インドネシア(英語表記)Indonesia

翻訳|Indonesia

精選版 日本国語大辞典 「インドネシア」の意味・読み・例文・類語

インドネシア

 

(一)( Indonesia )
(二)[  ] 
(三)[  ] [  ]
 

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「インドネシア」の意味・わかりやすい解説

インドネシア
Indonesia



=Republic of Indonesia 
=1910931km2 
201023764 
=Jakarta=2 
= 
=Rupiah 

︿︿

西13078西

 2527西4000mm︿40005000m3000m2200m16700m22

 2500010005180%23%

 西鹿


20035060001982西2000西173004001971西2500-150017

 192020035031231

 宿5881413西161920

 90%


32199519

 沿

 19451910091619962702371911351351097

 使

 

 ︿


西5100km1900km1370043%40%115216193204

︿沿沿

 25001500145西71481013退12932144貿

131515201582

 1615961602貿19貿貿︿

 162829退1749192991919182430︿186070︿︿調

 1920︿︿︿

20︿︿19西︿︿

 ︿

 19081112102001420202627西西2000西湿27︿2810︿293130調39

 423︿調1943319443453調245817

194545-4950-5959-6566︿4

 45114912

 50505855429︿

 5059︿19451963退1965160︿

 65967退6832︿︿西71981
97IMF985521B.J.Habibie1936- 


1990

 19458171945817綿︿19451945

 MPRMPRMPR500500515001997425751403PPPPDI3196872788388936MPR98730

 96

 4NGO21

︿︿姿195561西西IGGICGIIMFASEAN199294APEC21


251960調97IMF

 ︿NEKOLIM1965IMF西67IGGI1992CGI19681姿251993

 19651001GNP9598019708.9%8013.6%9020.5%9624.6%197685LNG70.2%87.4%%96498LNG23.5%64.5%

 姿95107165420142.4%

 70調


633591960︿196037673230633895509892148257127621729598790195039%6159%7781%9494%19951583.8%10%1992

 1960退




 20010

 20︿︿︿G.1896F.D.J.190019201920Abdul Muis西1928西

 1933-42西193619401935

 194245-49︿4520調姿19501952194819521949195060︿45︿︿

 65


2︿810︿1015︿16退

 

 81089西殿

 1015西1410301157調

 161617


12324455西75

13西

14101718

 西

 








出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「インドネシア」の意味・わかりやすい解説

インドネシア
いんどねしあ
Indonesia


西17000西6111600西92141480022Binneka tunggal Ika190456923162700020074

 姿1928


自然

地形

()()西1307818151883()

 ()()


気候

インドネシアの気候は、赤道直下の雨林型(熱帯雨林気候)と、その南北に広がる熱帯モンスーン型(熱帯季節風気候)とに大別される。気温は全域が常時高温で年平均25~27℃、年間の較差もきわめて小さい。しかし高い火山が多いので垂直的に気温差が著しくなる。パプア州(イリアン・ジャヤ)の4000~5000メートル級の高山では氷河や万年雪がみられるが、ジャワ島でも2200メートルのブロモ火山付近では年平均16℃、700メートルのバンドン高原でも22℃となる。これらは、近代に海岸低地の大都市の住民のため高地に多くの休養地を発達させたり、あるいは垂直差を利用して各種の気温に適する農作物を栽培させるのに有利な条件となった。降水量は赤道直下の地域では常時降雨型で年平均4000ミリメートルにも及ぶが、モンスーン型の地域では雨期と乾期の差異が明瞭(めいりょう)である。この二つの季節はそれぞれ4月、11月を交代期としている。インド洋からの南西風をまともに受けるスマトラ島南西岸、ジャワ島西部では、雨期の降水量が多く、低地ではしばしば氾濫(はんらん)するが、東部の小スンダ列島ではしだいに降水量は少なくなる。また小スンダ列島方面は乾期の南東風が強いので乾燥度も高くなる。しかし一般的には島国なので、アジア大陸の熱帯部分に比べるとしのぎやすい特色があげられる。

[別技篤彦・賀陽美智子]

生物相

湿30004000()25000100180

 西西


地誌

ジャワ島

7西()()20006019742001()360西203使


スマトラ島

スマトラ島は世界第五の大島であるが、テチス構造線が通って高い山系や火山が連続する西海岸と、スンダ棚の一部をなして広大な低湿地の連なる東海岸とに大別される。この低湿地にはバタン・ハリ川、ムシ川、インドラギリ川などの大河が流れるが、マラッカ海峡に面するため、その河口には早くから外来文化が流入し、パレンバンなどの河港都市の発達もあった。スマトラ島の民族分布は、地域的にはむしろジャワ島より複雑である。北端部にはアチェー人が居住し、ここはインドネシアでもっとも早くイスラム化された所で、民族性も勇敢であり、20世紀初めまでオランダ支配に抵抗した地方として知られる。トバ湖を中心としてはプロト・マレー人(古マレー人)のバタック人の居住地であり、彼らは久しく孤立的な社会を形成してきたが、近代にキリスト教と教育が普及し、いまは商人や医師など近代的職業で活動する者が増えた。西海岸中部の高原を中心としてはミナンカバウ人が住む。彼らはスマトラ最大の民族集団で母系社会の遺制を残し、特有の家屋をつくるが、現在はジャワ人と並んでインドネシアの指導者を多く出している。さらに東海岸一帯には狭義のマレー人が分布し、かつてはいくつかの小王国を形成した。マラッカ海峡を隔てたマレー半島方面のマレー人と同一系統である。このほか北部山地にはガヨ人、アラス人、南部地方にはランポン人などが居住している。

 スマトラ島はかつては密林に覆われる所が多かったが、20世紀になってから欧米資本の進出により、北東部のメダンを中心にタバコ、ゴムの大農園が開かれ、また東海岸低地の油田開発によって状況は大きく変わってきた。この状況は若干の変動はあったものの第二次世界大戦後も変わらず、戦時中800万にすぎなかった人口は4000万を超え、「第二のジャワ」として大きな発展を遂げつつある。

[別技篤彦・賀陽美智子]

スラウェシ島

スラウェシ島(セレベス島)の特異な形状は、テチス、環太平洋の二大構造線の活動の結果生じたものであるが、地域的にはマカッサル(1971~1999年はウジュン・パンダン)を中心とした南西部半島と、メナドを中心とした北東部半島の2地域だけがよく開けた所となっている。南西部にはブギス人、マカッサル人などの諸集団が居住し、古くから船乗りや商人として東南アジア各地に活躍し、郷土では水田農業を発展させていた。北東部には種族的にこれとやや異なるミナハサ人が住み、これも農・漁業に従うが、近代以後はほとんどキリスト教徒となってヒンドゥー的、イスラム的なインドネシア他地域とは異なった地域文化の性格をみせている。これらに対し、スラウェシ島中央部の山地地帯はプロト・マレー系のトラジャ人の居住地で、特有の文化を残している。ここにはまだ十分な開拓は及んでいない。

[別技篤彦・賀陽美智子]

カリマンタン

カリマンタン(ボルネオ島)はスマトラ島をしのぐ世界第三の大島であるが、インドネシア領となっているのはその70%である。北部のマレーシア領との境には分水嶺(ぶんすいれい)をなす高い山脈が連なるが、海岸に向かっては低地が広がり、ことに南部は一大湿原を形成する。これら低地の間をカプアス川、バリト川、マハカム川などの大河が流下するが、こうした巨大な地形、赤道直下の雨林型気候、さらに火山性の肥沃な土壌を欠くことなどのため、開拓は十分に進まず、人口も希薄である。海岸近くには外来のマレー人、ジャワ人、中国人などが居住するが、カリマンタン本来の先住民はプロト・マレー系のダヤク人で、奥地で多数の部族に分かれて住み、狩猟や焼畑農耕に従事する者が多い。カリマンタンは大部分が密林に覆われて自然力が優越する地域であるが、1960年以降は東部の一部でみられるように、油田、森林資源の開発や南部海岸地域でのゴム栽培などで、部分的に開けた地域が増えつつある。

[別技篤彦・賀陽美智子]

小スンダ列島・モルッカ諸島

小スンダ列島、モルッカ諸島は、また特殊な地域を構成する。バリ島から東に進むにしたがって自然的には乾燥度が強くなり、サバナ的景観を示す所もある。バリ人はジャワ人に類似し、優れた水田農耕民であるが、現在インドネシアで純粋なヒンドゥー教信仰を残す唯一の民族であり、このため島は習俗や文化できわめて特殊なものに富むことで知られる。これから東方の諸島の住民は種族的にプロト・マレー系、メラネシア系の要素が強まり、焼畑耕作などが支配的となっている。さらにモルッカ諸島は古来各種香料の独占的生産地として著名であり、この点では他の小スンダの島々と異なって早くから外来文化と接触した。現在モルッカ諸島の中心はアンボン島にあるが、ここに住むアンボン人はオランダ統治下にキリスト教徒となったことで知られる。

[別技篤彦・賀陽美智子]

西イリアン

西イリアンは世界第二の大島ニューギニア島の西半部をさし、行政上はパプア州(旧イリアン・ジャヤ州)を成す。自然的には複雑で、ことにその脊梁(せきりょう)山脈には4000~5000メートル級の高山が並び、その南斜面は広大なディグル川流域の大湿原が展開、しかも全島の大部分が赤道雨林に覆われ、「緑の砂漠」とさえいわれる。ネグロイド系のパプア人が先住民であるが、点在する開拓地を除けばまだ人口はきわめて希薄である。しかし1960年以降は西端のチェンドラワシ半島を中心に油田の採掘も始まった。さらに1990年代に入ると、資源開発や水産業、海運業の振興にも力を入れている。

[別技篤彦・賀陽美智子]

歴史





ヒンドゥー系諸王国の興隆

2西西5西68911貿13()()


オランダの植民地時代

西15沿1527西貿

 西1602319181118161915

 191825183019201942


独立運動の高揚

2019458171949西196919762002西370


スカルノ、スハルト体制

独立達成後のインドネシアの政治は、初代大統領スカルノの指導下に、パンチャ・シラ(建国五原則)に基づいて強いナショナリズムを背景として進められた。しかし広大な領土と多数で複雑な民族をもつこの国の統一は容易なものではなかった。アジア・アフリカ会議の開催、マレーシアとの対決政策、西イリアンの奪回など、国民の目を外に向けさせる対外的活動では華々しいものがあったが、それと対照的に国内経済の建設は十分でなく、インフレによる民衆の生活苦も増大した。またスカルノが利用した国内の共産党勢力はしだいに大きくなり、これが1965年の「九月三〇日事件」の勃発(ぼっぱつ)となって彼の失脚を招くことになった。彼にかわって大統領となったスハルトは、国内経済の安定と発展を第一の目標とし、外資導入に努め、また共産党勢力を徹底的に排除した。そして強力な軍隊を背景として32年間にわたり政権を維持した。しかし、1997年7月に起きたタイの通貨バーツ急落の影響を受けてインドネシア・ルピアが大幅下落、国内経済が急激に悪化したことをきっかけに、スハルトの長期政権に対する市民・学生などの反発が激化、1998年5月、ついにスハルトは大統領を辞任、長期政権に幕を下ろした。

[別技篤彦・賀陽美智子]

ポスト・スハルト

スハルトのあとを引き継いだのは、スハルト政権のもとで20年間閣僚を務め、スハルト退任当時に副大統領であったバハルディン・J・ハビビである。ハビビはスハルト一族や側近を排除した新内閣を結成、経済面での立て直しをはじめ、報道や集会の自由を認めるなど次々に改革に着手したが、1999年10月の大統領選挙には不出馬を表明、短命政権に終わった。大統領選挙は、国民協議会第一党の闘争民主党党首で初代大統領スカルノの長女メガワティ・スカルノプトリと、イスラム団体「ナフダトゥル・ウラマ」の議長、アブドゥルラフマン・ワヒドAbdurrahman Wahid(1940―2009)の対決となった。ハビビが不出馬を表明したため、イスラム勢力に加えてスハルト政権与党のゴルカル(GOLKAR、職能代表団体の略)がワヒドを支持したことにより、ワヒド政権が発足した。メガワティは副大統領となった。しかし2001年に入り、ワヒドの不正資金疑惑などが起こり、ワヒドと議会の関係が悪化。7月特別国民協議会において弾劾審議にかかることになったがワヒドは出席を拒否、一時は非常事態宣言を発令するなど抵抗をみせたが、本会議により罷免された。憲法により副大統領メガワティが第5代大統領に就任、副大統領は開発統一党(開発党)党首ハムザ・ハスHamzah Haz(1940― )となった。メガワティは大統領直接選挙制などの内容を入れた憲法改正を実行したほか、各種改革に取り組み民主化が進められたが、物価上昇や未解決の汚職問題等で国民の信頼を失っていった。2004年の大統領選ではワヒド、メガワティ両政権下で閣僚を務めたスシロ・バンバン・ユドヨノが当選、第6代大統領に就任した。

 1999年8月には、東チモールの独立をめぐる住民投票が実施され、78.5%の支持で独立が決定した。投票後、反対派の暴動が起き混乱があったが、10月には国連東チモール暫定統治機構(UNTAET)が設置され、インドネシア国民協議会は、10月20日の本会議で東チモール併合を無効とすることを決めた。その後、2002年5月に東チモールは正式に独立した。アチェー特別地域でも独立の動きがあり、住民投票の実施を求める大規模な集会が同年11月に開かれた。アチェーは1945年インドネシア独立後、インドネシアからの分離、独立を主張。1976年独立を目ざすゲリラ組織、自由アチェー運動(GAM)が独立を宣言。ゲリラ戦を中心とする武装闘争が続いていた。2000年6月GAMとワヒド政権は期限つきで停戦に合意。2001年1月まで延長されたが、その後崩壊状態となった。同年7月インドネシアはアチェーに広範な自治権を認める法律を可決、2002年1月州名をナングロ・アチェー・ダルサラムと改称。同年12月、政府とGAMはジュネーブで和平協定に調印した。しかし、これもまた崩壊状態となった。2003年5月、東京において再度和平協議が行われたが交渉は決裂し、インドネシア政府はGAM掃討作戦を実施、多数の死傷者が出た。2004年12月に起きたスマトラ島沖地震・津波により当地域が甚大な被害を受け、世界から注目されたことがきっかけとなり、2005年1月よりヘルシンキで和平協議が再開、同年8月和平文書調印が行われた。なお、インドネシアではその後も大規模地震が発生しており、なかでも2006年5月のジャワ島中部地震では多くの被害者が出ている。

 一方で、近年テロ事件が頻発しており、とくに2002年10月バリ島クタ地区において発生した、東南アジアを中心に活動するテロ組織「ジェマー・イスラミア」(JI)の犯行とされる爆弾テロ事件では、180人以上の死者が出た。政府はテロ対策の施策を強化しているがその後も2003年、2004年とジャカルタで大規模な爆弾テロが発生している。

[別技篤彦・賀陽美智子]

政治・防衛・外交

政治体制

インドネシアは大統領を国家元首とする単一国家である。2002年の憲法改正によって、大統領直接選挙制が導入された。2004年7月に新制度による大統領選挙が行われ、ユドヨノが勝利、同年10月に大統領に就任した。任期は5年で3選は禁止となっている。国会は議席数550で、議員の任期は5年。2002年の憲法改正前は任命により国軍や警察に議席が割り振られていたが、任命議席は廃止され、全員が国民の投票により選ばれる民選議員となった。2004年4月に総選挙が行われている。また、2002年の憲法改正で地方代表議会が新設された。議席数は128で、議員は国会の総選挙にあわせて各州から直接選挙で4人ずつ選出される。立法権はないが、国会に法案を提出することはできる。一方、国の基本政策を定め、憲法改正前は大統領を選出する責任をもつなど大きな権限があった国民協議会はその権限を失い、大統領選挙の結果や国会の決定を承認するなど、国会議員と地方代表議会議員の合同会議として存続することになった。

 地方行政も、2001年に新しい地方自治制度が導入され、州知事、県知事、市長などの行政の長もすべて国民(有権者)の直接投票による選挙で選ばれることになった。2005年6月に初めての直接投票による地方選挙が実施された。

[別技篤彦・賀陽美智子]

防衛

スカルノ時代以来、政権を維持するために軍隊(国軍)を使って監視、抑圧が行われ、軍人(国軍将兵)の政治やビジネスへの関与が頻繁に行われてきた。2004年9月、国会はその弊害を除くために軍人の政治、ビジネスへの関与を禁止し、地方行政レベルまで監視要員を配置する領域管理システムを廃止する国軍法案を可決した。現在、陸軍は兵力約28万5000(2006)、海軍は兵力約6万5000(2006、海兵隊を含む)、空軍は兵力約4万(2006)で、イギリス、オーストラリア、アメリカなどから供与された航空機を主としている。このほか、予備役として40万の兵力がある。

[別技篤彦・賀陽美智子]

外交

外交面ではスカルノ時代と異なってスハルトはむしろ柔軟な対外政策をとり、各国の経済的援助を取り付けようとした。中国とは「九月三〇日事件」以来関係が凍結していたが1990年8月国交回復。ロシアとも外交関係は結んでいる。共産主義についてはきわめて警戒的である。一方、近隣諸国とはASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)を形成しており、しだいにその中心的存在としての地位を確立しつつある。

 外交の基本方針は、ASEANと連帯し、非同盟・積極自主外交である。西側諸国との協力関係も重視している。主要援助国は、日本が54.4%と突出しており、次いでオーストラリア、オランダ、ドイツ、アメリカとなっている(2005)。

[別技篤彦・賀陽美智子]

経済・産業


7119601970197020006060019975110200654454560002006

 324214384562006

 ()1960199874812007486319西

 18()西

 沿5582005

 西19693110105130002250001975調1982200322400250

 199771019984IMF

 貿114020077442006貿22EU12111611EU10GDP1GDP200293020071947


交通

インドネシアは植民地時代から東南アジアではもっとも交通の発達した地域であったが、交通網はやはりジャワ島に集中している。ジャワ島では至る所道路網が整っており、スマトラ島にも及ぶ。北のナングロ・アチェー・ダルサラムと南のランポンを結ぶ縦貫国道もある。国内の自動車(4輪以上)保有台数は2300万台(2002)、乗用車、トラック、バスのほか、おびただしい数の小車両がある。鉄道は延長約7900キロメートル、ジャワではよく発達しているが、現在はその改修などが急務とされている。海上交通では多数の良港があり、島嶼(とうしょ)間の交通は国営のペルニ社が経営する。さらに広大な領域の結合には航空も重要な役割を果たしており、国営のガルーダ・インドネシア航空をはじめ国内線のムルパティ・ヌサンタラ航空などの各社がこれに従事している。ジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港には世界各地から航空機が乗り入れており、スマトラのメダン国際空港やバリのデンパサル国際空港などとあわせて空からの重要な門戸となっている。このほか各種通信機関についても近代化が進められている。

[別技篤彦・賀陽美智子]

社会


159517700020064232300044.5()3

 87西1800


文化


()()

 使使使

 6948720046320037818462262007


日本との関係

インドネシアは文化的にも地理的距離の近い日本とは、かなり共通したアジア的な基盤をもっている。また民族学的立場からも、日本の伝統文化の原型のいくつかはここにみられて、親近感が深い。そのうえ、歴史的にも江戸初期にはすでにジャカルタ(いわゆるジャガタラ)に多くの日本人が居住し、また長崎来航のオランダ船はすべてジャガタラを基地として往復したので、現地の事情は比較的よく伝わっていた。第二次世界大戦ではインドネシア全域が日本の占領するところとなり、その占領政策には多くの問題を残したが、民族が待望した独立の実現への契機を与えたことは確かである。第二次世界大戦後はいち早く通商協定が成立(1950)、また賠償によって新しい国づくりへ多くの寄与がなされた。正式の国交樹立は1958年(昭和33)である。当時の大統領スカルノとは日本の占領時代から深い関係があったが、とくにスハルト政権成立後、国内経済再建のため外国からの援助が多く求められると、日本は率先して、政府、民間ベースを通じて資本や技術を供与した。すでに1982年の段階で民間投資総額のみで69億ドル余りに及んでおり、各種工場の建設、治水工事などに生かされている。その後も、日本のインドネシアに対する経済協力は突出している。2003年の政府開発援助(ODA)実績では、インドネシアに対する二国間ODA支出純額の約74%を日本が占めている。2006年のODA実績は約1384億円、累積では有償資金協力4兆1659億円(1966~2006)、無償資金協力2525億円(1968~2006)、2006年度までの技術協力実績2830億円である。貿易も年々増大しており、資源に乏しい日本としてはインドネシアの豊かな原料に期待することが大きいとともに、その稠密(ちゅうみつ)な人口は市場としても大きな可能性を示している。2007年の日本への輸出は総額236億3000万ドルで主要品目としては石油、天然ガス、機械機器、合板、金属原料、魚介類などである。日本からの輸入は総額65億3000万ドルで、内訳としては機械類、電気機器、金属製品、化学製品、鉄鋼、輸送用機器などである。貿易尻(じり)は大幅なインドネシア側の出超となっており、日本は最大の貿易相手国である。

 こうした経済建設、貿易の発展に伴い、在留日本人も増え、現在1万1000人を超える(2007)が、その多くがジャカルタに集まっている。しかしまだ日本人全体としては、インドネシアの民族性、慣習、文化、歴史などについての知識に乏しく、これが現地人の対日感情にしばしばマイナスの条件となって作用していることは否定できない。これからはこの方面でのいっそうの交流が必要となろう。またインドネシアは観光地としても優れた多くの場所をもっているので、この点でもしだいに日本人に認識され、中部ジャワ、バリ島、スマトラ北東部などを訪れる人々が多くなっている。

[別技篤彦・賀陽美智子]

『永積昭・間苧谷栄著『東南アジアの価値体系2』(1970・現代アジア出版会)』『渡辺光編『世界地理3 東南アジア』(1971・朝倉書店)』『別技篤彦著『モンスーンアジアの風土と人間』(1972・泰流社)』『外務省情報文化局編『海外生活の手引 東南アジア篇Ⅰ』(1980・世界の動き社)』『安中章夫・三平則夫編『現代インドネシアの政治と経済』(1995・アジア経済研究所)』『D・R・ハリス編『インドネシア労働レポート――経済成長と労働者』(1996・日本評論社)』『ジェトロ・ジャカルタ・センター編著『インドネシア――NIES化への挑戦』(1996・日本貿易振興会)』『白石隆著『インドネシア』(1996・NTT出版)』『白石隆著『スカルノとスハルト』(1997・岩波書店)』『小池誠著『インドネシア――島々に織りこまれた歴史と文化』(1998・三修社)』『村井吉敬・佐伯奈津子著『インドネシア――スハルト以後』(1998・岩波ブックレット)』『ノーマン・ルイス、野崎嘉信著『東方の帝国――悲しみのインドネシア』(1999・法政大学出版局)』『高橋宗生編著『変動するインドネシア(2001―2005)』(2006・アジア経済研究所)』『水本達也著『インドネシア 多民族国家という宿命』(2006・中央公論社)』『小林寧子著『インドネシア 展開するイスラーム』(2008・名古屋大学出版会)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「インドネシア」の意味・わかりやすい解説

インドネシア

 
Republik IndonesiaRepublic of Indonesia191931km237642010Jakarta9612010401330040087.18.82.0RupiahJoko Widodo20141052004195971945515605132(2015)GDP87942012GDP3563201246.32003寿68.872.9201327201092.22008         西()湿90西 1613161602202194581949195619602︿︿2004121280003700020065 退60 1945196319651967196819987GOLKAR1990197319985321999NU20017199919761999200220028200479調60.62009514820.857220094.6調20116.520126.22010GDP30002011︿2025GDP2010610貿122102014420047
 

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「インドネシア」の解説

インドネシア
Indonesia

 
13000
12調3調475西891013714貿1013退退14151615821755西1527 () 1813
16161602191755771821西1845182518301873西16201912190419201908111920262727
194245841949195519601965退19659196619669671968西1998375197499182000  

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「インドネシア」の意味・わかりやすい解説

インドネシア
Indonesia

 
  Republik Indonesia
 1916907km2
 2698040002021
 

1300019454 1949 80%1貿 1970342014 ASEAN  

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「インドネシア」の解説

インドネシア
Indonesia


13000西()20()1850使201945817491250300

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「インドネシア」の解説

インドネシア

東南アジアで,太平洋とインド洋が接する地域にある群島国家。ジャワ,スマトラ,スラウェシ,カリマンタンなど約1万3700の島々からなる。イスラム文化を主とする小国群が成立していたが,17世紀からしだいにオランダが進出。バタビアを拠点に東インド会社が貿易と植民地化を進めた。第2次大戦中は日本の軍政下におかれ,日本敗戦の1945年8月独立を宣言し,オランダ軍と戦って49年完全独立。58年日本とも平和条約・賠償協定を締結した。今日ではASEANの盟主的存在。正式国名はインドネシア共和国。首都ジャカルタ。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のインドネシアの言及

【オランダ】より

…19世紀中葉まで改革派教会が公認の宗教として国教会に近い地位を占めたが,カトリックの信徒が迫害されたことはなく,19世紀後半に誕生したプロテスタント系とカトリック系の両政党は常に友好関係を保ってきた。かつてユダヤ人のほかフランスのユグノーなど多くの亡命者の避難港であったオランダが,戦後多くのインドネシア人,スリナム人や移住労働者を受け入れたのも,寛容とヒューマニズムに由来する民族的偏見のなさゆえである。1979年,ベトナムのボート難民の報がひとたび伝わると,政府は3000人の受入れをいち早く決定し,救済資金の寄付金が30億円に達したことも特筆してよいだろう。…

【オランダ領東インド】より

…オランダがその植民地としていた現在のインドネシア共和国全域(旧ポルトガル領チモールを除く)に与えていた名称(オランダ語ではNederlandsch‐Indiëと書き,多くの場合〈東〉という語は入れない)。すでに18世紀ごろから,オランダ東インド会社の公式文書にこの名称が用いられているが,名実ともにインドネシア全体を含むに至ったのは1915年以後とされる。…

※「インドネシア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

タコノキ

タコノキ科の常緑高木。小笠原諸島に特産する。幹は直立して太い枝をまばらに斜上し,下部には多数の太い気根がある。葉は幹の頂上に密生し,長さ1〜2m,幅約7cmで,先は細くとがり,縁には鋭い鋸歯(きょし)...

タコノキの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android