木戸孝允(読み)キドタカヨシ

デジタル大辞泉 「木戸孝允」の意味・読み・例文・類語

きど‐たかよし【木戸孝允】

 
18331877  


きど‐こういん〔‐カウイン〕【木戸孝允】

きどたかよし(木戸孝允)

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精選版 日本国語大辞典 「木戸孝允」の意味・読み・例文・類語

きど‐たかよし【木戸孝允】

 

(一)
 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「木戸孝允」の意味・わかりやすい解説

木戸孝允
きどたかよし
(1833―1877)


()西()()46267()()1865118492()18585()()()()()18641()()()1866

 ()()()()187031871使()使()1873西退()1874退西10526

 ()



2192752005 

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百科事典マイペディア 「木戸孝允」の意味・わかりやすい解説

木戸孝允【きどたかよし】

 
西71862()1871使使1
 

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改訂新版 世界大百科事典 「木戸孝允」の意味・わかりやすい解説

木戸孝允 (きどたかよし)
生没年:1833-77(天保4-明治10)


西1849252601西641退6622西

 68169使707071西使使使73西674西75調76退77西5

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朝日日本歴史人物事典 「木戸孝允」の解説

木戸孝允

 
10.5.26(1877)
4.6.26(1833.8.11)
,,,竿()()11(1840)2(1849)5,1(1860),,,,,3(1863)818,,,,,()1(1865),,1,西3,,西 1(1868)1,,,236,47,,11使使676,7,8,10,西西,,<参考文献>  
()
 

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「木戸孝允」の意味・わかりやすい解説

木戸孝允
きどたかよし

 
[]4(1833).6.26. 
[]1877.5.26. 
西721849518522186621869418714使使  

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「木戸孝允」の解説

木戸 孝允
キド タカヨシ

 








= ( ) =  = = 



4626(1833)



()



西34使使西7819退西歿(3)(8)



10526



= () = () = ()


 

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「木戸孝允」の解説

木戸孝允 きど-たかよし

1833-1877 幕末-明治時代の政治家。
天保(てんぽう)4年6月26日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩医和田昌景の次男。桂(かつら)孝古の養子。嘉永(かえい)2年吉田松陰の松下村塾にはいる。のち江戸に遊学する。小五郎と称し,新堀松輔の変名もつかった。慶応元年木戸と改姓。西郷隆盛と薩長(さっちょう)同盟をむすび,倒幕をはかる。明治新政府の中枢にあって,「五箇条の誓文」の起草,版籍奉還,廃藩置県を主導した。明治3年参議となり,4年岩倉遣外使節団の全権副使。内政重視の立場から征韓論に反対,台湾出兵にも反対して,独裁をつよめる大久保利通(としみち)と対立,政権の主流からはなれた。西南戦争のさなかの明治10年5月26日病死。45歳。号は松菊(しょうぎく),木圭など。
【格言など】西郷,もうたいていにせんか(末期の言葉)

木戸孝允 きど-こういん

きど-たかよし

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「木戸孝允」の解説

木戸孝允
きどたかよし

1833.6.26~77.5.26

幕末期の萩藩士,明治期の政治家。本姓和田,旧名桂小五郎,号は松菊。吉田松陰に兄事し,江戸の斎藤弥九郎道場に学ぶ。萩藩の尊攘派を指導する一方,藩外の開明派とも親しく,8月18日の政変後も京都で萩藩の孤立回避に努めたが,禁門の変後但馬出石(いずし)に逃れた。1866年(慶応2)西郷隆盛らと薩長連合を密約,翌年秋に西郷・大久保利通と倒幕出兵を策した。維新後参与をへて70年(明治3)参議となる。長州閥・開明派の巨頭として版籍奉還・廃藩置県など一連の改革にあたり,岩倉遣外使節団には全権副使として参加。明治6年の政変では内治優先論をとった。翌年台湾出兵に抗議して下野,75年大阪会議で立憲制導入を条件に参議に復帰。しかし大久保への権力集中は改まらず,翌年参議を辞任した。

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防府市歴史用語集 「木戸孝允」の解説

木戸孝允

 
 11西  

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旺文社日本史事典 三訂版 「木戸孝允」の解説

木戸孝允
きどたかよし

 
183377

1871使使西'75  

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世界大百科事典(旧版)内の木戸孝允の言及

【岩倉使節団】より

…その目的は,(1)幕末に条約を結んだ国への新政府による国書の奉呈,(2)上記条約改正への予備交渉,(3)米欧各国の近代的制度・文物の調査・研究であったが,(2)の問題では成功せず,もっぱら(1)と(3)を主として遂行した。使節団の首脳は,右大臣岩倉(公卿,47歳――出発当時の数え年,以下同)のほか副使に参議木戸孝允(山口,39歳),大蔵卿大久保利通(鹿児島,42歳),工部大輔伊藤博文(山口,31歳),外務少輔山口尚芳(なおよし)(佐賀,33歳)がなり,各省派遣の専門官である理事官や書記官など総勢50名に近い大使節団であった。これまで一般的には《日本外交文書》第4巻所収の〈各国使節一行名前書〉により48名とされているが(51名説もある),出発間際まで発令の変更・取消しなどあり,メンバーの入れかわりもかなりある。…

【大阪会議】より

…1875年1月から2月に,大阪で開かれた政府指導層間の会談。征韓論による政府内部の対立のため,西郷隆盛,板垣退助らが下野し,次いで参議木戸孝允も台湾出兵などに反対してその職を辞した。こうして〈有司専制〉支配を固めて,政権の土台を確立しようとしていた参議・内務卿大久保利通の地位は孤立した。…

※「木戸孝允」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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