デジタル大辞泉
「浄妙寺」の意味・読み・例文・類語
じょうみょう‐じ〔ジヤウメウ‐〕【浄妙寺】
治4年︵1188︶、開基は足利義兼、開山は退耕行勇。鎌倉五山の第五位。初め極楽寺と称し、密教寺院であったが、正嘉年間︵1257~1259︶月峯了然が入寺して禅寺とした。
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じょうみょう‐じジャウメウ‥【浄妙寺】
(一)鎌倉五山の一つ。神奈川県鎌倉市浄明寺にある臨済宗建長寺派の寺。山号は稲荷山。文治四年︵一一八八︶極楽寺︵真言宗︶として足利義兼が創建。開山は退耕行勇。その子義氏のとき禅宗となり、元亨二年︵一三二二︶足利尊氏が父貞氏︵法号浄妙寺︶追福のため改称。現在の堂宇は江戸時代中期の再建。
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浄妙寺
じようみようじ
[現在地名]鎌倉市浄明寺
滑(なめり)川右岸。公方屋敷跡の北西にある。臨済宗建長寺派。稲荷山と号する。本尊釈迦如来。開基足利義兼、開山退耕行勇、中興開基足利貞氏と伝える。鎌倉五山の一つ。
寺蔵の稲荷山浄妙禅寺略記によると、文治四年︵一一八八︶足利義兼が退耕行勇を開山として創建した極(ごく)楽(らく)寺が当寺の前身といい、当寺が初め極楽寺と称していたことは﹁元亨釈書﹂月峰了然伝にも﹁正嘉之元住相之極楽寺今改浄名﹂とある。了然は蘭渓道隆の法嗣で、正嘉元年︵一二五七︶了然住山以後、当寺は禅密兼修から純粋禅へとかわったようである。寺名の変更は大休正念の語録に﹁浄妙宣((竜)公(江応)和(宣)尚())﹂とみえることから、正嘉元年以降、正念の没する正応元年︵一二八八︶までの間と思われる︵念大休禅師語録︶。
元亨元年︵一三二一︶北条貞時十三年忌供養には僧衆五一人が参加、建長寺三八八人、円覚寺三五〇人、寿(じゆ)福(ふく)寺二六〇人、浄(じよ)智(うち)寺二二四人などと比較すると大寺ではなかったと思われる︵﹁北条貞時十三年忌供養記﹂県史二︶。元弘元年︵一三三一︶足利貞氏没、道号を浄妙寺殿といった︵尊卑分脈︶。
浄妙寺
じようみようじ
[現在地名]有田市宮崎町
有(あり)田(だ)川の南岸、医(いお)王(う)山の山腹にあり、境内からは有田川が緩やかに海に注ぐのが展望できる。医王山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊薬師如来。﹁続風土記﹂によれば大同元年︵八〇六︶に平城天皇の母乙牟漏皇后の勅願によって建立された律宗寺院で、開山は唐僧如宝、七堂伽藍の大寺であったという。一説には阿波の尼西阿弥の建立ともいう。
浄妙寺
じようみようじ
[現在地名]多古町北中
北(きた)場(ば)にある。もとは北(きた)中(なか)の法(ほう)性(しよう)にあったという。法性山と号し、日蓮宗。本尊は釈迦如来。寺伝によると、もと東耀寺と称し、天平宝字年中︵七五七―七六五︶鑑真の創立で、律宗であったとされる。その後中山法華経寺三代貫首日祐が来歴し、貞和二年︵一三四六︶日蓮宗中山門流となった。応永二〇年︵一四一三︶大風により伽藍が退転し、法性から現在の北場に移転したという︵﹁中村寺院明細帳﹂ほか︶。また当寺には天正五年︵一五七七︶の多古城主牛尾胤仲の書状などがある。また壺(つぼ)岡(おか)城主平山氏も支援を寄せており、江戸時代になっても平山氏は当寺の檀那であった︵多古町史︶。天正一八年には徳川家康から一二石の朱印地を受けている︵中村寺院明細帳︶。
浄妙寺
じようみようじ
矢作川堤防の下からやや離れ、集落の近くに茂った樹木に包まれて建っている。入口に﹁三河真宗大道場﹂の石碑があり、山門を入って正面に本堂、右手に庫裏がある。真宗大谷派に属し、本尊阿弥陀如来。常陸の住人藤井信親が上(かみ)和(わ)田(だ)郷赤(あか)渋(しぶ)の里に一宇を建立したのがその始まりといわれ、天文一五年︵一五四六︶に松平八代広忠が天(てん)白(ぱく)の地に寺領を寄進したので移る。寺領一七石五斗。なお、弘治三年︵一五五七︶一一月一一日の岡崎奉行七人の連署による安堵状︵岡崎市史︶には﹁上和田之内てんはく之事広忠元信末代諸不入に御寄進のうへはいつかたよりも申事有間敷候若申かた候はおのおの可申立候﹂とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
浄妙寺(神奈川県)
じょうみょうじ
神奈川県鎌倉市浄明寺にある臨済(りんざい)宗建長寺派の寺。山号は稲荷山(いなりさん)。本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)。1188年︵文治4︶足利義兼(あしかがよしかね)が栄西(えいさい)の弟子である退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を開山として創建したものと伝えられる。初め極楽寺といい、密教寺院であったが、正嘉(しょうか)年間︵1257~59︶ころ蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の弟子月峯了然(げっぽうりょうねん)によって禅寺に改められた。1331年︵元弘1︶中興開基足利貞氏(さだうじ)がこの寺に埋葬され、その法号浄妙寺殿貞山道観によって浄妙寺と改称されたともいわれる。1358年︵正平13・延文3︶鎌倉五山第五位とされた。寺宝には退耕行勇像︵国重要文化財︶、伝藤原鎌足倚像(かまたりいぞう)、銘足利尊氏(たかうじ)自画自賛の地蔵菩薩(じぞうぼさつ)図像などがある。境内は国史跡に指定され、仏殿背後の墓地には足利貞氏墓がある。境内背後の谷地は、鎌倉地方特有の中世墳墓やぐらが多数存在する。
﹇菅沼 晃﹈
浄妙寺(京都府)
じょうみょうじ
京都府宇治市木幡(こばた)にあった寺。木幡寺ともいう。藤原道長は若年にして木幡の藤原家墓所を訪れ、仏儀なきを嘆じ、寺を建てることを誓った。左大臣となったのち、1005年︵寛弘2︶法華三昧堂(ほっけさんまいどう)を建て、園城寺(おんじょうじ)勧修(かんじゅ)一門に持念せしめた。1007年塔供養(とうくよう)を行い、1192年︵建久3︶後白河(ごしらかわ)天皇第6王子静慧(じょうえ)法親王が別当となった。延慶(えんけい)年間︵1308~11︶火災で廃絶。
﹇田村晃祐﹈
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浄妙寺 (じょうみょうじ)
京都府宇治市木幡︵こはた︶にあった藤原北家の菩提寺。木幡寺とも呼ばれた。平安時代,藤原北家の墓地は木幡の里に営まれた。当寺は,11世紀初頭,藤原道長がこの木幡墓地に造営した三昧堂に始まり,当初はほかに大門,客殿,多宝塔などがあり,壮大をきわめた。鎌倉時代以降,しだいに衰微し,中世末に廃絶した。現木幡小学校一帯が寺址と推定されるが,大部は未発掘で,伽藍配置などいまだ不明である。
執筆者‥藤井 学
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浄妙寺【じょうみょうじ】
鎌倉市にある臨済宗建長寺派の寺。本尊釈迦如来。鎌倉五山の一つ。1188年足利義兼(よしかね)が退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を開山として創建した極楽寺が前身。開山塔といわれる光明(こうみょう)院に足利義詮(よしあきら)の遺骨が分骨され,毎年,足利氏祖廟として鎌倉公方(かまくらくぼう)の参詣を受けた。木造退耕禅師座像は重要文化財,境内は国指定史跡。
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浄妙寺
じょうみょうじ
神奈川県鎌倉市浄明寺にある臨済宗建長寺派の寺院。稲荷山と号す。鎌倉五山の第5位。1188年(文治4)足利義兼が創建。開山は退耕行勇(たいこうぎょうゆう)という。はじめは極楽寺と称したが,13世紀後半に月峰了然が住持となり名を改めた。中興開基は足利貞氏。寺の東側に関東公方の屋敷があった。14世紀頃の木造釈迦如来座像,鎌倉末期の木造退耕行勇坐像(重文),足利尊氏自画自賛の﹁地蔵菩薩像﹂などがある。境内は国史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
浄妙寺
じょうみょうじ
1188年足利義兼の創建になり,初め極楽寺と称し,真言宗の寺であったが,13世紀後半臨済宗に改め寺名も浄妙寺とした。南北朝時代以後,五山の一つとなって栄えたが,1424年火災にあい衰微した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
浄妙寺〔神奈川県〕
神奈川県鎌倉市にある寺院。臨済宗建長寺派。山号は稲荷山。鎌倉五山のひとつ。1188年創建の真言宗の寺院、極楽寺が起源。正嘉年間︵1257~59︶に、月峯了然(げっぽうりょうねん)が禅宗に改めて改称。境内は国指定史跡。
浄妙寺︹和歌山県︺
和歌山県有田市にある寺院。806年建立と伝わる。鎌倉時代に建てられた本堂、多宝塔は国の重要文化財に指定されている。
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
世界大百科事典(旧版)内の浄妙寺の言及
【鎌倉五山】より
…鎌倉にある臨済宗の五大禅刹,すなわち[建長寺],[円覚寺],寿福寺,浄智寺,浄妙寺をいい,[京都五山]に対する。中国南宋代の五山官寺制度が,日本に移植されたのは鎌倉時代末期のことで,1299年(正安1)執権北条貞時が浄智寺を五山に列したのが史料上の初見である。…
【墓】より
…このように遺体を尊重する風は,貴族の墳墓に対する考え方に影響を与えた。藤原道長は北家の墳墓の地である宇治の木幡の側近くに死者の冥福を祈って墓寺である浄妙寺を建立した。しかしまだ,貴族たちは埋葬地に卒都婆を立ててももうでることはなく,葬送の地には鬼がいる,などといって近寄らなかった。…
※「浄妙寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」