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「清水寺」の意味・読み・例文・類語
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せいすい‐じ【清水寺】
(一)[ 一 ] 長野市若穂保科にある真言宗智山派の寺。山号は阿彌陀山。天平一四年︵七四二︶行基の創建と伝えられ、延暦二〇年︵八〇一︶坂上田村麻呂が蝦夷(えぞ)征伐の途次、戦勝を祈願したと伝えられる。保科観音。
(二)[ 二 ] 島根県安来市清水町にある天台宗の寺。山号は瑞光山。用明天皇二年︵五八七︶尊隆の開創と伝えられる。推古天皇の勅願寺。永祿年間︵一五五八‐七〇︶兵火のために本堂を残して焼失。のち、毛利元就が再建した。
(三)[ 三 ] ⇒きよみずでら︵清水寺︶
きよみず‐でらきよみづ‥︻清水寺︼
(一)[ 一 ] 京都市東山区清水にある北法相宗の総本山。もと真言宗。山号は音羽山。延暦一七年︵七九八︶坂上田村麻呂が延鎮を開山として創建。弘仁元年︵八一〇︶鎮護国家の道場となる。現在の本堂は寛永一〇年︵一六三三︶徳川家光の再建で国宝。南側の掛け出しは﹁清水の舞台﹂として知られ、展望に富む。西国三十三所第一六番札所。北観音寺。せいすいじ。
(二)[ 二 ] 兵庫県加東郡社町平木にある天台宗の寺。山号は御嶽山。七世紀、インドの僧、法道仙人の創建と伝えられる。後白河天皇、源頼朝の保護をうけた。西国三十三所の第二五番札所。新清水。
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清水寺
きよみずでら
[現在地名]東山区清水一丁目
清水坂を登りつめた所に所在する。音(おと)羽(わ)山を背にし、山に沿って手前より仁王門・三重塔・田(たむ)村(ら)堂・本堂などが立並ぶ。本堂から清(せい)閑(かん)寺(じ)道へ下ったところに音羽の滝がある。山号は音羽山。清(せい)水(すい)寺ともよび、北法相宗本山。本尊は平安時代の木造十一面観音立像︵国指定重要文化財︶。西国三十三所観音霊場の一六番札所。また洛陽七観音の一、洛陽三十三ヵ所観音の一二番札所で、同じく一〇番地蔵院・一一番奥院・一三番朝(あさ)倉(くら)堂が境内にある。当寺は平成六年︵一九九四︶世界の文化遺産︵古都京都の文化財︶に登録された。
︿京都・山城寺院神社大事典﹀
〔草創〕
伝承によれば創建は平安遷都後まもない延暦年間︵七八二―八〇六︶で、坂上田村麻呂がそれに関係があったという。﹁扶桑略記﹂の引く清水寺縁起は創立に至る観音霊夢譚を記す。すなわち宝亀九年︵七七八︶四月、賢心︵のちに延鎮と改む︶が夢告によって北に向かい、﹁金色一支之水﹂を見て源に至り、清水滝下の一草庵で白衣の居士に会った。居士は行叡と名乗り、﹁観音の威神力を念じ、千手真言を口誦しながら汝を待っていた。汝がここに住して堂を建て、この目前の木株で観音を造れ﹂といって去った。賢心はしばらく待ったが行叡は戻らず、尋ね歩くと山(やま)科(しな)︵現京都市山科区︶の東峰に履物が落ちており、観音の示現たることを知った。その後、田村麻呂の助力を得て清水寺が創建された。﹁今昔物語集﹂巻一一の﹁田村将軍始建清水寺語﹂も同様の話を伝える。ほかに治暦二年︵一〇六六︶に没した大学頭藤原明衡の作といわれる群書類従本清水寺縁起、室町時代の成立と考えられる続群書類従本清水寺縁起があり、草創にまつわる伝承を記す。
群書類従本清水寺縁起は、水を求めて延鎮に出会い、延暦一七年七月二日同心合力して金色十一面四十手観音菩薩像を造り、仮の宝殿を建立して安置、清水寺またの名を北観音寺と号したとする。延暦二四年には、田村麻呂が寺地を賜り、桓武天皇の御願寺となって、大同二年︵八〇七︶田村麻呂の妻三善命婦が寝殿を壊し、その材で仏堂を建立したと伝える。続群書類従本清水寺縁起は、田村麻呂が寺地を賜った時の官符を載せる。
<資料は省略されています>
また当寺を鎮護国家の道場となし、田村麻呂の子孫を﹁寺家之職﹂︵俗別当︶に補し、延鎮の門徒を﹁寺家之司﹂とする弘仁元年︵八一〇︶の官符も収める。さらに承和一四年︵八四七︶三重塔が建立されたこと、承平七年︵九三七︶には僧慶兼が大門に多聞天・持国天の造立を発願したことなど整備が進められた様子を伝える。
清水寺
きよみずでら
[現在地名]安来市清水町
清水山の南山腹にあり、セイスイジともよぶ。瑞光山と号し、本尊は木造十一面観音立像︵国指定重要文化財︶。天台宗。出雲三十三観音の第二一番札所。寺伝によれば推古朝頃の開創というが、本尊は平安時代初期の作と考えられていて、寺院の創建もこの頃とみられる。史料上では年月日未詳の伝法許可八印︵金沢文庫古文書︶に﹁出雲清水寺、奉値大山基好、投花之次、密印也﹂とあるのが早い例であろう。伯耆大山寺の基好は一二世紀後半に栄西に天台密教を教えた人物として知られており︵元亨釈書︶、この記事も一二世紀中頃ないしは後半ということになろう。当寺は大山寺や鰐(がく)淵(えん)寺などと同様、早くから修験の道場として栄えていたものと考えられる。当寺がそうした庶民信仰に支えられていたことは、正平一二年︵一三五七︶八月四日銘の石造塔婆や同一四年二月銘の板碑、同一四年と推定される年未詳四月三日銘の石造線刻地蔵菩薩像などが多く残されていることによっても推測できる。
当寺が世俗権力と結んでとりわけ大きな力を振るうようになったのは、尼子氏が能(の)義(ぎ)郡の月(がつ)山(さん)富(と)田(だ)城︵現広瀬町︶に居城を構えて地域支配を展開するようになってからと考えられ、尼子経久が願主となり大永二年︵一五二二︶二月九日から杵築大社︵出雲大社︶の神前で行われた万部法華経読誦において、清水寺は鰐淵寺、横(よこ)田(たい)岩(わ)屋(や)寺︵現横田町︶・古(こし)志(ほう)法(こ)興(う)寺︵現出雲市︶とともに四座頭のうちの一を勤めている︵快円日記︶。天文一四年︵一五四五︶以降一〇年間にわたる当寺と鰐淵寺との法座争いは注目すべきであろう。事の起りは同年の仲秋、富田城で尼子晴久が願主となって千部読経が行われた際、左座に着こうとした鰐淵寺に対し清水寺が異議を申立てたことにある︵同二四年二月一二日﹁一山僧侶連署起請文﹂鰐淵寺文書︶。
清水寺
きよみずでら
[現在地名]社町平木
清水山︵御嶽山︶の山頂付近にある天台宗寺院。御嶽山と号し、本尊は十一面千手観音。西国三十三所観音霊場の第二五番札所で、御詠歌は﹁あわれみや普き門の品々になにをか波のここに清水﹂。現在、山内に慈(じも)門(ん)院・知(ちそ)足(く)院・瑞(ずい)柳(りゆう)院・運(うん)善(ぜん)院の四子院があるが、建物が残るのは知足院のみで、ほかは名跡を残すだけである。﹁峯相記﹂によれば、法道が建立したといわれ、播州御嶽山清水寺縁起︵清水寺蔵︶からは景行天皇の代に法道が創建したと考えられる。当初は当寺近くの古(ふる)清(きよ)水(みず)山と称される山頂にあり、清(せい)応(おう)寺と称されていたと伝える。現社町社の佐(さ)保(ほ)神社の神宮寺とされ、承元四年︵一二一〇︶正月日の佐保社社司等加判清水寺住僧言上状案︵清水寺文書、以下断りのない限り同文書︶に、庄園建立の際に佐保社に法花講田二町を寄付したことがみえる。
保延元年︵一一三五︶一〇月一八日の大和守行元田地寄進状案によれば、吉(よし)田(だ)本庄にある五町の田地が清水寺に灯油料田として寄進されている。この灯油料田の内訳と思われるのが建暦二年︵一二一二︶一〇月二八日の清水寺御油田起請田負名注文案で、九人の負名を公文僧が注進している。建保六年︵一二一八︶三月三〇日の後鳥羽上皇院宣と同院宣を受けて発給されたとみられる住吉大神宮政所下文︵ともに勘仲記正応二年九・一〇月巻紙背文書︶には、清水寺に対して住吉本社より派遣した読師・楽人・舞人で供養を遂行するよう命じたことが記されており、当寺を摂津住吉社領としている。しかし後高倉院の時に当寺は八条院御祈願所となっており、住吉社領とする動きへの抵抗は大きかった︵貞応三年正月日皇后宮職庁下文案︶。
清水寺
せいすいじ
[現在地名]長野市若穂保科 蓮花
村の北部綿(わた)内(うち)村境の太(たろ)郎(う)山︵九九六・九メートル︶南山麓にあり、保科川を見下す。寺の位置は、上野国から保科へ下り、ここから善光寺を経て越後へ行く道と、小(ちい)県(さがた)郡から地蔵峠を越えて来る道の合する所にあり、交通の要衝にあたる。
真言宗智山派阿弥陀山護国院清水寺と称し、本尊千手観音。通称保科の観音さんという。
寺伝によれば、天平一四年︵七四二︶僧行基が手刻の千手観音を安置。延暦二〇年︵八〇一︶坂上田村麻呂がこの観音を祈誓して奥羽へ出征、凱旋後大同元年︵八〇六︶寺堂を再建、所用の鉄鍬形を報賽し、以来七種の殿堂・三層の塔、三〇余の神社、三三の僧舎を建立した。
清水寺
きよみずでら
[現在地名]瀬高町本吉
本吉山普(ふも)門(ん)院と号し、天台宗。本尊は千手観音。大同元年︵八〇六︶最澄の創建と伝える。本尊は合歓の立木仏とも称され、最澄は山中に光る合歓の木を見て、雉に導かれて山中に分け入り、立木に二体の像を刻み、上部一体を京都清水寺に納め、根元の一体を当地に安置したといい、そこから当地を本(もと)吉(よし)、京都を末吉と称したと伝承される。宝徳元年︵一四四九︶一二月二〇日、源長千代女を願主として﹁筑州清水寺観世音﹂に鐘が寄進され、この鐘は天正九年︵一五八一︶八月彼岸には蒲池兵庫頭家恒︵鎮運︶により武運長久・心願成就を願って再興された︵﹁清水寺鐘銘﹂古鐘銘集成︶。
清水寺
せいすいじ
[現在地名]安芸市川北 横山
安芸川下流東岸、横(よこ)山(やま)集落の西端にあるが、この地は明治四年︵一八七一︶に廃寺となった清水寺末の長(ちよ)正(うしよう)寺の跡地で、同一三年再興の折に移転した。古くは一キロほど下流の丘にあり、現在清(せい)水(すい)寺(じお)岡(か)の地名が残る。豊岡山千手院と号し、真言宗智山派、本尊千手観音。
創建は不明であるが、﹁南路志﹂に﹁橘元親公時代より和食郷馬上村今の寺地へ被移由、年暦不知、馬ノ上村ニ清水寺野と申古寺地の有名有之由﹂とある。﹁蠧簡集拾遺﹂所収の金堂上棟の棟札銘に﹁文亀二壬戌年卯月七日 大檀那橘元親﹂とあるから、文亀二年︵一五〇二︶に馬(うま)ノ上(うえ)村︵現安芸郡芸西村︶から当地に移転し、金堂の棟上が成ったとも考えられる。
清水寺
きよみずでら
[現在地名]藤枝市原
瀬(せ)戸(と)川の左岸、平地部へ延びる山稜の西麓にある。音羽山と号し、高野山真言宗。本尊は千手観音。神亀三年︵七二六︶の創建で、開山は行基と伝える。建久一〇年︵一一九九︶四月、清水寺で藤原季茂を大願主、当寺の延命房を筆師として大般若経が書写されている︵﹁駿河志料﹂所収大般若経奥書抜書︶。弘長二年︵一二六二︶三月には勧進僧某によって千手観音寺︵清水寺︶に懸仏が奉納されている︵寺蔵懸仏光背銘︶。嘉慶二年︵一三八八︶六月三日には金剛仏子猷尊が希芳を本願旦那、中里行阿を旦那として当寺で大般若経を書写している︵山梨県塩山市放光寺蔵﹁大般若経﹂巻四九〇奥書︶。
清水寺
せいすいじ
[現在地名]山口市大字宮野下
宮(みや)野(のこ)恋(い)路(じ)の南、山の中腹標高一三〇メートルほどの地にあり、真言宗御室派。花滝山と号し、本尊千手観音。
寺伝によれば大同元年︵八〇六︶の創建で、もと天台宗であったが、室町時代大内政弘が真言宗に改めたという。建久六年︵一一九五︶の周防宮野荘立券文︵上司家文書︶に﹁清水寺院内参町伍段田二丁六段畠九段﹂とあり、四至は﹁東限寺山峯、西限里際自宮佐古縄手宗永西垣根、南限榑原業山、北限堂後谷﹂と記され、平安時代以来の古寺であることが知れる。
清水寺
きよみずでら
[現在地名]長崎市鍛冶屋町
崇福寺の南にある。長崎山興成院と号し、真言宗霊雲寺派。本尊は観音菩薩。元和九年(一六二三)京都音羽山の清水寺の光乗院に住していた慶順が長崎に来て創建したと伝える。白い光を発したという瑞光石(薬師石)があった地に堂宇が建立され(長崎実録大成)、本尊は伝運慶作で慶順が背負って諸国を行脚していたものという(長崎市史)。寛永四年(一六二七)の改築では島原城主松倉重政が京都清水寺に擬して瓦葺とし堂前に石欄を巡らせているが、石欄に正保三年(一六四六)の紀年と南京人文従周の名が記される。
清水寺
せいすいじ
[現在地名]岬町鴨根
鴨(かも)根(ね)集落の北西の丘陵地に立地。天台宗、音羽山千手院と号し、本尊十一面観音。本尊にちなみ清(きよ)水(みず)観音と通称。延暦期︵七八二―八〇六︶当地で最澄が十一面観音を彫り、また金沢谷の土中から金銅の聖観音像を見つけだしたが、安置する堂宇が建立できないまま帰京した。大同二年︵八〇七︶最澄の志を継いだ円仁が当地に来て千手観音像二体を彫り、一体を高谷山善(ぜん)応(のう)寺︵現大原町︶に納めたが、一体を安置する堂宇は完成しないまま先師の庵に安置して帰京した。
清水寺
せいすいじ
[現在地名]新穂村大野
大(おお)野(の)の奥、大野川沿いにあり、境内下方を清水寺越の道が通る。地元では﹁せいすうじ﹂とも称する。真言宗豊山派、東光山と号し、本尊十一面観音・千手観音。大同三年︵八〇八︶の開基と伝える。佐渡の本山一〇ヵ寺の一で、寺家の錫杖寺・臨川寺・慈眼寺のほか末寺一一ヵ寺を有した。久(くぢ)知(か)河(わ)内(ち)︵現両津市︶の長(ちよ)安(うあん)寺も一時当寺の末寺であったことが、慶長二年︵一五九七︶三月二一日の長安寺より当寺宛証文︵清水寺文書︶によって知られる。同証文によると、文禄二年︵一五九三︶頃、上杉景勝の忌諱に触れて追放破却されたが、当寺の奔走により赦免され、以後末寺に列したが、当寺では客末寺として特別に扱っていた。慶長五年の清水寺分の検地帳︵同文書︶が残るが、河村彦左衛門の印判はない。
清水寺
きよみずでら
[現在地名]小倉北区清水四丁目
高野山真言宗。青龍山と号する。本尊千手観音。創立年代は未詳ながら、京都清水寺の霊場を小倉の地に移したと伝える。古来勅願所として企(き)救(く)の御堂と称され、もとは南方の高所にあったという︵清水寺縁起︶。慶長七年︵一六〇二︶細川忠興が小倉城築城の際、裏鬼門にあたる当地に一宇を建立、本尊千手観音を移したという。祈祷寺として寺禄一五〇石を与えた︵企救郡誌︶。
清水寺
きよみずでら
[現在地名]花巻市太田 清水
太田南西部の清水にあり、音羽山と号し天台寺門宗。本尊は十一面観音。寺蔵の略縁起によれば坂上田村麻呂が勧請、前九年・後三年の両役では源頼義・義家父子が武運長久を祈願、戦勝後に伽藍・末社を建立したといい、秀全を開山とする。天正一九年(一五九一)の奥郡仕置の際に下向した豊臣秀次の兵も戦勝を祈願したと伝える。
清水寺
せいすいじ
[現在地名]高崎市石原町
石(いし)原(はら)西部の丘陵上にある。真言宗豊山派、華蔵山と号し、本尊観世音菩薩。当寺を中心とするこの辺りは観(かん)音(のん)山の名で古くから親しまれ、高崎城下の人々の遊山の場であった。参道には五百数十段の石段がある。坂上田村麻呂が大同三年︵八〇八︶の東征の際開基したと伝える。和田氏や高崎の歴代城主の帰依厚く、安藤氏は現在の堂宇を造営しており、天正一一年︵一五八三︶和田信業が造営したものを、寛文一一年︵一六七一︶安藤重治が修理したときの棟札がある。住職は大(だい)聖(しよ)護(うご)国(こく)寺の兼帯で︵嘉永二年﹁華蔵山中興略記﹂片山文書︶、元禄郷帳には石原村に清水寺観音堂領一七石余が載る。
清水寺
きよみずでら
[現在地名]若宮町黒丸 清水
西(にし)山︵鮎返山︶の東麓、黒(くろ)丸(まる)川の上流右岸にある。境内からの眺望は﹁若宮、吉川の諸村、眼下に見え渡り﹂︵続風土記︶、佳景とされた。青竜山千(せん)手(じゆ)院と号し、真言宗九州教団に属する。行基作との伝えがある本尊の千手観音は秘仏とされ、開帳は三〇年に一度。承応二年︵一六五三︶の再興棟札によると、天平勝宝二年︵七五〇︶に聖武天皇の勅願によって、行基を開基として建立されたと伝える︵ただし行基はその前年に没している︶。古くは坊住一二︵﹁平触明細帳﹂安永家文書では三六︶を数える大伽藍であったが、天正年間︵一五七三―九二︶の戦乱で多くを失ったという。
清水寺
せいすいじ
[現在地名]宇佐市清水 寺
清(しみ)水(ず)の西部、中津市境の丘陵上にある。補陀落山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。豊前三十三所観音第四番、筑紫三十三所観音第三番の各札所で、伝仁聞作の十一面千手観音像を秘仏とする。江戸期の清水寺縁起︵寺蔵︶によると、養老元年︵七一七︶仁聞による創建といい、寺地の岩腹から清泉が湧出していたために寺号としたという。往時は天台宗で、平安末には平重盛が七堂伽藍を建立、寺領二町四反を寄せたとも伝える。現在山門の下は字金(こん)堂(どう)といい、さらに二〇〇メートルほど下を字大(だい)門(もん)というが、これは往古の当寺伽藍に由来する地名ともされる。
清水寺
きよみずでら
[現在地名]静岡市音羽町
谷(や)津(つ)山の南西麓にある高野山真言宗寺院。音羽山と号し、本尊は千手観音。永禄二年︵一五五九︶の開創と伝え、開山は京都仁和寺尊(そん)寿(じゆ)院の道因、開基は今川義元の重臣朝比奈元長という︵﹁清水寺由緒書上控﹂清水寺文書︶。同四年六月二三日に﹁清水寺跡職﹂が盛秀から秀尊に譲られるが︵﹁盛秀置文写﹂修訂駿河国新風土記︶、秀尊は呪力で徳川家康に重用され、家康の武運長久などの加持祈祷に法力を発揮したという︵前掲由緒書上控︶。
清水寺
せいすいじ
[現在地名]泉市松森 鹿島
松森山と号し、本尊千手観音、曹洞宗。当初は天台宗で切登山と号したといい、文禄三年︵一五九四︶伊達政宗から寺領二千八〇〇刈を安堵されたという。慶長八年︵一六〇三︶仙台城下保(ほう)寿(じゆ)寺興山林中が中興開山し、当地下(しも)町から現在地に移転︵文政七年﹁清水寺書出﹂佐藤長寿家文書︶。なお﹁封内風土記﹂は興山林中の中興を承応年中︵一六五二―五五︶とするが、保寿寺の記録などから判断してこれが正しいと思われる。
清水寺
せいすいじ
[現在地名]八戸市是川 中居
中(なか)居(い)の南東端に位置する。楞厳山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。寛文五年︵一六六五︶の無量院の御立願状︵常泉院文書︶に﹁一下是川ノ観音 右((絵)同(馬壱)断(枚))之御事﹂とあり、寛保四年︵一七四四︶の諸寺院寺号山号帳︵八戸市立図書館蔵︶には﹁一拾石高二拾石之内御免高 山城国比叡山延暦寺末寺是川村 楞厳山清水寺﹂とある。
清水寺
せいすいじ
[現在地名]長野市松代町西条
松代町東寺尾の福(ふく)徳(とく)寺末。真言宗豊山派。竜燈山蓮花院清水寺という。本尊千手観音。
往古は観音堂で村の南にあったものが現在地に移ったと伝承される。戦国期土豪西条美作守の帰依厚く、武田信玄より永一五〇文の寄進あり、後、貞享二年︵一六八五︶幕府より堂領一〇石を寄進された︵松代町史︶。千手観音像をはじめ観音菩薩立像・地蔵菩薩立像は国の重要文化財。
木造千手観音立像は高さ一七九センチで一木造。
清水寺
きよみずでら
[現在地名]富加町加治田 片町
加(かじ)治(たか)田(た)片(ま)町(ち)の奥、梨(なし)割(わり)山への登り口にある。白華山と号し、臨済宗妙心寺派。初めは真言宗、近世中期から臨済宗龍(りよ)福(うふく)寺末寺。本尊十一面観音。承和五年︵八三八︶僧良敏の記したといわれる白華山清水寺縁起︵当寺蔵︶によると、坂上田村麻呂の素志を体して、大同三年︵八〇八︶延鎮と行叡居士の二人が金色に輝いていた当地に伽藍を建立した。
清水寺
きよみずでら
[現在地名]山形村小坂 清水
小坂村の集落から西方およそ四キロ余の山中にある。真言宗。標高一三〇〇メートルの高地で、清水が湧く幽
の地である。
石造の等身大の仁王尊があり、鐘楼上には破損した金剛界の大日如来像があった。寺伝によると平城天皇の大同二年︵八〇七︶坂上田村麻呂が東夷征伐の際祈願したとの伝説を残し、京都の清水寺とは特別の関係をもっている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
清水寺 (きよみずでら)
京都市東山区にある寺。山号音羽山。1885年までは法相・真言兼修の寺。第2次大戦後,北法相宗の総本山。798年︵延暦17︶,坂上田村麻呂が延鎮を開山として建立したと伝える。805年︵延暦24︶桓武天皇の御願寺となってから維新まで,朝廷や幕府の厚い保護が続いた。堂宇は開創以来幾度か焼失と再建をくりかえしたが,現在の建物の大部分は徳川家光が1633年︵寛永10︶再建したものである。近世の寺領は朱印高133石。本尊は十一面観音像。観音の慈悲は広大無辺であり,あらゆる人間の苦悩を救う。この現世利益の観音信仰が,平安中期から高まると,当寺は学問や修行の寺としてよりは,信仰で栄える寺となり,日本無双の観音霊場とうたわれた。平安時代以来,種々の︿清水寺縁起﹀がつくられて,霊験譚が世に喧伝され,貴賤の参詣者や参籠者が境内にあふれ,︿清水詣︵もうで︶﹀なる言葉も生まれた。清少納言は毎月18日の観音の縁日に参籠する人で当寺がにぎわうのを︿さわがしきもの﹀と伝え,︽源氏物語︾夕顔の巻には︿寺々の初夜も,皆,行ひはてゝ,いとしめやかなり,清水の方ぞ,光多く見え,人のけはひもしげかりける﹀とあるなど,平安文学の素材に当寺の信仰が登場する。平安末の今様の歌にも︿観音しるしを見する寺,清水・石山・長谷︵はせ︶の御山﹀︵︽梁塵秘抄︾︶とうたわれ,中世の謡曲でも︽盛久︾︽熊野︵ゆや︶︾︽花月︾など,清水観音の霊験譚は欠かせない題材となっている。また,中世以来,西国三十三所巡礼の風習が庶民社会に定着すると,当寺は第16番札所として栄えた。︿清水寺参詣曼陀羅図﹀が盛んに描かれて,絵解法師が霊験譚を語ったのもこのころのことである。
清水という地名の起りとなったという奥の院崖下の音羽の滝は,天下五名水の一つ,諸病に効くといわれ,持ち帰る人やこれに祈誓する人が多い。当寺は古くから桜と紅葉の名所でもある。音羽の滝から西大谷に至る錦雲渓は,老楓枝を交え,秋の紅葉の壮観は新高尾と世に称する。本堂舞台からの都の俯瞰︵ふかん︶もまた壮観で,東国からの旅人は,山科から東山を越えてまず当寺に参り,都を眺めて坂を下り五条大橋から京都に入ることが多かった。参道である五条坂と清水坂には平安時代から門前町が発達した。とくに近世になると,この二つの坂道には茶屋と土産物店が並んで遊興地になった。門前には名物が生まれる。清水坂は炙餅︵やきもち︶︵焼餅︶と清水団子︵だんご︶で知られ,また五条坂はここを通った弥次さん喜多さんが︿清水焼の陶造軒をならべて,往来の足をとどむ,此所の名物なり﹀というように,陶器店が軒をならべた。清水坂から八坂に抜ける坂道が産寧︵さんねい︶坂︵また三年坂︶である。ここで転ぶと3年のうちに死ぬともいわれるが,いまも参道の旧観を残して町並保存地区となっている。
このように庶民信仰で栄えた当寺も,明治初年の排仏毀釈の嵐で打撃をうけた。2回の上知令︵あげちれい︶によって境内地は10分の1以下に減少した。また有名な本堂の舞台は,観音に願をかけてその結願︵けちがん︶の日に,この舞台から堂下に身を投げると,所願成就ならばけがなく,否ならば死して成仏できると信ぜられ,古来投身者が絶えなかった。これにちなんで,死を覚悟して事を行うことを︿清水の舞台から飛びおりる﹀ということわざが生まれた。陋習︵ろうしゆう︶や迷信を排す文明開化の世となって,1872年︵明治5︶,政府はこの投身の風習を禁止し,舞台に投身よけの柵をつけさせ,寺僧に終日警備させ,このため危険な風習はやんだ。なお塔頭︵たつちゆう︶の成就院は,もと当寺の本坊であり,幕末の住職月照と弟信海は勤王僧として西郷隆盛らと活躍し,いま門前にその碑がある。江戸初期につくられた当院の庭は,洛中を俯瞰する池泉観賞式の庭園で,池中に鶴亀の2島を配し,東山を背景にして二重の籬︵まがき︶をめぐらし,閑雅な景趣に富み,いま名勝に指定されている。
執筆者‥藤井 学
美術
現在の伽藍はおもに江戸時代初期の建立になるもので,本堂︵国宝。1633︶は旧規を守って南面する懸造︵かけづくり︶の舞台を設け,石畳床の内陣を拝する外陣がこれに接する。優美な照り起︵むく︶りの曲線を描く檜皮︵ひわだ︶葺きの屋根は,平安朝以来の伝統であろう。これより東の山腹には,釈迦堂・阿弥陀堂・奥の院がつづき,西側には,朝倉堂・田村堂・経堂・三重塔・西門とつづく。いずれも本堂と同時期の建立になる。西門より少し北西にある室町時代の仁王門と馬駐︵うまとどめ︶は,清水坂を登ってきた参詣者がまず目にするもので,以上いずれも重要文化財の伽藍15棟に含まれる。本堂本尊の木造十一面観音立像,三重塔の木造大日如来座像などの彫刻,本堂外陣の絵馬のうち,角倉船・末吉船を描く奉納額︵寛永期︶,鉄鰐口︵1236︶,梵鐘︵1478︶なども重要文化財である。
執筆者‥益田 兼房
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清水寺(きよみずでら 京都市)
きよみずでら
京都市東山(ひがしやま)区清水にある法相(ほっそう)宗大本山。山号は音羽山(おとわさん)。古くは北観音(きたかんのん)寺とも称した。西国(さいごく)三十三所第16番札所。﹃清水寺縁起﹄によると、大和(やまと)︵奈良県︶小島(こじま)寺の延鎮(えんちん)が修行の途次、夢告によって山城(やましろ)国愛宕(おたき)郡八坂郷東山の麓(ふもと)にきて、そこを霊勝の地として練行しているとき、狩猟中の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)に会い、その妻高子のために加持祈祷(かじきとう)を行って効験があった。のち田村麻呂の助力を得て観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)を安置するため伽藍(がらん)を造営したのに始まるという。平安初期の年紀をもつ﹃清水寺建立記﹄によれば、田村麻呂が、産女(うぶめ)のために鹿を求め屠(ほふ)ったところ、一沙門(しゃもん)に殺生(せっしょう)の罪を諭される。このことを高子に語ったところ、高子が無量の罪を懺悔(ざんげ)するため、家を壊して仏殿を建て、観世音菩薩を安置させたという。田村麻呂が東国遠征に際して延鎮に国家平定を祈るよう依頼し、平定なるとこれを仏徳によるものとし、延鎮を内供奉(ないぐぶ)十禅師に推し、寺地を施入(せにゅう)したという。一説には創建を780年︵宝亀11︶とする。清水寺は坂上氏の氏寺であったと思われる。805年︵延暦24︶桓武(かんむ)天皇の御願寺(ごがんじ)となり、810年︵弘仁1︶には鎮護国家の道場とされた。奈良の興福寺に属し、延暦(えんりゃく)寺に属する祇園感神院(ぎおんかんじいん)︵八坂神社︶と、南都北嶺(なんとほくれい)の最前線としてたびたび争い、堂塔はしばしば災火にあったが、そのつど再建された。幕末の住職に勤皇僧月照(げっしょう)がいた。
現在の本堂︵国宝︶は1633年︵寛永10︶徳川家光(いえみつ)による再建で、創建時の姿を伝えるとみられる懸造(かけづくり)の広い舞台は﹁清水の舞台﹂として名高い。また、仁王門、馬駐(うまとどめ)︵以上は室町時代︶、鐘楼︵桃山時代︶、西門、三重塔、経堂、開山堂、朝倉堂、釈迦(しゃか)堂、阿弥陀(あみだ)堂、奥の院︵以上は江戸時代︶など国の重要文化財指定の建物が連なり、境内は公園風となっている。本堂の北にある本坊の成就院は月照と弟子信海の住したところで、その庭園は東山を借景とした池泉観賞式の名園である。本尊十一面観音像︵国重要文化財︶は、奈良の長谷寺(はせでら)、近江(おうみ)︵滋賀県︶の石山寺と並ぶ観音霊場として信仰を集めた。﹃今昔(こんじゃく)物語集﹄には、貧乏な女が清水の観音に祈ったところ、金、好運、男などを得て幸福になった話がある。また紫式部、伊勢大輔(いせのたゆう)が同時に参籠(さんろう)したときの歌があり、清少納言や﹃更級(さらしな)日記﹄の作者菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)なども参籠しており、観音菩薩の霊験(れいげん)は古典文学にも多く紹介されている。奥の院の下にかかる﹁音羽の滝﹂は寺名の由来をなし、病に効くとしていまなお祈誓する者が多い。堂内には多くの絵馬が奉納されており、とくに航海の安全を祈った絵馬﹁渡海(とかい)船額﹂4面︵末吉(すえよし)船図3、角倉(すみのくら)船図1︶は有名で、国重要文化財である。清水寺は1994年︵平成6︶、世界遺産の文化遺産として登録された︵世界文化遺産。京都の文化財は二条城など17社寺・城が一括登録されている︶。
おもな年中行事に、観音縁日︵毎月17、18日︶、修正会(しゅしょうえ)︵1月1~7日︶、修二会(しゅにえ)︵2月1~3日︶、開山忌︵5月23日︶、千日参り︵8月9~16日︶、仏名会(ぶつみょうえ)︵12月1~3日︶がある。
﹇田村晃祐﹈
清水寺(きよみずでら 島根県)
きよみずでら
島根県安来(やすぎ)市清水町にある天台宗の寺。瑞光(ずいこう)山と号し、﹁せいすいじ﹂とも称する。出雲(いずも)国第一の古寺。当寺の縁起によると、587年︵用明天皇2︶尊隆が山上に瑞光をみて洞穴に観音(かんのん)像を発見し、この地に庵(いおり)をつくって住し、のち推古(すいこ)天皇に奏上して堂舎が建てられたと伝える。806年︵大同1︶盛縁(じょうえん)︵726―813︶が中興した。847年︵承和14︶、天台座主(ざす)円仁(えんにん)が密教の修法である大灌頂光明真言会(だいかんじょうこうみょうしんごんえ)を始めて以来、毎年修するのを例とし、現在も10月17日に営まれている。永禄(えいろく)年間︵1558~70︶兵火により本堂を除くすべての堂舎を焼失したが、毛利(もうり)家および松江藩主歴代により再建された。山内には根本堂︵国重要文化財︶、常念仏堂、三重塔、護摩堂(ごまどう)、開山堂、閼伽井(あかい)堂など堂舎が多い。また1972年︵昭和47︶に建てられた宝蔵には厄除(やくよけ)観音とよばれる十一面観音像をはじめ、弥陀(みだ)三尊、丈六阿弥陀如来(あみだにょらい)座像︵以上は国重要文化財︶など多くの文化財を納めている。
﹇塩入良道﹈
清水寺(せいすいじ 長野県)
せいすいじ
長野市若穂(わかほ)町保科(ほしな)にある真言(しんごん)宗智山(ちさん)派の寺。阿弥陀(あみだ)山護国院と号する。通称保科観音(かんのん)という。本尊は千手(せんじゅ)観音。信濃(しなの)観音第16番札所。行基の開創と伝えられ、801年︵延暦20︶坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が奥州出征の途次当寺に祈願し、凱旋(がいせん)後の806年︵大同1︶に寺堂を再建し、寺の鎮守として自分の兜(かぶと)の鉄鍬形(くわがた)︵国重要文化財︶と敵の直刀(ちょくとう)一振りを奉納した。1916年︵大正5︶保科の大火で一山堂宇はことごとく焼失したが、ただちに復興に着手し、奈良県桜井市の石位寺︵廃寺︶旧蔵の仏像七体、本尊の千手観音坐像(ざぞう)、地蔵菩薩、薬師如来(にょらい)、聖(しょう)観音菩薩、阿弥陀如来、広目天・多聞天の木像︵いずれも国重要文化財︶を安置。ほかに鎌倉時代の絹本着色両界曼荼羅(まんだら)二幅︵国重要文化財︶がある。
﹇野村全宏﹈
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清水寺【きよみずでら】
︿せいすいじ﹀とも。京都市東山区にある北法相宗の寺。山号は音羽山。本尊は十一面観音で,西国三十三所第16番札所。︿清水寺縁起﹀によれば延鎮を開基として坂上田村麻呂が798年に創建。805年桓武天皇の御願寺,810年鎮護国家の道場となり隆盛したが,天災のほか,興福寺に属したため延暦寺と興福寺の紛争に巻き込まれたこともあって焼失破壊を重ねた。現在の本堂︵国宝︶は1633年再建のもので,密教本堂の典型的形式を示す。急崖にあるため長い束柱(つかばしら)でささえられたいわゆる懸造(かけづくり)となっており,前面は︿清水の舞台﹀として有名。檜皮葺(ひわだぶき)の大きな寄棟(よせむね)造は江戸時代建築の代表的遺構。1994年世界文化遺産に登録。
→関連項目絵馬|大西良慶|金山寺|京都﹇市﹈|清水坂|五条大橋|古都京都の文化財︵京都市,宇治市,大津市︶|篦峯寺|車借|しんとく丸|東山﹇区﹈
清水寺︻きよみずでら︼
島根県安来(やすぎ)市にある天台宗の寺。︿せいすいじ﹀ともいう。平安初期の創建で,本尊十一面観音は重要文化財。戦国期尼子(あまこ)氏の庇護を得て寺勢を伸ばし,1545年―1555年に鰐淵(がくえん)寺と法座の座位を争っている。尼子氏没落後は毛利氏の外護下に入った。江戸期には松江(まつえ)藩主から保護された。1393年建立の本堂,平安期の木造の阿弥陀如来座像及び両脇侍座像は重要文化財。
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清水寺
きよみずでら
京都市東山区にある北法相宗の本山。音羽山と号す。西国三十三所観音の16番札所。「清水寺縁起」「東宝記」によれば,778年(宝亀9)に延鎮(えんちん)がこの地に庵を結び練行していたが,坂上田村麻呂がこれに帰依・助力して,798年(延暦17)十一面観音を造像・安置して清水寺と称し,805年田村麻呂の私寺として承認されたとある。のち興福寺の末寺となったが,祇園感神院との対立や興福寺と延暦寺との抗争にまきこまれ,しばしば堂舎の焼打にあった。のち徳川家光の援助により寺観が整備された。本堂は国宝,本尊の十一面観音は重文。
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清水寺
きよみずでら
京都市東山区清水にある北法相宗の総本山。第2次世界大戦後法相宗より独立。せいすいじ,きよみでらともいう。延暦 17 (798) 年,坂上田村麻呂の創建という。北観音寺とも称したと伝え,観音信仰によって栄えた。本堂は懸崖にのぞんで舞台が張出しており,国宝。ほかに木像『十一面観音』,渡海船額4面など重要文化財があり,5月 23日には田村麻呂を祀る田村忌がある。
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清水(きよみず)寺〔長崎県〕
長崎県長崎市にある寺院。「せいすいじ」とも読む。真言宗霊雲寺派。山号は長崎山(ちょうきさん)。1623年創建と伝わる。本尊は千手観世音菩薩。本堂は国の重要文化財に指定。安産や病気平癒に効くとされる“びんづるさん(撫で仏)”で知られ、地元では「清水(きよみず)さん」「清水観音」などともいう。
清水(きよみず)寺︹京都府︺
京都府京都市東山区にある寺院。北法相宗。山号は音羽山。798年の建立と伝わる。本尊は十一面千手観世音菩薩。国宝の本堂は山の斜面から張りだした造りで﹁清水の舞台﹂と呼ばれる。﹁古都京都の文化財﹂の一部としてユネスコの世界文化遺産に登録。西国三十三所第16番札所。
清水(きよみず)寺〔福岡県〕
福岡県みやま市にある天台宗の寺院。山号は本吉山、院号は普門院。806年、最澄による創建と伝わる。本尊は千手観音。安産子授け、縁結びの寺として知られる。郷土玩具「清水のきじ車」の発祥の寺とされる。
清水(きよみず)寺〔兵庫県〕
兵庫県加東市の清水山(御嶽山)山頂にある寺院。宗派は天台宗、本尊は十一面観音(根本中堂)、千手観音(大講堂)。西国三十三所、第25番札所。播州清水寺ともいう。
清水(きよみず)寺〔千葉県〕
千葉県いすみ市にある天台宗の寺院。山号は音羽山、院号は千手院。本尊の十一面観世音像にちなみ「清水観音」とも呼ばれる。
清水寺〔青森県〕
青森県八戸市にある浄土真宗の寺院。明治時代に天台宗より改宗。1581年建立の観音堂は国の重要文化財に指定されている。
清水寺〔島根県〕
島根県安来市にある天台宗の寺院。山号は瑞光山。587年開山と伝わる。本堂は国の重要文化財に指定されている。
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清水寺
きよみずでら
京都市東山区清水町にある法相宗の寺
798年坂上田村麻呂が延鎮(賢心)を開山として建立。のち興福寺の末寺となり,観音信仰の霊場として繁栄した。争乱や天災によりたびたび焼失し,現在の建物は江戸幕府3代将軍徳川家光が再建したもの。崖 (がけ) にのぞんでの舞台造は有名。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
世界大百科事典(旧版)内の清水寺の言及
【岬[町]】より
…南房総国定公園に含まれる太東崎は九十九里浜の眺望にすぐれ,海浜植物群落(天)がある。坂東三十三所32番札所の清水(せいすい)寺は日本の三清水寺の一つに数えられる。【千葉 立也】。…
【清水坂】より
…京都市東山区内の地名で,東大路通松原から東へ,[清水寺]の前にいたる坂道の参道をいう。︿清水﹀の地名は音羽滝(清水寺境内)の清水にちなんで生まれたとも伝えられ,このあたりは古くには︿清水岡﹀と呼ばれていたらしい。…
【坂上田村麻呂】より
…女の春子は桓武天皇の後宮に入り,葛井親王を生んでいる。︻高橋 富雄︼
﹇田村麻呂をめぐる伝承﹈
田村麻呂が東山で僧延鎮(もと賢心)と会い,力をあわせて観音像を作り,仏殿を建ててこれを安置し[清水寺]と号したことは︽清水寺縁起︾(伝藤原明衡作),︽今昔物語集︾,︽扶桑略記︾などに見え,中世に入っても多くの書物に散見する。︽吾妻鏡︾は田谷窟︵たつこくのいわや︶(現,達谷窟)について述べる中に︿田村麿・利仁等の将軍﹀が蝦夷征伐のとき,敵主悪路王︵あくろおう︶・赤頭︵あかがしら︶たちがこの窟に柵を構えたとし,のち,田村麻呂が窟前に堂を建て西光寺と号して,鞍馬に模して多聞天(毘沙門天)像を安置した(文治5年(1189)9月28日条)と伝える。…
※「清水寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」