社会政策学会 (日本 1897年)
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社会政策学会︵しゃかいせいさくがっかい︶は、戦前の日本で活動した社会科学研究団体。1897年︵明治30年︶結成、1924年︵大正13年︶活動停止。
﹁学会﹂とはいうものの、単なる学術研究団体ではなく、講演会・年例大会などを通じて社会政策の必要を世論に訴える啓発活動や、政府の社会制度立法に際してさまざまな提言を行うなど、多彩な活動を繰り広げた。また当時の大学の枠を超え全国から官・学・民の進歩的人材が参加し、日本最初の経済学・社会科学の総合的学会となった。ドイツ歴史学派の強い影響を受け政策立案を通じた社会改良主義を主張したが、第1次世界大戦後、マルクス主義社会科学の流行などにより、次第に影響力を失い﹁休眠状態﹂に陥った。
八幡製鉄所
日清戦争後の日本では、産業革命が進行し、絹織物業・綿織物業などの繊維産業が有力な輸出部門として発展し、また八幡製鉄所に代表される鉄鋼業も根づきつつあった。しかし激しい国際競争の下で強い競争力を持たせるため低賃金・長時間で職場の安全性を欠く労働環境が労働者に強制された。その一方で1897年には片山潜・高野房太郎らが結成した労働組合期成会が実際に労働組合の結成を始め、いまだ勢力は弱小というものの組織的な労働運動が芽生え始めていた。このようにして労働問題を中心とする社会問題が一般に認識されるようになり、それへの対処が要請されるに至ったのである。
1896年4月26日、桑田熊蔵・山崎覚次郎・小野塚喜平次・高野岩三郎ら10名によって結成された社会問題の研究会を前身としている。この研究会は、ドイツ留学で当時最先端の経済学とされていた社会政策学派の講壇社会主義︵当時は﹁講壇社会党﹂と呼ばれた︶を学んだ桑田・山崎が、社会問題の激化予防と解決のためドイツ社会政策学会をモデルに設立したものであった。会はさらに金井延・田島錦治・高野房太郎・佐久間貞一らを会員に加え、発足後しばらくは月例会を開催していたが、翌1897年4月24日、﹁社会政策学会﹂と改称し学会としての活動を開始した。
桑田熊蔵 / 設立メンバーの一人で社会改良主義の旗幟を掲げ、社会 主義との違いを鮮明にした。
安部磯雄 / 社会主義者として社会政策学会を批判した。
学会は、1898年7月、桑田・金井・戸水寛人の執筆による﹁社会政策学会趣意書﹂を発表した。﹁趣意書﹂は自由放任主義および社会主義への反対を表明するとともに、﹁現在の私有的経済組織を維持し其範囲内に於て箇人の活動と国家の権力に由つて階級の軋轢を防ぎ社会の調和を期す﹂とあるように明確に資本主義の枠内での社会改良主義の立場を標榜した。と同時にこの趣意書には、会員の片山潜らが結成︵1898年︶した社会主義研究会との違いを明確にするという意図も込められていた。
さらに、1901年には、社会民主党の結党=即日禁止という状況を背景に、﹁弁明書﹂︵和田垣謙三・金井・桑田の連名による︶を公にして社会主義と社会政策の違いを強調して再度社会主義を批判、社会主義勢力と同一視されることを拒否した︵実際、8時間労働制、児童労働の禁止、労働組合公認など、社民党の綱領と学会の提言には多くの共通項目があった︶。実際、名称に﹁社会﹂を冠したこの学会は当局から危険視されたこともあり、一時は会員が警視庁のブラックリストに掲載されていたとも言われる。この弁明書は一方で自由放任主義の立場から社会政策に反対する田口卯吉、他方で社会主義と社会政策が背馳しないことを主張する社会主義者・安部磯雄の批判を呼び起こした。
学会内部でも、1907年の第1回大会︵後述︶において、右派勢力を代表する添田寿一が﹁主従の情誼﹂に基づく社会政策を主張したのに対し、中間派に位置する福田徳三や左派の高野岩三郎から批判されるなど、思想的に幅広い層から結集したがゆえの対立が起こっている。ただし一部会員を除いて会の主流は、社会主義に反対していたとしても、下からの運動を通じた社会改善それ自体を否定していたわけではなく、労働組合による労働者の自主的な地位改善運動の必要は認める立場をとっていた。
高野岩三郎 / 学会創立メンバーにして学会内の最左派を代表し、の ち大原社会問題研究所に活動の軸を移した
大正期に入って友愛会が発足、ようやく組織的な労働運動が息を吹き返したが、学会はそのような状況の変化に適応することができなかった。さらに第一次世界大戦後、ヨーロッパよりマルクス主義社会科学が日本に伝えられ急速に勢力を拡大すると、会の標榜するドイツ歴史学派流の改良主義は、特に若手研究者・知識人から古くさいとみなされるようになり、会の影響力は次第に失われていった。ドイツ社会政策学派ではより急進的なブレンターノに学び帰国した福田徳三は、学会内では新世代に属し、中間派として厚生経済学による生存権概念の説明を試みていたが、マルクス主義に立つ河上肇・高野岩三郎・森戸辰男・大内兵衛らの左派勢力に十分対抗することはできず、学会内の左右分裂はますます激化し、第13回大会︵1919年︶における労働組合の位置づけをめぐる論争︵労資協調の機関か、階級解放の手段か︶のように、非和解的な対立へと発展していった。
1919年に起こった2つの出来事は、学会の分裂と混迷をますます露わにする結果となった。まず、労資協調をめざす官・財・学協同の機関﹁協調会﹂の設立に際し、この会への参加如何をめぐって学会内の対応は二つに分かれた。鈴木文治︵大日本労働総同盟友愛会︶が労働組合を前提としない労資協調に反対してこれへの入会を拒否すると、堀江帰一ら総同盟に近い会員は協調会参加を拒否し、彼ら以外にも高野岩太郎・森戸辰男・河上肇・河田嗣郎・福田徳三が不参加の態度を取った。これに対し、学会中の旧世代あるいは右派と目されていた桑田熊蔵・河津暹・金井延・添田寿一・神戸正雄・気賀勘重らは理事などの役員として参加したのである。
また同年、国際労働会議労働者代表選出問題で高野岩三郎が東大辞職をよぎなくされ、大原社会問題研究所の設立に際して初代所長に迎えられた。発足以来学会の事務を担当していた高野が、活動の軸を大原社研に移したことは、学会の活動をますます停滞させる結果をもたらした︵その前年まで大会報告として毎年刊行されていた﹁学会論叢﹂が刊行されなくなったのは、このことに関わっていると思われる︶。さらに翌1920年、雑誌論文をめぐる筆禍事件︵森戸事件︶により東大経済学部を失職した森戸辰男・大内兵衛が大原社研に中心メンバーとして参加した︵学会関係者としては他に河田嗣郎も参加︶。この結果、学会の現状に飽き足らなくなった左派の研究者たちは大原社研に結集していったのである。
以上のような分裂状況の結果として、1924年大阪での第18回大会を最後に学会の大会は開催されず、事実上の活動停止に陥った。しかし正式に解散や休止の宣言がなされたわけではなく、戦後に再建︵後述︶された現社会政策学会はこれを﹁休眠﹂と呼んでいる。なお社会政策学会の休眠により、全国的規模での経済学関連の学会は消滅してしまい、その復活は1930年の社会経済史学会、1934年の日本経済学会の発足まで待たなければならなかった。