デジタル大辞泉
「五山」の意味・読み・例文・類語
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ご‐さん【五山】
(一)〘 名詞 〙 ( 後世﹁ござん﹂とも ) ある寺格をもった五つの大きな寺。
(二)① インドで、祇園精舎、竹林精舎、大林精舎、鹿園精舎、那爛陀寺をいう。︹ロドリゲス日本大文典︵1604‐08︶︺
(三)② 中国、宋代、径山(きんざん)寺、広利寺、天童景徳寺、霊隠(りんにん)寺、浄慈(じんず)寺をいう。
(四)③ 日本、中世の禅宗官寺制度での寺格の一つ。十刹、諸山の上に位置する最高の寺格。原則として幕府が公帖(こうじょう)を発行して住持を任命した。京都五山と鎌倉五山があり、五山位にあった諸寺は、時期によって多少の異同があるが、将軍足利義満の代の至徳三年︵一三八六︶の制度では、京都五山として、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺があり、鎌倉五山として、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺があった。五岳。
(一)[初出の実例]﹁山門寺門の貫主、宗を改めて衣鉢を持ち、五山十刹の長老も風を顧みて吹挙(すいきょ)を臨む﹂(出典‥太平記︵14C後︶二六)
(五)④ 五つの尼寺。京都尼寺では、景愛寺、護念寺、檀林寺、恵林寺、通玄寺をいい、鎌倉尼寺では、太平寺、東慶寺、国恩寺、護法寺、禅明寺をいう。
(一)[初出の実例]﹁比丘尼五山次第、御相伴諸老、以聯判可被申之由被仰出﹂(出典‥蔭凉軒日録‐永享八年︵1436︶七月六日)
五山の語誌
日本の五山の制が準拠した中国の五山は、インドの五精舎にならったとされ、南宋の寧宗のとき、禅宗で最上位の五官寺として定められた。日本では、鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇によって、大徳寺、南禅寺の寺格を五山第一とすることにはじまる五山制度の方針が示されたが、五山の制を明確化、具体化したのは室町幕府であった。また、④の尼寺の五山の制定は、足利義満によって始められた。
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五山
ござん
禅宗寺院で最上の寺格を示す五つの官寺(政府が住持を任命する寺)。十刹(じっせつ)の上に位置する。中国・南宋(なんそう)代に、政府が特別の保護を与え管理するために設けられたのが始まりで、政治家史彌遠(しびえん)の奏上により、インドの五精舎(しょうじゃ)に倣って行われた。すなわち、(1)径山(きんざん)興聖(こうしょう)万寿寺、(2)北山景徳霊隠(りんにん)寺、(3)太白山(たいはくさん)天童景徳寺、(4)南山浄慈(じんず)報恩光孝寺、(5)阿育王山(あいくおうさん)広利(こうり)寺の5か寺で、それらを官寺の最上位とした。日本では1253年(建長5)建長寺を「五山第一」と称したのが五山の語の初出で、鎌倉中心に制定された形跡があるが、どの寺が五山に列せられていたかの確証はない。建武(けんむ)年間(1334~38)、第一南禅寺(大徳寺と同格)、第二東福寺、第三建仁寺、第四建長寺、第五円覚(えんがく)寺と、京都中心に制定されたのが、五山全部の名前の判明する最初のものである。足利尊氏(あしかがたかうじ)が政権を握り室町幕府が成立すると、京都派と鎌倉派、公家(くげ)派と武家派の対立緩和を目ざし、暦応(りゃくおう)年間(1338~42)、京・鎌倉の諸寺を、第一建長・南禅、第二円覚(えんがく)・天竜、第三寿福、第四建仁、第五東福、準五山浄妙と定めた。ここに五大官寺という五山本来の意味が失われ、最高位の官寺のなかにおける5段階の寺格という意味に転化した。以後しばしば五山の選択・位次の改定が行われたが、1386年(元中3・至徳3)、最終的に、五山之上南禅寺、五山第一天竜寺・建長寺、五山第二相国(しょうこく)寺・円覚寺、五山第三建仁寺・寿福寺、五山第四東福寺・浄智(じょうち)寺、五山第五万寿寺・浄妙寺という、京・鎌倉対等の各五山の位次が確定した。
一方、五山の語は広義には、五山・十刹・諸山という禅宗官寺に住持を出しうる資格をもつ禅宗各派の総称として用いられる。それは林下(りんか)に対して五山派あるいは五山叢林(そうりん)(単に叢林ともいう)などとよばれるもので、夢窓(むそう)派と聖一(しょういち)派がその主軸となって、官寺の止住、幕府の文化・外交の顧問として機能した。また五山派は日本漢文学史上きわめて重要な足跡を残し、五山文学を大成させ、近世儒学の母胎ともなった。さらに五山版と称される多数の出版物を開版するなど、五山禅僧によって形成された諸文化は、衣食住一般の文化にも多大な影響を与えた。
[石川力山]
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五山【ござん】
禅宗の臨済宗で最高の寺格を示す代表的寺院の称。中国では南宋の寧宗(ねいそう)がインドの五精舎(しょうじゃ)にならって,13世紀初頭,杭州・明州地方に定めた,1.杭州臨安府径山(きんざん)興聖万寿禅寺,2.杭州臨安府北山景徳霊隠禅寺,3.明州慶元府太白山天童景徳禅寺,4.杭州臨安府南山浄慈報恩光孝禅寺,5.明州慶元府阿育王山広利禅寺の5山である。日本ではこれにならって1251年鎌倉五山の制が定められ,1334年改めて京都五山,さらに1386年京都五山,鎌倉(関東)五山の制が定められた。
→関連項目官寺|義堂周信|五山版|五山文学|御料所|春屋妙葩|抄物|絶海中津|大徳寺|藤原惺窩|仏教
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五山
ござん
禅の臨済宗において最高の格式をもつ5つの寺院のこと。インドの五精舎にならって中国,南宋の寧宗が建立した,興聖万寿禅寺以下景福霊隠寺,浄慈寺,景徳寺,広利寺の5寺。日本では,建長3 (1251) 年に鎌倉五山が制定されたが,鎌倉幕府の滅亡により,鎌倉中心の五山をやめ,建武1=正慶2 (1334) 年には,京都中心の五山が定められた。すなわち,南禅寺,建仁寺,東福寺,建長寺,円覚寺である。さらに元中3=至徳3 (86) 年に京都,鎌倉 (関東) 五山の制が定められた。それは五山の上に南禅寺をおき,以下次のような寺格となっている。天竜寺,建長寺 (五山第1) ,相国寺,円覚寺 (第2) ,建仁寺,寿福寺 (第3) ,東福寺,浄智寺 (第4) ,万寿寺,浄妙寺 (第5) 。五山文学,五山版などは中世文化の中心として宋学発展の温床となったが,室町幕府とともに衰えた。ほかにも,尼五山の制が定められた。
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五山
ござん
南宋の制にならった禅宗寺院の寺格。鎌倉幕府により始められたが,建武新政権は鎌倉中心の五山を改め,南禅寺を第1とし大徳寺を同格として建仁寺・東福寺などを加えた。室町幕府は1342年(康永元・興国3)第1を建長寺・南禅寺,第2を円覚寺・天竜寺,第3を寿福寺,第4を建仁寺,第5を東福寺と定めたが,86年(至徳3・元中3)南禅寺を五山の上に昇格させ,第1を天竜寺・建長寺,第2を相国寺・円覚寺,第3を建仁寺・寿福寺,第4を東福寺・浄智寺,第5を万寿寺・浄妙寺とし,これが以後の基準となった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
普及版 字通
「五山」の読み・字形・画数・意味
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五山
鎌倉五山▽建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺
京都五山▽天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺
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世界大百科事典(旧版)内の五山の言及
【五山・十刹・諸山】より
…禅林(禅宗寺院)の官寺制度における3段階からなる寺格で,五山を最高位とする。官僚階級との接近をみた中国宋代の禅林は,一般社会の官僚機構を禅林運営に導入して官寺制度を確立し,インドの五精舎・十塔所にちなんだといわれる五山・十刹は南宋代に設定された。…
【精舎】より
…釈迦が主として説法した五つの僧院たる祇樹給孤独園︵ぎじゆぎつこどくおん︶精舎,鷲嶺︵じゆれい︶精舎,獼猴江︵みこうこう︶精舎,菴羅樹園︵あんらじゆおん︶精舎,竹林精舎を天竺五精舎といい,なかでも須達︵しゆだつ︶長者が舎衛城の南にたてた祇樹給孤独園精舎は,祇園精舎の略称で,日本の文学でも親しく用いられた。中国や日本における五山の制は,天竺五精舎にならったものである。[ビハーラ]︻礪波 護︼。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」