 教 団 を 派 遣 し た 国 々 の 貿 易 上 , 軍 事 上 , 政 治 上 の 意 図 や 利 害 を 強 く 反 映 し て お り , や や も す る と , 現 地 の 人 々 や 伝 統 文 化 に 対 す る 無 定 見 な 批 判 や 寺 院 の 破 壊 ・ 異 端 審 問 と い っ た 極 端 な 形 で あ ら わ れ る こ と も あ っ た 。 ま た , 信 徒 の 資 格 に つ い て は , ザ ビ エ ル の よ う に ︿ 使 徒 信 条 ﹀ を 信 ず る 者 な ら ば 信 者 で あ る と す る 考 え も あ り , 必 ず し も 厳 格 な も の で は な か っ た 。 1 5 8 0 年 か ら 95 年 の 間 , 3 度 に わ た っ て 教 団 は ム ガ ル 宮 廷 に 使 節 を 送 り , ア ク ア ビ バ R . A q u a v i v a や モ ン セ ラ テ A . M o n s e r r a t e ら が ア ク バ ル と そ の 宮 廷 貴 族 の 教 化 を 図 っ た 。 そ の 後 , ジ ャ ハ ー ン ギ ー ル の 保 護 を 受 け て ラ ホ ー ル に 教 会 を 建 設 す る な ど , イ ン ド 人 の 間 に 布 教 を 続 け た が , や が て ム ガ ル 帝 国 と ポ ル ト ガ ル と の 関 係 悪 化 に よ っ て , イ エ ズ ス 会 は 禁 止 さ れ る こ と に な っ た 。 南 イ ン ド で は ビ ジ ャ ヤ ナ ガ ル 王 国 の 支 配 者 た ち や 地 方 領 主 に も 働 き か け た が , 同 時 に マ ラ バ ル 地 方 の ヒ ン ド ゥ ー 教 徒 や コ ロ マ ン デ ル 沿 岸 南 部 の 部 族 集 団 の 改 宗 に も 力 を 入 れ た 。 布 教 を 通 じ , デ ュ ボ ア J . A . D u b o i s や ベ ス チ C . G . B e s c h i の よ う な 優 れ た 会 士 に よ っ て , 民 衆 の 風 俗 ・ 慣 習 ・ 儀 礼 ・ 伝 承 ・ カ ー ス ト の 記 録 や 報 告 書 , あ る い は タ ミ ル 語 の 辞 典 ・ 文 法 書 と い っ た 当 時 の 南 イ ン ド 社 会 ・ 文 化 に 関 す る 貴 重 な 資 料 が 残 さ れ た 。 イ ン ド で は 中 国 に み ら れ た よ う な 典 礼 問 題 や 激 し い 排 教 運 動 は 生 じ な か っ た が , キ リ ス ト 教 徒 も ヒ ン ド ゥ ー 社 会 秩 序 の 中 の 一 つ の カ ー ス ト と し て 位 置 づ け ら れ る と い う 状 況 が 形 成 さ れ た 。
執 筆 者 ‥ 重 松 伸 司
新 大 陸 に お け る 活 動
プ ロ テ ス タ ン テ ィ ズ ム へ の 対 抗 を 標 榜 す る イ エ ズ ス 会 の も う ひ と つ の 目 標 は , 大 航 海 時 代 に 入 っ て 一 挙 に 拡 大 し た イ ン デ ィ ア ス ︵ 新 世 界 ︶ や ア ジ ア な ど , 非 キ リ ス ト 教 地 域 へ の 宣 教 だ っ た 。 事 実 , た と え ば ヌ エ バ ・ エ ス パ ニ ャ ︵ メ キ シ コ ︶ は 早 く か ら 創 立 者 イ グ ナ テ ィ ウ ス ・ デ ・ ロ ヨ ラ の 強 い 関 心 を ひ き , 彼 は 同 僚 の 早 期 渡 航 を 指 示 し た 。 だ が , イ エ ズ ス 会 士 が 最 初 に 到 着 し た の は ポ ル ト ガ ル 領 ブ ラ ジ ル ︵ 1 5 4 9 ︶ で , こ れ に フ ロ リ ダ ︵ 1 5 6 6 ︶ , ペ ル ー ︵ 1 5 6 8 ︶ , ヌ エ バ ・ エ ス パ ニ ャ ︵ 1 5 7 2 ︶ が 続 い た 。 創 立 時 か ら 青 少 年 教 育 を 重 視 し て , す で に ヨ ー ロ ッ パ 各 地 で 相 当 数 の 学 校 を 持 っ て い た イ エ ズ ス 会 は , 新 世 界 で も こ の 方 針 に 沿 っ て , 原 住 民 に 限 ら ず , そ れ ま で あ ま り 顧 み ら れ な か っ た ヨ ー ロ ッ パ 人 入 植 者 の 子 弟 を も 迎 え 入 れ た 。 そ の 結 果 , ヌ エ バ ・ エ ス パ ニ ャ を 例 に 取 る と , 聖 職 者 は も と よ り 歴 史 に そ の 名 を 残 し た 学 者 ・ 文 人 ・ 政 治 家 の 多 く は , イ エ ズ ス 会 士 の 下 で 教 育 を 受 け た 人 々 だ っ た 。
イ エ ズ ス 会 士 の も う ひ と つ の 活 動 は , 僻 地 や 辺 境 で の 宣 教 だ っ た 。 と り わ け パ ラ グ ア イ に お け る レ ド ゥ ク シ オ ン r e d u c c i ó n ︵ 原 住 民 教 化 集 落 ︶ は 特 異 な 試 み と し て 知 ら れ る 。 宣 教 の 一 策 と し て の 原 住 民 の 集 落 化 は , 1 5 3 7 年 に グ ア テ マ ラ 司 教 マ ロ キ ン が 提 唱 , 各 地 で さ ま ざ ま な 形 で 実 践 さ れ た が , 1 6 0 9 年 イ エ ズ ス 会 士 ト ー レ ス ・ ボ ー リ ョ 神 父 が パ ラ グ ア イ で 始 め た も の が も っ と も 大 規 模 な 発 展 を 見 た 。 ヨ ー ロ ッ パ 人 入 植 者 を 排 除 し , イ エ ズ ス 会 士 と 原 住 民 に よ る キ リ ス ト 教 信 仰 の 実 践 と 原 始 共 産 生 活 の 融 合 は , 16 世 紀 人 文 主 義 者 の ユ ー ト ピ ア 論 を 思 わ せ る 壮 大 な 社 会 実 験 で あ っ た 。 し か し 王 権 至 上 主 義 を 掲 げ て 教 皇 庁 と 対 立 す る カ ル ロ ス 3 世 は , 1 7 6 7 年 ス ペ イ ン と そ の 海 外 領 土 か ら 全 イ エ ズ ス 会 士 の 追 放 を 命 じ た 。 ス ペ イ ン 領 イ ン デ ィ ア ス か ら は 2 6 3 0 名 が 追 放 さ れ た 。 教 化 集 落 や 辺 境 で の 宣 教 は 放 置 さ れ , 1 2 0 に の ぼ る 学 校 が 教 師 を 失 っ て 機 能 を 停 止 し た 。 イ エ ズ ス 会 の 追 放 が , 後 の 社 会 発 展 に と っ て 大 き な 損 失 だ っ た と 言 わ れ る ゆ え ん で あ る 。
執 筆 者 ‥ 小 林 一 宏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」 改訂新版 世界大百科事典について 情報
イエズス会 いえずすかい Societas Jesu
16世紀にイグナティウス・デ・ロヨラによって創立された、カトリック教会に属する男子修道会。ジェスイット教団 、耶蘇(ヤソ)会ともいう。
[門脇佳吉]
イグナティウスはもと勇敢な騎士であったが、パンプロナの戦いで負傷し、その病床で回心してキリストに仕える騎士になる決意をした。マンレーサの洞窟(どうくつ)での1年間に及ぶ祈りと苦行によって、彼は神の豊かな恵みを受け、その霊的体験をもとにして『霊操』を著した。彼はこの小冊子によって人々を指導したが、「キリストの国」のために働こうとするフランシスコ・ザビエル ら6人の同志と、1534年イエズス会を結成し、1540年に教皇によって認可された。
イエズス会に入会する者は、まず『霊操』によって修行し、イエス・キリストの如(ごと)く生き、働き、「より大いなる光栄のために」Ad maiorem Dei gloriam神と人類に奉仕し、献身(けんしん)する者となる。イエズス会という名も、「イエスの如く」生きる人の集まりという意味である。
それまで修道生活に不可欠とされていた修道制服、共同で唱える聖務日課、定住制などを廃止し、時代の要請に即応できる生活様式が採用された。清貧、貞潔、従順の三誓願をたてるが、衣服や食事その他では普通の教区司祭と同様に、土地の風習に適合させる。全人類の救済のためにどんな仕事でもどんな所にでもすぐ赴いて行ける即応性を重んじた。ことに、教会の最高指導者であるローマ教皇の命令であれば、どんな不便な所でも布教に赴くことを示すため、正式会員は特別な誓願をたてる。ザビエルもローマ教皇の命令によって、東洋の布教に従事し、1549年(天文18)ついに日本にまで伝道にきたのである。
[門脇佳吉]
イグナティウスは、当時の個人主義に対してキリスト教的共同体を強調し、プロテスタント的主観主義に対しては、神の国の客観的秩序をたいせつにしたので、それらを支える精神として従順を重視した。そこで、『霊操』の精神を社会的組織にまで具体化するために、『イエズス会会憲』を書いた。会の運営にあたっては、総会長または代理、顧問、管区長、各管区代表を構成員とする総会議が最高の権威をもち、総会長を選ぶ。その総会長が全会員を指導するが、世界を数地域に分け、その地域をまた数管区に分け、管区長を置き、管区の統括を行わせる。管区は事業や場所によって多くの修院に分け、そのおのおのは院長によって指導される。各会員は長い養成期間をかけて、学問的にも霊的にも徹底的な教育を受けるので、多くの点で自主的判断に任せられる。
イエズス会はプロテスタンティズムに反対するために創立されたのではなかったが、その当時おこったルターの宗教改革に対して、同会はカトリック復興運動のために、教会の最前線で闘った。このため、16、17世紀のヨーロッパの大部分がカトリック信仰にとどまることになった。また、当時新しく発見された東洋やアメリカ大陸にもキリスト教を布教するために貢献した。18世紀後半にイエズス会はブルボン王家の絶対主義との抗争で、教皇によって解散させられるが、約40年後には復興されて、今日に至っている。イエズス会はまた教育政策の面で歴史的に大きな役割を果たしている。創立当時でも数百の中学校、大学を経営し、同会独自の学事規定Ratio studiorumは、その後のヨーロッパの高等教育の基礎となった。同時に地理学や民俗学、言語学、天文学、物理学などにおける学問的研究でも、貴重な業績をあげた。
1983年時点の会員数は2万7000人(ヨーロッパに約1万、北米に6500、中南米に4000、アフリカに1000、アジアに4500など。日本には366)。教育に従事する会員が多く、たとえばアメリカでは会員の3分の2を占め、49の高校と、フォーダム、ジョージタウン、セントルイス、マーケットなど28の大学を経営している。日本では東京に上智(じょうち)大学、神奈川に上智短大、広島にエリザベト音楽大学があるほか、神奈川に栄光学園、兵庫に六甲学院、広島に広島学院の中・高等学校を経営している。
[門脇佳吉]
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イエズス会 イエズスかい Societas Jesu; Society of Jesus
に パ リ の モ ン マ ル ト ル の 丘 に 集 ま り 誓 約 を 立 て , 1 5 4 0 年 に 教 皇 の 認 可 を 受 け て 創 立 し た 司 祭 修 道 会 。 1 5 4 1 ~ 56 年 イ グ ナ チ ウ ス , 1 5 8 1 ~ 1 6 1 5 年 ア ク ア ビ バ , 1 6 8 7 ~ 1 7 0 5 年 ゴ ン ザ レ ス が 総 会 長 を 務 め た 。 1 7 5 9 年 ポ ル ト ガ ル , 1 7 6 4 年 フ ラ ン ス , 1 7 6 7 年 ス ペ イ ン , ナ ポ リ ほ か で 禁 止 さ れ た の に 続 い て , 1 7 7 3 年 ク レ メ ン ス 14 世 に よ り 解 散 さ せ ら れ た ( ロ シ ア で は 1 8 2 0 年 ま で 存 続 ) が , 1 8 1 4 年 ピ ウ ス 7 世 に よ り 復 活 さ れ , 再 び 最 大 の 修 道 会 に 復 し て 現 在 に い た る 。 イ グ ナ チ ウ ス は キ リ ス ト を 理 想 像 と し て イ エ ズ ス 会 の 名 を 与 え , ﹁ よ り 大 い な る 神 の 栄 光 の た め に ﹂ A d m a j o r e m D e i g l o r i a m を 標 語 と し た 。 彼 は 制 服 , 合 誦 祈 祷 , 義 務 的 日 課 な ど を 廃 し て 修 道 会 史 上 に 一 時 期 を 画 し た が , 修 士 に は 組 織 的 な 教 育 と 指 導 を 施 し , 総 会 長 を 頂 点 と す る 君 主 制 的 な 厳 し い 組 織 を 与 え , 会 の 特 色 と な っ て い る 会 士 の 服 従 を 定 め た 。 会 全 体 は 直 接 教 皇 の 下 に 立 っ て そ の 特 別 使 命 に た だ ち に こ た え る 奉 仕 に よ っ て , 神 の 栄 光 を 求 め る そ の 標 語 を 実 現 す る の で あ る 。 こ う し た 態 度 は 創 立 期 に 教 会 が お か れ て い た 状 況 の な か で イ エ ズ ス 会 に 主 と し て 二 つ の 活 動 領 域 を 与 え , そ れ を 通 し て 会 は 飛 躍 的 に 大 き く な っ た 。 二 つ の 活 動 と は , 反 宗 教 改 革 運 動 と し て の ヨ ー ロ ッ パ 伝 道 と 学 校 経 営 , そ し て ア メ リ カ 大 陸 到 達 に 伴 う 異 教 地 布 教 で あ る 。 イ エ ズ ス 会 は 宗 教 改 革 に 対 抗 す る た め に 創 立 さ れ た も の で は な か っ た が , そ の 中 核 的 役 割 を 果 た し た 。 1 5 9 9 年 に 発 行 さ れ た 学 事 規 則 R a t i o s t u d i o r u m に の っ と り ほ ぼ 全 ヨ ー ロ ッ パ の 高 等 教 育 を 一 手 に 引 き 受 け た の で あ る 。 ま た フ ラ ン シ ス コ ・ ザ ビ エ ル を 先 頭 と し て の 布 教 活 動 で も イ エ ズ ス 会 は 第 一 の 修 道 会 で あ っ た 。 日 本 に も ザ ビ エ ル 自 身 の 手 で 1 5 4 9 年 布 教 が な さ れ , 耶 蘇 会 の 名 で 知 ら れ , 三 木 パ ウ ロ な ど の 会 士 を 出 し た ほ か , キ リ シ タ ン 版 と 呼 ば れ る 活 字 本 を つ く っ て 日 本 史 に 貴 重 な 資 料 を 残 し て い る 。 中 国 に は 1 5 8 3 年 以 後 マ テ オ ・ リ ッ チ ら が 布 教 し た 。 1 9 0 8 年 日 本 に 再 渡 来 し て の ち , 上 智 大 学 , 六 甲 学 院 , 栄 光 学 園 を 経 営 し , 広 島 教 区 ( 中 国 地 方 の 5 県 ) を 担 当 し て い る 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
イエズス会(イエズスかい) Societas Jesu[ラテン],Compañía de Jesús[スペイン],Jesuites/Society of Jesus[英]
カ ト リ ッ ク の 修 道 会 。 ジ ェ ズ イ ッ ト 教 団 , ヤ ソ 会 と も い う 。 1 5 3 4 年 イ グ ナ シ オ ・ デ ・ ロ ヨ ラ と そ の 同 志 に よ り 設 立 さ れ , 教 皇 パ ウ ル ス 3 世 の 認 可 を 受 け ( 40 年 ) , 数 年 後 ロ ヨ ラ の 著 ﹃ 霊 操 ﹄ に も と づ く 会 憲 が で き た 。 設 立 後 の 2 世 紀 間 に ヨ ー ロ ッ パ 各 国 と 海 外 の 布 教 に 成 功 し , 最 も 強 力 な 団 体 と な っ た が , プ ロ テ ス タ ン ト , ジ ャ ン セ ニ ズ ム , 絶 対 主 義 君 主 な ど の 攻 撃 を 受 け , 1 7 7 3 年 ク レ メ ン ス 14 世 に よ り 解 散 さ せ ら れ た ( ロ シ ア で は 存 続 ) 。 1 8 1 4 年 ピ ウ ス 7 世 の と き 復 活 し , 歴 代 教 皇 の 庇 護 を 受 け , 現 代 の 世 界 最 大 の 修 道 会 と な っ た 。 学 問 研 究 , 教 育 に も 力 を 用 い , 各 国 内 に 大 学 そ の 他 の 機 関 を 経 営 し て い る 。 日 本 に は 1 5 4 9 年 会 員 フ ラ ン シ ス コ ・ ザ ビ エ ル が , 中 国 に は 83 年 マ テ オ ・ リ ッ チ が 初 め て 渡 来 し た 。 会 の 標 語 は ﹁ よ り 大 い な る 神 の 栄 光 の た め に ﹂ で あ る 。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」 山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
イエズス会 イエズスかい
ゼズス会・耶蘇(やそ)会とも。イグナティウス・デ・ロヨラら7人の同志が,1534年8月15日パリのモンマルトルで誓願をたてたことに始まるカトリック修道会。40年教皇パウロ3世によって正式に認可された。軍隊的な組織ときびしい規律をもち,ポルトガルの布教保護権のもとでプロテスタントに対抗して世界的な布教活動を展開。日本には49年(天文18)ザビエルが鹿児島に渡来したことに始まる。巡察師バリニャーノの指導により日本社会順応主義による布教活動が展開され,日本人司祭の養成によって日本教会の自立を企図した。一方で,日本教会の維持を目的としたイエズス会宣教師による軍事・経済活動の展開や他修道会との対立から,豊臣政権・江戸幕府の警戒を招いた。1612年(慶長17)の禁教令以降,多くの殉教者をうみ,44年(正保元)最後のイエズス会士小西マンショの殉教で断絶した。1908年(明治41)再び日本で活動を始める。
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イエズス会 イエズスかい Compañía de Jesus (スペイン) Society of Jesus (イギリス)
イグナティウス=ロヨラらによって組織されたカトリック会派。別名ジェスイット会 1534年パリで結成。1540年教皇によって公認され,厳格な軍隊的統制と教皇への絶対的忠誠によって反(対抗)宗教改革運動の中心団体として,プロテスタントへの攻撃と全世界へのカトリックの伝道に従事した。この会の活動によってカトリック教会内部の腐敗が排除されて,カトリックの近代化がすすみ,南ドイツがプロテスタントの勢力圏からカトリック圏にもどった。ヨーロッパ外への伝道はきわめて熱烈で,ヨーロッパで失われたカトリックの地盤を補った。日本にきたフランシスコ=ザビエル,中国で活躍したマテオ=リッチらが有名。18世紀半ばごろに最盛期に達したが,他のカトリック会派との摩擦が絶えず,1773年教皇クレメンス14世によって禁止された(1814年復活)。スペイン語では「イエスの軍隊」を意味する。中国では耶蘇 (やそ) 会の字を用いる。
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イエズス会 イエズスかい
室町末期〜江戸初期,キリスト教日本伝道の中心となったカトリック教団 耶蘇 (ヤソ) 会・ジェスイット教団(派)ともいう。1540年,スペイン人イグナチウス=ロヨラらが創設。軍隊的規律をもって,異教徒,特にアジア布教を目ざした。ザビエル以下,フロイス・ヴァリニャーニ・ビレラら日本布教の宣教師は,いずれもイエズス会に所属した。
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世界大百科事典(旧版)内の イエズス会の言及
【イグナティウス・デ・ロヨラ】より
… イ エ ズ ス 会 の 創 立 者 。 洗 礼 名 は イ ニ ゴ , ス ペ イ ン 北 部 バ ス ク の ギ プ ス コ ア に あ る ロ ヨ ラ 城 に 生 ま れ , 宮 廷 教 育 ( 1 5 0 6 ‐ 1 7 ) を 受 け た 後 , ナ バ ラ の ス ペ イ ン 副 王 の 軍 人 ( 1 5 1 8 ‐ 2 1 ) と な っ た 。 …
【教会堂建築】より
… こ う し て 西 欧 で も , ︿ 神 の 国 ﹀ を 象 徴 す る ド ー ム を い た だ く , ロ ー マ の サ ン ・ ピ エ ト ロ 大 聖 堂 や パ リ の ア ン バ リ ッ ド の 教 会 堂 ( ド ー ム ) な ど が 出 現 し た 。 し か し , 教 会 の 改 革 に 努 め て い た ミ ラ ノ の 大 司 教 ボ ロ メ オ は 異 教 的 理 念 の 集 中 式 プ ラ ン を 否 定 し , 従 来 の , 身 廊 と ト ラ ン セ プ ト と か ら 構 成 さ れ る ラ テ ン 十 字 プ ラ ン へ の 復 帰 を 勧 告 し た の で , 反 宗 教 改 革 の 推 進 者 で あ っ た イ エ ズ ス 会 は こ れ を 本 山 の イ ル ・ ジ ェ ス ー 教 会 ( 1 5 8 4 ) に 採 用 し た 。 同 教 会 は , 説 教 を 聴 き や す い よ う に 内 陣 を 信 徒 に 全 面 的 に 開 放 し , 堂 内 を ゴ シ ッ ク の よ う に 細 分 せ ず , 垂 直 性 も 強 調 し な い , ゆ っ た り と し た 単 一 空 間 と し た が , こ れ が そ の 後 の 教 会 堂 の 基 本 と な っ た 。 …
【キリシタン】より
…[伝来] 15~16世紀にかけ幕あけした大航海時代はイベリア半島のポルトガル,スペイン両国がこれをリードしたが,両国王はローマ・カトリック教会と深く結びつき教皇を精神的よりどころとしてキリスト教の弘布に尽くした。この時期,ローマ・カトリック教会の腐敗を批判して起こった宗教改革は,カトリック内部の自己改革を触発し,1534年[イエズス会]がイグナティウス・デ・ロヨラにより創設された。同会は清貧・貞潔・服従を誓約し,イエス・キリストの伴侶として神のために働く聖なる軍団たることをめざした。…
【キリシタン書】より
…日本イエズス会が1591‐1614年(天正19‐慶長19)に印刷した[キリシタン版]のうち,典礼書,教理書,修養書などがいわゆるキリシタン書である。91年の最初の印刷《どちりいなきりしたん》(《[どちりなきりしたん]》)はキリスト教教義のカテキズモであり,《サカラメンタ提要》は教会用の典礼書である。…
【キリスト教】より
… そ れ は パ レ ス テ ィ ナ の 一 隅 に 生 ま れ て ま も な く 地 中 海 世 界 に 広 が り , つ い で 西 ヨ ー ロ ッ パ に 入 り , 17 世 紀 に は 海 を 越 え て ア メ リ カ に 渡 っ た 。 本 格 的 に 東 洋 に 伝 来 し た の は 16 世 紀 の イ エ ズ ス 会 が 最 初 で あ る が , 19 世 紀 後 半 に ア メ リ カ 人 宣 教 師 に よ る 大 が か り な 活 動 が あ っ て 広 く 行 き わ た る よ う に な っ た 。 こ ん に ち キ リ ス ト 教 は 世 界 の ほ ぼ 全 地 域 に お よ び , 信 徒 数 は 10 億 を 超 え る に 至 っ て い る 。 …
【鎖国】より
…ちょうどこの時期,宗教改革とルネサンスを経た西ヨーロッパは世界史の主導権を握り,とくにローマ教皇から世界の領土分割の認可をうけたポルトガル,イスパニア両国は,カトリック布教の強烈な意志に支えられ,東西からあいついでアジアに到達し,活発な貿易活動を開始した。ポルトガル人が1543年種子島に来航し,イエズス会宣教師[ザビエル]が49年鹿児島に上陸するにいたった背景は以上のごとくである。イエズス会はゴアのインド管区の下に日本とシナの二つの布教区を置いたが,82年(天正10)日本は準管区に昇格してシナ布教区を管下に置き,1609年(慶長14)さらに独立管区としてシナ,マカオの2準管区を管轄した。…
【宗教教育】より
…他方,カトリック側はトリエントで宗教会議を開き(1545‐63),プロテスタント側と対決する姿勢を固めるとともに,貧困児童に対して宗教教育を中心にスリー・アールズ3R’s(読み,書き,算)を無償で教える教会付設学校の開設を決めた。そのなかで反宗教改革運動として効果的に活躍したのが,F.ザビエルらを同志としてイグナティウス・デ・ロヨラが創設した[イエズス会]である。同会は軍隊的組織と規律をもった教育団体として青少年の教育,とくに中等教育にたずさわり,社会の支配者層の育成にあたった。…
【徐家匯】より
…明の高級官僚であり,キリスト教徒の科学者でもあった徐光啓の生家があったところで,その墓もある。1847年(道光27)清朝のキリスト教解禁をうけて,フランスのイエズス会士が教会を建設したが,原地民の反対運動も激しく,徐家匯教案([仇教運動])として知られる。その後,教会は再建拡張され,イエズス会の中国布教本部が置かれ,各種の教育・福祉施設が付置されていた。…
【清】より
…この征討戦を〈十全の武功〉,みずからを〈十全老人〉と名づけて得意であった。 イエズス会士の中国派遣は,マテオ・リッチの後もアダム・シャール,フェルビースト(1623‐88)と続き,とりわけフェルビーストは康熙帝に〈じいさん〉と愛称されるほど信任され,彼が鋳造した数百門の火砲が三藩の乱の戦闘に大きな効力を発揮した。イエズス会士は北京に教会を与えられ,観象台(天文台)を設け,天文学,暦学はじめ地理学,医学その他自然科学の知識で清朝に貢献したが,最終の目的であった皇帝の教化については結局成功しなかった。…
【大航海時代】より
…またインドではこの年に積極的な軍事政策をとっていた副王ドン・ジョアン・デ・カストロがゴアで没し,これ以後インドにおけるポルトガル人はゴアを中心として,イスラム商人との間に貿易を行うだけになった。一方,ゴア以外の地域ではイエズス会による布教活動がさかんに行われるようになった。57年には澳門(マカオ)にポルトガルの基地が設置され,中国における貿易と布教の拠点となった。…
【天主教】より
…中国におけるイエズス会を中心とした旧教(ローマ・カトリック)の総称。神の訳語として〈天主〉を用いて,天主教,天主公教と称した。…
【典礼問題】より
…中国,明末・清初,カトリック教会が中国で布教するに際し,中国人信徒にどこまで中国伝統の典礼を許容しうるかという点をめぐって引き起こされた論争。マテオ・[リッチ]の死(1610)前後から[イエズス会]解散までの160余年にわたる大論争であった。カトリックの東洋布教に先鞭をつけたのはイエズス会であるが,軍隊式に組織されたこの会は,布教に関してはきわめて現実的な方法を採用していた。…
【ドイツ演劇】より
…南から入ってきたイタリアの[コメディア・デラルテ]の影響もあり,ハンスブルストやハレキンなどの民衆に親しまれる道化も生まれた。また16世紀半ばから17世紀半ばまでは,宗教改革に反撃するカトリック教団内での演劇も行われたが,とくにイエズス会で,布教の目的で行われた演劇が,ビーダーマンJacob Bidermann(1578‐1639)の《ツェノドクスス》(1602初演)のような,バロックの世界観に裏付けられた水準の高い劇を生み出している。皇帝の即位などの機会に行われた大祝祭行列も,劇場を世界とみるバロック劇の理念を体現しているといえよう。…
【銅版画】より
…H.コック未亡人から原版を買い受けるなどして二十数台の印刷機を擁するヨーロッパ最大の出版業を営んだのは[C.プランタン]であり,彼は当時最盛期にあったスペイン植民地における教会用印刷物供給の独占権をフェリペ2世から得た。日本のイエズス会系洋風画(16世紀)の原型の大部分がアントワープ製版画に基づくのも,上記のことと無関係ではない。このような版画の普及はコルトの例のように,その表現力,再現力の拡充に基づいている。…
【南蛮文化】より
… さ ら に 実 証 精 神 に 裏 打 ち さ れ た 科 学 知 識 の 流 入 は 日 本 人 の 世 界 的 視 野 の 拡 大 を 助 け た 。
﹇ キ リ ス ト 教 倫 理 思 想 の 実 践 ﹈
イ エ ズ ス 会 宣 教 師 は キ リ シ タ ン に 対 し 一 夫 一 婦 制 の 遵 守 を 励 行 し 堕 胎 , 間 引 き を 禁 じ る 一 方 で , 捨 子 の た め の 育 児 院 , 孤 児 院 , 養 老 院 等 を 設 け て 救 貧 活 動 に 従 事 し , 伝 染 病 患 者 や 癩 病 者 救 済 の た め に 病 院 を 設 け た 。 の ち こ れ ら の 活 動 は キ リ シ タ ン の ミ ゼ リ コ ル ジ ヤ ( 慈 悲 ) の 組 に 受 け つ が れ た が , こ れ は ま さ に キ リ ス ト 教 思 想 の 根 幹 で あ る 隣 人 愛 の 実 践 に ほ か な ら な か っ た 。 …
【日本研究】より
…一方,ロシア・ソビエトは独自の伝統をもち,戦後はアジア諸国でも盛んになりつつある。 1549年(天文18)F.ザビエルの来日によってキリスト教の布教が開始されるとともに,イエズス会士による日本研究も始められた。イエズス会士の膨大な通信のほか,日本語に熟達した[J.ロドリゲス]の《[日本大文典]》《日本小文典》を生み,1603年(慶長8)には長崎で《[日葡辞書]》が刊行され長く日本研究者の指針となった。…
【ポルトガル】より
…文化面でも宗教裁判所によるユダヤ人,新キリスト教徒([コンベルソ]),人文主義者の弾圧が始まった。海外領ではキリスト教布教に尽力しヨーロッパ文明の伝播者となったイエズス会も,国内では自由と寛容の精神を圧迫し始めていた。 1557年ジョアン3世の死後,幼いセバスティアンが即位するとスペイン王室の影響が強まり,経済的にも東洋交易に不可欠な銀をスペインに依存するようになった。…
【ポンバル】より
…まず,先王ジョアン5世の末期に弛緩した王権の強化を目ざし,大貴族と教会勢力を徹底的に弾圧した。58年国王暗殺の陰謀を企てたアベイロ公,タボラ一族を粛清し,さらに59年には国家のあらゆる分野に強大な影響力をもつイエズス会をこの陰謀に荷担したとして本国,ブラジルから追放し,その莫大な資産を没収した。また,国家から独立している宗教裁判所を王立裁判所に組み込み,検閲およびイエズス会が支配していた教育を国家の統制下に置いた。…
【ヤキ】より
…トウモロコシ,豆,カボチャの栽培を主生業とするが,牛,羊の飼育にも携わり,狩猟,採集もその重要性を失っていない。ヤキはメキシコ原住民中でも特に抵抗精神に富み,1617年イエズス会士が入植するまで,スペイン人征服者に屈しなかった。その後,同会の影響で自治的性格が強まり,スペイン植民地政府やメキシコ政府に対したびたび反乱を企てた。…
【耶蘇会士日本通信】より
…1598年ポルトガルのエボラで出版された《日本シナ両国を旅行せる耶蘇会のパードレおよびイルマンなどがインドおよびヨーロッパの同会会員に贈った1549年より1580年に至る書簡》,いわゆる《カルタス・ド・ジャポンCartas do Japão》の日本訳の書名。耶蘇会(イエズス会)の耶蘇はJesusの近代中国音訳語〈耶蘇〉を音読みしたもの。村上直次郎による訳書は京畿編上下2巻(《異国叢書》所収),豊後編上下2巻(《続異国叢書》所収),下(しも)編1巻(《長崎叢書》所収)からなり,豊後編と下編を原文に即して再構成したものが《イエズス会士日本通信》2巻(《新異国叢書》所収)である。…
【洋風画】より
…当時伝わったキリスト教はカトリックであったから,多数の聖画を必要としたが,信者数の増大とともにそれが輸入品だけでは不足するようになった。そこで,当時日本布教にあたっていたイエズス会では,その宗教教育施設であるセミナリヨにおいて,日本人の洋風画家を養成することにした。主として指導を担当したのは,1583年(天正11)に来朝したジョバンニ・ニコラオGiovanni Nicolaoという聖職者の画家である。…
※「イエズス会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」