植村正久(読み)ウエムラマサヒサ

デジタル大辞泉 「植村正久」の意味・読み・例文・類語

うえむら‐まさひさ〔うゑむら‐〕【植村正久】

 
18581925  

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精選版 日本国語大辞典 「植村正久」の意味・読み・例文・類語

うえむら‐まさひさ【植村正久】

  1. プロテスタント牧師。神学者。明治学院教授を経て、東京神学社、富士見町教会を創立。伝導者の育成、神学研究、聖書の翻訳、讚美歌編集、評論活動などにより、教会内外に広く影響を及ぼした。著「真理一斑」「信仰の生活」。安政四~大正一四年(一八五七‐一九二五

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改訂新版 世界大百科事典 「植村正久」の意味・わかりやすい解説

植村正久 (うえむらまさひさ)
生没年:1858-1925(安政4-大正14)


18737879871906188719041890-911890-941891調

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「植村正久」の意味・わかりやすい解説

植村正久
うえむらまさひさ
(1857―1925)


()4187031872JH18731878()1884()1887()1904371901()()()()()

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朝日日本歴史人物事典 「植村正久」の解説

植村正久

 
14.1.8(1925)
4.12.1(1858.1.15)
,,1500()(),1(1868),J.H.,6,(),,13()20,(),(1923), 3,,(37),(),,,() ,,7<参考文献>,  
()
 

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20世紀日本人名事典 「植村正久」の解説

植村 正久
ウエムラ マサヒサ

明治・大正期の牧師,神学者,評論家 東京神学社創設者;番町一致教会牧師。



生年
安政4年12月1日(1858年)

没年
大正14(1925)年1月8日

出生地
江戸芝露月町

出身地
上総国山辺郡武謝田村(現・千葉県東金市)

別名
幼名=道太郎,号=謙堂,謙堂漁叟,桔梗生

経歴
明治元年一家で横浜に移る。6年プロテスタント教会横浜公会で受洗し、宣教師S・R・ブラウンの神学塾で神学教育を受ける。12年下谷一致教会牧師となり、18年開拓伝道を開始し、20年番町一致教会(現・富士見町教会)を設立、終生その牧師を務める。この間、日本基督公会、日本基督一致教会、日本基督教会で指導的役割を果たした。37年神学校の東京神学社を創設し、神学教育と牧師の養成にあたった。一方、文筆による社会活動も行い、13年「六合雑誌」の創刊に際して編集者となり、17年「真理一斑」を、18年「福音道志流部」を刊行。さらに「日本評論」「福音週報」の主筆としても活躍した。「旧約聖書」の翻訳、西洋文学の紹介など、近代文学に与えた影響は大きいものがある。「植村正久著作集」(全7巻)がある。

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百科事典マイペディア 「植村正久」の意味・わかりやすい解説

植村正久【うえむらまさひさ】

プロテスタント牧師,神学者。旗本の家に生まれる。ブラウン塾に学び,バラの感化で1873年キリスト教入信。日本のキリスト教を外国伝道協会の支配から解放して福音主義的に確立する事業のために,東京神学社の創立による伝道者の養成や,《福音新報》などによる文筆活動をとおして貢献した。
→関連項目海老名弾正国木田独歩高倉徳太郎長老派教会ブラウン

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「植村正久」の意味・わかりやすい解説

植村正久
うえむらまさひさ

[生]安政4(1857).12.1. 江戸
[没]1925.1.8. 東京
牧師,伝道者,神学者。旗本植村祷十郎の長男として生れる。幼名道太郎。横浜に移住して貧困のなかで S.ブラウンの英語塾に学び,1873年受洗。ブラウン塾が築地大学校に合併して東京一致神学校となり,これを卒業。 86年みずから設立した下谷一致教会牧師に就任。その後麹町に移り,一番町教会 (のちの富士見町教会) の牧師として生涯をおくった。その間『六合雑誌』 (1880) ,『東京毎週新誌』 (86) の編集に参画。さらに『福音週報』 (90,のちに福音新報) を主宰して日本のキリスト教界をリードした。また『真理一斑』 (85) ,『福音道志流部』 (86) などを著わして外国宣教師に劣らない神学思想を展開。新神学問題でも,時代思潮に影響された新神学の欠陥を指摘して福音の本質を説いた。他方,伝道財政を外国ミッションへの依存から脱して自給独立の方向に発展させた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「植村正久」の解説

植村正久 うえむら-まさひさ

1858*-1925 明治-大正時代の牧師。
安政4年12月1日生まれ。植村李野の夫。明治6年J.H.バラより受洗。20年東京に番町一致教会(現富士見町教会)を設立,生涯同教会の牧師をつとめる。23年「福音週報」「日本評論」を創刊。37年東京神学社をつくり伝道者を養成。福音主義の立場から海老名弾正と論争し,外国のミッションからの自立をとなえた。大正14年1月8日死去。69歳。江戸出身。東京一致神学校(現明治学院大)卒。幼名は道太郎。号は謙堂。著作に「真理一斑」など。
【格言など】いまだかつてキリストのごとく語りしものなし(「われらの信教」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「植村正久」の解説

植村正久
うえむらまさひさ

1857.12.1~1925.1.8

明治期の牧師・神学者。幼名道太郎。旗本の長男。1868年(明治元)横浜に転居,宣教師J.H.バラの塾に学び,73年5月バラから受洗し日本基督公会に入会。S.R.ブラウンの塾や東京一致神学校に学び,80年下谷(したや)一致教会の牧師になる。87年番町一致教会(現,富士見町教会)を創立。以来日本基督一致教会・日本基督教会の指導者として行動した。独立自治の志が強く,1904年東京神学社(現,東京神学大学)を創設。また1890年「日本評論」「福音週報」(のちの「福音新報」)を創刊,広く政治・社会・教育・宗教などに発言した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「植村正久」の解説

植村正久
うえむらまさひさ

1857〜1925
明治・大正時代のキリスト教牧師・評論家
旗本の家に生まれ,英語・神学を学びキリスト教に入信。正統派福音主義信仰の確立につとめるとともに評論界でも活躍。教育勅語に対する礼拝を批判し,井上哲次郎に反論した。著書に『真理一斑』など。

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367日誕生日大事典 「植村正久」の解説

植村 正久 (うえむら まさひさ)

生年月日:1858年12月1日
明治時代;大正時代の牧師
1925年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の植村正久の言及

【キリスト教文学】より

… まず1880年代の後半から90年代(明治20年代)の理想主義文学の提唱,さらにはロマン主義文学の台頭にキリスト教思想の影響は深く現れる。植村正久,内村鑑三の両者を挙げて〈今や我国に於て基督教文学の代表者として二人を得たり〉とは徳富蘇峰の言葉だが,たしかに植村の文業を抜きにして明治期,特に20年代の文学史的意義にふれることはできまい。そのすぐれた旧約の《詩篇》《雅歌》などの翻訳,さらには《新撰讃美歌》(1888)にみる流麗な訳詩は,明治の新体詩に深い影響を与えた。…

【高倉徳太郎】より


退()

【福音新報】より

…キリスト教週刊新聞(1891‐1942)。植村正久は《福音週報》(1890‐91)を刊行したが,内村鑑三の不敬事件に関する論説で発行禁止処分をうけ,本紙を刊行。論説,主として日本基督教会の動向を掲載。…

※「植村正久」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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