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「鹿児島」の意味・読み・例文・類語
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かごしま【鹿児島】
(一)[1]
(一)[ 一 ] 鹿児島県中南部、鹿児島湾に臨む地名。県庁所在地。江戸時代は島津氏七七万石の城下町として栄えた。特産は大島紬(つむぎ)、薩摩焼、焼酎(しょうちゅう)など。明治二二年︵一八八九︶市制。
(一)[初出の実例]﹁康国什麽 カゴシマ 鹿児島﹂(出典‥日本図纂︵1561︶)
(二)[ 二 ] ﹁かごしまけん︵鹿児島県︶﹂の略。
(三)[ 三 ] 鹿児島県、薩摩半島の北東部の郡。現在の鹿児島市域もかつては含まれていた。
(一)[初出の実例]﹁薩摩国 ︿略﹀鹿児島︿加古志万﹀﹂(出典‥二十巻本和名抄︵934頃︶五)
(二)[2] 〘 名詞 〙
(一)① 薩摩国︵鹿児島県︶で産出される紬(つむぎ)。
(一)[初出の実例]﹁さやうかえ・かご島隅へちょっと脱﹂(出典‥雑俳・あふむ石︵1839︶)
(二)② ﹁かごしまげた︵鹿児島下駄︶﹂の略。
(一)[初出の実例]﹁かごしまの音からからと﹂(出典‥洒落本・窃潜妻︵1807︶下)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
鹿児島[県] (かごしま)
基本情報
面積=9188.78km2︵全国10位︶
人口︵2010︶=170万6242人︵全国24位︶
人口密度︵2010︶=185.7人/km2︵全国36位︶
市町村︵2011.10︶=19市20町4村
県庁所在地=鹿児島市︵人口=60万5846人︶
県花=ミヤマキリシマ
県木=カイコウズ,クスノキ
県鳥=ルリカケス
九州地方南部の県。本州弧の最南西端と,その西方の甑島︵こしきじま︶列島およびその南方の沖縄諸島までの間に連なる薩南諸島を含む。北は宮崎・熊本両県に隣接する。
沿革
明治初年までの大隅国,薩摩国にあたり,江戸時代は鹿児島藩︵薩摩藩︶に属した。1871年︵明治4︶廃藩置県をへて,大隅国の一部と薩摩国,琉球国は鹿児島県に,他は都城県に属したが,翌年琉球国は鹿児島県を離れ,73年都城県が廃されて現在の県域となった。76年宮崎県を合併したが,83年再び分離した。第2次大戦後は薩南諸島の大部分が沖縄のアメリカ軍軍政下に置かれたが,1951年返還された。
鹿児島県の遺跡
先縄文文化期の本県の様子はまだよく解明されていないが,上場︵うわば︶遺跡︵出水︵いずみ︶市︶の第6層でナイフ形石器やチョッピングトゥールなどが出土し,第4層でナイフ形石器,台形石器などが,そして第2・3層では細石刃などの石器が爪形文土器を伴って出土している。縄文時代の遺跡としては貝塚が多い。県北八代︵不知火︶海岸には縄文早期から後期の土器を層位的に出土した出水貝塚︵出水市︶,薩摩半島西海岸では縄文後期の人骨3体を出土した市来貝塚︵いちき串木野市︶,薩南諸島では奄美大島の宇宿︵うすく︶貝塚︵奄美市︶や徳之島の面縄︵おもなわ︶貝塚︵大島郡伊仙町︶などがある。これら奄美諸島の貝塚では縄文・弥生式とは異なる琉球・奄美系の土器文化が中心をなすが,ことに宇宿貝塚では宇宿下層式と市来式が伴出したことから宇宿下層式が縄文後期並行であることが判明した。このほか塞ノ神︵せのかん︶遺跡︵伊佐市︶,黒川洞穴︵日置市︶は,それぞれ前期塞ノ神式,晩期黒川式の標式遺跡として重要である。また指宿︵いぶすき︶遺跡︵指宿市︶は火山堆積層をはさんで上下に弥生式と縄文式を出土し,両土器文化の時間的前後関係が証明されたことで学史上著名である。
弥生文化では,種子島南東部海岸の中~後期の埋葬遺跡で饕餮文︵とうてつもん︶のある貝符や竜佩などの貝製品を出土したことで知られる広田遺跡︵熊毛郡南種子町︶のほか,前期の高橋貝塚︵南さつま市︶や中期の祭祀遺跡で立石と円形組石を伴う山ノ口遺跡︵肝属郡錦江町︶,それに中~後期の集落址一の宮遺跡︵鹿児島市︶などがある。成川遺跡︵指宿市︶は弥生中期から古墳時代中期ごろの立石墓群で,200体にも上る埋葬人骨があったが,墓の形態や,土器と鉄器を中心とする副葬品などのうえで男女の差はあっても,どの時期にも特別の扱いのものはみられず,この地方では古墳時代に至ってもなお階級的社会が未成熟であったことを示していて興味深い。そればかりか弥生時代の北九州などに一般的な甕棺,箱式石棺,支石墓などもなく,畿内型高塚古墳の分布も,志布志湾沿岸と県北出水地方にほぼ限られる。これに対し南九州独特の墓制として,宮崎県南部から大隅半島とりわけ肝属︵きもつき︶平野や旧伊佐郡地方に多く分布する地下式横穴と,大隅地方にはまったくみられず熊本県南部から川内川流域,出水地方に集中的に分布する地下式板石積石室︵地下式土壙︶とがある。これらは弥生後期の伝統のもとに,3世紀ころから形成された隼人文化独特の地方的墓制なのであろう。歴史時代では,大隅国府並びに国分寺址︵霧島市︶,薩摩国府並びに国分寺址︵薩摩川内市︶がある。
→大隅国 →薩摩国
シラス台地と亜熱帯の島々
県本土の形態の特色は薩摩半島と大隅半島が,中央の鹿児島︵錦江︶湾を両側からかかえるように並んで,南に突出しているという点にある。本土の西方および南方洋上には島嶼︵とうしよ︶が多く,西方には甑島列島の上甑島,下甑島など,南方には薩南諸島に含まれる大隅諸島,吐噶喇︵とから︶列島,奄美諸島などが点在し,亜熱帯的気候︵名瀬市での1月平均気温14.2℃,年降水量3051mm︶の特色を示している。県には大山地はないが,北から国見山地,出水︵いずみ︶山地,薩摩半島の南薩山地,大隅半島の高隈山地,肝属︵きもつき︶山地など標高数百mから1000m級の小山地が各地にある。また火山の多いことも特色で,その中核部は鹿児島湾を南北軸として北から霧島山,湾の中央に桜島,南の湾口に開聞︵かいもん︶岳があり,火山列はなお南の吐噶喇列島の諏訪之瀬島にまで延びている。古い姶良︵あいら︶火山から噴出したシラスと呼ばれる火山噴出物が県の半分以上の面積を占めて分布しており,水利の悪い比高20~600mの台地をつくっている。北部を流れる川内︵せんだい︶川以外にはあまり大きな河川は存在せず,大きな平野も発達していない。本土も南国的な気候で,1月の平均気温は鹿児島市で7.0℃,年降水量は2375mmである。台風の襲来も多く,とくに離島は毎年大きな被害を受ける。
先進,後進の交錯
記紀によれば鹿児島の古い住民は熊襲︵くまそ︶,隼人︵はやと︶であって中央の住民と風俗,習慣が違い,しばしば中央権力に反抗して反乱を起こし,討伐された。鹿児島は中央から遠く,その権力や文化の及ばぬ後進地域とされる面があった。しかし,一方でこの地域は中国大陸や南方諸島に近いために外来文化の最先端受入地としての機能ももっていた。県南西部の坊津︵南さつま﹇市﹈︶は7~9世紀のころ遣隋使船,遣唐使船の発着地であった。下って16世紀には鉄砲が種子島に伝来し,キリスト教もザビエルが鹿児島に上陸して布教を進めたことで日本に広まった。とくに江戸時代末期には藩主島津斉彬などの主導のもとに製錬所,溶鉱炉,造船所,洋式紡績工場をつくるなど多くの先進的事業が行われた。また薩摩藩では藩主居館の鶴丸城のほかに,100余の外城︵郷︶を置き,その周囲に郷士の居住する麓集落をつくって地域の軍事,行政を管轄していた。明治以降も麓の地名,集落景観などに独特のものを数多く残している。
乏しい資源と遅れた工業
明治になってからの鹿児島は再び中央から取り残された後進地域になった。その一つの現れは県民1人当り所得の低さで,全国都道府県中の最低クラスを続けてきた。その原因の一つは県の産業が農林︵畜産を含む︶,水産などの第1次産業にかたより,第2次,第3次などの近代産業の発達が微弱だったためである。これは資源が乏しい上に地理的条件が悪く,商工業の発展に不利であったことによる。県のおもな地下資源は一鉱山で全国金産額の約90%を占める菱刈金山,歴史の古い串木野金山︵1864年鉱床発見︶や,枕崎市の岩戸・春日両金山などがある。その他の資源には17世紀半ばに発見された谷山︵現,鹿児島市︶の錫山があり,特産のスズ製品︵酒瓶,茶筒など︶の原料になっていたが,現在は採掘されていない。また工業についても大島紬などの絹織物,サツマイモ︵カライモ︶からの焼酎などの食料加工品,ほかに木材,木製品など,一次産品の加工工業が主である。しかし日本経済の高度成長に伴って,1960年代から鹿児島市の臨海部を埋め立て,大工業用地を造成する計画が進行し,通称木材団地,金属団地,卸商業団地などの諸団地が形成され,そのほかにも造船,機械,住宅関連,石油などの工場の立地が進んでいる。またテクノポリス地域に指定された国分市︵現,霧島市︶をはじめ,出水︵いずみ︶市および伊集院町︵現,日置市︶,入来町︵現,薩摩川内市︶,栗野町︵現,湧水町︶にエレクトロニクスなどの精密工業が進出し,県工業の将来が期待されている。
改良された畑作と盛んな林業,水産業
鹿児島県は全国有数の農業県であり,農家戸数では全国都道府県中6位︵1995︶,耕地面積第11位である。とくに専業農家数では全国1位を占める。しかし農業の水準は必ずしも高くはなく,1戸当り農業所得は全国平均の6割程度にすぎない。その理由として考えられるのはシラス台地が広い面積を占めるため水田の少ない畑作県であること︵畑作地率65%,1995︶,台風の被害の大きいこと,中央市場から遠いために商品性の高い作物の栽培に不利なことなどである。しかし輸送手段の発達や灌漑用の高隈ダムの完成︵1968︶などによって悪条件もしだいに克服されるようになった。従来シラス台地での畑作物として普通だった陸稲,麦,サツマイモ,ナタネなどが急激に減り,新しくさやエンドウ,ピーマン,サトイモなどが導入され全国での高いシェアを得るようになった。畜産の発展も著しく,農産物中産額の最も多いのは豚,ブロイラー,肉用牛,鶏卵などの畜産品である。また,樹木の生育がよく林業も盛んで,森林面積は全国第11位,屋久杉で有名な屋久島を主とし,そのほか出水山地,霧島山,高隈山地,肝属山地など各地に豊富な森林が見られる。水産業も盛んで,おもな港には串木野,枕崎,山川などがあり,カツオ,マグロなどの水揚げが多いが,とくに鰹節では全国一の産額をもっている。鹿児島湾内ではタイ,イワシ,サバの漁獲が多く,最近はハマチの養殖に力を入れている。
豊かな自然と観光・交通
明治以後の経済的発展が遅く,県民所得が低いが,このことは半面からいえば自然がよく残されているということでもある。南北に並ぶ霧島山,桜島,開聞岳の火山地域に離島の屋久島を含めて,霧島屋久国立公園に指定されている。この国立公園内には霧島温泉,指宿︵いぶすき︶温泉などがあり,そのほかにも県下には数多くの温泉が分布している。志布志湾内にある枇榔︵びろう︶島はビロウなどの亜熱帯性植物群落︵特天︶で知られ,日南海岸国定公園に含まれている。
鹿児島県は北を九州山地に隔てられて交通不便な地域であり,鉄道開通までは陸路では西部の三太郎越,東部の宗太郎峠によってかろうじて北九州と結ばれていたにすぎない。県西部に鉄道が開設されたのは1901年であるが,はじめは現在の肥薩線のコースを通っていて,海岸回りの鹿児島本線︵2004年より八代~川内間は肥薩おれんじ鉄道︶が全通したのは1927年であり,さらに東部の日豊本線が開通したのは32年である。そのほかにもいくつかのローカル線があったが,廃止されているものもあり,これに代わるバス網も縮小されつつある。なお,九州新幹線鹿児島ルートは2004年鹿児島中央駅と熊本県新八代駅の間が開業,11年に新八代駅と福岡県の博多駅の間が開業して全線開業となった。県は三方を海で囲まれているほか,島嶼部が多いため航路の発達が著しい。中心は鹿児島湾を横切って薩摩半島と大隅半島を結ぶ航路で,鹿児島港と桜島を結ぶ湾中央の航路は観光連絡船を兼ねている。離島航路はおもに鹿児島港を起点とするが,長距離航路として志布志を経て大阪に至るものもある。航空路としては1972年溝辺町︵現,霧島市︶に移転した鹿児島空港を拠点として東京,大阪と結ばれるが,離島航空路も多いため地方空港としては発着便数が多い。
県の南北軸,薩摩,大隅,島嶼部の4地域
自然条件,人文条件,歴史的条件などの違いから県を四つの地域に区分する。
︵1︶県の南北軸地域 中央の鹿児島湾に沿い,鹿児島市を中核として霧島市,垂水市,指宿市の3都市を含み,北の霧島火山地区と,南の南九州市の一部を合わせた地域である。鹿児島市は14世紀の半ばに島津氏が拠って以来,守護町,城下町として発展し,明治以後は県庁所在地となった。史跡に富み,風光にすぐれた観光都市でもある鹿児島市に加えて,火山,温泉が多く霧島屋久国立公園に含まれる面積が広いこの地域は,県の政治,経済,文化,観光,交通の中心をなしている。
︵2︶薩摩地域と大隅地域 薩摩・大隅両半島は地形上分かれた二つの地区というだけではなく,対照的な特色をもち,両者をそれぞれ西目,東目ということがある。西目は出水山地など山地も多いが,県内では比較的大きな川内川流域に大口盆地や川内平野が主要米作地帯をなし,また小河川によってシラス台地が樹枝状に細かく浸食されているため,東目のように広大な台地は発達せず,小さい谷も水田化されて,開発は早く進んだ。これに対し大隅の東目は,古墳時代は開けていたが笠野原,鹿屋原など広大なシラス台地が半島の大部分を占めるため,水田化が困難で,開発が遅れた。土地利用の上でも西目の水田卓越地域と東目の畑作卓越地域が対照的である。1970年代以降は東目でも畑地灌漑が進み,交通も発達して農作物の多様化などによって経済力が向上し始めている。肝付町の旧内之浦町には東京大学の宇宙空間観測所︵ロケットセンター。現在は独立行政法人の宇宙航空研究開発機構の施設︶が1963年開設された。都市の数からも対照的で,薩摩には出水,大口,阿久根,串木野,加世田,枕崎などがあるが,大隅側では鹿屋︵かのや︶のみである。
︵3︶島嶼部 この地域の共通の特色は交通を海にたよらなければならない点である。最近は航空路の発達が著しいが海の重要さには及ばず,そしてこの両者とも台風の場合など利用が不可能になり,住民の生活を脅かす。しかし一方では亜熱帯気候に恵まれて国内では沖縄とともに独自の性格をもつ。ソテツ,ビロウ,ガジュマル,アダンなどが茂り,天然記念物のルリカケス,アマミノクロウサギや猛毒のハブが生息する島もあり,作物で重要なのはサトウキビである。青い空,サンゴ礁の海は観光的に極めて高い価値をもっている。
執筆者‥服部 信彦
鹿児島[市] (かごしま)
鹿児島県中央部の鹿児島︵錦江︶湾に面する県庁所在都市。2004年11月旧鹿児島市が喜入︵きいれ︶,郡山︵こおりやま︶,桜島︵さくらじま︶,松元︵まつもと︶,吉田︵よしだ︶の5町を編入して成立した。人口60万5846︵2010︶。
鹿児島
鹿児島市中部の旧市で,県庁所在都市。1889年市制。人口55万2098︵2000︶。市域には1950年に編入した桜島東部の旧東桜島村域,67年合体した旧谷山市域を含む。市域の大部分はシラス台地で占められるが,中心市街地は南東流する甲突︵こうつき︶川やその他2~3の河川によって湾岸に形成された複合三角州上にある。シラス台地の末端にあたる城山の山頂には,南北朝期に上山氏が上之山城を,山麓には江戸初期に島津氏が鶴丸城を築き,以来鹿児島は薩摩藩77万石の城下町として発展した。明治以後は県庁所在地として県の政治,経済,文化,交通の中心であるだけでなく,南九州の中心としての役割を果たすようになった。人口は1970年からの10年間に10万2051人と著しい増加をみせ,シラス台地上も宅地化が進んでいる。第3次産業人口率が約78%︵1990︶と高く,第2次産業人口率は約20%で,工業はあまり発展せず,食料品,木材木製品,繊維︵大島紬︶などの軽工業にすぎないが,海岸の埋立地に工場の進出が著しい。九州自動車道の鹿児島インターチェンジから南九州自動車道と指宿スカイラインが分岐する。九州の二大幹線であるJR鹿児島本線,JR日豊本線が鹿児島で結ばれ,JR指宿枕崎線を分岐している。2004年九州新幹線鹿児島ルートの鹿児島中央~新八代間が開業,11年には博多まで全線開業した。また薩摩・大隅両半島をはじめ,南西諸島の島々への航路の起点ともなっているが,空港は1972年溝辺町︵現,霧島市︶に移転した。史跡が多く,西南戦争の戦場となった城山周辺には石垣と堀だけ残る鶴丸城跡,1874年開校された私学校跡,西郷隆盛のこもった洞窟,その終焉︵しゆうえん︶の地などがある。市内北部には,島津家の別邸である仙巌園︵磯公園︶,異人館︵旧鹿児島紡績所技師館︶などがある。市街地には昭和初めに発見された温泉がその後のボーリングによって数多く湧出し,旅館の内湯,共同浴場,ジャングル浴場などに利用されている。
執筆者‥服部 信彦
鹿児島城下
島津家19代家久は1602年︵慶長7︶鶴丸城を築いて,内城︵現在は大竜小学校︶から移った。城は天守のない屋形造の居館であった。当時甲突川は柿本寺通辺を流れていたといい,また新上橋辺より東流し平ノ町,千石馬場,加治屋町を屈曲し俊寛堀より海へ注いでいた。西千石町辺はアシが茂り,後の南林寺辺は海中であった。甲突川の大改修を行って現位置に移し,それよりしだいに埋立てを行って士屋敷,町屋敷を建設したが,町屋敷は海岸の埋立地で,御船手は初め稲荷川口にあり,琉球諸島行の係船場もここにあった。天保末年︵1840︶ころまでの甲突川は川筋が屈曲し川底も上がり,洪水のために城下民は苦しんだが,天保の改革で川筋を整え川底を浚渫︵しゆんせつ︶し,玉江橋,新上橋,西田橋,高麗橋,武之橋など堅牢な石造眼鏡橋を架設した。天保山はこの時の揚砂でできたもので,御船手も甲突川口に移された。また祇園洲の埋立ても稲荷川の浚渫によりなされた。鹿児島は山川港を外港としていたが,南島運輸の重要性が増したので,同じころから港の改修に力を注ぎ,三五郎波戸,屋久島岸岐,鍋屋岸岐,石灯炉岸岐,弁天波戸などの防波堤を築いて海上交通の便を一新した。城下は︿町方三分,武家方七分﹀と諸書に書かれているごとく,士屋敷の地域は広く,人口においても1826年︵文政9︶士は町方の3倍以上,家来,与力,足軽を加えれば7倍以上もあったが,当時の総人口は5万8065人であった。城下町は町奉行の支配で,町人役として惣年寄,年寄,年寄格,年行司,年行司格,十人格,乙名頭,横目役があり,町会所は下町にあった。町人︵名頭︶は屋敷持のことで畦掛銀︵戸数割税︶と水夫奉公という海上賦役の義務を負っていた。領内は大方自給自足経済で,かつほとんど物品は専売制度の網の目にかけられていたから,少数の巨大な御用商人のほかは大方が小前の町人であった。町の周囲には荒田浜と,いわゆる近在二十四ヵ村︵郡元,中,荒田,武,西田,田上,西別府,原良,永吉,小野,犬迫,小山田,比志島,皆房,上伊敷,下伊敷,草牟田,花野,岡之原,川上,下田,坂元,吉野,花棚︶の農村が付属していた。なお士屋敷では,千石馬場,平ノ馬場などは大身の士の居住地区で,古く守護町として発展してきた上町方面には中級士が住居し,加治屋町,新屋敷町,上之園町,高麗町や荒田村,吉野村,草牟田村など場末には下級士が住居し,鳥籠,傘,はし,櫛,金助まりの内職や農耕でくらしをたてていた。城下には,諏訪︵薩摩,大隅,日向3州の惣社︶,祇園,稲荷,春日,若宮のいわゆる五社と,島津氏祈願所の真言宗大乗院,同菩提所曹洞宗福昌寺をはじめ多くの諸宗大小寺社があり,また江戸末期には島津家29代斉彬の開化政策により集成館事業と総称する紡績,ガラス,造船,兵器などの洋式工業の花がひらき,多くの維新英才が輩出した。
執筆者‥原口 虎雄
喜入
鹿児島市南部の旧町。旧揖宿︵いぶすき︶郡所属。人口1万2802︵2000︶。薩摩半島の東側にあって,鹿児島湾に臨み,北は旧鹿児島市に接する。南薩山地とそれに続くシラス台地が海岸にせまり,海岸線に沿って並ぶ集落を結んでJR指宿枕崎線,国道226号線が走る。平安後期から島津荘の寄郡︵よせごおり︶給黎院︵きいれいん︶に属し,以後島津氏が支配した。1960年代以降,ミカン作主体に転換された農業は,近年畜産やエンドウの促成栽培も導入され経営の多角化が図られている。水深の深い海岸を利用して世界屈指の石油備蓄基地が建設され,69年から操業を開始した。町南端の生見︵ぬくみ︶に自生するメヒルギ︵別名リュウキュウコウガイ︶は世界最北端の紅樹林︵マングローブ︶として特別天然記念物に指定。
郡山
鹿児島市北西端の旧町。旧日置郡所属。人口8314︵2000︶。薩摩半島北部にあり,南東は旧鹿児島市に接する。集落は南流する諸河川の段丘上に発達するものが多く,中心市街は町役場のある郡山付近にある。米作を主体にキュウリ,ナス,イチゴなどの園芸作物の栽培が盛んで,アスパラガス,たけのこなどの缶詰工場も進出している。1960年ころから過疎化が進んだが,町南部が鹿児島市の通勤住宅地化した70年代から人口増に転じた。町南西の川田川沿いに郡山温泉がある。
桜島
鹿児島市東部の旧町。旧鹿児島郡所属。人口4678︵2000︶。鹿児島湾北部にある桜島の西半分を占める。桜島は現在も激しい火山活動を続けており,降灰などにより農業や生活に多大な影響を与えている。大隅半島と陸続きとなった1914年の大正噴火後,カンショ,サトウキビ,タバコ作から果樹作に転換し,ミカンを中心に桜島ダイコン,ビワが栽培される。集落はすべて鹿児島湾沿いにあり,桜島港のある袴腰は島内一周,中腹展望観光の基地で,対岸の鹿児島港とはフェリーで結ばれる。
松元
鹿児島市西部の旧町。旧日置郡所属。人口1万2065︵2000︶。薩摩半島中央部に位置し,東は旧鹿児島市に接する。無数のシラス台地と多くの渓谷からなり,谷底平野は水田,台地上は畑地,林野が占める。平安時代末期から伊集院氏の支配下に置かれたが,1536年︵天文5︶には島津氏の所領となった。霧が深いこともあって,近世以来シラス台地上で良質の茶を産し,明治期以降は主産業となっている。肉牛の肥育,野菜栽培も行われる。旧鹿児島市に隣接しているため,年々衛星都市的性格を強めており,1970年代以降人口の増加が著しい。JR鹿児島本線が通じる。
吉田
鹿児島市北東端の旧町。旧鹿児島郡所属。1972年町制。人口1万1736︵2000︶。薩摩半島基部に位置し,北部は姶良︵あいら︶平野南西端にあたる。南の旧鹿児島市との境には標高500mほどの丘陵性山地が連なるため,以前は北の蒲生町や姶良町重富との結びつきが強かった。1926年に鹿児島市から吉田町を通り蒲生町に至る県道が開通,さらに73年には九州自動車道の薩摩吉田インターチェンジが設置されたため鹿児島市の勢力圏に入るようになり,現在はそのベッドタウンとして発展している。水田率が50%を超え県下ではきわめて高いが,近年はハウス野菜や早熟メロンの栽培など都市近郊型農業の展開も見られる。町名は,古代に大隅国吉田院と称したことに由来する。吉田城跡や本城花尾神社の庚申二王石像などの史跡,文化財がある。
執筆者‥吉成 直樹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
鹿児島
かごしま
当初は古代以来の鹿児島郡をさしたが︵一一月二四日﹁源頼朝御教書﹂旧記雑録など︶、応長元年︵一三一一︶閏六月二四日の沙弥道本義絶状︵同書︶に﹁国分寺御領麑島尼寺田御年貢﹂とみえるように、一四世紀初頭頃から郡名とは異なる使用法も確認できる。守護島津氏久が東(とう)福(ふく)寺(じ)城に入った文和三年︵一三五四︶以降は同城を︵二月一一日﹁島津道鑑書状﹂同書など︶、島津元久が清(しみ)水(ず)城に入ってからは同城をさし︵応永九年九月一一日﹁島津元久書状﹂同書など︶、転じて守護所や守護︵延徳二年四月一日﹁犬追物手組﹂同書、六月二〇日﹁島津忠朝書状﹂豊州季久系図︶、さらに戦国島津氏をさすようになるとともに︵天文二三年四月二〇日﹁島津日新起請文﹂旧記雑録など︶、一六世紀に入ると清水城の城下をさすことになった︵﹁空山日記﹂同書︶。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
鹿児島
かごしま
鹿児島県薩摩半島東部にある県庁所在地で,近世,薩摩藩の城下町として発展
中世を通じて島津庄の地頭,薩摩守護であった島津氏が,1343年以降根拠地とした。戦国時代に島津氏が薩摩・大隅 (おおすみ) を統一し,1602年鶴丸城を居城とした。近世城下町としては,島津氏の外城政策のため77万石の大藩があったわりには小規模であった。1863年薩英戦争で戦火をうけた。'89年市制施行。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「動植物名よみかた辞典 普及版」動植物名よみかた辞典 普及版について 情報