改訂新版 世界大百科事典 「読み書き算盤」の意味・わかりやすい解説
読み書き算盤 (よみかきそろばん)
文字・文章を読むこと,内容を理解して文章を書くこと,および計算すること,ならびにそれらができる能力をもっていること。とくに近世末期以降,初等教育における基本的な教育内容とされ,また初等教育で獲得させる基礎的な能力・学力をいう。読み書き算ともいうが,日本では幕末から明治にかけ,計算は主としてそろばんで行ったので,これを︿読み書きそろばん﹀といってきた。英語では,これに︿スリーアールズ﹀︵読み・書き・算を表すreading,writing,arithmeticの3語にRがあるので,3R'sという︶の語をあてる。また読み書き能力を表す︿リテラシーliteracy﹀の語の定着は1880年代以降であり,このことはその時期から読み書きが万人に必要な基礎能力とみられるようになったことを示している。ただし基礎能力といっても,どこまでの範囲をさすかあいまいである。読めるといった場合でも,内容を確実に理解して正確な発音で読めることもあれば,内容を十分に理解しないまま文字面を追って朗読していることもある。日本で初めて行われた大規模な読み書き能力literacyの調査︵1948︶にあたっては,この概念を︿社会生活を正常に営むのにどうしても必要な最低限度の読み書く能力﹀と定義した。これは学校の期末テストや学力テストのような学習結果の測定ではなく,ある基準にどれだけの人が到達しているかを測定するにあたっての定義であるところに意義がある。算をふくめて読み書きそろばんを基礎能力というときには,ほぼこのような範囲をさすと理解するのがよい。
読み書き能力の獲得は,文字の発明とともに人間の課題となった。口承ではなく,この能力の駆使による文化伝達の方式がどの民族でも優勢になったからだが,文字の知識は,まず特権階級の専有物であった。それが商品経済の勃興や近代科学の発展によって,文字習得のための学習が民衆にとって必須のものとなるまでには,文字の発明から数千年の年月がかかった。この読み書きの普及には紙の大量生産,印刷術の発明・発展が不可欠であった。また読み書きの学習効率向上のため,絵と文字とを結びつける方法がくふうされた。17世紀におけるコメニウスの︽世界図絵︾はその先駆であり,彼の存命中に早くも12ヵ国語に訳されるほど歓迎された。日本でもほぼ同時期に絵入りの︽庭訓往来図讃︾︵1688︶が刊行されていた。近世の民衆学校︵日本では寺子屋︶では読み書きの学習が中心で,地理や歴史の知識も必要なかぎりこの学習によって習得した。日本の場合めだつのは,書くこと︵手習い︶が重視され,勉強即手習いといえるほどであったことである。読み書きについで生活の維持・向上にとって計算能力が要求されるようになり,こうして読み書きそろばんが19世紀中葉以降の初等教育の中心的教育内容となる。
読み書きそろばんの普及が科学の発展をはじめ文明開化に貢献したことは明らかだが,この世界と,生活の知恵や物語を言葉そのまま口から耳へと伝えてきた世界とは,別の世界のようなものである。柳田国男は文字の普及以前には,読み書きのできぬ人がもっと自由に空想力を働かせたのに,紙と文字によって模倣が広がり,人々の思想・感情を型にはめこんだのではないかという︵︽昔話と文学︾︶。ファシズムはそれがゆきつくところまでいった政治理念であり,支配体制であった。読み書きそろばんが人々を鋳型にはめこむのではなく,一人一人に潜在する可能性を引き出し,創造性を育てる役割を果たさせることが必要であり,それを実現できるような教育の確立が求められている。
→識字運動
執筆者‥山住 正己
日本
古代
日本古代での読み書きは,中国大陸や朝鮮半島から渡来した人々やその子孫について,漢字を学習することから始まった。だが漢字は日本語を表記するための文字ではないので,初めのうちは漢字の意味と関係なしに字音だけを借りて日本語の人名や地名など固有名詞を表記し,文章全体は漢文すなわち中国語で表記せざるをえなかった。それでも漢文は中国や朝鮮諸国との外交には役だったから,大和の朝廷とその周辺では,渡来人とその子孫を主として漢字・漢文の学習が続いた。6世紀に仏教が伝わって漢訳仏典の読経や写経が始まり,7世紀には大陸との直接交渉が再開されて留学生が往復するようになると,漢字を使える者が渡来系以外の支配層の間にも広まり,漢字の意味と日本語との対応すなわち訓も普及し始めた。ことに7世紀半ばの大化改新以後,唐の百済・高句麗侵略で発生した難民の日本流入や,白村江の敗戦で捕虜となって外国生活を体験した日本軍兵士たちの帰還は,庶民の階層にまで読み書きを広める条件を用意した。 当時の日本は,唐の圧迫に対抗するためにも急いで強力な中央集権国家つまり律令国家をつくりあげねばならず,その律令国家では漢文で書かれた律令を理解することはもちろん,行政上の命令や報告も口頭でなく文書で行われることになっていたから,漢字を駆使しうるだけでなく四則の演算もできる官人を全国的に必要としていた。この国家的な要請と,庶民の側に用意されていた条件とがあいまって,7世紀末から8世紀にかけて日本の律令国家が急速に形成されたのである。当時の庶民の読み書きや計算の学習に対する意欲は,今日全国的に出土している木簡︵もつかん︶に習字が少なくなく,なかには九九の練習もあることから,かなり広範であったと推測しうる。書物を読む層は限られていたとしても,︽古事記︾︽日本書紀︾︽万葉集︾など日本の古典が8世紀になって出そろうのも,識字層の急速な拡大の証拠である。なお律令国家は大学や国学を設立し,儒教関係の古典や中国の高等数学を学ばせたが,大学や国学の学生となる者は少なく,一般には父兄,親戚,知人や僧侶が教師の役を果たしていた。 漢字を使う層が拡大すると,文字の画数は少ないほうが好まれ,書体も簡略化する。これが片仮名・平仮名の発生と普及の原因であり,仮名書きによって日本語は初めて微妙な表現まで表記できるようになり,10~11世紀には︽源氏物語︾を頂点とする物語群が展開する。貴族の子弟のためにではあるが,︽三宝絵詞︵さんぼうえことば︶︾や︽口遊︵くちずさみ︶︾のような幼学書,︽和名類聚抄︵わみようるいじゆうしよう︶︾のような一種の百科辞書が登場するのもこのころである。そろばんは古代にはまだ渡来していなかったが,乗除算に必要な九九が普及していたことはすでに述べた。 執筆者‥青木 和夫中世
中世の庶民に対する初等教育は,室町時代から戦国時代にかけて徐々に普及していった。中世前期においては王朝国家の貴族・官僚,幕府の官僚機構に属する武士のほかは,僧侶や芸能にたずさわる人々や,国衙などの官僚機構につらなる人々が,その職能に応じて,これらを特殊技能として保持しており,一般の中小武士・庶民における︿読み書きそろばん﹀の普及は低い水準にあった。︽今昔物語集︾の伊豆守小野五友が,この能力を有するものを募って目代に任じた話や,︽吾妻鏡︾に載せられている無双の算術者大輔房源性の話は,これらの能力をもつものが一般的には少なかったことを示している。その後,武士が政治権力に組織化されていくにつれ,また領主としての経営上,たとえば丹波国新見庄の地頭政所に︽庭訓往来︾︿字画﹀︽貞永式目︵御成敗式目︶︾が備えられていたことからも知られるように,これらの能力を身につけるにいたり,室町時代の末には,ほぼ武士のたしなみとなるまでに広まった。上級武士の基礎的な教育は,家庭教育の一環として行われることもあったが,すでに平安時代末に平経正が7歳で仁和寺に入って学んでいることからも知られるように,寺で学ぶことが多く,この形態は室町時代には一般化した。毛利氏の家臣玉木吉保は,13歳のときから安芸の勝楽寺で3年間学んだが,その内容は,第1年目は,いろは・仮名文・漢字の手習い,︽庭訓往来︾などの往来物や︽貞永式目︾︽童子教︾︽実語教︾などの読書,第2年目は,漢字の手習い,︽論語︾︽和漢朗詠集︾などの読書,第3年目は,草行真の手習い,︽万葉集︾︽古今和歌集︾︽源氏物語︾などの読書,和歌・連歌の作法などを学び修了している。ここでは,算術は学ばれていないが,尼子氏の家臣多胡辰敬の家訓には,第1に手習い・学問,第2に弓術,第3に算用の勉学の必要をあげており,これら地方武士においても計算能力が重視されるようになったことが知られる。 室町時代,流通経済の著しい発展にともない商工業者の活動がめざましくなるが,これらの町人たちは,その職業がら計算力はもちろんのこと,識字力も必要となった。奈良で饅頭屋本︽節用集︾が刊行されたのも,その需要にこたえたものであり,この時代,堺の医薬業者の子や,奈良の腹巻屋の子など町人の子弟が寺に入り,手習いなどの学習をする事例は数多くみられる。戦国時代に日本にきて,主として都市部で布教活動をしたキリシタン宣教師も,日本における児童の読み書きの能力を高く評価している。またこの時代,町人層に広く読まれた︽御伽草子︾には九九を使った表現が多くみられ,九九の計算能力が普及していたことが知られる。当時の計算は,一般的には九九のような暗算が広く行われ,むずかしい計算には算木やそろばんが使用されていた。ロドリゲスの︽日本大文典︾には,︵1︶置算・足し算,︵2︶引算または引きそろばん,︵3︶掛算,︵4︶八算または割算,︵5︶見一無頭算,︵6︶商実法の6種が,日本人の使う一般的計算法としてあげられている。 農村に︿読み書きそろばん﹀が浸透し始めたのは,主として14世紀以降,畿内を中心にして自律的共同体としての惣村が成立し,村請制が普及してからである。この村請制によって,村落の指導者である地主層は,請け負った年貢などの課役の村民への配分・徴収,領主との交渉などをみずからの手で行い,これを記録する必要にせまられ,また地主としての経営を独自の計算でなさなければならなくなり,これらの能力を必須のものとする条件が生まれたのである。1574年︵天正2︶豊前の地主元重氏が作成した家訓の第1条には,︿わが家の管理は,将来無筆では万事うまくいかないから,親たる者は子どもが幼少のとき,きびしく手習いを教えよ。そのほか家をたもつ心がけはもちろんのこと,計算をしっかり学ばせよ﹀とある。このような農民の教育もまた,村内の寺または近辺の中小寺院で行われており,狂言︽伊呂波︾︽御伽草子︾︽丹後物狂︾などでは寺の農民教育が素材となっている。その学習は手習いが中心で,教科書としては︿いろは歌﹀,各種の往来物などであった。戦国時代,越前国江良浦の農民たちは,村に︿いろは字﹀さえ教えるものがないという理由で,旅の僧に家を与えてこれを滞在させている。おそらくこの時代,それぞれの村落に村としてこのような能力をもつ必要がたかまり,その学習が行われるようになったものといえる。このようにして,戦国時代から近世初頭にかけて,大庄屋・庄屋などの村落指導者は,ほぼ一般的に,これらの能力を身につけたものと思われ,村請制を前提とした幕藩制の支配システムも,このような状況を基礎に,制度的に成立することができたといえる。 執筆者‥勝俣 鎮夫近世
一般庶民が社会生活のために必要最低限の生活知識や生活技術を習得するのに,︿文字﹀と︿計算﹀の学習を主として行うようになったのは,近世に出現した寺子︵小︶屋の教育である。初歩的な生活技術や実用知識と技能の習得を︿文字﹀や︿計算﹀の能力としてより必要としたのは町人層であったから,読み書きそろばんの教育は町人層に普及していった。︽商人平生記︾にも,町人層では︿身上かるき人も手ならひ算用はいふにおよばず,物よみは少し学びたき物なり﹀といっている。もっとも農民層でもその必要性が認められ,福山藩のように︿農民惣領をは幼少より手習・算用を習らはせ﹀るようにすることを百姓の心得として指示している例がある。しかし,読み書きそろばんの教育は民衆の子弟に与える生活教育として重要な役割を果たしているにもかかわらず,幕府や各藩ともこれを重要視しておらず,領主側では直接の利益をもたらすものとは思っていない。近世国家の支配者たちは,有用なエリート群の養成のためには施設と方法を用意したが,民衆の普通教育に対しては,公共的な見地からこれを統一し,画一化しようとするのに積極的な関心を示さなかったといってよい。このために,これを行う寺子屋に対して,積極的に補助金を与えたり,経営に乗り出すことはほとんどなかった。近世国家のたてまえからいえば,師匠の個人的な教育能力にまかされ,無組織で無系統な存在でもあった。 したがって民衆自身の普通教育は支配者側が準備したものでなく,むしろ民衆の側で用意したものである。読み書きそろばんを教える寺子屋は宝暦期︵1751-64︶ころから増加し,寛政期︵1789-1801︶以降になると,都市はもとより農漁村でも急激に増加している。文政期︵1818-30︶には︿各々その居る処遠からず,僅かに相去ること数町に過ぎざれども,其蒙師︵てらこや︶同じからざる﹀︵︽伊波伝毛乃記︵いわでものき︶︾︶状態であった。これほど増加してくると,寺子屋の師匠の性格が問題とならざるをえない。ことに師匠の需要が多かっただけに,またきわめて簡便にできる職業と考えられただけに,問題も多かった。このように近世後期に寺子屋が普及していたのは,封建社会の解体期にあたって,社会変動の大きな波を予想し,民衆自身や彼らの子どもが時代の変動に耐えうるよう鍛えることの一つとして,読み書きそろばんを学ばせようとしたのだといってよい。民衆が彼らの子どもに現実社会で対応する能力を期待して準備させようとしたものが,読み書きそろばんであり,人間的成長を遂げ,知的発達と人格的発達をも結びつけるものでもあった。しかし幕末維新期という時代の変動を迎えて,読み書きそろばんだけの教育では,日々の生活を送るに十分な能力とはいいがたい状況が生まれる。 執筆者‥津田 秀夫近代
読み書きそろばんの能力は民衆にとって日常生活に必要であっただけでなく,幕末には年貢・村費をめぐる領主や村役人の不正を見抜く力でもあり,これが百姓一揆多発の原因にもなっていた。近代に入り欧米に追いつくため,近代化・工業化をすすめるにあたり,為政者は生産や軍事の担い手である民衆を文盲状態にとどめておくことはできず,学校体系をととのえて読み書きそろばんの基礎能力だけはすべての子どもに習得させようと努めた。1872年︵明治5︶︿学制﹀公布直後に出され,実際に小学校教育の内容を規定した文部省布達︿小学教則﹀では,入門期,第1学年前半の教科は,修身口授︵ぎょうぎのさとし︶のほかは綴字︵かなつかい︶,習字︵てならい︶,単語読方︵ことばのよみかた︶,単語諳誦︵ことばのそらよみ︶,洋法算術︵さんよう︶であり,すべて読み書きそろばんに関するものであった。科学技術振興のため,政府としては自然科学関係の教育にも力を入れなければならなかったが,民衆の要求はなによりも読み書きそろばんであり,しかも︿算﹀については西洋式の洋算をとりいれ,石盤を使って筆算を教えようとしたのだが,それを教えることのできる教師が少なかったこともあり,さらにここにも父母の要望があってそろばんの教授が多かった。まさに読み書きそろばんだったのである。1880年代以降,天皇制教育確立に向け修身教育が重視され始め,︿読み﹀の教材に教育勅語の精神に立つ教訓的なものが増した。一方,︿算﹀では洋算に切り替えたものの,︿三千題流﹀と称し多数の練習問題に取り組ませるにとどまり,教授法のくふうはみられなかった。 20世紀に入って間もなく,これらの教育も国定教科書によってすすめられることになった。国定本になったとき,いかなる文体を採用すべきかが問題となった。︿学制﹀以降,大多数の教科書は文語体が採用されていたが,1891年の小学校教則大綱では,普通の言語や︿日常須知﹀の文字・文句・文章の読み書きの必要が説かれ,一方,文学や児童文学における言文一致の運動に目をふさぐことはできなかった。最初の国定国語教科書編纂にあたって文部省は口語体を多くするとしたが,同時に東京の︿中流社会﹀で行われているものをもって国語の基準にすると定められ,これが︿標準語﹀とされるようになる。多くの地方の子どもにとってふだん話し聞く言葉とこの︿標準語﹀とはくいちがっていたが,やがて科学論文や文学作品を読めるようになるには,︿標準語﹀の読み書きを学ばなければならなかった。また子どもが読み書き能力を習得するうえで大きな負担となっていたのは,難しい字体の漢字をたくさん使い,仮名づかいが発音からかけ離れていたことである。最初の国定国語教科書では︿絲﹀を︿糸﹀,︿蠶﹀を︿蚕﹀と簡略化し,また漢字数を制限したが,たちまち,そのような方式をとると歴代天皇の詔勅が読めなくなると憂えた天皇主義者たちから非難が起こって,元にもどされるという一幕があった。︿算﹀の方は入学試験がきびしくなるとともに,試験問題として難問・奇問が出され,選別の具にされることが繰り返された。 第2次大戦後,占領下の教育改革による︿新教育﹀で読み書きそろばんの系統的な教授が軽視されたのに対して,これらは基礎学力であり初歩から系統立てて教授するのが学校の基本的な役割であると考える立場から強い批判があった。また多くの父母も読み書きそろばんこそ学校でしっかり教えてほしいと要望し,1950年代後半から系統的な教育が復活・強化された。ただし,読み書きそろばんの教育には長年の伝統があり,その内容や方法をとくに研究しなくても教えることができるとの安易な考えが根強かった。これに対して同じく50年代後半以降,子どもの認識の発達と言語学・数学など教科の基礎にある諸科学の研究成果に依拠して,教育方法の研究がすすめられるようになった。たとえば計算については数学教育協議会︵委員長,遠山啓︶が複雑な計算過程をもっとも単純な計算過程に分解し,それを結合してもっとも典型的な複合過程をつくり,そこからしだいに典型的ではない複合過程に及ぼしていくという計算指導の方式︵︿水道方式﹀と呼ぶ︶をつくりあげ,子どもと教師に歓迎された。読み書きそろばんは基礎学力であるという一句に安住せず,読み書きそろばんのうち何がもっとも重要な内容であり,それをどう教えるのがよいかについては不断の研究が必要である。 執筆者‥山住 正己中国
古代・中世
古代における知識人の基礎的な教養は,礼・楽・射・御・書・数にまとめられる6種の技芸,いわゆる︿六芸︵りくげい︶﹀であった。そのうち︿書﹀は文字の読み書きを,︿数﹀は算数を意味する。︽礼記︾内則篇では,男の子が6歳になると数と方角の名を教え,9歳になると日のかぞえかたを教え,10歳になると家庭をはなれて︿書計﹀すなわち読み書きと計算を学び,以後,13歳で︿楽﹀︵音楽︶,15歳以上で︿射御﹀︵弓射と車馬を御する術︶,20歳で︿礼﹀を学ぶという。また︽漢書︾食貨志にみえる古代の教育方法では,︿8歳で小学に入り,六甲五方書計の事を学ぶ﹀という。六甲とは日のかぞえかたの基本となる干支,五方とは東西南北と中央の方角のことである。 児童教育の機関としては,家塾をはじめ,500戸単位の党と呼ばれる集落に︿庠︵しよう︶﹀,1万2500戸単位の術︵すい︶と呼ばれる集落に︿序﹀が設けられたなどといわれるけれども,詳しいことはわからない。時代がくだって,後漢の王充が8歳のときに入学した︿書館﹀には100人以上の児童が在籍しており,簡単な読み書きが教えられた。王充はそこを終えるとあらためて先生について︽論語︾と︽書経︾を学び,1日に1000字の暗誦に努めたというが,おなじく後漢の邴原︵へいげん︶が11歳以後に学んだ︿書舎﹀ではすでに︽孝経︾と︽論語︾の暗誦が行われていた。後世にいたるまで,︽孝経︾と︽論語︾はおよそ文字を解するものならばだれしも最初に読みかつ暗誦すべきであるとされた書物である。とりわけ︽論語︾はそうであって,杜甫が︿小児の学問は止︵た︶だ論語,大児は結束して商旅に随う﹀とうたっているのは,8世紀中葉,三峡にのぞむ田舎町における庶民教育の一端を伝える。さらに意欲のあるものは,︽孝経︾と︽論語︾のつぎに経書の学習にすすむのが一般であった。たとえば魏の鍾会︵しようかい︶は母親から4歳で︽孝経︾,7歳で︽論語︾,8歳で︽詩経︾,10歳で︽書経︾,11歳で︽易経︾,12歳で︽左伝︾と︽国語︾,13歳で︽周礼︵しゆらい︶︾と︽礼記︾を教わり,15歳のときに太学に入学してからその他の書物を渉猟したという。近世以降
古い時代の児童教育についてはごくわずかのことが知られるにすぎないが,およそ宋代から清末にいたる期間のあらましはつぎのようであった。裕福な家庭では家庭教師が招かれたが,一般的には6,7歳前後で塾に入った。もっとも,塾に入ることができたのは,農村では小地主や富農の子どもたちであり,都会では中流の商人の子どもたちであった。地方によって奇数の年齢で塾に入る風習が存在したのは,男子は偶数をいみ,女子は奇数をいむからだといわれ,このことは女子が教育の埒外におかれていたことをはしなくもものがたっている。北斉の李絵が6歳で塾にすすむことを強く希望しながら家族に反対されたというのは,はやい時代におけるこの風習の存在を伝えるものであり,魯迅もおなじ理由から7歳で塾にすすんだ。 塾の教科は︿識字﹀︿読書﹀︿習字﹀︿対句︵ついく︶﹀︿算数﹀の五つに分かれるが,塾教育も科挙試験のための基礎過程とみなされることを免れず,そのため教科の内容にも一定の方向性が与えられた。︿識字﹀の方法としては,まず方形のカードに楷書で書かれた文字を約1000字おぼえることから始め,つづいて書物にでてくる新しい文字を朱筆でしるしをつけるか欄外にぬきだしておぼえる。ただし識字の過程は入塾以前に家庭においてすでに終えている場合が少なくなかった。 ︿読書﹀では声をはりあげて書物を朗読し,最終的には暗誦できるようになることが要求された。また文字の意味についての簡単な講釈も行われた。児童教育のための書物としては,漢代にも︽凡将篇︾や︽急就章︵きゆうしゆうしよう︶︾︵︽急就篇︾︶などが存在し,また唐代には︽千字文︾や︽開蒙要訓︾などが行われたが,しだいに︽三字経︾︽百家姓︾︽千字文︾が用いられるように定まり,児童用の教科書はひっくるめて︿村書﹀とも呼ばれた。いずれも3字ないし4字で1句をなし,かつ韻をふみ,暗誦しやすいようにつくられている。また唐の李瀚︵りかん︶が古人の事跡をやはり4字1句,合計596句の韻語にまとめた︽蒙求︵もうぎゆう︶︾も唐代以後さかんに行われ,少なくとも元代にはまだ流行をきわめていた。これらの書物を終えると,ついで五言詩56首をあつめた︽神童詩︾,七言詩100余首をあつめた︽千家詩︾,ならびに︽唐詩選︾などの詩集類,また四書五経および︽孝経︾の経書類,︽綱鑑︾と︽鑑略︾の史書類にすすむ。そのほか一般的な故事を知り常識を得るための百科事典ともいうべき︽幼学瓊林︵ようがくけいりん︶︾が存在した。ちなみに識字の過程を家庭ですませていた胡適の場合,入塾後には︽三字経︾︽百家姓︾︽神童詩︾はとばして,︽孝経︾,朱子の︽小学︾,︽論語︾︽孟子︾︽大学︾︽中庸︾︽詩経︾︽書経︾︽易経︾︽礼記︾の順序で読みすすみ,とりわけ︽幼学瓊林︾に興味をもったという︵︽四十自述︾︶。︽幼学瓊林︾の先蹤とみなすべき書物としては,中唐時代につくられたと推察される︽雑抄︵ざつしよう︶︾が敦煌写本の一つとして伝わっている。それは日常に使用される文字を教えるほか,中国の歴史,地理,制度,文物,民間儀礼,作法などに関する常識を提供し,日本の︿節用集﹀に類似するが,その写本に書きそえられている識語から,寺院内に設けられた塾の生徒が書写し,暗誦に努めたことが判明する。 さて︿習字﹀の教科は︿読書﹀についで重視され,識字のたすけとなることをねらいとして行われた。大きな文字を筆画正しく書くことから始めて小さな文字にうつり,やがて碑帖の臨摹︵りんも︶にすすんだ。︿対句﹀は中国の詩文の基本であるとともに,科挙試験で用いられた︿八股文︵はつこぶん︶﹀は厳密な対句が要求される文体であったため,いきおい重視されたのである。一字対から始めて二字対,三字対とすすみ,五字対ないし七字対となれば自然に五言詩ないし七言詩の1句となるわけである。たとえば︿虎﹀に対して︿竜﹀,︿猛虎﹀に対して︿神竜﹀とこたえ,さいごに︿奇威降猛虎﹀︵奇威もて猛虎を降︵くだ︶す︶に対して︿異術豢神竜﹀︵異術もて神竜を豢︵やしな︶う︶とこたえるといったぐあいである。さいごの︿算数﹀はがんらい六芸の一つにかぞえられたにもかかわらず,すこぶる軽視されたといわざるをえない。算数を教える塾がきわめてまれであったのは,科挙に不要とされたことを原因とするとともに,そもそもプラクティカルなものがとかく軽視されがちであった中国の学問のありかたそれ自体の問題でもあろう。 ともかく,それぞれの塾においては,昼食の帰宅時間をのぞいて,以上の教科が午前と午後に適当にあんばいして行われた。魯迅の︽朝花夕拾︵ちようかせきしゆう︶︾に幼年期のほろにがい思い出としてかたられている︿三味書屋﹀は,清末の紹興に存在したそのような塾の一つであった。 執筆者‥吉川 忠夫ヨーロッパ
ヨーロッパにおける母国語の読み書きそろばんの普及は,都市の発達,金属活字印刷術の発明,国語の統一などの諸条件がそろう16世紀以後,おもにキリスト教会によって推進された。そして国家が徐々に積極的に関与し始め,19世紀末までに,各国で国家の主導の下に初等教育の義務化ならびに無償化が実現されるに及んで,読み書きそろばんは国民のほとんどすべてに広まるのである。中世~ルネサンス
中世の文字教養は主としてラテン語に基づくものであり,ごく少数の人々に独占されていた。中世初期に出現した修道院学校,大聖堂学校,司祭学校などのキリスト教学校は修道僧と在俗僧の養成を,カロリング・ルネサンス期の宮廷学校は文芸研究の振興を,その後に生まれた中世の大学は神学者,法律家といった専門家の養成を目的とした。一方,王侯をふくめ大多数の人々は方言を媒体とする口承文化のなかに生き,キリスト教化も,もっぱら教会の彫刻や壁画を通じて行われていたのである。しかし中世末期に商工業が発達するにつれて,イタリアやドイツの先進商業都市には商人たちに母国語の読み書きとそろばんを教授する私塾が生まれた。また,王権が伸張しつつあった国では国語が統一化に向かい,フランスではパリ地方の方言であったフランス語が普及し始めた。 イタリアを起点としてヨーロッパ諸国に伝播したルネサンス︵文芸復興︶の運動は,学者によるギリシア・ラテンの古典研究を活発にさせると同時に,イタリア,フランス,ドイツ,イギリスにおのおの宮廷学校,コレージュ,ギムナジウム,ラテン文法学校︵グラマー・スクール︶の開設を促した。それらはキリスト教教育と古典教育とに基づく人間教育をめざし,おりから国家機構の整備にともなって増加した官僚の養成所として機能したのである。しかし,これらの施設はあくまでも一部のエリートのための︿ラテン語教育﹀の機関であって,民衆レベルでの読み書きそろばんの普及に貢献するものではなかった。また,15世紀中葉J.グーテンベルクによって金属活字印刷術が発明され,ヨーロッパの各地に続々と印刷工房が生まれたが,手写本と比較してはるかに安価に製作された印刷本にしても,当初は教会や学者・学生を対象にしたもので,その大半は民衆の日常生活とは無縁のラテン語書で占められていた。 →ラテン語教育16~18世紀
民衆の読み書きそろばんの歴史において著しく貢献したのは,宗教改革以後のプロテスタント教会とカトリック教会である。プロテスタント教会は聖書の理解に基づく個人的信仰の確立をめざし,聖書の母国語への翻訳を行い,これを読ませるために民衆教育の普及に積極的に取り組んだ。ドイツでは,すでに中世末期に存在していた都市の世俗のドイツ語学校に宗教教育の機関としての性格を付与しつつ,それらを増加させていった。プロテスタント圏の他の諸国でも同様に国語学校が発達した。各地の印刷工房は今や宗教改革に奉仕し,母国語の聖書や教理問答集を大量に印刷するとともに,間接的に民衆の読み書きの能力の向上に寄与した。一方,カトリック教会も,宗教改革派に対抗するためにトリエント公会議で内部改革の必要性と教育の重要性を確認した。フランスでは中世の大聖堂学校から派生した初等学校である都市の小教区学校に対するコントロールを強化し,国内の農民は依然として異教徒であるとの認識に立って農村地帯での小学校の開設にも努めた。以上の学校は子どもの父兄または住民の負担によって運営されていたが,17世紀後半にはプロテスタント圏,カトリック圏を問わず多くの都市に,宗教団体が集めた寄付金や慈善家が提供した基金によって維持される無料の慈善学校が登場する。イギリスでは1698年に︿キリスト教知識普及協会Society for Promoting Christian Knowledge﹀が創設され,慈善学校設立運動をすすめた。フランスでも,非行を防止するために貧しい子どもたちを収容し,キリスト教教育や道徳教育とともに読み書きそろばんを教える慈善学校が設けられ,︿キリスト教学校兄弟団Frères de l'Ecole Chrétienne﹀のメンバーが全国に派遣されて,この種の施設で教授した。イギリスには,これらの慈善学校に加えて,早くも17世紀から学校兼工場である労働学校まで現れた。 ところで,これらの学校で読み書きそろばんがどのように教授されていたかを,フランスの例で見よう。読み方の学習は,まずラテン語で文字,音節,文の読み方を学び,そのあとでフランス語の読み方に移行するというもので,読本のテキストはラテン語で書かれた旧約聖書の︽詩篇︾と,キリスト教道徳の盛られたフランス語の礼儀作法集であった。活字本が正しく読めるようになると,つぎは手書きのテキストの解読で,級友の書いたものから始まって証書類や帳簿で終わる。このように読み方の学習をラテン語からフランス語へとすすめるのが一般的であったが,︿キリスト教学校兄弟団﹀はこれを逆転させ,フランス語から始める方式を採った。読み方のあとは書き方の番で,生徒が持参した紙を教師が一括管理し,紙の上方に手本を書いて生徒に配り,生徒が手本の下方に文字を書いて練習するというものである。さまざまな書体のABCの書き方から始まり,つぎに証文,領収書の模倣,最後に正字法,書取りへとすすむ。読み書きの学習において特徴的な点は,読みと書きが完全に分離していたことで,ちなみに両者が同時に学ばれるようになるのは,19世紀の王政復古時代からである。そろばんの学習は,正字法の学習と並行して,または後者が終了した時点で行われた。勘定札を線の上に並べて加減を学び,より複雑な乗除は筆算に頼るというのが通常の学び方であったが,18世紀には四則のすべてについて筆算が一般化した。四則計算のあと,生徒は価格の計算や貨幣の換算などの応用問題へとすすんだ。以上が読み書きそろばんの学び方であるが,これらの全課程を修了する子どもはまれであったと思われる。 つぎに,当時の人々の読み書きそろばんの能力の実態を,同じくフランスの例で見ることにしよう。そろばんに関しては,すでに述べたようにそれがカリキュラムの最後に置かれていたことや,計算の労をはぶいてくれる計算表が大量に出回っていたことから,かなり低いものであったと推測される。読み書きも正確なことはわからないが,結婚に際して署名できた配偶者の比率は,全国平均で17世紀末男28%,女14%,大革命前夜男48%,女27%であった。地域別ではフランスの北部および北東部に高い署名率がみられ,階層・職業別では貴族,役人,自由業,商店主,工房の親方,富農の署名率は工場労働者,日雇労務者,貧農のそれを大幅に上回っていた。署名率はそのまま識字率を意味するものではないが,18世紀末までに文盲がかなり減少したことは,ほぼ確実である。18世紀に,廉価本をふくめて出版物の生産量が増加したことも,この事実を裏づけている。19~20世紀
各国で国家が民衆教育の問題に取り組み,その普及に努める。すでに18世紀に国家が教会との協力のもとに小学校教育の義務化を推進していたプロイセンは,19世紀に国家統制を強めた。フランスでも18世紀後半,教会批判が激化し,文化が世俗化へと向かった結果,さまざまな公教育の構想が生まれた。これらの構想は,各市町村に最小限1校の小学校の開設を規定した1833年のギゾー法,そして小学校の無償化,義務化,非宗派化を確立した1881-82年のフェリー法によって実現した。他国に先がけて産業革命が起こり,子ども労働が貴重とされたイギリスでは,民衆教育の是非をめぐる論争のなかで,効率的な教授法であったベル=ランカスター方式の普及などによって民衆教育が発達した。しかし,この国では教会が強力であったために教育制度の国家的統一が遅れた。20世紀初頭の各国の非識字率は,ドイツ,スイスで1%以下,フランスで3.5%,イギリスで14%,イタリアで30%となっており,国民の大多数に読み書きそろばんが普及した。 →学校 執筆者‥長谷川 輝夫出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報