デジタル大辞泉
「名古屋」の意味・読み・例文・類語
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なごや【名古屋】
(一)[1]
(一)[ 一 ] ( 古くは那古野。のち名護屋とも ) 愛知県西部の地名。県庁所在地。濃尾平野の中央部にあり、伊勢湾に臨む。明治三年︵一八七〇︶名古屋藩監察令により、表記を名古屋に統一。戦国時代に今川氏が築城、のち織田信長が占拠し、江戸初期に徳川家康の子義直が尾張藩主として城下町を開いた。江戸時代は上方と江戸の中間にある商業都市として栄え、明治維新後は商工業・軍事都市となり、とくに繊維工業・窯業が発達した。明治四〇年︵一九〇七︶名古屋港が開港、昭和初年から重工業が発展、中京工業地帯の中心都市となる。明治二二年︵一八八九︶市制。
(二)[ 二 ] 明治四年︵一八七一︶の廃藩置県により尾張国に成立した県。同年、犬山県を合併し、翌年、愛知県と改称した。
(二)[2] 〘 名詞 〙
(一)① ﹁なごやおび︵名護屋帯︶﹂の略。
(二)② ふぐ汁。また、ふぐ鍋。
(一)[初出の実例]﹁覚悟とて義理に一膳喰ふ名古屋﹂(出典‥雑俳・五色墨︵1809︶)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
名古屋[市] (なごや)
愛知県の県庁所在都市で,伊勢湾奥に位置する。名古屋市は東京と大阪の中間に位置するため,中京とも呼ばれ,その通勤・通学圏,買回品購買圏を合わせた都市圏は中京圏と呼ばれる。日本第4の人口をかかえる巨大都市で,1889年の市制施行当時は面積約13km2,人口約15万7000にすぎなかったが,その後守山市︵1954市制︶など周辺市町村を編入し,2010年現在,面積326.43km2,人口226万3894の規模となった。区制は,1908年東,西,中,南の4区で施行されたが,以後37年千種︵ちくさ︶,中村,昭和,熱田,中川,港の6区,44年北,瑞穂,栄︵45年中区に吸収︶の3区,63年守山,緑の2区,75年名東,天白の2区が加わり,現在は16区。1956年9月政令指定都市になっている。名古屋市は太平洋側に位置しながらも,外洋から離れた盆地性の地形を示すため,気候は内陸性に近く,夏季の高温多湿,冬季の厳しい︿伊吹おろし﹀が特徴的である。濃尾平野南東端に位置する市域の地形は,中央部の洪積台地,東部の丘陵地,西部の沖積低地に三区分される。中央部には名古屋城から熱田神宮を結ぶ線以東に標高10~15mの洪積台地が展開している。中部地方を管轄する中枢官庁が名古屋城南部の三の丸地区に集中し,その南に江戸時代からの織物,薬などの問屋街が続き,広小路通りには銀行,証券取引所,映画館などが多数立地している。東部の丘陵地は標高60~80mの古期洪積台地で,第2次大戦後住宅地区,文教地区として急速に開発されたところである。動植物園を中心とした東山公園,共同墓地の平和公園,および名古屋大学,南山大学,中京大学,名城大学などが設けられている。西部は木曾川の三角州平野の一部を形成し,干拓新田によって耕地化されたところは0メートル地帯になっている。市内では最も開発の遅れたところであるが,1970年代には土地区画整理事業も終わり,住宅地の造成が相次いでいる。
名古屋が名実ともに尾張の中心になったのは江戸時代に入ってからで,1610年︵慶長15︶徳川家康の名古屋城築城によるところが大きく,尾張藩祖徳川義直により,61万石の城下町としての繁栄の基礎が固められた。名古屋城下の南に位置する宮宿︵みやのしゆく︶︵熱田︶は熱田神宮の門前にあった宿場で,桑名と結ぶ東海道五十三次唯一の海上ルート七里渡︵しちりのわたし︶の発着地としてにぎわいをみせた。明治20年代から40年代にかけて東海道本線,中央本線,関西本線がそれぞれ全通し,1907年の名古屋港開港などによって東西の結節地としての性格を強めていった。34年に人口100万を突破したが,第2次大戦の空襲により市域の1/4にあたる約40km2が焦土と化し,人口も50万にまで激減した。しかし,戦後の復興はめざましく,中区の矢場町︵現,大須3丁目,栄3丁目︶を中心に東西︵若宮大通り︶,南北︵久屋大通り︶に走る100m道路の建設,市街地にあった墓地の平和公園への移転など画期的な都市計画が実行され,人口も50年には100万に回復した。57年に名古屋~栄間の地下鉄が開通して以来,名古屋駅,栄駅一帯に大規模な地下商店街が形成された。現在,栄は地下鉄東山線と名城線の交点にあたり,百貨店,銀行などの集中する都心地区をなしている。64年東海道新幹線が開通。80年代に入り,地下鉄路線の延長,新規開設が相次ぎ,地上では名古屋都市高速道路が布設され,都市内交通の整備に力が入れられている。また89年の世界デザイン博開催を契機に,景観重視の街づくりが進められてきている。東名高速道路の名古屋インターチェンジで東名阪自動車道が分岐しており,南端を伊勢湾岸自動車道が走る。
中京工業地帯の核心をなす名古屋市一帯は,江戸時代からすでに日本を代表する織物と焼物の産地であった。こうした伝統工業を基礎として,明治時代に入って紡績を主とする繊維工業,時計製造を主とする機械工業が始まり,1904年には輸出用陶器を扱う日本陶器が生産を開始した。その後,軽工業部門はますます栄えていったが,30年代から40年代前半の軍需産業の時代を経て,第2次大戦後は急速に重化学工業化の道をたどった。その中心は耐震性の強い洪積層を基盤にもつ名古屋南部臨海工業地帯で,鉄鋼,石油,造船などの重工業が進出している。海の玄関の役割を果たす名古屋港の94年の総取扱貨物量は1億4261万tで千葉港に次ぎ第2位を誇っている︵2007年には同貨物量は2億1560万t,6年連続第1位︶。
市内には名古屋城跡︵特史︶をはじめ,テレビ塔展望台,大須観音,熱田神宮,鶴舞公園などの観光拠点があり,織田信長,豊臣秀吉,徳川家康にちなむ史跡,古社寺も多い。
執筆者‥溝口 常俊
名古屋城下
尾張国の城下町。古くは那古野,名護屋,浪越とも書いた。別称蓬左︵ほうさ︶は,西からみて熱田︵古名,蓬萊島︶の左に位置するためである。︽江家次第︾裏書に平安時代末の荘園︿那古野庄﹀として出るのが初見。
大永年間︵1521-28︶今川氏豊は名古屋台北辺に那古野城を築いたが,織田信秀に占拠され,のち廃城となって一帯は荒野と化した。1610年徳川家康は子の尾張新領主義直の住む名古屋築城に着手し,南面に市街を開いて,前主松平忠吉の城下清須︵現清須市,旧清洲町︶から士民・寺社を移動させた。これを︿清須越し﹀という。16年︵元和2︶駿府の父のもとにいた義直が入国し,若干の駿府住民も流入した︵駿河越し︶。以来近世を通じて,徳川三家の尾張藩61万9500石の城下町としてかわらなかった。60年︵万治3︶の大火は都心部を灰にしたが,辻番所の設置,木戸の増設,市境の確定などの都市計画が進められ面目を一新し,火災時の避難を考慮し広小路の開発も行われた。寛文︵1661-73︶から元禄︵1688-1704︶にかけて街区は特に南方熱田方面に延びた。1730年︵享保15︶自由な気風の徳川宗春が藩主となり,芝居小屋を建て,商工業を振興するなど,積極的な経済成長政策の結果,三都に次ぐ有数の大都市に発展し,芸所として知られるようになった。大商人の出現に地元でほとんどの商品が間に合い,京仕入れが激減し,︿名古屋の繁華で京がさめた﹀との巷︵ちまた︶の声もあった。宗春襲封前の1728年に実施された市制改正と隣接町村の合併は繁栄を象徴する。39年︵元文4︶膨大な財政赤字を残して宗春は退隠し,後継者宗勝,宗睦は藩庫の再建をはかり緊縮方針をとったため,天明︵1781-89︶末ないし寛政︵1789-1801︶初年に不況を招いた。以後,米価高騰,藩札整理,長州征伐に伴う軍費支出は市民の負担を増大させ,市勢は停滞した。
︿名古屋﹀は広義には愛知郡名古屋村を中心とした広井,小林,山口,枇杷島に及ぶ広大な地域を指すが,︿城下﹀はこれより狭く東西,南北それぞれ約5km,北が広い逆三角形をなす。城郭や評定所,寺社奉行所,国奉行所が並ぶ官庁街片端筋を北に,中央を町地が占め,町地の東・南・西方を白壁町,御中間町などの武家屋敷町が囲み,その間に藩主の菩提寺建中寺,名古屋総鎮守若宮八幡社といった寺社が点在する。町地は町中︵まちじゆう︶,寺社門前,町続︵まちつづき︶より成る。町中は中枢部で,中期以降97の町で構成された。城を発し熱田に向かう南北の幹線道路である本町筋を軸に西ヶ輪と東ヶ輪に分かれ,本町,伝馬町は前者,上七間町,鍋屋町は後者に属する。南北の道筋を縦町,東西に走るそれは横町と呼ぶ。大部分が清須越しか新立かで,築城以前の町は益屋町,車之町などごくわずかである。多く久屋町筋以西,堀川以東,京町筋の南,広小路の北の地区に含まれ,街路が碁盤目状を呈する点から碁盤割りの町,上町と呼称し,それ以外の下町と区別された。寺社門前は寺社境内,門前の町屋で,門前町,建中寺門前など寺社が徴租権をもつ。町中,寺社門前の旧市街に対し,これに接する町続は新市域で,本来は藩直轄領または藩士の封土であり,地方事務の主管庁国奉行が支配した。ところが名古屋が伸張するにつれて町並みにかわり,放火・窃盗犯が潜伏するのに格好の場所となった。そこで藩は犯人逮捕を容易にする目的から,1728年押切村,大曾根村,古出来町などの区域を指定し,警察権を町奉行へ移管,国奉行に徴税を残したが,町続の設定は以後もつづいた。
市政は町奉行と各町に設けられた町代,両者の連絡機関惣町代の手で運用された。町奉行は定員1ないし2名で,歴代奉行中1814年︵文化11︶就任の田宮半兵衛は名高い。役所は片端筋本町角と同じく長者町角に設けられたが,1726年前者に統合された。天保︵1830-44︶ころの職員は奉行,吟味役頭取,吟味役以下122人。惣町代1名はほぼ本町花井氏が世襲した。町人の人口は,前期は5万5000人程度で推移したが,1726年の5万0375人から50年︵寛延3︶の7万2583人へと25年間に急増したのは,この時期に町続が編入されたのが原因であろうか。はじめ藩用をつとめる呉服所茶屋新四郎,紺屋頭小坂井新左衛門ら,門閥的特権町人が頭角をあらわし,元禄・享保期に入り,民衆相手の商売で資産を蓄積したが,調達を通じて藩と結んだ質・米穀の関戸哲太郎,呉服太物︵ふともの︶の伊藤次郎左衛門に代表される新興勢力に圧倒された。92年︵寛政4︶問屋の扱った商品は呉服太物,生鯖,干鰯︵ほしか︶ほか移入64万3000両,米,木綿,材木などを除き移出29万6000両である。これらの輸送に東海道,美濃路,佐屋路,飯田街道,堀川の果たす役割は大きい。高札場のある本町・伝馬町角札の辻には伝馬問屋,飛脚問屋があった。近くには書林が目立ち,城内の文庫,古書籍の多い真福寺,藩校明倫堂,貸本屋大惣とともに文化の香りを放った。音曲,舞踊,茶道,香道が普及し,芸所の名もある。
1872年︵明治5︶愛知県第1大区,78年名古屋区となり,89年市制施行。
執筆者‥林 董一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
名古屋
なごや
愛知県西部,伊勢湾に面した県庁所在地で,近世以来尾張藩の城下町として発展
1610年徳川家康がその子義直と清洲城に入り,名古屋を城地と定め,加藤清正ら諸大名に分担させて築城。'16年義直がこの城に移ってから城下町として繁栄した。明治時代以後は中京工業地帯の中核をなす商工業都市として発展。1889年市制施行,1935年には100万都市となった。第二次世界大戦中の戦災で市街の大部分を焼失したが,戦後復興。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
名古屋
(通称)
なごや
歌舞伎・浄瑠璃の外題。- 元の外題
- 名古屋山三
- 初演
- 元禄12.2(京・布袋屋梅之丞座)
名古屋
なごや
歌舞伎・浄瑠璃の外題。- 初演
- 元禄5.11(江戸・森田座)
出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報