ノルウェー
(一)( Norway ﹁諾威﹂とも書いた ) ヨーロッパ北部、スカンジナビア半島の西側を占める立憲君主国。正式名はノルウェー王国。国土の大部分は山地で、海岸にフィヨルドが発達。住民のほとんどはゲルマン系のノルウェー人で九世紀後半に統一王国が成立。一三九七年デンマークと合併し、ナポレオン戦争後はスウェーデンと同君連合。一九〇五年デンマーク王子ホーコン七世を迎えて独立した。社会保障制度が発達し、林・水産・海運業のほかパルプ・造船などの工業もさかん。首都オスロ。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
ノルウェー
Norway
基本情報
正式名称=ノルウェー王国Kongeriket Norge/Kingdom of Norway
面積=32万3782km2
人口︵2010︶=489万人
首都=オスロOslo︵日本との時差=-8時間︶
主要言語=ノルウェー語
通貨=ノルウェー・クローネNorwegian Krone
スカンジナビア半島の西半を占める細長い国。ノルウェー語ではノルゲNorgeと呼ぶ。
自然,住民
本土は北緯58°から71°に及び,面積32万4219km2,北部の約4分の1は北極圏に入る。そのほかにスバールバル諸島,ヤン・マイエン島,南極海のブーベ島,ペーター1世島をも領有し,南極大陸の西経20°~東経45°の地域の領有権を主張している。本土の南東部は先カンブリア時代の変成岩よりなり,西岸から中・北部はカレドニア造山帯に属し,現在の脊梁山脈を形成する。これらの地域には,チタン,モリブデン,層状鉄鉱床があり,鉄,銅,鉛,亜鉛の硫化鉱を産する。古生代末にはオスロ・フィヨルド沿いに地溝帯が生じ,火成岩が逬入して多くのカルデラをつくった。南,西,北の大陸棚には厚い中・新生代層があり,北海油田が開発され,北緯71°付近にもガス田が発見された。スピッツベルゲン島には第三紀の石炭を産する。氷河期の厚い氷床は約8000~1万年前に消失し,人類は約7000年前から住みついた。氷の浸食で基盤岩に深いU字谷が刻まれ,それに海水が浸入して西岸沿いの深いフィヨルドをつくり,尖峰と急崖と氷河のアルプス景観が観光客を引きつけている。西岸の河川は急流をなしてノルウェー海に注ぎ,壮大な滝がかかる。脊梁山脈の東は緩やかな大河が流れ,中・下流の平野に森林と耕地が広がる。土壌は薄くやせている。国内には16万の湖があり,サケ,マスが多い。海岸は出入りに富み,約15万の島々がある。氷床消失後の地盤隆起はいまも続き,海岸部で年2mm,内陸で年8mm上昇している。西岸は北上するメキシコ湾流に洗われ温暖で,最北端まで冬も凍らない。南からの暖気団と北極海からの寒気団が出合うため,低気圧の通路に当たる。脊梁山脈の東側は内陸気候で,冬の最低気温は-50℃に下る。平均気温が10℃を超える日は南部で年120日くらい,北部では60日以下である。降水量は西岸で年2500mm,内陸はその半分である。雪は南部で11月に降り始め4月に消えるが,高山では6月まで降る。北部のトロムセー付近はオーロラ帯に当たり,極夜の空を彩る。植物は約2000種生育し,ドイツトウヒを主とする針葉樹林が広く,東部で850m,北部で700mが上限である。下生えは厚い苔とヒースで,コケモモ,野イチゴ類が豊富である。広葉樹ではシラカバ類,セイヨウトネリコ,ナナカマド,ポプラ類が多く,高山にはハイマツ,ハンノキ類が低く育つ。山地と森林にはトナカイ,レミング,ヘラジカ,アカシカ,キツネ,テン,アナグマ,ビーバーなどが多く,ヒグマ,オオヤマネコはまれである。海岸には海鳥が多く,夏に沖の小島に群がって営巣する。山には数種のライチョウがすみ,秋には狩猟の対象にされ,レストランのメニューにも載っている。北海および本土沿岸は,タラ,サケ,マス,サバ,オヒョウなどが多く,北部ではこれらのほかにエビ,キャペリンも大量にとれ,キャペリンはシシャモの名で日本へ輸出される。北極圏のバレンツ海もタラの好漁場で,最近はロシアとの間に領海境界の設定をめぐって論争が続いている。
住民は北方系のノルウェー人がほとんどで,碧眼,長頭,色白を特徴とする。このほか,北部に約2万人のラップ人︵サーミ人︶が居住する。言語はボクモールとニユーノルスクの二つの公用語︵いずれもノルウェー語︶がある。ルター派福音教会が国教となっており,国民の約96%がこれに帰属しているが,信仰の自由は保障されている。
執筆者‥太田 昌秀
歴史
民族大移動期以降,北ゲルマン人がスカンジナビアに移動,定着し,バイキング時代には,ノルウェー人のブリテン諸島への遠征,襲撃︵8世紀末︶やアイスランドへの植民︵9世紀末︶がみられ,10世紀初めには,ハーラル1世が沿岸部を統一し,ノルウェー王を名のった。しかし,この時代は,王権と地方豪族の対立と,分立する王たちの内乱が繰り返され,12世紀末にいたり,スベッレ王︵在位1177-1202︶が世襲一人制の強力なスベッレ王朝を成立させた︵バイキング時代の社会のあり方については,︿スカンジナビア﹀の項目を参照されたい︶。
しかし1319年と80年の2度にわたる男系途絶のため,ノルウェーはカルマル同盟のもとでデンマークへの政治的従属にはいった。社会・経済的にも,ハンザ同盟による商業支配,人口の2分の1以上を奪った黒死病︵1349-50︶をはじめ,14~15世紀に繰り返された疫病もあり,中世後期は没落の時代であった。
16世紀初めのルター派への改宗以後,デンマークへの属領化が進行する。一方,17世紀以来,林業,製鉄業の発達が農民の富裕化,小作農の自作農化を促し,18世紀になると農民は各地で反税闘争を起こした。ノルウェーは独自の方言をもつ諸地方が独立の傾向をもっていたので,初めは農民闘争は民族的闘争というよりも反中央政府の性格をもったが,産業の発展が海外輸出と結合していたため,しだいにデンマークとの民族的な利害対立が自覚されるようになる。ノルウェーの主要な商品︵木材,魚,鉱石︶は,主としてイギリス,オランダへ輸出され,一方慢性的に不足していた穀物はデンマークからのみ輸入を許され,しばしばその価格は高騰した。デンマーク・ノルウェー連合王国の最大の輸出品目がノルウェー産木材であること,ノルウェー人口がデンマーク人口に追いついたことも民族的自覚を刺激した。独自の銀行と大学の開設,出版の自由が要求されるようになった。
民族的利害対立はナポレオン戦争の間に頂点に達した。親ナポレオンのデンマーク政府は,大陸封鎖政策のためノルウェー木材のイギリス輸出を禁じ,イギリスは報復としてデンマーク穀物のノルウェー輸送を実力で阻止したからである。独立闘争はしかしライプチヒの戦︵1813︶によって方向転換を余儀なくされる。この戦いの勝者であるスウェーデン皇太子カール・ヨハンは敗者デンマークとのキール条約によって,デンマークに代わってスウェーデンがノルウェーと︿同君連合﹀を結ぶ権利を得た︵1814年1月︶。ノルウェーの農民,市民,軍人,官吏などからなる各地の代表者はエイズボルに集まり,当時最も民主的な内容をもつ独立の憲法を採択した︵1814年5月。エイズボル憲法︶が,スウェーデンの軍事的圧力と列強の利害,思惑はノルウェーの独立を許さず,スウェーデンとの同君連合のやむなきにいたった。しかし憲法のおもな内容は存続し,高い程度の自治が認められた。
19世紀はあらゆる営業規制,特権の廃止と,鉄道,蒸気船による交通発達を基礎とした産業発展の時代である。産業の中心が,製鉄などの冶金工業,捕鯨を含む漁業,木材︵のちパルプ,紙︶工業など,地方的性格のものであったため,富農の産業資本家化現象が強くみられる。無記名投票による政党政治が確立されたのは1884年であるが,このとき首相となったスベルドルップSverdrupを出した︿左翼党﹀は,独立と営業の自由を求める農民,都市民を基盤としている。国の産業が外国市場と強く結びつき,また海運業が発達したため,独自の領事館を海外にもつことが切望され,ノルウェー国会はこれを︿連合王国﹀に繰り返し要求した。しかしこれは外交の一元性を損なう。王による数回の拒否ののち,1905年6月7日ノルウェー国会は独立を宣言,スウェーデン側の要求したノルウェー国民投票は2000対1の割合で独立を支持,11月にデンマーク王子カールをノルウェー王ホーコン7世として迎えた。この独立劇の平和的成功には,軍事行動を主張するスウェーデン世論を抑えた同国の社会民主党政府の態度,北欧に強い利害関心をもつロシアが日露戦争と第1次革命のため拘束されていたことが関係している。
20世紀のノルウェーは,外交的には列強利害の間に苦悩する小国の一例である。第1次世界大戦に際しては,他の北欧諸国とともに中立を維持したが,食料輸入の減少に苦しみ,大戦後半には,対英通商に対するドイツの潜水艦,機雷攻撃によって船舶のほぼ半数を失った。第2次大戦で,その武装中立はナチス・ドイツの軍事占領によって踏みにじられ︵1940年4月︶,政府と国王はロンドンに亡命した。労働者,教員,牧師などあらゆる国民各層は︿祖国戦線﹀に結集してサボタージュと抵抗を組織し,船舶の大部分はイギリスへ逃れ,ノルウェー国旗を掲げて連合軍側輸送に従事した。大戦後ノルウェーはNATOに加盟したが,外国軍事基地を置かない政策をとっている。
内政的には,20世紀は水力発電を動力とする産業発展と社会福祉の充実をみた。ロシア革命の影響と急速な工業化に伴う労働運動を背景に前進したノルウェー労働党は,1935年に農民党と連合政権をつくって第2次大戦を迎え,戦後もほとんどの時期に政権を握った。その下で労働者保護と農作物価格保証から出発し,あらゆる弱者を保護し,社会的平等全般を目ざす福祉政策が推進されてきている。
→スカンジナビア
執筆者‥熊野 聰
政治,外交
ノルウェーは議会制度を有する立憲君主国である。行政権は国王に属するが,国事会議︵内閣︶により行使され,国事会議はノルウェー議会︵ストーティング︶の多数信任に基づく。予算支出,徴税を含む立法権は議会にあり,議会は4年ごとの選挙で165名の議員が選出される。1898年男子に選挙権,1913年に婦人参政権がみとめられ,投票年齢は20歳以上。国内は19県,450コミューネ︵市町村︶に分かれる。,地方自治は発達しており,4年ごとの総選挙の中間年に地方選挙がある。
司法は三審制である。またオンブド︵他国ではオンブズマン︶という独得の機関があり,行政権の乱用から国民を守るための制度で,消費者の利益を保護するものと,軍内部の不平不満を処理するものと,その他とがある。
第2次大戦後国際連合創設に際し,初代事務総長トリグベリーを送った。1949年NATOに加盟,同機構と連結する国防政策を確定した。国連特別委員会のすべてに参画し,OECDに加入,欧州会議等のメンバーである。ECへの加入は72年の国民投票で支持を得られず,73年自由貿易協定を結んでいる。北欧諸国は広く言語,文化を共通にし,相互の協力は緊密である。相互に旅券同盟を結び,労働市場を共有し,社会立法の面でも広範囲な協力関係にある。また相互協力のための議員・政党レベルの北欧理事会を有している。ほかに政府レベルでの閣僚協議会もある。発展途上国援助は年々増加を示し,78年でGNPの1%目標を達成している。うち半分が2国間の,半分が機関援助である。1960年よりEFTA︵ヨーロッパ自由貿易連合︶メンバー国であるが,92年EEA︵ヨーロッパ経済領域︶加入した。94年のEU加盟国民投票で反対多数のため加盟を断念した。
国防では,NATO加盟国であるが,非核三原則を政策化しており,︿平時﹀の外国軍駐留と核兵器持込みを許していない。兵役は義務制であり,19~44歳の男子が対象となる。初期兵役は12~15ヵ月間である。政府の国防予算は毎年政府予算のほぼ10%前後を占める。
経済,産業
北海大陸棚︵南西ノルウェーより350km︶に油田,天然ガス田があり,ノルウェーの重要な天然資源となっている。確認可採埋蔵量は石油10億t,天然ガス14億t。1965年に最初の採掘ライセンスが許可されて以来,開発をすすめ,75年には実質的な石油輸出国となった。しかし石油,天然ガス資源の活用は適当かつ控え目な開発ペースを守ることを議会で決議している︵年間生産量9000万tを限度︶。ノルウェーの経済発展には安価な電力が決定的な役割を果たしてきた。電力生産は年間1000億kWh。1人当り電力消費量では世界第1位でデンマークに電力輸出を行っている。また資源としては森林,水産物,鉱石などにも恵まれている。
第2次大戦後,西欧諸国の経済は大きく変動したが,ノルウェー経済も例外でなかった。第1次産業は後退し,国民生産における鉱工業の割合も伸び,またサービス部門の割合も大きく増加した。労働人口の1/3が工業部門であり,GNPの1/3を占める。農業は,国土のわずか3%が耕作可能である。就業人口は総人口の7%を占める。酪農畜産の分野で高度の自給が実現している一方,穀物はもっぱら輸入に依存している。農産物価格は政府と農業団体の年次交渉で決定される。農業の特徴は小規模自作農家と規模の大きな買付販売協同組合組織との組合せである。森林が多く︵国土の1/5︶,樹種はマツ,カバが主で,2/3が農家所有。家具,スキー,紙,パルプ,木材などの関連産業も盛んである。漁業は沿岸漁業であり,世界第5位の漁業国で,年間漁獲量300万tのうち70~80%がシシャモ,タラ,ニシンである。タラはもっぱら冷凍・加工・乾燥品となる。なお,ノルウェーでは電力の40%以上が電気化学,電気冶金産業に向けられており,ヨーロッパ第1の未加工アルミニウムの生産国である。造船部門も重要であり,また北海石油産業への機材生産に貢献している石油産業部門は新しい産業で,石油精製部門とともに急速に発展しつつある。産業経営はほとんど私企業である。商船船腹量は2240万トン,世界船舶の4.7%を占め世界第6位,︿ノルウェーの浮かぶ帝国﹀といわれる。このうち9割以上が外国間輸送に従事している。海運収支が貿易赤字をカバーする構造になっている。船腹の半分は船齢5年以下である。外国貿易では,国民1人当り貿易高でノルウェーをしのぐ国は世界で日本のみである。おもな貿易相手国はEC諸国と北アメリカで全輸出の80%を占める。またこれら諸国からの輸入も総輸入額の80%である。
社会
社会福祉
1967年より実施された国民保険法は,保険と年金を組み合わせた総合的システムで,すべての国民が加入を義務づけられており,老齢年金と付加年金が基本となっている。保険料は使用者側,被雇用者側がそれぞれ60%と20%を負担し,残りの20%を国と地方自治体で補塡する。健康保険は,医療機関での治療はもちろん,慢性疾病については,付添いまでをまかなう。疾病期間を通じて疾病給付金が支払われる。また慢性疾病や長期間にわたる疾病で収入を断たれた人には,これに対する手当が支給される。年金給付年齢は67歳であり,また年金受給資格を得た平均労働者の場合,年金総額は最高所得時の2/3となる。歯科部門は6~18歳の子どもを除き,健康保険外となっている。なお身体障害児のスポーツ活動参加がすすんでいる。
労働
1870年代に,すでに労働組合が組織されており,現在,賃金労働者の約70%が組合に加入している。労働組合は全国労組単位で労働組合総連合︵LO︶に属している。これに対し民間企業の大部分が経営者連盟︵NAF︶に属している。両者の間には労使関係を律する基本協定が存在する︵協定期間は2年︶。労使交渉が行き詰まった場合は,国家調停官が介入する。これも失敗すると政府は国会に調停裁判所の設置を提案する。その判決は当事者に対して強制力をもつ。ただし国家,社会に重大な影響を与える主要産業部門の紛争に対してのみである。労働者保護法は1956年に成立しているが,現在40時間労働が確立,1日労働9時間を超えてはならず,超過勤務は年間200時間を超えてはならない。また50人以上の従業員を有する企業は職場環境改善委員会の設置を義務づけられている。また従業員の経営参加も認められている。女性の場合は6週間の出産休暇制度がある。年次休暇は1964年休暇法により最低4週間で,労災補償制度も他の北欧諸国と同様完備している。
教育
教育人口は各種学校,大学を合わせ全人口の1/5を占める80万人,うち60万人が初等義務教育を受けている。なお一般学校教育以外に約50万人の成人教育の受講者︵市民講座など︶がいる。初等レベルの基礎教育は9年制で,7歳から義務教育が始まる︵15歳まで︶。1クラスは平均20名。基礎教育終了生徒中80%が上級学校に進学する。大学進学率はほぼ20%,オスロ,ベルゲン,トロンヘイム,トロムセーの4大学のほか,七つの地方単科大学があり,2~3年課程の教育を行う。教育はすべてのレベルで国立で無償である。なお独得な制度であるが,サッカーの賭けくじの余剰利益金の半分は科学研究基金へ,他の半分はスポーツ奨励金として寄付される。
スポーツ,レジャー
国土は山岳が多く,高原と緑の森林に恵まれ,柵に囲まれているのは耕作地だけである。自然を愛好する国民性であり,夏季は魚釣り,水泳,キャンプ,ボート漕ぎ,冬はスキー,スケートのナショナル・スポーツの時期である。クロスカントリーは特に人気がある。また休日を過ごすための山荘が多く,ノルウェー人家庭は6戸に1戸が山荘または海辺の別荘をもち,週末や休暇を過ごすようにしている。
執筆者‥武田 龍夫
文化
ノルウェー文化は昔も今も北欧文化の一環としてあるが,この国特有の風土,歴史,国民性がもつ二重性は当然文化にも反映する。荒涼たる山岳地帯,緑青の水をたたえる湖とフィヨルドの比類ない美しさは自然の過酷さをも秘め,対外進出のバイキング精神は頑迷な郷土意識と同居する。鋭敏な社会問題への切込みはときに日本人的ともいえる甘えの心理構造に逃避し,民主主義と福祉を是としながら神秘,隠遁への志向を抑えがたい。これらの二重性は現代芸術にも,たとえば︿新ノルウェー語︵ニューノルスク︶﹀作家ベーソースの繊細な感受性に満ちた小説と,ドゥーンの地方農民の一族史をつづる雄勁な︽ユービークの人々︾との共存,夭折︵ようせつ︶したルンデRolf Lunde︵1891-1928︶の優美な彫像に対するに,ビーゲランの121人の人間像からなる巨大な一本石碑という形で顕現している。
ノルウェー文化の歴史は9~11世紀のバイキング時代に始まる。それ以前にも石器時代の岩壁に刻まれた動物や魚の絵とか,3世紀ころから使われた原北欧語とされる古ルーン文字による碑銘文などもあるが,バイキングの将領たちが南ヨーロッパの先進文化と接触することで彼らの文化意識は目覚めた。キリスト教移入︵10世紀︶とそれに伴うラテン文字導入︵ノルウェーで現存最古のラテン文字本は1050年ころのもの︶が大きく寄与したが,上からのキリスト教化は民間の異教信仰を完全には払拭せず,両思想の対比は一貫してノルウェー文化を彩っている。キリスト教美術の典型はトロンヘイムのユダロス大聖堂であるが,13世紀半ばに流行した祭壇前面の絵画も,他国には例は少なく,油絵手法の絵として世界最古の現存品ともいわれる。ラテン文字の導入は新ルーン文字に代わる古ノルウェー語の成立を促した。そして12~13世紀に伝承文学の記録化が鬱勃︵うつぼつ︶として興る。記述者は,9~10世紀のノルウェー国内の勢力争いからはみ出した豪族たちがアイスランドに入植したその後裔で,したがってそれら︿エッダ﹀︿サガ﹀と呼ばれる北欧の神話,伝説,歴史の記録や︿スカルド詩﹀は,厳密にはアイスランド文学に属する。これがノルウェー文学史に入れられるのは,記述者がもともとノルウェー出身の一族であり,︿古エッダ﹀︵スノッリ・ストゥルルソン編纂の︿新エッダ﹀と区別してこう呼ばれる︶の多くの部分が1000年以前にノルウェー本国で成立,伝承されていたものであり,その言葉が古ノルウェー語とさほど変わらぬためである。14世紀半ばの黒死病流行により人口の3分の2を失ったノルウェーは,その後400年間デンマークに従属して,口承民話や歌謡以外に自らの文化を失うが,国を出たすぐれた芸術家の活躍はその間も続く。北欧啓蒙期最大の文学者ホルベアはコペンハーゲン大学の教授となるが,ノルウェーのベルゲンの生れで,︿北欧のモリエール﹀と称される彼の喜劇もまた,デンマークとノルウェーの両文学史で扱われる。1772年にコペンハーゲンで結成された︿ノルウェー協会﹀による作家たち,ウェッセルJohan Herman Wessel︵1742-85︶やブルンJohan Nordahl Brun︵1745-1816︶らもまた同じである。19世紀初頭のロマン派画家もみなドイツに居を構えた。彼らがノルウェー絵画史の第1ページを記すのだが,その筆頭にくるダールは︿ノルウェー絵画の父﹀と呼ばれるものの,ドレスデン・アカデミーの教授であった。
この対外的先取性とは裏腹に,ノルウェー人の郷土意識は頑固なほど強い。それによってデンマーク属領時代にも自らの国民意識を保持しえたのだろう。ノルウェー国民の意識は1814年にナポレオン戦争の後始末としてデンマークから分離し,スウェーデンと同君連合の体制に組み込まれてから一気に文化の花を開かせる。ノルウェー独自の芸術は各分野ともここにその歴史を始めるといってよい。すなわち国民的ロマン主義思潮である。直接の結実は,民話伝説を収録したアスビョルンセンPeter Christen Asbjørnsen︵1812-85︶とモエーJørgen Moe︵1813-82︶のしごと︵︽ノルウェー民話集︾第1巻は1841刊︶,牧師のランスタMagnus Brostrup Landstad︵1802-80︶が集めた民謡集,リンネマンLudvig Mathias Lindeman︵1812-87︶のメロディ採譜,独学の言語学者オーセンIvar Aasen︵1813-96︶のノルウェー特有の語彙・文法の収録・整理等々のしごとである。オーセンの︽ノルウェー国民語文法︾︵1848︶,︽ノルウェー国民語辞典︾︵1850︶は,デンマーク語式の書き言葉に対してノルウェー自体の言語︵ランスモールLandsmål。今日の︿新ノルウェー語﹀の前身︶を形成する基盤となった。国民的ロマン主義は各分野にすぐれた芸術家を育成する。美術では,ダールの後,デュッセルドルフ・アカデミーに学んだ画家たち,たとえば︽ハルダンゲルの婚礼︾を合作したティデマンAdolph Tidemand︵1814-76︶とギューデHans Gude︵1825-1903︶,音楽では民謡演奏を土台にした名バイオリニストのブルOle Bullや作曲家のヒェルルフHalfdan Kjerulf,文学では親デンマーク派のウェルハーベンと激しく対立した熱血詩人ウェルゲラン,膨大な︽ノルウェー国民の歴史︾8巻を書いた歴史家ムンクPeter Andreas Munch︵1810-63︶らが現在まで続くこの国のロマン的性格の基を築いた。第2次大戦中の反ナチス抵抗運動,1970年代のEC︵ヨーロッパ共同体︶参加拒否の姿勢を支えるものでもある。
国民的ロマン主義芸術は19世紀前半の多くのヨーロッパ小国にみられた。しかしノルウェーのように次の時代,主として1880年代,90年代に世界的な芸術家を集中的に輩出させた例はほかにない。すなわち劇作家イプセン,詩人ビョルンソン,作曲家グリーグ,画家ムンク,小説家ハムスンらの名が挙げられる。彼らはいずれも生涯の少なからぬ時期を外国で過ごし,そこで自己の芸術表現能力を磨いたにもかかわらず,絶えず自らのノルウェー性を自覚して,故国に舞い戻る。イプセン,ムンクのように,自国で評価されず失意のうちに国を出た場合,この矛盾はいっそう激しく,それがヨーロッパを主導する前衛的作家たりえた主要因だったといえるだろう。イプセン,ビョルンソンと並べられて近代ノルウェー文学の四巨匠とされるJ.リーやヒェランにも過激な社会問題意識と人間心理の不合理さを認める二重性は明らかにみてとられる。
20世紀のノルウェー芸術が今もって前世紀末の所産を乗り越えられないのは,この矛盾性を鋭く実感することが少なくなっているからかもしれない。1905年のスウェーデンからの完全独立はそれまで絶えざる政治問題であったスウェーデン国王との抗争から国民を解放した。19世紀半ばには後進的農業国だったのが,20世紀には先進的福祉国家になった。不安の画家ムンクでさえ,20世紀になると明朗な色調の楽天性をみせ,人間の不可思議な心理と行動をえぐっていたハムスンも自らの反文明観をナチズムに結びつける。かつて,11世紀にノルウェーに入ってきて隆盛を極めた教会建築様式スターブヒルケstavkirke︵樽板造りの木造教会︶は今日ノルウェーでのみ完全な形で観察される特異な建築芸術であるが,同様に,この国の独創でなくとも,それなりに特異な芸術作品は20世紀ノルウェーにもある。中世世界を活写したウンセットの歴史小説︽クリスティン・ラブランスダッテル︾,オスロ市庁舎内の壁画を頂点とする︿フラスコ画三巨匠﹀,レーボルAxel Revold︵1887-1962︶,ロルフセンAlf Rolfsen︵1895-1979︶,クローグPer Krohg︵1889-1965︶らの壁画制作,反ロマン的︽ペール・ギュント︾の舞台の劇音楽︵1948︶を書いたセーベルードHarald Sæverudの作品等々である。しかし,彼らが矛盾より調和に近いことも事実である。今日ノルウェーでは他の北欧諸国同様,芸術も国家の財政的援助のもとにしか成り立たない。劇場が公立であるだけでなく,美術家も文学者も音楽家も公的援助を受ける。福祉社会の内部矛盾に目を向ける芸術家は少なくないが,その告発さえ公的援助なしに可能でない。1976年に自殺した作家ビョルネベーJens Bjørneboe︵1920-76︶は社会告発の劇を書き,自由の希求を主題とした小説で賞を取り,匿名で書いたポルノグラフィー小説が発禁にされ,少女凌辱で裁判にかけられたが,人口過疎の福祉国家がはらむ諸矛盾を一身に具現していたともいえよう。しかし,この新たな矛盾を世界的に評価される芸術表現へと昇華させた例はまだ出ていないのである。
執筆者‥毛利 三彌
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ノルウェー
◎正式名称−ノルウェー王国Kongeriket Norge/Kingdom of Norway。◎面積−38万5391km2︵スバールバル諸島などを含む︶。◎人口−511万人︵2014︶。◎首都−オスロOslo︵63万人,2014︶。◎住民−大部分はノルウェー人。ほかにサーミ人2.5万人など。◎宗教−ルター派︵国教︶90%。◎言語−ノルウェー語︵公用語︶。◎通貨−ノルウェー・クローネNorwegian Krone。◎元首−国王,ハラルド5世Harald V︵1937年生れ,1991年1月即位︶。◎首相−エルナ・ソールベルグErna Solberg︵2013年10月発足︶。◎憲法−1814年5月制定。◎国会−一院制であるが,二院制の機能をもつ︵定員169,互選により定員の4分の1が上院,4分の3が下院を構成,任期4年︶︵2015︶。◎GDP−4500億ドル︵2008︶。◎1人当りGDP−6万6530ドル︵2006︶。◎農林・漁業就業者比率−4.1%︵2003︶。◎平均寿命−男78.9歳,女83.2歳︵2010︶。◎乳児死亡率−2.8‰︵2010︶。◎識字率−100%。 * *北欧,スカンジナビア半島西半を占める立憲王国。海外領土として,スバールバル諸島,ヤン・マイエン島,ブーベ島などがある。︹自然・住民︺ 北緯58°〜71°にわたる南北に長い国土をもち,大部分は標高1000〜2000mの高原をなす。最高点はグリッテルチン山︵2465m︶。ヨステダール氷河はじめ広大な氷河があり,氷食によるU字谷が多く,大西洋岸はフィヨルドが特徴的である。南部にグローマ川,ローゲン川などがある。メキシコ湾流の影響で,緯度のわりには気候温和。森林は国土の約25%。住民の大部分は北方ゲルマン系のノルウェー人︵ノルマン人︶でノルウェー語を話す。北部に少数のフィン人,サーミ人︵約2.5万人︶が住む。︹歴史・政治︺ 古くからノルマン人が居住,10世紀初めに統一王国が成立した。11世紀に一時デンマーク王クヌットに征服された。14−16世紀はカルマル同盟によりデンマークの下で同君連合を形成し,その後もデンマーク支配下に置かれた。1814年からはスウェーデンの下で同君連合を形成し,1905年国民投票により独立,デンマークから王子を国王︵ホーコン7世︶に迎えた。第2次大戦中は一時ドイツ占領下におかれた。労働党が1935年以来ほとんど政権を独占してきたが,1960年代後半からは労働党と保守・中道連合が交代で政権を担当するようになった。2009年9月の総選挙では,2005年から政権を担うストルテンベルグ労働党党首を首班とする,中道左派連立政権︵労働党,左派社会党,中央党︶が勝利,第二次ストルテンベルグ政権が発足した。2011年9月の統一地方選では,最大野党の保守党が都市部を中心に得票を伸ばした。2013年9月の総選挙で中道左派連立政権は敗北,保守党,進歩党による保守系連立政権が成立。自由党とキリスト教民主党は閣外協力関係を結んだ。政権は,産業界の競争力向上,規制緩和,減税,脱官僚,教育研究の重視,インフラ整備促進,市町村改革を主要課題としている。省庁の再編も行われ,閣僚ポストが2つ削減されて18ポストとなった︵うち女性閣僚は9名︶。︹経済・産業︺ 農耕地は国土の3.3%にすぎず,林業,漁業が主で,タラ,ニシンの漁獲が多く,世界有数の捕鯨国でもある。豊富な水力発電を背景に製紙・パルプ,化学,機械,造船,食品加工などの工業も発達する。鉄,石炭,銅などの鉱産がある。1970年代からは北海油田による石油産業が経済の礎石となるほどに発展し,輸出の主品目にもなっている。食糧などを輸入に依存し,海運収入は世界の上位を占める。社会保障制度が完備している。財政赤字が存在せず,政府年金基金の残高は国家予算の3.4倍に及ぶといわれ,2012年度時点で3兆7230億ノルウェー・クローネ︵日本円にして約56兆円︶の概算評価額があった。︹外交・軍事︺ 北大西洋条約機構︵NATO︶に加盟,義務兵役制で,総兵力2万6600人。石油と結びついた経済力への自信と国内の農業・漁業といった1次産業保護という要因により,EC加盟を1972年,1994年と二度にわたって,国民投票で否決している。しかし,EUとの協調関係は緊密で,多くのEU指令を国内に適用,欧州経済領域協定︵1994年締結︶を通じて緊密な経済関係を築いている。欧州諸国との間の自由往来を認めるシェンゲン協定国︵1999年参加︶でもある。外交の重点は,北欧諸国,バルト三国,ロシア等の周辺諸国を含む,多分野かつ緊密な地域協力︵北欧協力,環バルト海協力,バレンツ協力等︶である。また国連を始めとする国際機関を介して,人権・人道及び開発援助等には積極的に関与し,中東,南スーダン,アフガニスタン,イラク等で国際貢献活動を展開している。
→関連項目ウルネスの木造教会|オスロオリンピック︵1952年︶|スカンジナビア|リレハンメルオリンピック︵1994年︶
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ノルウェー
Norway
古くからノルマン人が居住した地方で,9世紀末初めて統一王国が形成された。11世紀前半一時デーン王クヌーズ(クヌート1世)の支配に服し,14世紀末カルマル連合によりスウェーデンとともにデンマーク王のもとで同君連合を形成。16世紀スウェーデンが分離独立したのちも,この国はデンマークの宗主権下にとどまったが,1814年キール条約で,今度はスウェーデン王のもとで同君連合を形成するに至った。しかしその後独立の機運が高まり,1905年国民投票を行って分離独立し,立憲王国となった。第二次世界大戦中ナチス・ドイツの侵略を受けたが,戦後国土を回復,49年NATO(ナトー)に加盟。72年EU加盟問題が起こったが,国民投票で否決,94年再び国民投票の否決によりEU加盟を断念している。
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ノルウェー
Norway
北ヨーロッパ,スカンディナヴィア半島西側を占める立憲君主国。首都オスロ
古くからノルマン人が住み,9世紀末に王国を形成し,キリスト教化した。11世紀には一時カヌートの支配を受けた。1380年からデンマーク王の統治を受け,1397〜1523年の間はカルマル同盟でスウェーデン・デンマークと連合王国をつくった。1814年のキール条約でデンマークをはなれ,スウェーデン王の下に同君連合を形成したが,1905年独立。第一次世界大戦には中立を維持したが,第二次世界大戦にはナチス−ドイツの侵入を受けた。戦後は北大西洋条約機構(NATO)に加盟したが,1972年ヨーロッパ共同体(EC)加盟は行わず,1994年のヨーロッパ連合(EU)加盟も国民投票によって拒否された。
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世界大百科事典(旧版)内のノルウェーの言及
【ゲルマン人】より
…ゲルマンという呼称の由来は不詳であるが,この語が文献上最初にあらわれるのは,前80年ころ,ギリシアの歴史記述家ポセイドニオスが,前2世紀末におけるゲルマンの小部族,キンブリ族Cimbriとテウトニ族Teutoniのガリアへの侵寇を叙述した記録においてである。もっともそれ以前,前4世紀の末に,マッシリア(マルセイユ)にいたギリシア人航海者ピュテアスが,ノルウェーやユトランド半島に出向いた際の記録の一部が残っているが,そこではまだそこに住んでいた民族について,ゲルマンという呼称は使われていない。 考古学的出土品を根拠に,新石器時代までさかのぼって,ゲルマン人の居住分布が推定されるが,それによると,ゲルマン人の原住地は,南スウェーデン,デンマーク,シュレスウィヒ・ホルシュタイン,並びにウェーザー,オーデル両川にはさまれた北ドイツを含む一帯の地域であったというのが,現在の定説である。…
【民族大移動】より
…その一つは,移動前,ゲルマニアの東部にいた東ゲルマン諸族,次はその西部にいた西ゲルマン諸族,そしていま一つは北方スカンジナビア半島やユトランド半島にいた北ゲルマン諸族である。東ゲルマンに属する部族としては,東ゴート,西ゴート,バンダルWandalen,ブルグントBurgunder,ランゴバルドLangobardenなどが数えられ,西ゲルマンでは,フランクFranken,ザクセンSachsen,フリーゼンFriesen,アラマンAlamannen,バイエルンBayern,チューリンガーThüringerなどが,また北ゲルマンでは,デーンDänen,スウェーデンSchweden(スベアSvear),ノルウェーNorwegerなどが挙げられる。このうち北ゲルマン諸族は,前2者よりやや遅れ,8世紀から11世紀にかけ,[ノルマン人]の名でイングランド,アイルランド,ノルマンディー,アイスランドならびに東方遠くキエフ・ロシアにまで移動し,それぞれの地に建国したため,通常これを第2の民族移動と称する。…
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