伴淳三郎
ばん じゅんざぶろう 伴 淳三郎 | |||||
---|---|---|---|---|---|
「アジャパー」のポーズをとる伴淳三郎(1954年) | |||||
本名 |
鈴木 寛定 すずき ひろさだ | ||||
生年月日 | 1908年1月10日 | ||||
没年月日 | 1981年10月26日(73歳没) | ||||
出生地 | 日本・山形県米沢市 | ||||
民族 | 日本人 | ||||
職業 | 俳優、コメディアン | ||||
活動期間 | 1927年 - 1981年 | ||||
配偶者 | あり | ||||
著名な家族 | 山本康一郎(息子) | ||||
主な作品 | |||||
映画 『伝七捕物帳』シリーズ 『駅前シリーズ』 『飢餓海峡』 『どですかでん』 テレビドラマ 『寺内貫太郎一家』 『いちばん星』 『ムー』 『ムー一族』 | |||||
|
伴 淳三郎︵ばん じゅんざぶろう、1908年︿明治41年﹀1月10日 - 1981年︿昭和56年﹀10月26日︶は、昭和期のコメディアン、俳優。本名は鈴木 寛定︵すずき ひろさだ︶、愛称は﹁バンジュン﹂。息子はスタイリストの山本康一郎︵1961年生まれ︶。
来歴・人物[編集]
出生[編集]
山形県米沢市に南画家の息子として生まれる。父について山形と東京を行ったり来たりするが、5歳のときから山形市小姓町で育つ。 山形市立第一尋常小学校卒業後、熊谷市の兄の家に寄宿して高等小学校に通っていたが、兄との折り合いが悪く家出し、東京に出る。そこで、母方の叔父で新派劇の河合武雄の番頭をしていた斎藤好三郎を頼り、﹁文芸協会﹂出身の新劇俳優、東儀鉄笛の付き人となり、彼が主演した映画に出演する。その後、正則英語学校に通っていたが、俳優への思いを断ち切れず、東儀が所長をしていた﹁新劇研究所﹂の研究生に応募するが落第。東京市内を回っていた﹁中川竹三一座﹂に入る。その後、いくつかの劇団に入るが、映画にも取り組んでいる﹁明石潮一座﹂に入り、駕籠かき役などで映画出演する。俳優としての活動・戦前[編集]
1927年、日活大将軍撮影所に大部屋俳優として入る。しばらく、端役での出演が続いたが、1929年、渡辺邦男監督の﹃竜巻長屋﹄に大役をもらう。以後、渡辺監督に喜劇俳優として重用される。 1931年、東京に戻り、曾我廼家五九郎一座に入り、清川虹子らと活動するが、1934年、大都映画に入り、主役級として活躍。極東映画を経て、1937年、日活で親しかった永田雅一が所長を務める新興キネマ京都撮影所に入社し、忍術映画などで活躍する。 1939年、新興キネマ演芸部があきれたぼういずなどの吉本興業の人気タレントを大量に引き抜いたときも暗躍する。ところが、引き抜きの工作に奔走する際、伴は狙う相手の名前を書き並べたメモ帳を円タクの中に置き忘れてしまうという大失態を犯し、ことの重大さに自殺まで考えたという。しかし、伴が降りた後、その円タクを拾ったのが歌手の灰田勝彦で、灰田は拾ったメモ帳を何も言わずに伴に送り届け、事無きを得て以来、伴は灰田に頭が上がらなかったという。 1940年、﹁化け猫女優﹂こと鈴木澄子らとハワイ、サンフランシスコ巡業を行い、帰国後、秋田實の応援で小夜福子らと劇団を結成するがほどなく解散。小さな軽演劇の一座の座長として終戦を迎える。ただし、徴兵の召集令状は受け取っていたが、徴兵検査にはきれいに化粧、女装で出かけていき、その格好を見た検査係官が憤慨、検査場から追い出され、さらに検査直前には醤油を大量に︵一升瓶1本分︶飲み、﹁肝臓病﹂を装って徴兵を逃れている。[要出典]俳優としての活動・戦後[編集]
戦後は清川虹子、笠置シヅ子らと浅草で活動し、美空ひばりの売出しを図るが失敗。 1951年頃から当時同棲中の清川虹子の仲介により新東宝の斎藤寅次郎監督の一家に入って、本格的に映画に復帰する[1]。1951年、斎藤寅次郎監督、高田浩吉主演の﹃吃七捕物帖・一番手柄﹄に出演した折、﹁アジャジャーにしてパーでございます﹂が大ウケし、それを短くした﹁アジャパー﹂が大流行。 1953年には、主役映画﹃アジャパー天国﹄が斎藤寅次郎監督で作られるにいたり、﹁バンジュン﹂の愛称で主演映画が次々と封切られる売れっ子スターとなる[2]。 1955年からは松竹で、花菱アチャコと共演の﹃二等兵物語﹄シリーズ、1958年からは森繁久彌、フランキー堺と共演の﹃駅前シリーズ﹄が大ヒットする。 伴は珍演怪演をする珍優とも言われ[3][4]、喜劇俳優として活躍する一方、1964年、内田吐夢監督、水上勉原作の﹃飢餓海峡﹄の老刑事の演技で毎日映画コンクール男優助演賞を受賞するなど、シリアスな演技にも独特な味わいを見せた。同映画に出演した際には監督の内田から徹底的にしごかれ、自信を喪失してしまい、落ち込んだ表情になりがちだった。しかし、実のところそれが内田の狙いであった。結果的にも、伴はいわゆる﹁枯れた演技﹂を成し遂げることになった。 浅草サンバカーニバルを発案したり[5]、募金運動のあゆみの箱の提唱者でもある[6]。関西出身ではないのに﹁関西喜劇人協会﹂の会長をつとめたり、若き時代の渥美清や生田悦子をイビリ倒していた[7]。また稲川会の稲川聖城の庇護を受けており、雑誌記者が稲川の自宅を訪ねた際に遊びに来ている伴淳三郎の姿を幾度も目撃している[8] 1978年、紫綬褒章を受章。1981年10月26日、伴は食道静脈瘤破裂により73歳で死去した。枕元には伴のかつての妻の清川がおり、伴を看病し喪主も清川が務めた。伴の遺作は死去後の11月3日から放送が開始された連続テレビドラマ﹃ひまわりの歌﹄であった。墓所は米沢市極楽寺。主な出演作品[編集]
映画[編集]
テレビ番組・テレビドラマ[編集]
●てなもんや三度笠︵1962年 - 1968年、朝日放送︶ ●赤穂浪士︵1964年、NHK︶ ●こりゃまた結構︵1967年、TBS︶ ●鶴亀先生上京す︵1967年、NET︶ ●不信のとき︵1968年、日本テレビ︶ ●あゝ忠臣蔵︵1969年、関西テレビ︶ ●プレイガール 第25話﹁女殺し昭和元禄﹂︵1969年、東京12チャンネル︶ ●男は度胸︵1970年、NHK︶ ●大忠臣蔵︵1971年、NET︶ ●天下御免︵1971年、NHK︶ ●でんでん太鼓︵1973年、TBS︶ - 栗山一平 ●時間ですよ第78話︵1973年、TBS︶ - 高倉勇吉 ●まごころ︵1973年、TBS/大映テレビ︶ ●寺内貫太郎一家︵1974年、TBS︶ - 倉島岩次郎 ●帽子とひまわり︵1974年、NHK︶ ●白い牙︵日本テレビ︶ - 古山吾助 ●第1話﹁悪徳刑事・有光洋介﹂︵1974年︶ ●第7話﹁父親仁義・有光洋介﹂︵1974年︶ ●となりのとなり︵1974年、日本テレビ︶ ●水もれ甲介 第3話﹁工事現場の決闘﹂︵1974年、日本テレビ︶ ●寺内貫太郎一家2︵1975年、TBS︶ - 倉島岩次郎 ●ばあちゃんの星︵1975年、TBS︶ ●大都会 闘いの日々 第20話﹁週末﹂︵1976年、日本テレビ︶ ●夫婦旅日記 さらば浪人 第18話﹁明石の夕なぎ﹂︵1976年、フジテレビ︶ ●朝の連続テレビ小説 / いちばん星︵1977年、NHK︶ ●ムー︵1977年、TBS︶ - 徳さん ●飛べ!孫悟空︵1977年 - 1979年、TBS︶ ●せい子宙太郎-忍宿借夫婦巷談︵1977年 - 1978年、TBS︶ ●達磨大助事件帳 第15話﹁十手に光る父子星﹂︵1978年、テレビ朝日︶ - 鳥越の文次 ●ムー一族︵1978年 - 1979年、TBS︶ - 徳さん ●風鈴捕物帳︵1978年、テレビ朝日︶ ●土曜ワイド劇場 / 幽霊海岸︵1978年、テレビ朝日︶ ●ハッピーですか? (1978年、日本テレビ) ●熱中時代・刑事編︵1979年、日本テレビ︶ - 寺坂乙吉 ●長七郎天下ご免!︵1979年 - 1982年、テレビ朝日︶ - 大久保彦左衛門︵第1話、第4話、第12話、第21話、第27話、第30話︶ ●あいつと俺 ︵1980年[第1話-第4話]&1984年[第5話-第12話]、テレビ東京|東京12チャンネル︶ - 東兵衛 ●ポーラテレビ小説 / 元気です!︵1980年 - 1981年、TBS︶ - 中森茂造 ●俺はおまわり君︵1981年、日本テレビ︶ - 水野源三郎 ●御宿かわせみ 第17話﹁湯の宿﹂︵1981年、NHK︶ ●野々村病院物語︵1981年、TBS︶ - 野々村智 ●同心暁蘭之介︵1981年 - 1982年、フジテレビ︶ - 松蔵 ●森繁久彌のおやじは熟年 第4話﹁旅役者天童竹三郎﹂︵1981年、テレビ朝日︶ - 天童竹三郎 ●ひまわりの歌︵1981年、TBS︶- 木村源吉 ※遺作コマーシャル[編集]
●山本本家・神聖﹁いっぱいやっか?﹂[9] ●トワイニング紅茶︵片岡物産︶﹁トワイニングティー、プリーズ!!﹂ ●サロンパス︵久光製薬︶﹁父ちゃんも母ちゃんもやってっか?﹂ ●おしどりミルクケーキ︵日本製乳︶山形県ローカルCMで主題歌を歌っていた。 ●サンライズ サンパワー︵ぶらさがり健康器具︶ ●ヤンマー コンバイン︵フランキー堺と共演︶ ●セーラー万年筆︵筆ペン︶ ●ハウス食品 シャンメンめん太鼓︵佐良直美と共演︶ ●松下電器産業︵現・パナソニック︶冷凍冷蔵庫 ●日本石油︵現・ENEOS︶著書[編集]
●﹃伴淳放浪記﹄しなの出版、1967年10月15日。NDLJP:2515185。 ●﹃伴淳放浪記―伝記・伴淳三郎﹄﹁伝記叢書288﹂大空社、1998年2月。ISBN 978-4756804990 ●﹃伴淳好色放浪記 人格の磨き方、教えます﹄光文社 カッパ・ブックス、1972年 ●﹃伴淳のアジャパアー 人生 芸道・色道50年﹄徳間書店、1975年伝記[編集]
●田山力哉﹃伴淳三郎 道化の涙﹄現代教養文庫、1988年出典[編集]
(一)^ 小林信彦﹃地獄の観光船 コラム101﹄集英社、1981年、p.234。
(二)^ 瀬川昌治﹃乾杯!ごきげん映画人生﹄清流出版、2007年、pp.65-67。
(三)^ ﹃乾杯!ごきげん映画人生﹄p.67。
(四)^ 小林信彦﹃日本の喜劇人﹄新潮文庫、1982年、p.72.
(五)^ ﹁なぜ、浅草とサンバ?﹂ 浅草サンバカーニバル公式サイト内
(六)^ ﹁あゆみの箱とは?﹂[リンク切れ] 社団法人あゆみの箱公式ホームページ内
(七)^ 小林信彦﹃おかしな男 渥美清﹄新潮文庫、2003年、pp.68,76-77。
(八)^ 大下英治﹃首領 昭和闇の支配者﹄大和書房
(九)^ 全日本CM協議会 編﹃CM25年史﹄講談社、1978年1月15日、170 - 171頁。NDLJP:12025175/90。
外部リンク[編集]