デジタル大辞泉
「皇后」の意味・読み・例文・類語
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こう‐ごうクヮウ‥【皇后】
(一)〘 名詞 〙
(二)① 天皇、皇帝の嫡妻(ちゃくさい)。天皇の妻。﹁皇室典範﹂によれば、皇族の一員で、摂政が置かれるとき、第三の順位で就任する。きさき。きさいのみや。皇后宮。
(一)[初出の実例]﹁詔立二正三位藤原夫人一為二皇后一﹂(出典‥続日本紀‐天平元年︵729︶八月戊辰)
(二)[その他の文献]︹史記‐衛青伝︺
(三)② 太皇太后、皇太后、皇后の三者を総称していう。
(一)[初出の実例]﹁皇后四人例徃古不レ聞事也﹂(出典‥小右記‐永祚二年︵990︶九月三〇日)
(四)③ 天皇即位以前に薨じた皇太子妃などに皇后位を追贈され、また、天皇と配偶関係にない内親王などに贈られた尊称にいうこともある。尊称皇后。皇后宮。
皇后の補助注記
天皇の生母となった時に皇太后、祖母となった時に太皇太后と称され、これらを合わせて皇后とも称される。
こう‐ぐうクヮウ‥【皇后】
- 〘 名詞 〙
- ① =こうごう(皇后)
- [初出の実例]「微子をうむ時は、母未皇后(くゎうクウ)の位にたたず」(出典:応永本論語抄(1420)微子第一八)
- ② 「こうぐうかずら(皇后鬘)」の略。
- [初出の実例]「鬟品目 皇后(カウグウ)山姥いせの二従などにて用るなりまた白髪もあり」(出典:楽屋図会拾遺(1802)下)
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皇后 (こうごう)
日本
天皇の嫡妻。上古には天皇の妻室である后妃をキサキといい,その最上位者を︿大后﹀すなわちオオキサキと称したが,中国の制に倣ってからこれを皇后と称した。︽令義解︾は皇后に︿天皇之嫡妻﹀と注しているが,のちには天皇と配偶関係のない皇后が置かれたこともある。長秋宮,秋の宮,椒房︵しようぼう︶,椒庭︵しようてい︶などは皇后の別称である。
資格
令制によると,皇后は内親王から選定するとあるが,聖武天皇が藤原不比等の女安宿媛︵あすかべひめ︶︵光明皇后︶を皇后に立てて以来,内親王以外からも皇后に立てる例が開かれた。奈良時代の安宿媛以来江戸時代末に至る皇后63人の出自をみると内親王は21人で,藤原氏出身者は37人と過半数を占め,その他は5人である。なお1889年制定の皇室典範では,皇后は皇族または特定の華族の女子を充てると定めたが,現制ではとくに制限はない。
冊立
皇后は古来︿某を皇后と定め賜う﹀旨の詔によって冊立されるのが例で,江戸時代末までは,天皇が即位する以前すでに嫡妻となっていても,皇后となるには冊立の儀を要した。平安時代中期以降の事例によると,冊立の儀は,まず女御︵にようご︶として入内ののちに行われたが,南北朝時代以降,冊立の儀が中絶し,したがって皇后が置かれなくなった。その後,江戸時代の初頭,徳川秀忠の女和子が後水尾天皇の女御として入内し,ついで立后の儀が行われて冊立の制が再興され,幕末に及んだ。しかし明治の皇室典範の制定後は,皇太子が皇位を継承すると同時に皇太子妃は皇后となり,天皇の結婚である大婚にのみ立后の儀が行われ,詔書が発布されることになった。
待遇
令制によると元日の朝儀には天皇と同じく皇太子以下群臣の拝賀を受け,皇后の死去は崩御といい,山陵,国忌を設けるなど,天皇に准じている。しかし班位は,太皇太后,皇太后の下,皇太子の上におかれた。なお明治の皇室典範以降においては,皇后は皇太后,太皇太后,皇太子の上と定められた。言辞は令旨,臣下より皇后に申すのは啓,出行は行啓,敬称は殿下︵明治以降は陛下︶と称するなど,皇太子の待遇に通じるものもある。
付属職司の変遷
令制によると,皇后は太皇太后,皇太后とともに付属職司として中宮職︵しき︶を充てられ,大夫以下の官人が奉仕すると定めている。しかし聖武天皇の生母で皇太夫人藤原宮子に中宮職を付属させ,安宿媛の立后に当たって,新たに皇后宮職を設けて以来,平安時代中期までは皇太夫人に中宮職を,皇后には皇后宮職を付属させた。一時醍醐天皇の皇后藤原穏子に中宮職を付属させて令制に戻したが,一条天皇のとき藤原定子,同彰子を相ついで皇后に立て,皇后が並立するに及び定子に皇后宮職を,彰子に中宮職を付属させた。こののち新立の皇后に中宮職を,先立の皇后に皇后宮職を付置するのを例とし,それぞれ中宮,皇后宮と称して区別したが,身位はともに皇后である。なお平安時代末から鎌倉時代にかけて,内親王の優遇策として天皇と配偶関係のないものを皇后に冊立した例が11例あるが,初例の白河天皇の皇女媞子内親王に中宮職を付置したほかは,すべて皇后宮職を充てている。なお現制では皇后宮職はおかない。
執筆者‥米田 雄介
中国
皇帝の正妻の称号。后には︿きみ﹀と︿のち﹀の二つの意味があり,皇后にも至尊の地位を表すとする説,天子の後に従うことをいうとする説がある。周王の正妻は王后と呼ばれ,皇后の名称が行われるのは,皇帝号の始まった秦の始皇帝以後である。皇后の別称である椒房は,その宮殿を土と椒を交ぜ合わせたもので塗り,温かく香ばしく実の多いことをねがったことによる。また漢代に建てられた長秋宮の名から長秋とも呼ぶ。皇帝は皇后のほかさまざまの名称をもつ妃嬪︵ひひん︶を抱えており,それらの定員は複数で,それぞれ位階がある。たとえば唐制では妃3人正一品,六儀6人正二品,美人4人正三品,才人7人正四品であるが,皇后は1人に限られ,また位階を越えた存在である。しかし古の帝嚳︵ていこう︶の時代には四つの星にたとえられる四妃があり,そのうち最も明るい星が后となったという説がある。漢以後においても,前趙の劉聡,北周の宣帝のように複数の皇后を立てた例があり,これらは北方民族の風習との関連で考えるべきであろう。
皇后の任務は妃嬪たちを率いて皇帝の家庭生活を正しく運営し,それによって天下に範を垂れることである。皇帝と皇后および妃嬪たちによって営まれる家庭生活は,国政一般に対しては私生活であるが,帝王の家庭として特別の意味をもつ。たとえば皇帝が毎春行う籍田の礼は天下の民に対して勧農の意味をもつが,皇后もこれに対応して毎春親蚕︵桑つみと養蚕の儀礼︶を行った。皇后のこのような位置と役割は多分に家族道徳を重んずる儒家思想によるもので,皇后は婦徳にすぐれ才色兼備たることを要求された。また政治に介入することを厳しく禁じたが,皇帝が幼少,病弱な場合など朝政に干渉した例はまれでなく,西晋恵帝の賈后,唐高宗の則天武后,中宗の韋后などはそこから政治の混乱を招いた。皇后・妃嬪の伝記としては歴代の正史に后妃伝が立てられている。
執筆者‥谷川 道雄
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皇后
こうごう
﹁きさき﹂﹁きさいの宮﹂﹁椒房﹂などともいう。天皇の正妻のことで,明治以前では,特に正式に立后の宣命を受けた正室だけをさした。この立后の宣命を受けるものは,律令制のもとでは皇族の女子を原則とすると定められていた。しかし,聖武天皇が臣下の藤原不比等の娘光明子 (光明皇后 ) を立后して以来,臣下,特に大臣の娘が皇后となる例もしばしばみられた。古くから皇后の地位に対する身分的待遇はきわめて高く,崩御,山陵など天皇に対すると同じ言葉が使われたが,敬称は明治まで殿下であった。皇后は同時に2人以上併立しないことが原則であったが,前帝の皇后が譲位後も皇后と称し,新帝の皇后と併立したり,1人の天皇に2人の皇后が同時に併存したりする例もみられた。このような場合には,職制のうえでは一方を皇后,他方を中宮と称し,それぞれ付属職制として,皇后宮職,中宮職をおいた。南北朝のときから立后の儀式は一時廃止されたが,江戸幕府が成立すると,徳川秀忠の娘和子が後水尾天皇の皇后に立后されてから,再び行われるようになった。 1889年2月,﹃皇室典範﹄が制定されてからは,皇太子妃は,皇太子が皇位を継承すると同時に自動的に皇后の地位につくことと定められた。これ以外にすでに天皇の地位にある人と結婚した場合には,特に立后の詔書が発布されることになっていた。 1947年1月,新皇室典範が制定,公布されて,立后の場合,皇室会議の議を経ることとなった。
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皇后【こうごう】
天皇の正式な配偶者。古くは︿きさき﹀︿きさいのみや﹀とも。現在は皇族の第一位にあり,摂政就任順位は皇太子または皇太孫,親王および王に次ぐ。皇太子妃は皇太子の皇位継承と同時に自動的に皇后となるが,皇位継承後新たに皇后を決定︵立后︶するには皇室会議の決定を必要とする。
→関連項目太皇太后|中宮|女御|妃|立后
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普及版 字通
「皇后」の読み・字形・画数・意味
【皇后】こう(くわう)こう
天子。また、王妃。︹書、顧命︺太
~册︵策︶命(さくめい)して曰く、皇后︵成王︶、玉几に憑(よ)り、末命を
揚す。汝に命じて訓を嗣ぎ、臨みて![](/image/dictionary/jitsu/gaiji/14/1192b5.gif)
に君とし、大卞(たいへん)︵大法︶に
循し、天下を燮和(せふわ)し、用(もつ)て
・武の光訓に答揚せよ。
字通﹁皇﹂の項目を見る。
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皇后
こうごう
天皇の嫡妻。以前から嫡妻的なキサキである大后(たいこう)はいたが,皇后の称号が定着したのは天武朝と考えられ,大后と共通する面をもつが,まったく同一かどうかは未詳。大宝律令では,文書は令旨・啓,敬称は殿下と称されて平出(へいしゅつ)の扱いをうけ,また中宮職(名称は皇后宮職)の設置,天皇に関する条項の準用が規定されている。出自規定はないが,光明皇后以前は皇族が大半を占め,逆に以後は,諸臣とくに藤原氏出身がほとんどである。一条天皇のときから2后がたち,皇后宮職・中宮職が設置された。なお贈皇后が3人おり,また媞子(ていし)内親王から天皇の姉や伯叔母が准母として立后される例が開かれた。明治期には「皇室典範」で出自を皇族や特定の華族に限ったが,現在そのような制限はない。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の皇后の言及
【女帝】より
…それ以前では,︽三国志︾魏志倭人伝に,2世紀末から3世紀後半まで女王卑弥呼︵ひみこ︶と台(壱)与︵とよ︶とが倭の邪馬台国を支配したとある。︽日本書紀︾では神功皇后が仲哀天皇の死後69年間摂政したとするが,史実かどうか疑わしい。6世紀の初め,市辺押磐王の女(妹ともいう)飯豊青︵いいとよあお︶皇女が,清寧天皇の没後皇位につく人がなかったので,約1年間政治をとったといい,︽扶桑略記︾はこれを飯豊天皇とする。…
【大婚】より
…天皇の結婚。大宝・養老令制によると,後宮には嫡妻である皇后のほかに,妃・夫人・嬪︵ひん︶がおかれ,皇后は内親王に限り,その他は貴族出身の女子としたが,大婚の儀制は制度的にも実際的にも明らかではない。ついで奈良時代中期に夫人から皇后に昇る例が開かれ,さらに平安時代に入ると,妃・夫人・嬪の制がしだいにすたれ,代わって女御・更衣がおかれ,なかんずく皇族や摂関家などの上級貴族の女が女御となり,やがて女御から皇后に昇るのが常例になって女御の地位が高まると,女御入内が大婚に相当するようになり,盛大な儀式が行われた。…
【中宮】より
…平安時代の令の注釈書︽令義解︾は皇后の居所である皇后宮の別称であるとし,したがって太皇太后宮,皇太后宮もまた中宮と称したのだとする。このことから中宮は皇后,皇太后,太皇太后の別称ともみられるが,公式令では皇后などが[平出]︵へいしゆつ︶すべき称であるのに対して,中宮は[闕字]︵けつじ︶すべき称であり,それだけ略称的な呼称であったかもしれない。…
【中皇命】より
…古代の皇后あるいは女帝を指す語。仲天皇とも書く。…
【女御】より
…女御には位階や定員についての規定もなく,比較的自由な任命が可能であった。淳和朝以降,妃,夫人,嬪などがほとんど置かれなくなり,ときとして[皇后]すら置かれなかったこともあったから,後宮における女御の地位は徐々に高まった。10世紀に入ると皇后も女御から昇進するようになり,位階も,やがて入内と同時に従三位に叙せられるようになった。…
※「皇后」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」