松浦党(読み)マツラトウ

デジタル大辞泉 「松浦党」の意味・読み・例文・類語

まつら‐とう〔‐タウ〕【松浦党】

 
西  

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精選版 日本国語大辞典 「松浦党」の意味・読み・例文・類語

まつら‐とう‥タウ【松浦党】

 

(一)貿
 

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改訂新版 世界大百科事典 「松浦党」の意味・わかりやすい解説

松浦党 (まつらとう)


西10691貿貿

 1185調

 貿貿貿
 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「松浦党」の意味・わかりやすい解説

松浦党
まつらとう

肥前(ひぜん)国松浦(まつら)地方(佐賀・長崎両県の玄界灘(げんかいなだ)に面する海岸地方)に割拠した弱小武士団に対する呼称。平安時代以来、嵯峨(さが)源氏の子孫と称する一族が土着し、名前に一字名を用いた。初めは宇野御厨(うののみくりや)の贄人(にえびと)として活動していたが、平安時代末期には武士化して、水軍的性格を有する武士団に発展した。しばしば朝鮮沿岸を侵す海賊の常習者とみられ、多分に蔑視(べっし)の意味を込めて松浦党と称された。これら松浦党は複雑な海岸線の各地に割拠し、一族を統率する惣領(そうりょう)的存在は認められない。鎌倉幕府成立後は、割拠する所領を安堵(あんど)されて御家人(ごけにん)となった。鎌倉時代には一族的団結を図る動きは希薄であったが、南北朝時代以後は、一族として共同の行動を意図して、一揆契諾(いっきけいだく)を結ぶ動きが活発となった。この一揆契諾には一族のみならず、他氏族の住人も参加しており、地域連合的性格を有していた。中世武士団の党的形態として多くの研究がある。

[瀬野精一郎]

『長沼賢海著『松浦党の研究』(1957・九州大学国史研究室)』『瀬野精一郎著『鎮西御家人の研究』(1975・吉川弘文館)』『真島節朗著『海と周辺国に向き合う日本人の歴史――飛鳥の将軍・阿倍比羅夫/中世の海と松浦島』(2003・郁朋社)』

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百科事典マイペディア 「松浦党」の意味・わかりやすい解説

松浦党【まつらとう】

 
西1185()()()()()  

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松浦党」の意味・わかりやすい解説

松浦党
まつらとう

鎌倉~室町時代に肥前国松浦4郡を中心に割拠した武士集団の共和的連合組織。平安時代から水軍海賊として活躍したが,のち鎌倉御家人となった者も多い。南北朝時代には松浦一族以外の他氏族をも含めた地域的一揆結合を行い,室町時代以後には,党規のもとに団結を強めていった。斑島・佐志・波多・有浦・値賀石志・相知・大川野氏などから成る上松浦郡を中心とした上松浦党と,青方・宇久・平戸・大島・志自岐・中村・早田・山代氏などから成る下松浦郡を中心とした下松浦党に大別される。 (→ , 松浦氏 )  

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世界大百科事典(旧版)内の松浦党の言及

【壱岐島】より


1383(33)31

【宇野御厨】より


1292(5)300

【肥前国】より


 7410沿沿

※「松浦党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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