デジタル大辞泉
「北陸道」の意味・読み・例文・類語
ほくりく‐どう〔‐ダウ〕【北陸道】
国。また、この国々を結ぶ街道のこと。くぬがのみち。ほくろくどう。北(ほっ)国(こく)。
北陸自動車道の略称。
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くぬが‐の‐みち【北陸道】
(一)﹁ほくりくどう﹂の古い呼び名。くにがのみち。くるがのみち。くんがのみち。
(一)[初出の実例]﹁北陸(クヌカノミチ)及び東方(あつま)の諸国(もろもろのくに)の地形(ところのかたち)、且(また)百姓(おほむたから)の消息(あるかたち)を察(み)しめたまふ﹂(出典‥日本書紀︵720︶景行二五年七月︵北野本訓︶)
ほくろく‐どう‥ダウ︻北陸道︼
(一)[ 一 ] 律令制の地方行政区画である五畿七道の一つ。若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡の七か国の総称。古くは越路(こしじ)と称し、中世以降北国(ほっこく)といった。北の道。くるがのみち。ほくりくどう。︹令義解︵718︶︺
(二)[ 二 ] [ 一 ]の諸国を縦貫する大道。ほくりくどう。
(一)[初出の実例]﹁北陸道をばこの客僧承ってまかり通り候﹂(出典‥謡曲・安宅︵1516頃︶)
くるが‐の‐みち【北陸道】
- =くぬがのみち(北陸道)
- [初出の実例]「阿倍臣を北陸(クルカ)道の使に遣(つかは)して、越(こし)
の諸国の境を観しむ」(出典:日本書紀(720)崇峻二年七月(図書寮本訓))
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北陸道
ほくりくどう
古代都から出て琵琶湖の西岸地域を北上、若狭・越前から佐渡まで達した駅路。畿内の範囲を定めた大化改新詔に北は近江の合(おう)坂(さか)山︵逢坂山︶より以来︵﹁日本書紀﹂大化二年一月一日条︶とあるのは、北陸道の要衝逢(おう)坂(さか)山に北限を求めたもの。奈良時代およびそれ以前の北陸道は現京都府の宇(う)治(じ)から山(やま)科(しな)盆地を北上、逢坂山のうち小(こぜ)関(き)越の谷を通って近江に入ったと考えられる。小関越を現大津市側に下った谷口から北へ三キロ直進する古道は原初計画北陸道を踏襲するとみられ、近江大津宮の正中線にもなったらしいことが同宮推定遺構からうかがえる。宮の誘致ならびにプランの決定に北陸道が深くかかわったことを示唆する。この南北古道の北終点に白鳳期の瓦を出土した大津市南(みな)滋(みし)賀(がち)町(よう)廃寺、その北北東に同時期の同市穴(あの)太(う)廃寺があり、その創建時の方位に近い北約二四度東の方位の古道が穴太︵穴多︶の集落を貫き、ここには﹁延喜式﹂兵部省に北陸道の着駅としてみえる穴(あの)多(う)駅が比定される。これらから古代北陸道は大津宮から穴太辺りまでは、のちの西近江路と異なり山麓部を通過していたと想定できる。﹁延喜式﹂兵部省によれば平安時代の北陸道の駅は、駅馬五疋の穴多駅のほか、七疋の和(わ)爾(に)︵和邇︶・三(み)尾(お)、九疋の鞆(とも)結(ゆい)の三駅があり、いずれも小路の規定駅馬数五疋より多い。現滋賀郡志賀町和(わに)邇(な)中(か)付近に推定の和爾駅と、現高島郡安(あど)曇(が)川(わ)町三(みお)尾(ざ)里(と)に推定の三尾駅の駅間距離が規定三〇里︵一六キロ︶より長い二二―二三キロで、現高島郡マキノ町海(かい)津(づ)か石(いし)庭(ば)に推定の鞆結駅と越前松(まつ)原(ばら)駅︵現福井県敦賀市か︶の間も同じく長距離で、かつ山間を抜ける難路であることが理由であろう。
北陸道
ほくりくどう
都から佐渡国の国府に通じる古代の官道。﹁ほくろくどう﹂﹁きたのみち﹂﹁くるがのみち﹂ともよばれた。﹁日本書紀﹂崇峻天皇二年秋七月条に﹁阿倍臣を北陸道の使に遣して、越等の諸国の境を観しむ﹂とみえる。これは交通路の名称というよりも越国を含む北陸地方の国々の総称の意味で用いられている。交通路としての北陸道が明らかになるのは﹁延喜式﹂兵部省諸国駅伝馬条で、越後国内の駅として滄(あお)海(うみ)・鶉(うず)石(らいし)・名(なだ)立(ち)・水(み)門(と)・佐(さ)味(み)・三(みし)島(ま)・多(た)太(た)・大(おお)家(や)・伊(いか)神(み)・渡(わた)戸(りへ)の一〇駅、佐渡国の駅として松(まつ)崎(がさき)・三(みか)川(わ)・雑(さわ)太(た)の三駅を記す。滄海駅には駅馬八疋、伊神駅には同二疋が置かれ、他は各五疋であった。ただし渡戸駅には船二艘のみが置かれた。伝馬は頸(くび)城(き)・古(こ)志(し)両郡から各八疋を出し、佐渡国内では駅馬を伝馬に充てた。駅の比定地から経路をたどると、越中国最東端の佐味駅︵現富山県下新川郡朝日町か︶から神(かむ)済(わたり)︵現境川︶を渡って越後国に入り、親(おや)不(しら)知(ず)︵現西頸城郡青海町︶の難所を抜けて滄海駅︵現同町青海︶・鶉石︵現同郡能生町︶・名立駅︵現同郡名立町︶を通る。
北陸道
ほくろくどう
越中国内を通る古代の官道。加賀国の深(ふか)見(み)駅︵深海駅︶と越後国の滄(あお)海(うみ)駅との間に位置する駅家を結ぶ官用の交通路で、公使として駅馬を利用するには駅鈴の携行を必要とした。﹁延喜式﹂兵部省諸国駅伝馬条によると、越中国には西から坂(さか)本(もと)・川(かわ)人(と)︵川合︶・曰(わた)理(り)・白(しら)城(き)・磐(いわ)瀬(せ)・水(みず)橋(はし)・布(ふ)勢(せ)・佐(さ)味(み)の八駅があり、駅馬は佐味駅に八疋、他は各五疋を配置された。養老令の﹁厩牧令﹂の規定によれば、駅︵駅家︶は三〇里ごとに一駅を置くことを原則とし、地勢の険しい所や水・草のない場合には便利な場所が選ばれた。駅には管理責任者として駅長、また駅に属する農民として駅戸を配置した。なお各駅の駅馬とは別に礪(とな)波(み)・射(いみ)水(ず)・婦(ね)負(い)・新(にい)川(かわ)の各郡︵郡衙︶には伝馬各五疋が配置された︵﹁延喜式﹂兵部省︶。伝馬は緊急を要しない国司の赴任や公使の乗用などに利用したとみられる。
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北陸道 (ほくりくどう)
古代の地方行政区画の七道︵五畿七道︶の一つ。古くは越︵こし︶と称した。︽西宮記︾では︿クルカノミチ﹀︿キタノミチ﹀と読んでいる。685年︵天武14︶東海・東山以下の使者派遣のさい北陸の名のみえぬのは,このときは東山に属していたためとみられ,行政区画としての北陸道の成立は701年︵大宝1︶まで下るであろう。︽延喜式︾には若狭,越前,加賀,能登,越中,越後,佐渡の7国が所属するが,所属国についてはしばしば変更があった。712年︵和銅5︶越後より出羽を分立して東山道所属とし,718年︵養老2︶越前より能登を分立したが741年︵天平13︶越中に併合,757年︵天平宝字1︶また分立している。佐渡も743年越後に併合となったが,752年︵天平勝宝4︶再設置となっている。また823年︵弘仁14︶には加賀が越前より分立した。北陸道は地味の豊かな越前などの国を含み,軍事的にも蝦夷に対応する地域として重要であった。駅制の官道としては小路として各駅に5匹の駅馬がおかれていた。
執筆者‥亀田 隆之
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北陸道
ほくりくどう
古代以来の﹁七道﹂の一つ。﹁ほくろくどう﹂ともいわれた。日本海に沿った福井県から新潟県にかけての地域で、平安初期以後、若狭(わかさ)、越前(えちぜん)、加賀(かが)、能登(のと)、越中(えっちゅう)、越後(えちご)、佐渡(さど)の七か国がこれに属し、また近江(おうみ)から越前、加賀、越中を経て越後に至る官道を北陸道と称した。古くは高志(こし)の国、越路(こしじ)とよばれたが、律令(りつりょう)国家成立期の天武(てんむ)朝︵672~686︶に越前、越中、越後の三国に分かれた。若狭国は三国分割以前に成立していたようである。のち712年︵和銅5︶に出羽(でわ)が越後から離れて東山(とうさん)道に属し、越前から718年︵養老2︶に能登、823年︵弘仁14︶に加賀が分立して、七か国となった。官道としての北陸道は、愛発関(あらちのせき)、敦賀(つるが)、帰山(かえるやま)、越前国府、礪波山(となみやま)などを経て、越中、越後に通じていた。
﹇戸田芳実﹈
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北陸道
ほくりくどう
五畿七道の一つ。﹁ほくろくどう﹂とも読む。畿内から日本海沿岸に及ぶ地方で,古くは﹁越 (こし) ﹂と呼ばれた。大化改新後,越前,越中,越後の3国に分れ,養老2 (718) 年能登,弘仁 14 (823) 年加賀の両国がそれぞれ越前国から分立した。これより先,大化改新のとき若狭国,佐渡国ができて北陸道に加わり,和銅1 (708) 年越後国から出羽国が分れて東山道に属した。愛発関 (あらちのせき) 以東7国から成るこの地方を縦貫する北道 (きたのみち) ,陸道 (くぬがのみち) は律令制度のもとでは小路として駅ごとに駅馬5頭が備えられていた。
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北陸道
ほくりくどう
(1)古代の七道の一つ。現在の中部地方の日本海岸にそった地域で,若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡の各国が所属する行政区分。(2)これらの諸国を結ぶ交通路も北陸道と称し,「くぬがの道」ともよばれた。畿内から近江国をへて各国府を順に結ぶ陸路を基本に官道が整備され,越後国から佐渡国へは海路で結ばれた。駅路としては小路で各駅に5頭の駅馬がおかれる原則で,「延喜式」では総計40駅に201頭の駅馬をおく規定であった。臨時の地方官として746年(天平18)に北陸山陰両道鎮撫使(ちんぶし)が設置された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
北陸道
ほくりくどう
律令制における五畿七道の一つ
大化の改新で若狭・越の2国,天武天皇のころ越を前・中・後の3国に分け佐渡を合わせて5国,のち越前から能登・加賀を分けて7国にした。現在の福井・石川・富山・新潟県にあたる。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の北陸道の言及
【駅伝制】より
…中央から辺境にのびる道路にそい,適当な間隔で人・馬・車などを常備した施設すなわち駅を置き,駅を伝わって往来する交通・通信の制度。世界史上,前近代に広大な地域を支配する中央集権国家が成立すると,外敵の侵入や国内の反乱に直ちに対処するばあいを含め,支配維持のために中央と地方とを常時連絡する手段が必要となり,さまざまな形態の駅伝が制度として定められるのが一般であった。このように駅伝制はもともと前近代における支配手段の一種であったから,国家の管理下に置かれて民間の自由な利用は許さないのが原則であり,また国家権力の解体とともに衰退していった。…
※「北陸道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」