(読み)リョウ(英語表記)Liáo

デジタル大辞泉 「遼」の意味・読み・例文・類語

りょう〔レウ〕【遼】

 
()()916()()()()()()()()()()1004()()1125西  
 

 
 
1 
2 ()()西
 

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精選版 日本国語大辞典 「遼」の意味・読み・例文・類語

りょうレウ【遼】

 

(一)()西
 

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改訂新版 世界大百科事典 「遼」の意味・わかりやすい解説

遼 (りょう)
Liáo


916-1125

 ︿8849退1090190719162

 9243西

 938194612

 361004221西西西西911151255西西

156209︿︿

102010調貿西貿

3西


1012使2001

 ︿︿

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「遼」の意味・わかりやすい解説


りょう


()90711254()5()()696()()()()()907916()92469259()()12()926()()7()

 936()()()()943946947()2()()434()

 5()9826129839851004()2010()()()()()貿()31009()111411258()西()西()西


官制

遼の官制は時代とともに変遷があるが、太宗時代、華北に勢力が伸張するにつれ、契丹人や諸遊牧民の統治には従来からの固有の制度(北面制)が用いられ、漢人や渤海人、高麗(こうらい)人などの定着農耕民の統治には中国的な制度(南面制)が採用された。北面制の最高行政機関は北枢密院(すうみついん)で、契丹人の軍政・民政および農耕民の軍政を統領した。北枢密院の管下には北・南宰相府(部族行政)、北・南宣徽(せんき)院(造営)、大于越(うえつ)府、夷離畢(いりひつ)院(刑獄)、大林牙(だいりんが)院(文書)、敵烈麻都司(てきれつまとし)(儀式)などの役所があった。契丹の皇族あるいは準皇族として待遇された貴族は、帳族とよばれ、遙輦(ようれん)九帳、皇族帳、国舅(こくきゅう)帳、国舅別部の四大帳族があり、それぞれ部族を領有した。部族には大部族(五院部、六院部、乙室部、奚(けい)六部)と小部族(品部以下48部)があり、大部族を統轄する官庁として北・南大王院、乙室大王府、奚王(けいおう)府があり、小部族には部族司徒府、部族節度使司、部族詳穏(しょうおん)司が置かれた。南面制の最高行政機関は南枢密院で、唐の制度に倣った三省六部の役所が置かれ、農耕民の民政を統領した。農耕定着民に対する地方行政機関としては中国のそれとまったく同じ州県制が施行された。契丹は中国への出兵の際略奪した農耕民を集団的に領内に移し、農民の原住地の名をとって何州、何県と名づけた。これらの州県は頭下州あるいは頭下軍とよばれた。また皇帝直轄の州県を斡魯朶(オルド)(宮衛)の州県、皇帝の陵墓に奉仕する州県を奉陵邑(ほうりょうゆう)とよんだ。

[河内良弘]

社会・文化

遼代の契丹はすべて耶律(やりつ)(移剌(いら))と審密(しんみつ)(石抹(せきまつ)、蕭(しょう))の2姓に分かたれていた。耶律姓と審密姓とは族外婚の単位(フラトリー)であり、耶律は馬をトーテムとし、審密(石抹、蕭)は牛をトーテムとする血縁集団で、かつ相互に族外婚の単位をなしていた。契丹の民族固有の信仰はシャーマニズムで、氏族的儀礼や人々の疾病の際に果たすシャーマンの役割は大きかった。しかし建国後は仏教や道教も取り入れられ、中国僧が招かれ、各地に仏寺や仏塔が建てられた。仏教関係の建築物では塼築(せんちく)の仏塔が代表的で、遼寧省義県の嘉福寺の多角多簷(たえん)塔、巴林左旗の林東市の南塔、巴林左旗の白塔子の白塔が有名である。木造建築では山西(さんせい/シャンシー)省応県の仏宮寺の木塔のほか、仏教関係の建物が多く遺存している。契丹はまた民族的自覚の高揚に伴い、契丹文字といわれる独自の文字を創製した。これは西夏、女真などに影響を及ぼし、各民族が独自の文字を創製する先駆けとなった。契丹は美術、工芸の面でも格調の高い文物を後世に伝えている。絵画では慶陵(けいりょう)の壁画にみられる山水画、人物画は、唐代の手法によりつつも契丹地方の風景を画題とした優れた作品であり、陶磁器では長壺、提袋壺、遼三彩、白磁など、独得の趣向を備えた逸品が多い。

[河内良弘]

『田村実造著『中国征服王朝の研究』(上 1964・東洋史研究会、下 1985・同朋舎出版)』『島田正郎著『遼代社会史研究』(1952・三和書房)』『島田正郎著『遼制之研究』(1954・中沢印刷)』


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百科事典マイペディア 「遼」の意味・わかりやすい解説

遼【りょう】

 
()()926()26()1125()()西()
 

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「遼」の意味・わかりやすい解説


りょう
Liao

 
907/161125︿西19161926西1947622100451125  

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「遼」の解説

遼(りょう)
Liao


9161125

()()907916()29366()()1125()()()西()()()()()

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旺文社世界史事典 三訂版 「遼」の解説


りょう

916〜1125
契丹 (きつたん) 族の建てた国
東モンゴルのシラ−ムレン川流域からおこった遊牧民国家で,太祖耶律阿保機 (やりつあぼき) のとき建国。東は中国東北部,西は内モンゴルまでを領土とし,臨潢府 (りんこうふ) に都した。926年に渤海を滅ぼし,936年に後晋の建国支援の代償として華北の燕雲十六州を領有。諸制度が整い中央集権的体制が確立するとともに,北宋とは淵淵 (せんえん) の盟を結んで優位にたち,平和を維持した。契丹人らには部族制を,漢人らには州県制を適用する二重統治体制をとり,独特の契丹文字を作成する一方,漢文化も吸収した。女真人の金に滅ぼされたが,一族の耶律大石は中央アジアに西遼を建てた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「遼」の解説


りょう


()(9161125)10()()916()西西西1004()1115()()25()

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世界大百科事典(旧版)内のの言及

【澶淵の盟】より

…中国で1004年(宋の景徳1∥遼の統和22)宋と遼の間に結ばれた和平条約。五代から宋初,河北に領域を広げる遼と,失地回復を目ざす漢民族王朝の間に攻防がくりかえされた。…

※「遼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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