デジタル大辞泉
「中村光夫」の意味・読み・例文・類語
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なかむら‐みつお【中村光夫】
(一)評論家、劇作家、小説家。東京生まれ。本名木庭(こば)一郎。東京帝国大学卒。在学中より評論活動を始め、二葉亭四迷、フローベール等に関する著述で認められた。以後、戦前・戦後を通じて、西欧近代文学による知見をベースとした多彩な評論活動を展開。評論﹁二葉亭四迷論﹂﹁フロオベルとモウパッサン﹂﹁風俗小説論﹂﹁志賀直哉論﹂のほか、戯曲﹁人と狼﹂﹁汽笛一声﹂、小説﹁贋の偶像﹂などがある。明治四四~昭和六三年︵一九一一‐八八︶
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中村 光夫
ナカムラ ミツオ
昭和期の文芸評論家,小説家 明治大学名誉教授;日本近代文学館常務理事。
生年
明治44(1911)年2月5日
没年
昭和63(1988)年7月12日
出生地
東京市下谷区練塀町(現・東京都台東区)
出身地
東京市本郷区駒込(現・文京区)
本名
木庭 一郎(コバ イチロウ)
学歴︹年︺
東京帝国大学文学部フランス文学科︹昭和10年︺卒
主な受賞名︹年︺
文学界賞(第4回)︹昭和11年︺﹁二葉亭四迷論﹂,池谷信三郎賞(第1回)︹昭和11年︺﹁二葉亭四迷論﹂,読売文学賞(第3回・文芸評論賞)︹昭和26年︺,読売文学賞(第10回・評論伝記賞)︹昭和33年︺﹁二葉亭四迷伝﹂,岸田演劇賞(第7回)︹昭和35年︺﹁パリ繁昌記﹂,読売文学賞(第16回・戯曲賞)︹昭和39年︺﹁汽笛一声﹂,日本芸術院賞(第23回)︹昭和41年︺,野間文芸賞(第20回)︹昭和42年︺﹁贋の偶像﹂,文化功労者︹昭和57年︺
経歴
昭和24年より明治大学勤務、27〜28年東京大学講師、35〜36年京都大学講師。学生時代から文芸批評に手を染め、11年﹁二葉亭四迷論﹂で文学界賞を受賞し、新進評論家として認められた。戦後も﹁風俗小説論﹂をはじめ多く作家論を発表、またカミュの﹁異邦人﹂・政治小説などのテーマをめぐり、丹羽文雄、広津和郎らと論争を展開。38年小説﹁わが性の白書﹂や戯曲﹁パリ繁昌記﹂﹁汽笛一声﹂を書き、話題となった。42年﹁贋の偶像﹂で野間文芸賞受賞、57年文化功労者。主著に﹁谷崎潤一郎論﹂﹁志賀直哉論﹂﹁中島敦研究﹂﹁二葉亭四迷伝﹂﹁モーパッサン﹂。絶筆に﹁時の壁﹂(未定)があり、﹁中村光夫全集﹂(全16巻 筑摩書房)にまとめられている。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
中村光夫【なかむらみつお】
評論家,劇作家,小説家。本名木庭(こば)一郎。東京生れ。東大仏文科卒。在学中から同人誌︽銃架︾︽集団︾に参加。また小林秀雄の推薦で︽文学界︾に評論を発表,︽フロオベルとモウパッサン︾の他,︽二葉亭四迷論︾などがある。後者は︽二葉亭四迷伝︾︵1958年︶に結実。日本の近代文学の私小説性を西欧リアリズム小説との比較において批判・検討した。こうした視点は︽風俗小説論︾︽異邦人論︾︽佐藤春夫論︾等でも展開され,戦後の文芸評論界に大きな影響を与えた。
→関連項目唐木順三|風俗小説|吉田健一
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中村光夫
なかむらみつお
(1911―1988)
評論家、劇作家、小説家。本名木庭(こば)一郎。東京に生まれる。東京帝国大学仏文科卒業。1933年(昭和8)、小林秀雄らの推薦で『文学界』に連載した『ギイ・ド・モウパッサン』(1933~34)や、池谷(いけたに)信三郎賞を受けた『二葉亭論』(1936)などで、批評活動を始める。38年フランスに留学したが、翌年、戦争のため帰国。この間、山本健吉らと『批評』を創刊。第二次世界大戦後は雑誌『展望』の創刊にあずかるほか、次々と評論を発表、戦後批評界の中心となった。彼の立場は、近代リアリズムの正統論に立脚して、日本の近代文学の擬似性を批判するものであるが、『風俗小説論』(1950)はその代表的なものであり、さらに『谷崎潤一郎論』(1951~52)、『志賀直哉(しがなおや)論』(1953)、『佐藤春夫論』(1961)と進めて徹底した。ほかに戯曲に『人と狼(おおかみ)』(1957)、『パリ繁昌(はんじょう)記』(1960)、『汽笛一声』(1964)など、小説に『わが性の白書』(1963)、『ある愛』(1976)、『グロテスク』(1979)などがある。82年文化功労者。
[古木春哉]
『『中村光夫全集』全16巻(1971~73・筑摩書房)』
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中村光夫
なかむらみつお
[生]1911.2.5. 東京
[没]1988.7.12. 神奈川,鎌倉
評論家,劇作家,小説家。本名,木庭 (こば) 一郎。第一高等学校を経て 1935年東京大学仏文科卒業。在学中から小林秀雄の知遇を得,『二葉亭四迷論』 (1936) で評壇の新人として登場。第2次世界大戦後は『風俗小説論』 (50) ,『異邦人論』 (52) のほか『谷崎潤一郎論』 (51~52) ,『志賀直哉論』 (53) ,『佐藤春夫論』 (61~62) などの長編作家論を書き,『ふたたび政治小説を』 (59) の硬文学待望論も話題を呼んだ。小説『わが性の白書』 (63) ,『贋の偶像』 (66) ,戯曲『人と狼』 (57) ,『パリ繁昌記』 (60) ,『汽笛一声』 (64) などの作品がある。 67年日本芸術院賞受賞。 70年日本芸術院会員。 74年日本ペンクラブ会長。 82年文化功労者。
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中村光夫 なかむら-みつお
1911-1988 昭和時代の評論家。
明治44年2月5日生まれ。東京帝大在学中から「文学界」に寄稿。昭和11年の「二葉亭四迷論」でみとめられる。戦後は私小説批判を中心に日本の近代文学のひずみを追究,「風俗小説論」「志賀直哉論」などを発表。「汽笛一声」「贋の偶像」など,戯曲,小説も手がけた。42年芸術院賞。57年文化功労者。芸術院会員。昭和63年7月12日死去。77歳。東京出身。本名は木庭(こば)一郎。
【格言など】自己批評をするには,まずその批評の対象になる自己を持つこと(「風俗小説論」)
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中村 光夫 (なかむら みつお)
生年月日:1911年2月5日
昭和時代の文芸評論家;小説家。明治大学教授;日本近代文学館常務理事
1988年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の中村光夫の言及
【風俗小説】より
…海外の文学にもその例は少なくないが,日本では坪内逍遥が︽[小説神]髄︾(1885‐86)に︿小説の主脳は人情なり,世態風俗これに次ぐ﹀と唱えたことから風俗小説のあり方が問題とされる。なかでも中村光夫の︽風俗小説論︾(1950)は,その系統を小栗風葉の︽[青春]︾(1905‐06)あたりから探って,日本の近代小説のゆがみを指摘したものとして知られる。風俗小説が表面的なリアリズムに走って,そこに小説本来の虚構性,ひいては作者の思想性が欠如していることに言及してもいるからである。…
【文芸時評】より
…明治中期の内田魯庵,石橋忍月による先駆的な仕事をうけつぐ形で,明治末から昭和にかけては,近松秋江,正宗白鳥,佐藤春夫,広津和郎その他が,この分野を拡大してきた。そして,1922年以来20年間にわたって文芸時評を続けた川端康成と,33年ごろから約30年間月評家をもって鳴らした十返肇(1914‐63)が文壇の生き証人,目撃者の立場をとった現場主義的な批評を代表し,1930年から文芸時評をはじめた[小林秀雄]や,35年から新鋭として認められた中村光夫(1911‐88)らが,原理的批評を代表することになる。なお,80‐82年に発表された吉本隆明(1924‐ )の文芸時評は,文学創造の本質を把握したものとして高く評価された。…
【私小説】より
… このように私小説について特徴的なのは作品と論議とが同程度の重要さをもって発表されてきたことである。小林秀雄や後の中村光夫《風俗小説論》(1950)([風俗小説])の批判にもかかわらず私小説は盛んに書かれていたのである。その主なものは志賀直哉の系統では滝井孝作《[無限抱擁]》(1921‐24),尾崎一雄《二月の蜜蜂》(1926),《虫のいろいろ》(1948)など,葛西善蔵の系統では牧野信一《父を売る子》(1924),嘉村礒多(かむらいそた)《途上》(1932)などがある。…
※「中村光夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」