日本歴史地名大系 「宝林寺」の解説
宝林寺
ほうりんじ
[現在地名]上郡町河野原
千ちく種さ川を望む段丘に立地。真言宗赤松山と号し、本尊聖観音。﹁雪村和尚行道記﹂によれば、貞和年中︵一三四五―五〇︶赤松則祐が備前国新にう田た庄中なか山やま︵現岡山県和気町︶に京都建けん仁にん寺住持雪村友梅を勧請開山として建立。火災にあったため文和四年︵一三五五︶に現在地に移建し、同年甲刹︵諸山︶に、永徳三年︵一三八三︶には十刹に列せられたという。境内には開山雪村の寿塔として、塔頭の宝ほう所しよ庵があった。延文二年︵一三五七︶則祐は住持の大同啓初と﹁於僧衆者、不可過百人﹂﹁於門前之屋敷者、侍品人不許居住﹂などの一三ヵ条の当寺規式を定めた︵同年一一月日﹁赤松則祐・宝林寺啓初連署定文案﹂宝林寺文書︶。当寺は僧一〇〇人を擁する大寺で、門前には屋敷が並んでいた。則祐は貞治六年︵一三六七︶に改めて一六ヵ条の置文を定め、そのなかで当寺は第一に天下静謐のため、第二に先祖のため、第三に子孫のために建立したこと、したがって一家の盛衰は当寺の興廃と連動しあうものと位置づけ、さらに則祐の遺跡を継ぐ者は当寺の檀那となるべきで、他宗他門に入るものは嫡流を継ぐ資格はないものとした︵同年三月日﹁赤松則祐置文案﹂同文書︶。
宝林寺
ほうりんじ
[現在地名]細江町中川
東西に走る国道三六二号の北側に位置する黄檗宗寺院。山号は初山、本尊は釈迦如来。江戸期の所在地については、﹁遠淡海地志﹂および﹁寛政重修諸家譜﹂の旗本金指近藤家の貞用の項が瀬せ戸と村としているが、﹁遠江国風土記伝﹂では祝ほう田だ村とみえる。この相違は両村が隣接していたことによるもので、移転などがあったわけではない。寺伝によると、寛文四年︵一六六四︶近藤貞用の招きで来日した明国の僧独湛の開基で、旗本金指・気賀両近藤家の菩提寺として栄え、この地の黄檗文化の中心であった。ただし﹁遠淡海地志﹂には﹁金指金︵近︶藤家ヨリ百俵、祠堂三百両有﹂と記される。寛文九年全堂宇が落成、七堂伽藍は全体が明国風の様式を備えた貴重な例である。
宝林寺
ほうりんじ
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報