デジタル大辞泉
「グレー」の意味・読み・例文・類語
グレー(gray)
1 灰色。ねずみ色。﹁グレーの背広﹂
2 白髪交じりの髪。グレーヘア。﹁ロマンスグレー﹂
3 どちらでもない中間的な状態や態度。﹁法律に触れるのかどうか、依然グレーだ﹂
[類語]灰色・鼠色
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グレー
(一)[ 一 ] ( Sir Edward Grey サー=エドワード━ ) イギリスの政治家。外相。第一次世界大戦前から戦中にかけて、イギリス外交を指導。三国協商を推進し、またドイツのベルギー中立侵犯に対して対独宣戦を行なった。︵一八六二‐一九三三︶
(二)[ 二 ] ( Charles Grey チャールズ━ ) イギリスの政治家。一八三〇年首相に就任してホイッグ党内閣を組織し、三二年選挙法改正案の成立に成功した。︵一七六四‐一八四五︶
(三)[ 三 ] ( Thomas Gray トマス━ ) イギリスの詩人。古典的な、格調の高い文体で、風景美や憂愁をうたった点でロマン派の先駆者とされる。﹁墓畔の哀歌﹂は﹁新体詩抄﹂に訳出された。︵一七一六‐七一︶
グレー
- 〘 名詞 〙 ( [アメリカ] gray [英語] grey )[ 異表記 ] グレイ 灰色。鼠色。〔舶来語便覧(1912)〕
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グレー
Thomas Gray
生没年:1716-71
イギリスの詩人。ケンブリッジ大学を中途退学して,友人ホレス・ウォルポールとヨーロッパ大陸を旅行︵1739-41︶したが,このとき2人がアルプスの崇高美に深く感動した事実は,イギリス人の美意識がロマン主義に向かって開かれ始める,一つの出発点であったといえよう。グレーはケンブリッジにもどり,卒業後も古典語・文学の研究に没頭し,かたわら詩作を続けた。古典学者らしい抑制のきいた措辞は,新しく自然に向かって開かれたみずみずしい感性をひそめ,寡作ながら当代を代表する詩人となった。とくに︽墓畔の哀歌︾︵1751︶は彫琢︵ちようたく︶の名詩である。たまたまその自然や人生に対する無常感が日本人の好みにも合って,︿山々かすみいりあひの/鐘は鳴りつつ野の牛は……﹀で始まる新体詩訳︵1882年,矢田部良吉︶も世に問われ,人々に親しまれた。グレーにはほかに︽詩の進歩︾︽詩人︾︵ともに1757︶など,格調高いピンダロス風オードがあり,これによって桂冠詩人に推されたが受けなかった。母校ケンブリッジの歴史・近代語教授として,︿学寮の隠者﹀と呼ばれる静かな学究生活を送ったが,その間にも北欧やアイルランドの古詩の研究や翻訳を続け,この面からもロマン主義的な感性の開花にさらに貢献した。散文家としても,死後出版の日記や書簡集が有名であり,18世紀中期の感性のあかしとなっている。
執筆者‥川崎 寿彦
グレー
Charles Grey, 2nd Earl Grey
生没年:1764-1845
イギリスの政治家。初代グレー伯の長男としてノーサンバーランドに生まれる。ケンブリッジ大学を卒業して下院議員となり,父親の死後︵1807︶上院に移った。C.J.フォックスを信奉するホイッグの論客として知られ,カトリック解放と選挙法改正を主張してやまなかった。だが1780年代から19世紀初頭にかけての時期は,フランス革命とナポレオン戦争の影響下にトーリー党が全盛を誇った時代で,そのため閣僚となる機会には恵まれず,わずかに1806-07年に海相・外相を経験したにとどまった。だが30年にいたってようやく革新の世論が盛り上がり,それを背景にホイッグ内閣の首相に就任,選挙法改正法案を議会に提出した。法案は,上院の抵抗にあって難航したが,議会外の大衆運動に助けられて32年に成立,ここに終生の念願を果たした。34年に首相を辞め,以後は郷里のノーサンバーランドに引退した。
執筆者‥村岡 健次
グレー
Edward Grey, 1st Viscount of Fallodon
生没年:1862-1933
イギリスの自由党政治家。1885年下院に入り,1905年キャンベル・バナマン内閣の外務大臣となり,第1次世界大戦前および戦中のイギリス外交を指導した。英仏協商︵1904︶の精神に従い,2度にわたるモロッコ事件ではフランス支持を貫き,ドイツを牽制した。さらに07年英露協商を結んでロシアとの対立要因を除去し,12年英仏海軍協定を締結,対独包囲網の形成に努めた。13年ロンドンの講和会議でバルカン諸国の紛争を調停し,平和条約の締結を促進した。14年第1次世界大戦勃発の危機には,戦争回避のため国際会議の開催を提唱したが実現せず,ドイツがベルギーの中立を侵犯したとき,一転して対独宣戦を主張,開戦後は特にバルカン諸国との関係を好転させ,戦局を有利に導いた。16年アスキス内閣総辞職とともに下野,同年子爵を授けられた。著作に追想録︽25年間,1892-1916︾︵1925︶がある。
執筆者‥池田 清
グレー
George Grey
生没年:1812-98
イギリス植民地の総督,政治家。1837年オーストラリア北西部を探検,40年未開人の文明化について報告書を提出し,イギリス植民地省の注目を引いた。南オーストラリア,ニュージーランド,南アフリカで総督を務め,77-79年ニュージーランド首相。各任地で原・先住民の伝統,土地所有権,農業発展に理解と協力を示し,︿二つの文化一つの国﹀という今日のニュージーランド国家の礎を築いた。著書︽ポリネシアの神話︾︵1854︶はマオリ口承文芸の古典であるが,その採話と翻訳の信憑性について,近年マオリ系民俗学者から疑問も出されている。
執筆者‥百々 佑利子
グレー
Zane Grey
生没年:1872-1939
アメリカの西部小説作家。ニューヨークの歯科医だったが,体内にインディアンの血が32分の1混じっていることを自慢にし,自然生活を愛する行動家で,《荒野の遺産》(1910)および《草原の騎士たち》(1912)によって,西部小説の第一人者となった。生涯に89冊出した本のうち56冊が西部小説で,それにより100本以上の映画化作品も生まれた。メロドラマが基調だが,東部人が西部流の生き方を知って真の人間性に目覚めるといった,大自然の浄化力を強調する作品が多い。
執筆者:亀井 俊介
グレー
Asa Gray
生没年:1810-88
アメリカの植物学者。ニューヨーク生れ。はじめ医学を学んだが,のち植物学を研究し,ニューヨークの自然史博物館館長,ハーバード大学教授となる。合衆国の中西部,太平洋岸からもたらされた標本を分類。C.ダーウィン,フッカーJ.D.Hookerらと親交があり,ダーウィンからは発表に先だって自然淘汰による進化の思想を述べた手紙を送られた。東アジアの植物が北アメリカのものと関係あることをも示したが,神学をも受容していた。
執筆者‥江上 生子
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グレー
英国の政治家。1786年下院議員となり,C.J.フォックスとともにピット(小)内閣反対の活動で名をあげた。1792年〈人民の友〉協会の創立に加わり,議会改革運動を推進。1806年挙国一致内閣の海相,外相となる。1807年襲爵(第2代グレー伯)して貴族院に移り,1830年組閣,貴族院の反対を押し切って1832年宿願の選挙法改正を達成した。
→関連項目メルバーン
グレー
米国の植物学者。フェアフィールド医学校卒業後,植物学の研究を行い,師のJ.トレーと共著で︽北米植物誌︾を出す。後にハーバード大学教授。C.ダーウィンと親交があり,その進化論の支持者の一人で,L.アガシーとこれをめぐって論争した。
グレー
英国の政治家。自由党に属し,外相(1905年―1916年)としてアルヘシラス会議でフランスを支持,英露協商を締結,バルカン戦争の調停など第1次大戦前後の外交面で指導的役割を演じた。1916年アスキス内閣総辞職により下野。子爵を授けられ,貴族院の野党の指導者をつとめた。
グレー
英国の詩人。離俗の学究生活を送り,ケンブリッジ大学の教授なども務めた。彼を有名にしたエレジー《墓畔の哀歌》(1751年)は,日本でも明治時代の《新体詩抄》に訳された。ほかに《詩の進歩》(1757年)など。
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グレー
Charles Grey, 2nd Earl Grey
イギリスの政治家
ホイッグ党に属し,1806年海相,ついで外相をつとめ,1830〜34年首相。上院の反対をおさえて腐敗選挙区を廃止し,都市中産層に参政権を与えるという第1次選挙法改正に成功した。1833年には一般工場法も成立した。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
グレー
生年月日:1862年4月25日
イギリスの政治家
1933年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のグレーの言及
【植物相】より
…進化論が確立されるにつれて,これらの分布現象は現在の環境条件で決定づけられているだけでなく,地球の歴史をも反映しているものと主張された。東アジア地域の植物群と北アメリカ東岸地域の植物群との比較は,アメリカのA.グレーによって1859年に最初に報告され,東アジアと陸つづきのヨーロッパや,距離的には近い北アメリカ西部よりはずっと類似した植物群が存在していることが明らかにされた。この現象は,氷河期以前に北半球に広く分布していた植物群が,東アジアと北アメリカ東岸に生き残ったと説明された。…
【イギリス文学】より
…しかし結局は自然に向けての詠嘆と抒情に流れたのも,長い日本の詩歌の伝統からすれば当然のなりゆきであったろう。T.グレーの︽墓畔の哀歌︾(1751)は,自然のなかの哀愁,人生の無常性についての瞑想など,もともと日本人ごのみの要素を含むのだが,それが︿山々かすみいりあひの/鐘は鳴りつつ野の牛は……﹀(1882,矢田部良吉)という七五調に移しかえられて愛誦されたのは,示唆的なことである。さらに大正期の好みは,いっそう純粋に個人的なフランス象徴派にはっきり傾斜していった。…
【廃墟】より
…他方,同じ時期に中世へのあこがれを表明する[ゴシック・リバイバル]が興り,その影響下に成立した[ゴシック・ロマンス]ではスイス山中の古城などが好んで舞台に用いられた。また孤絶の美学を荒れ果てた墓地にもとめるT.グレーらの墓畔詩人もここから生まれた。さらにC.D.フリードリヒをはじめとするロマン主義の画家たちは自然の荒々しい力の隠喩を廃墟に認め,自我をもつ存在(個人)の内面的葛藤を際立たせる神聖な画題としてこれを描いた。…
【レーク・ディストリクト】より
…イングランド最大の湖ウィンダミアや最高峰スコーフェル山Scafell Pike(978m)を含む山・谷・湖の織りなす美しい自然の展開は,点在する史跡や廃墟とともに,多くの観光客,登山家,文学愛好者をひきよせている。文学的にも,いち早くT.グレー︽湖水地方旅の日記︾(1769)などで紹介され,19世紀にはワーズワース,コールリジ,サウジーらの︿[湖畔詩人]﹀の詩的源泉となり,︽抒情歌謡集︾(初版1798)を生むもととなった。キーツ,シェリー,M.アーノルド,ラスキンもこの風土に魅せられた文人で,影響が作品に表れている。…
【ニュージーランド】より
…︻堀 武昭︼
︻文化︼
﹇文学﹈
ニュージーランド文学の古典は先住民マオリの口承文芸で,創世神話,カヌーによる大航海譚,部族伝説,系譜,祝詞,呪文,詠唱歌,ことわざが伝えられている。19世紀半ばに[G.グレー]総督はマオリ族長の手書きの原稿をもとに︽父祖の勲︾(マオリ語。1854)と︽ポリネシア神話︾(英語。…
【マオリ戦争】より
…1860年から72年にかけてニュージーランド北島で,先住民マオリ族と入植者が戦った土地戦争。1840年締結の[ワイタンギ条約]によってニュージーランドはイギリスの植民地となったが,植民地政府の土地政策は入植者とマオリ双方に失望をもたらした。入植者は土地購入権をもつのが政府であるため常に土地の不足を訴え,マオリは政府の買上価格の低さに不満をもった。グレイ総督は農業の振興や伝道活動をマオリ対策にとりいれたが土地の測量などをめぐり殺戮や小競合いが繰り返されるようになった。…
※「グレー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」