デジタル大辞泉
「東」の意味・読み・例文・類語
ひがし︻東︼
1 太陽の出る方角。東方。⇔西。
2 東洋。
﹁―に還る今の我は﹂︿鴎外・舞姫﹀
3 東風。
4 相撲の番付で、向かって右側の称。﹁西﹂より上位。﹁東の大関﹂
5 歌舞伎劇場内で、江戸では舞台に向かって右側、京坂では左側をいう。
6 京都に対して鎌倉幕府をいう。
﹁―ざまにも、その心づかひすべかんめり﹂︿増鏡・新島守﹀
[類語]︵1︶西・南・北
ひがし【東】[浜松市の旧区名]
浜松市の旧区名。令和6年(2024)に北区の一部・中区・南区・西区と統合され中央区となった。
ひがし︻東︼﹇福岡市の区﹈
宮、筥崎宮などがある。
ひんがし【▽東】
《「ひむかし」の音変化。「日向かし」の意》「ひがし(東)1」に同じ。
「―の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」〈万・四八〉
ひがし【東】[大阪市の旧区名]
大阪市の旧区名。平成元年(1989)南区と合併し中央区となった。
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ひがし【東】
(一)[1] 〘 名詞 〙 ( ﹁ひむかし・ひんがし︵東︶﹂の変化した語 )
(一)① 方角の名。日の出る方向。西の対。十二支では卯(う)をあてる。ひんがし。
(一)[初出の実例]﹁勢多の橋を東に渡れば﹂(出典‥海道記︵1223頃︶序)
(二)﹁菜の花や月は東に日は西に︿蕪村﹀ 山もと遠く鷺かすみ行︿樗良﹀﹂(出典‥俳諧・続明烏︵1776︶春)
(二)② 東方から吹いてくる風。東風。こち。
(一)[初出の実例]﹁さし渡したるひたえのひさごの、︿略﹀西ふけば東になびき、東ふけば西になびくを見て﹂(出典‥更級日記︵1059頃︶)
(三)③ インドや中国からみて東方にある国。すなわち、日本。
(一)[初出の実例]﹁身を投ふして数回、東(ヒガシ)のかたを拝し給へば﹂(出典‥読本・椿説弓張月︵1807‐11︶残)
(四)④ 京都、大坂に対して、鎌倉や、江戸をさしていう。
(一)[初出の実例]﹁さすがじゃはまつはひがしへながれても﹂(出典‥雑俳・削かけ︵1713︶)
(五)⑤ 相撲などの番付で、右側の称。﹁西﹂より上位とされる。
(一)[初出の実例]﹁後には大ずまふになった所で、ひがしのかたから、ちひさひおとこが出て﹂(出典‥虎明本狂言・飛越︵室町末‐近世初︶)
(六)⑥ 歌舞伎劇場で、江戸では舞台に向かって右側、京坂では左側の称。
(一)[初出の実例]﹁又東に而﹃勘解由の次官師方参向﹄と呼ぶ﹂(出典‥歌舞伎・名歌徳三舛玉垣︵1801︶三立)
(七)⑦ 義太夫節の豊竹派の称。竹本派を﹁西﹂というのに対していう。
(一)[初出の実例]﹁豊竹越前掾の方、若太夫・梺太夫・駒太夫のたぐひを東といふ﹂(出典‥滑稽本・浮世風呂︵1809‐13︶前)
(二)[2]
(一)[ 一 ] ( 江戸城の北の吉原、南の品川、西の新宿に対して ) 江戸、深川の遊里をいう。
(二)[ 二 ] 京都賀茂川の東、四条辺をいう。男色、女色の遊所が多い。
(三)[ 三 ] 西本願寺に対する東本願寺、また、東本願寺派のこと。
(四)[ 四 ] 北海道札幌市の行政区の一つ。札幌市の東北部を占める。鉄道車両・ビールなどの工場があり、北端に札幌︵丘珠︶空港がある。昭和四七年︵一九七二︶成立。
(五)[ 五 ] 愛知県名古屋市の行政区の一つ。名古屋市の中心部の東側を占める。徳川美術館がある。明治四一年︵一九〇八︶成立。
(六)[ 六 ] 大阪市の旧区。明治二二年︵一八八九︶成立。平成元年︵一九八九︶南区と合併して中央区となる。
(七)[ 七 ] 広島市の行政区の一つ。市の中央部やや東寄りに位置する。昭和五五年︵一九八〇︶成立。
(八)[ 八 ] 福岡市の行政区の一つ。福岡市の東部にあり、石堂川︵御笠川︶河口以東の博多湾に面する地域および海の中道とその先端の志賀島を含む。昭和四七年︵一九七二︶成立。
あずまあづま︻東・吾妻︼
(一)〘 名詞 〙
(二)① 東の方。東方。
(一)[初出の実例]﹁上(ほ)つ枝は 天を覆(お)へり 中つ枝は 阿豆麻(アヅマ)を覆へり 下(し)づ枝は ひなを覆へり﹂(出典‥古事記︵712︶下・歌謡)
(三)② 都から東の方の諸国の称。東国。時代や文献によってその範囲が異なる。広くは東海道、東山道以東陸奥国までもいったが、奈良朝以降次第に現在の関東地方を指すようになった。
(一)[初出の実例]﹁すめろきの御世さかえむと阿頭麻(アヅマ)なるみちのく山に黄金花咲く﹂(出典‥万葉集︵8C後︶一八・四〇九七)
(四)③ 鎌倉、室町時代に、京都から特に鎌倉または鎌倉幕府を指していう。→東の主(あるじ)。
(一)[初出の実例]﹁あづまにてすむ所は、月かげのやつとぞいふなる﹂(出典‥十六夜日記︵1279‐82頃︶)
(五)④ 江戸時代、上方から特に江戸を指していう。
(一)[初出の実例]﹁折ふし吾妻(アヅマ)の大臣始て上方見物に上られしを﹂(出典‥浮世草子・傾城色三味線︵1701︶京)
(六)⑤ =あずまつ
(一)[初出の実例]﹁辺鄙 文選云蚩胘辺鄙︿師説辺鄙 阿豆万﹀世説注云東野之鄙語也︿今案俗用二東人二字一、其義近矣﹀﹂(出典‥十巻本和名抄︵934頃︶一)
(七)⑥ ﹁あずまごと︵東琴︶﹂の略。
(一)[初出の実例]﹁あづまをすがかきて、常陸には田をこそ作れといふ歌を、声はいとなまめきてすさび居給へり﹂(出典‥源氏物語︵1001‐14頃︶若紫)
(八)⑦ ﹁あずまげた︵東下駄︶﹂の略。
(一)[初出の実例]﹁ざんぶりとあづまねだって居る雪踏﹂(出典‥雑俳・若とくさ︵1790︶)
東の補助注記
⑤はあるいは﹁十巻本和名抄﹂の誤記か。
東の語誌
(1)元来は東を示す普通名詞だが、都より東方の諸国を指す用例が多い。﹁万葉集﹂の東歌など上代文献には現在の関東地方を指すものや、より広く現在の長野県・静岡県・岐阜県や東北地方を指すものもある。
(2)平安京への遷都によって範囲が変動し、現在の三重県をも含めて、都から東方への道筋、東海道・東山道の諸国を指し、鎌倉時代以降は、京・上方に対峙する地域として、鎌倉や江戸を指していうようになった。
ひんがし【東】
- 〘 名詞 〙 ( 古くは「ひむかし」で「日向し」の意という ) =ひがし(東)[ 一 ]
- [初出の実例]「東(ひむかし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」(出典:万葉集(8C後)一・四八)
- 「かぢとりしてぬさたいまつらするに、ぬさのひむかしへちれば」(出典:土左日記(935頃)承平五年一月二六日)
東の語誌
(1)方位を表わす﹁東﹂について、上代に仮名書き例はない。﹁万葉集﹂の﹁東﹂はアヅマと訓むとともに、四音としてヒムカシ、ヒムガシとも訓む。仮名書きは、﹁二十巻本和名抄‐五﹂の官名に﹁東市司︿比牟加之乃以知乃官﹀﹂、同じく畿内郡に﹁東生︿比牟我志奈里﹀﹂、また挙例の﹁土左日記﹂が古い。中古の仮名文学では﹁ひうがし﹂﹁ひんがし﹂﹁ひむかし﹂などが見られるが、﹁ひがし﹂の確例が見られるのは﹁名語記﹂︵一二七五︶である。
(2)万葉仮名による表記例は先述の﹁二十巻本和名抄﹂よりさかのぼれないため、上代特殊仮名遣におけるヒの甲乙は不明。第二音節はムが古形。第三音節の清濁も不明であるが、﹁観智院本名義抄﹂では濁音符が付されたものと付されていないものの両方がある。
(3)﹁古事記伝﹂の語源説によると、古形はヒ甲類で第三音節は清音。シは、﹁にし﹂﹁あらし﹂などのシかと考えられる。このシには風の意があり、そうすると、元来は東風を表わす語であったということになる。﹁更級日記﹂の﹁西ふけば東になびき、東ふけば西になびくを見て﹂の﹁東﹂がその例かとされるが、漢字表記のため語形は不明。
(4)ヒムカシは、撥音化したヒンガシを経て、中世頃にはヒガシになったと推定される。﹁東大寺要録‐二・供養章第三﹂には﹁比美加之(ヒミカシ)﹂の例がある。撥音の異表記としては時期が早過ぎるため、転訛例とするのが妥当と考えられる。
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東 (ひがし)
観測者から見た地平面の方向を方位といい,東西南北の4基点をもとに北,北北東,……,東北東,東,東南東,……など16方位で呼ぶのが一般的である。東は,太陽の昇る方向で,英語のeast,ドイツ語のOstなどはギリシア神話の曙の女神エオスĒōsに由来している。古来,中国や日本では十二支︵干支︵かんし︶︶で方位を呼び,東は卯︵ぼう︶に当たる。
日本人と東
伝統的日本人の︿東﹀に対する方位感覚もしくは思想的解釈は,基本的には古代中国人の地理学的世界観もしくは陰陽五行的天文学思想の忠実な受容にすぎなかったのだが,かなり特殊なものである。
第1に,古代このかた,日本人は自分たちが︿東の辺境﹀の島々に住まう民であるという認識をもっていた。607年︵推古15︶の遣隋使派遣に関して,相手方の︽隋書︾東夷伝は︿日出る処の天子,書を日没する処の天子に致す﹀との国書が日本から提出された旨の記事を載せている。ところが︽日本書紀︾のほうにはこの記載はなく,翌年のこととして︿東天皇敬白西皇帝﹀との国書を提出した旨の記録がみえる。明らかに,7世紀初めごろの日本知識階級は自分たちの国土を︿日出処﹀ないし︿東﹀とみなす対外交渉意識をもっていた。さらに︽続日本紀︾慶雲1年︵704︶7月の条にみえる,この月に帰朝した遣唐使の粟田朝臣真人に関する旅行体験談には,︿海東﹀とか︿大倭国﹀とか︿君子国﹀とかの語がちりばめられている。
平安時代に入ってから用いられた︿扶桑︵ふそう︶﹀とか︿夫木︵ふぼく︶﹀とかの日本国の別称も,もともと,中国古代神話において,東海のかなた太陽の出る所にあると信じられた大きな神木をさし,またその地をさしていた。中世から近世にかけて,日本の知識人は自国の異称に︿東海﹀︿東洋﹀︿東瀛︵とうえい︶﹀︿東鯷︵とうてい︶﹀などの語をそのまま用いたが,これらの異称は,いずれも東シナ海の東方に存在する島国という意味である。別に︿日東﹀という異称も頻繁に用いられていた。
かくて伝統的に日本人が自分たちを︿ひがしの民﹀としてとらえてきたことは疑いない。ラフカディオ・ハーンが,熊本時代の作品に︽東の国からOut of the East︾の表題を付したことは,まことに正しかった。日本人は,現在でも,自分たちがユーラシア大陸の︿東のはて﹀に住まう民であるとの意識をもつ。ちょうど,アイルランド人がユーラシア大陸の︿西のはて﹀に住まう民と信じているのと同じように。
また,日本人の特殊な東についての解釈の第2は,国内政治的な次元において︵当然,それに付帯する神話的=祭祀的次元においても︶日本を東西に二分する考え方が早くから成立しており,そればかりでなく︿東︵あずま︶﹀︿東国︵あずまのくに︶﹀︿阿豆麻︵あずま︶﹀という語がつねに古代国家からみてへんぴな地方,辺境,未開地域,植民地を意味する特別な概念として用いられていたという点に見いだされる︵東国︵とうごく︶︶。
ところで,伊勢神宮とか熱田神宮とかの大和朝廷にとって最高の霊格の鎮座する宮居が,なぜ︿東国﹀にまつられねばならなかったか。さらに,香取神宮とか鹿島神宮とかの国土平定の武神の霊格が,なぜはるか東国経営の最前線にまつられねばならなかったか。政治的理由づけとしては,東国経営は大和国家にとってそれほどまでに重大課題であったので,皇祖神を先頭に立てて総力戦を遂行すべき旨の決意を示し,かつその加護を祈ったことのあらわれである,と説明すれば足りるであろう。ふつうにはこの説明が行われている。だが,このほかに,天武朝時代に盛行を極めた陰陽五行思想とのかかわりにおいて,︿国譲り﹀や︿皇祖神鎮祭﹀などの日本古代信仰が,鹿島・出雲,伊勢・大和の二つの︿東西軸﹀上のできごとであることを説明しようとする学説もある。中国哲学すなわち陰陽五行哲学が導入され,定着してからは,国土の東端に鎮座すると考えられた鹿島神は︿東﹀︿木気﹀︿春﹀︿青和幣︵あおにぎて︶﹀︿雷﹀︿地震﹀などの霊的な性質を帯びるようになり,ついには木気の地震神を金気の石で取り鎮める呪術としての︿要石︵かなめいし︶﹀や︿鯰絵︵なまずえ︶﹀までがつくりだされることになる。一方,沖縄の島々にあっては,強烈な朝日が輝き,巨大な夕陽が一瞬のうちに夜闇をもたらす対比から,人々は,東をアガリと呼び西をイリと呼び,とくに東方はるかかなたの海と空とが一つになった場所にニライカナイ︵常世国︶を想定している。
︿ひがし﹀の語源については,日が出る方向に由来すると説く貝原益軒・新井白石の流儀と,ヒムカシという風の名前に由来すると説く本居宣長の流儀との二つが行われ,近代現代の国語辞典はこの太陽説か風説かのどちらかを採択して載せている。
貝原益軒︽日本釈名︾︵1700︶には,︿東︵ひがし︶ 日頭︵ひがしら︶なり。らの字を略す。日のはじめて出る所,かしら也。西 いにし也。日は西へいぬる日のいにしと云意。いを略す。南 万物皆みゆる意。日の南にある時,あきらかにしてみな見ゆる也。北 直指抄云,北方は其色黒し。上古には黒き色をきたなしと云。なしの文字は無の字の義にあらず,語の助也﹀とある。また,新井白石︽東雅︵とうが︶︾︵1719︶には,東西南北の方位に関する語源がいっこうにはっきりしないので︿我疑ひ思ふ所をしるしぬるなり﹀と前置きして,︿東をヒムガシいひしは。ヒは日也。ムカとは向也。シと云ひしは語助也﹀と述べられている。
次に,︿ひがし﹀という語はもともと風の名︿ひがし﹀に淵源しているとする説は本居宣長によって唱えられた。︽古事記伝︾に,仁徳天皇の大后石之日売︵いわのひめ︶の嫉妬︵うわなりねたみ︶を受けて吉備国に逃げ帰った黒日売︵くろひめ︶の歌︿倭方︵やまとへ︶に西風︵にし︶吹き上げて雲離︵くもばな︶れ退︵そ︶き居︵を︶りとも我︵われ︶忘れめや﹀に次のごとき注釈を加えている。︿此歌に依て考るに,比牟加斯︵ひむかし︶爾斯︵にし︶と云は,もと其方より吹風︵ふくかせ︶の名にて,比牟加斯は東風,爾斯は西風のことなりしが転︵うつり︶て,其吹方︵そのふくかた︶の名とはなれるなるべし﹀︿斯︵し︶は風にて,風神︵かぜのかみ︶を志那都比古︵しなつひこ︶と申す志︵し︶,又嵐︵あらし︶飇︵つむじ︶などの志︵し︶も同じ﹀︿さて東風︵ひむかし︶西風︵にし︶と云名の意は,比牟加斯︵ひむかし︶は,日向風︵ひむかし︶なり﹀というのである。
執筆者‥斎藤 正二
東洋医術と東
東の文字は,太陽が地上に現れ,木の間ごしに日が射してきた状態を示している。いったん西に沈んだ太陽が,翌日は必ず東から昇って万物をはぐくむ力に,古代人は神秘を感じたにちがいない。エジプトの壁画に描かれた霊鳥フェニックスが,東方の不死と青春の泉に生きた後アラビアに去って灰となり,再生して東方に現れるという伝説や,秦の始皇帝が不死の薬を求めて採薬使を派遣したという話は,東方への限りないあこがれを示している。10世紀に日本で撰集された︽医心方︾にみられる隋・唐代以前の中国の医書でも,︿東﹀の蘇生力をきわめて重要視していたことがうかがわる。5~6世紀の陶弘景は︿つねに日光に当たっている東に面した壁の上側の土﹀を東壁土といい,小児の臍風瘡の薬としており,脱肛やしりのできものに塗布したり,悪寒発熱や黄疸に熱湯を注いで汁をとって服用したり,キノコの解毒剤として用いた。︽枕中方︵ちんちゆうほう︶︾には老子の︿東に伸びた桃の枝を採り,日の出前に三寸の木人を作って衣服や帯の中に入れると,世人から貴ばれ,敬愛される﹀という言葉がある。そのほか︽如意方︵によいほう︶︾の長髪術では薬剤に東へ向かってはっている桑の根を用い,葛洪︵かつこう︶は︽抱朴子︵ほうぼくし︶︾で月が東井︵とうせい︶という星座に宿る日に洗髪入浴すると病気にかからないと説いている。東を流れる川の水も,東の井戸の水も薬効や呪力を強める力があると信じられていた。竜樹は相愛術で︿望む相手の名を紙に書き,東を向いて日の出を正視しながら,最初にくんだ井戸水でのめ﹀と指示している。
東は陰陽学では春を意味し,干支では甲乙︵きのえきのと︶で首位や芽立ちの象意があり,五行では木をあらわす。皇位継承の皇子を東宮または春宮というのもこのためで,東風は万物を育成する風で,清風,明庶風,嬰児風などと呼ぶ。こうした考え方が古代医術の理論の根底にあったのである。
執筆者‥槙 佐知子
東[村] (ひがし)
沖縄県国頭︵くにがみ︶郡の村。人口1794︵2010︶。沖縄島︵本島︶北部にあり,東は太平洋に面し,南西は名護市に接する。北東の伊湯岳︵446m︶,玉辻︵たまちじ︶山︵289m︶などの脊梁山地から開析された隆起海食台地が緩傾斜で南に開け,平良︵たいら︶湾岸に平地がある。かつては交通の困難な隔絶地域で,1960年代前半までは林業が主産業であったが,その後,段丘面の開発が進み,パイナップル栽培が行われる。近年は,花卉栽培のほか,豚・肉用牛の畜産も盛んである。伊湯岳からの支流を集め平良湾に注ぐ福地︵ふくじ︶川は長さ19.1km,流域面積36km2。74年に同島最大の福地ダムがつくられ,77年には北部の新川︵あらかわ︶川に新川ダムが完成して,ともに沖縄島中南部へ飲料水や工業用水を供給している。東村北部から国頭村南部にわたる広大な地域は,アメリカ軍の北部訓練場となっている。慶佐次︵げさし︶川下流のヒルギ林︵マングローブ林︶は国の天然記念物。
執筆者‥堂前 亮平
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
東
ひがし
[現在地名]嘉手納町東
比謝川南岸屋良地区の南にあり、かつては西には耕地(現嘉手納飛行場)が広がる。もとは屋良村内の屋宜・野理原・伊金堂の三ヵ所の屋取集落で、最初の移住者は一八世紀後半に那覇から来たと伝える(嘉手納町史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
東
あずま
1955年十余島村,本新島村,伊崎村の3村が合体して東村となり,1958年大須賀村を編入。 1996年町制。 2005年江戸崎町,新利根町,桜川村と合体して稲敷市となった。中央部を新利根川が東流。水郷の水稲単作早場米地帯。第2次世界大戦後に干拓が進み,大農場式の開拓農場も開かれた。農業基盤整備事業により機械化されている。
東
あずま
島,諸浦島 (しょうらじま) およびその属島からなる。 1889年獅子島村,浦底村,鷹巣村,諸浦村,川床村,山門野村の6村が合体して東長島村となり,1956年東町に改称し町制。 2006年長島町と合体。米,サツマイモ,ミカン,エンドウなどの栽培のほか,畜産,沿岸漁業などが行なわれる。北部の海岸は雲仙天草国立公園に属する。黒之瀬戸大橋の開通によって九州本島との連絡が容易になった。
東
あずま
山地の西部を占める。勢多東 (せたあずま) と呼ぶ。 2006年笠懸町,大間々町と合体して,みどり市となった。主産業は石材業と林業で,シイタケ,ナメコの栽培が行なわれ,花崗岩を特産する。かつてはマンガン鉱を産した。 1977年に完成した草木ダム,県営の東発電所がある。
東
ひがし
台地にある。 1955年小野田村と釜子村が合体して成立。 2005年白河市,表郷村,大信村と合体して白河市となった。農林業が主産業。中心地区の釜子は会津地方と水戸を結ぶ茨城街道の要地として栄えた。リンゴを主とする果樹栽培が行なわれている。
東
あづま
の右岸を占める。吾妻東 (あがつまあづま) と呼ぶ。 1889年村制施行。 2006年吾妻町と合体して東吾妻町となった。耕地はおもに吾妻川の河岸段丘上にあり,米作,養豚のほかコンニャクイモの栽培が行なわれる。東南端の箱島では箱島不動尊の境内から湧出する地下水を利用して,マスの養殖が営まれる。
東
あずま
と呼ぶ。利根川中流左岸の台地にある。 2005年伊勢崎市,赤堀町,境町と合体して伊勢崎市となる。近郊野菜のハウス栽培,露地栽培が行なわれる。北部の国定地区に国定忠次の墓がある。
東
あずま
長野県北東部,須坂市南東部の地区。旧村名。 1971年須坂市に編入。四阿山 (あずまやさん) 北西麓を占め,一部は上信越高原国立公園に属する。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の東の言及
【北】より
…観測点から見た地平面の方向を方位といい,東西南北の4基点をもとに北,北北東,北東,東北東,東……など16方位で呼ぶのが一般的である。北は,観測者が太陽の昇る方向(東)に向いたとき左手に当たる方向で,英語のnorthもインド・ヨーロッパ語系のner(on the leftの意)に由来している。…
※「東」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」