竹取物語
和田萬吉
むかし、いつの頃︵ころ︶でありましたか、竹取︵たけと︶りの翁︵おきな︶といふ人︵ひと︶がありました。ほんとうの名︵な︶は讃岐︵さぬき︶の造麻呂︵みやつこまろ︶といふのでしたが、毎日︵まいにち︶のように野山︵のやま︶の竹藪︵たけやぶ︶にはひつて、竹︵たけ︶を切︵き︶り取︵と︶つて、いろ〳〵の物︵もの︶を造︵つく︶り、それを商︵あきな︶ふことにしてゐましたので、俗︵ぞく︶に竹取︵たけと︶りの翁︵おきな︶といふ名︵な︶で通︵とほ︶つてゐました。ある日︵ひ︶、いつものように竹藪︵たけやぶ︶に入︵い︶り込︵こ︶んで見︵み︶ますと、一本︵いつぽん︶妙︵みよう︶に光︵ひか︶る竹︵たけ︶の幹︵みき︶がありました。不思議︵ふしぎ︶に思︵おも︶つて近寄︵ちかよ︶つて、そっと切︵き︶つて見︵み︶ると、その切︵き︶つた筒︵つゝ︶の中︵なか︶に高︵たか︶さ三寸︵さんずん︶ばかりの美︵うつく︶しい女︵をんな︶の子︵こ︶がゐました。いつも見慣︵みな︶れてゐる藪︵やぶ︶の竹︵たけ︶の中︵なか︶にゐる人︵ひと︶ですから、きっと、天︵てん︶が我︵わ︶が子︵こ︶として與︵あた︶へてくれたものであらうと考︵かんが︶へて、その子︵こ︶を手︵て︶の上︵うへ︶に載︵の︶せて持︵も︶ち歸︵かへ︶り、妻︵つま︶のお婆︵ばあ︶さんに渡︵わた︶して、よく育︵そだ︶てるようにいひつけました。お婆︵ばあ︶さんもこの子︵こ︶の大︵たい︶そう美︵うつく︶しいのを喜︵よろこ︶んで、籠︵かご︶の中︵なか︶に入︵い︶れて大切︵たいせつ︶に育︵そだ︶てました。
このことがあつてからも、翁︵おきな︶はやはり竹︵たけ︶を取︵と︶つて、その日︵ひ︶〳〵を送︵おく︶つてゐましたが、奇妙︵きみよう︶なことには、多︵おほ︶くの竹︵たけ︶を切︵き︶るうちに節︵ふし︶と節︵ふし︶との間︵あひだ︶に、黄金︵おうごん︶がはひつてゐる竹︵たけ︶を見︵み︶つけることが度々︵たび〳〵︶ありました。それで翁︵おきな︶の家︵いへ︶は次第︵しだい︶に裕福︵ゆうふく︶になりました。
ところで、竹︵たけ︶の中︵なか︶から出︵で︶た子︵こ︶は、育︵そだ︶て方︵かた︶がよかつたと見︵み︶えて、ずん〳〵大︵おほ︶きくなつて、三月︵みつき︶ばかりたつうちに一人前︵いちにんまへ︶の人︵ひと︶になりました。そこで少女︵をとめ︶にふさはしい髮飾︵かみかざ︶りや衣裳︵いしよう︶をさせましたが、大事︵だいじ︶の子︵こ︶ですから、家︵いへ︶の奧︵おく︶にかこつて外︵そと︶へは少︵すこ︶しも出︵だ︶さずに、いよ〳〵心︵こゝろ︶を入︵い︶れて養︵やしな︶ひました。大︵おほ︶きくなるにしたがつて少女︵をとめ︶の顏︵かほ︶かたちはます〳〵麗︵うるは︶しくなり、とてもこの世界︵せかい︶にないくらゐなばかりか、家︵いへ︶の中︵なか︶が隅︵すみ︶から隅︵すみ︶まで光︵ひか︶り輝︵かゞや︶きました。翁︵おきな︶にはこの子︵こ︶を見︵み︶るのが何︵なに︶よりの藥︵くすり︶で、また何︵なに︶よりの慰︵なぐさ︶みでした。その間︵あひだ︶に相變︵あひかは︶らず竹︵たけ︶を取︵と︶つては、黄金︵おうごん︶を手︵て︶に入︵い︶れましたので、遂︵つひ︶には大︵たい︶した身代︵しんだい︶になつて、家屋敷︵いへやしき︶も大︵おほ︶きく構︵かま︶へ、召︵め︶し使︵つか︶ひなどもたくさん置︵お︶いて、世間︵せけん︶からも敬︵うやま︶はれるようになりました。さて、これまでつい少女︵をとめ︶の名︵な︶をつけることを忘︵わす︶れてゐましたが、もう大︵おほ︶きくなつて名︵な︶のないのも變︵へん︶だと氣︵き︶づいて、いゝ名︵な︶づけ親︵おや︶を頼︵たの︶んで名︵な︶をつけて貰︵もら︶ひました。その名︵な︶は嫋竹︵なよたけ︶の赫映姫︵かぐやひめ︶といふのでした。その頃︵ころ︶の習慣︵ならはし︶にしたがつて、三日︵みつか︶の間︵あひだ︶、大宴會︵だいえんかい︶を開︵ひら︶いて、近所︵きんじよ︶の人︵ひと︶たちや、その他︵ほか︶、多︵おほ︶くの男女︵なんによ︶をよんで祝︵いは︶ひました。
この美︵うつく︶しい少女︵をとめ︶の評判︵ひようばん︶が高︵たか︶くなつたので、世間︵せけん︶の男︵をとこ︶たちは妻︵つま︶に貰︵もら︶ひたい、又︵また︶見︵み︶るだけでも見︵み︶ておきたいと思︵おも︶つて、家︵いへ︶の近︵ちか︶くに來︵き︶て、すき間︵ま︶のようなところから覗︵のぞ︶かうとしましたが、どうしても姿︵すがた︶を見︵み︶ることが出來︵でき︶ません。せめて家︵いへ︶の人︵ひと︶に逢︵あ︶つて、ものをいはうとしても、それさへ取︵と︶り合︵あ︶つてくれぬ始末︵しまつ︶で、人々︵ひと〴〵︶はいよ〳〵氣︵き︶を揉︵も︶んで騷︵さわ︶ぐのでした。そのうちで、夜︵よる︶も晝︵ひる︶もぶっ通︵とほ︶しに家︵いへ︶の側︵そば︶を離︵はな︶れずに、どうにかして赫映姫︵かぐやひめ︶に逢︵あ︶つて志︵こゝろざし︶を見︵み︶せようと思︵おも︶ふ熱心家︵ねつしんか︶が五人︵ごにん︶ありました。みな位︵くらゐ︶の高︵たか︶い身分︵みぶん︶の尊︵たふと︶い方︵かた︶で、一人︵ひとり︶は石造︵いしつくりの︶皇子︵みこ︶、一人︵ひとり︶は車持︵くらもちの︶皇子︵みこ︶、一人︵ひとり︶は右大臣︵うだいじん︶阿倍御主人︵あべのみうし︶、一人︵ひとり︶は大納言︵だいなごん︶大伴御行︵おほとものみゆき︶、一人︵ひとり︶は中納言︵ちゆうなごん︶石上麻呂︵いそのかみのまろ︶でありました。この人︵ひと︶たちは思︵おも︶ひ〳〵に手︵て︶だてをめぐらして姫︵ひめ︶を手︵て︶に入︵い︶れようとしましたが、誰︵たれ︶も成功︵せいこう︶しませんでした。翁︵おきな︶もあまりのことに思︵おも︶つて、ある時︵とき︶、姫︵ひめ︶に向︵むか︶つて、﹁たゞの人︵ひと︶でないとはいひながら、今日︵けふ︶まで養︵やしな︶ひ育︵そだ︶てたわしを親︵おや︶と思︵おも︶つて、わしのいふことをきいて貰︵もら︶ひたい﹂
と、前置︵まへお︶きして、﹁わしは七十︵しちじゆう︶の阪︵さか︶を越︵こ︶して、もういつ命︵いのち︶が終︵をは︶るかわからぬ。今︵いま︶のうちによい婿︵むこ︶をとつて、心殘︵こゝろのこ︶りのないようにして置︵お︶きたい。姫︵ひめ︶を一︵いつ︶しよう懸命︵けんめい︶に思︵おも︶つてゐる方︵かた︶がこんなにたくさんあるのだから、このうちから心︵こゝろ︶にかなつた人︵ひと︶を選︵えら︶んではどうだらう﹂
と、いひますと、姫︵ひめ︶は案外︵あんがい︶の顏︵かほ︶をして答︵こた︶へ澁︵しぶ︶つてゐましたが、思︵おも︶ひ切︵き︶つて、﹁私︵わたし︶の思︵おも︶ひどほりの深︵ふか︶い志︵こゝろざし︶を見︵み︶せた方︵かた︶でなくては、夫︵をつと︶と定︵さだ︶めることは出來︵でき︶ません。それは大︵たい︶してむづかしいことでもありません。五人︵ごにん︶の方々︵かた〴〵︶に私︵わたし︶の欲︵ほ︶しいと思︵おも︶ふ物︵もの︶を註文︵ちゆうもん︶して、それを間違︵まちが︶ひなく持︵も︶つて來︵き︶て下︵くだ︶さる方︵かた︶にお仕︵つか︶へすることに致︵いた︶しませう﹂
と、いひました。翁︵おきな︶も少︵すこ︶し安心︵あんしん︶して、例︵れい︶の五人︵ごにん︶の人︵ひと︶たちの集︵あつま︶つてゐるところに行︵い︶つて、そのことを告︵つ︶げますと、みな異存︵いぞん︶のあらうはずがありませんから、すぐに承知︵しようち︶しました。ところが姫︵ひめ︶の註文︵ちゆうもん︶といふのはなか〳〵むづかしいことでした。それは五人︵ごにん︶とも別々︵べつ〳〵︶で、石造皇子︵いしつくりのみこ︶には天竺︵てんじく︶にある佛︵ほとけ︶の御石︵みいし︶の鉢︵はち︶、車持皇子︵くらもちのみこ︶には東海︵とうかい︶の蓬莱山︵ほうらいさん︶にある銀︵ぎん︶の根︵ね︶、金︵きん︶の莖︵くき︶、白玉︵しらたま︶の實︵み︶をもつた木︵き︶の枝︵えだ︶一本︵いつぽん︶、阿倍︵あべ︶の右大臣︵うだいじん︶には唐土︵もろこし︶にある火鼠︵ひねずみ︶の皮衣︵かはごろも︶、大伴︵おほとも︶の大納言︵だいなごん︶には龍︵たつ︶の首︵くび︶についてゐる五色︵ごしき︶の玉︵たま︶、石上︵いそのかみ︶の中納言︵ちゆうなごん︶には燕︵つばめ︶のもつてゐる子安貝︵こやすがひ︶一︵ひと︶つといふのであります。そこで翁︵おきな︶はいひました。﹁それはなか〳〵の難題︵なんだい︶だ。そんなことは申︵まを︶されない﹂
しかし、姫︵ひめ︶は、﹁たいしてむづかしいことではありません﹂と、いひ切︵き︶つて平氣︵へいき︶でをります。翁︵おきな︶は仕方︵しかた︶なしに姫︵ひめ︶の註文︵ちゆうもん︶通︵どほ︶りを傳︵つた︶へますと、みなあきれかへつて家︵いへ︶へ引︵ひ︶き取︵と︶りました。
それでも、どうにかして赫映姫︵かぐやひめ︶を自分︵じぶん︶の妻︵つま︶にしようと覺悟︵かくご︶した五人︵ごにん︶は、それ〴〵いろいろの工夫︵くふう︶をして註文︵ちゆうもん︶の品︵しな︶を見︵み︶つけようとしました。
第一番︵だいいちばん︶に、石造皇子︵いしつくりのみこ︶はずるい方︵ほう︶に才︵さい︶のあつた方︵かた︶ですから、註文︵ちゆうもん︶の佛︵ほとけ︶の御石︵みいし︶の鉢︵はち︶を取︵と︶りに天竺︵てんじく︶へ行︵い︶つたように見︵み︶せかけて、三年︵さんねん︶ばかりたつて、大和︵やまと︶の國︵くに︶のある山寺︵やまでら︶の賓頭廬樣︵びんずるさま︶の前︵まへ︶に置︵お︶いてある石︵いし︶の鉢︵はち︶の眞黒︵まつくろ︶に煤︵すゝ︶けたのを、もったいらしく錦︵にしき︶の袋︵ふくろ︶に入︵い︶れて姫︵ひめ︶のもとにさし出︵だ︶しました。ところが、立派︵りつぱ︶な光︵ひかり︶のあるはずの鉢︵はち︶に螢火︵ほたるび︶ほどの光︵ひかり︶もないので、すぐに註文︵ちゆうもん︶ちがひといつて跳︵は︶ねつけられてしまひました。
第二番︵だいにばん︶に、車持皇子︵くらもちのみこ︶は、蓬莱︵ほうらい︶の玉︵たま︶の枝︵えだ︶を取︵と︶りに行︵ゆ︶くといひふらして船出︵ふなで︶をするにはしましたが、實︵じつ︶は三日目︵みつかめ︶にこっそりと歸︵かへ︶つて、かね〴〵たくんで置︵お︶いた通︵とほ︶り、上手︵じようず︶の玉職人︵たましよくにん︶を多︵おほ︶く召︵め︶し寄︵よ︶せて、ひそかに註文︵ちゆうもん︶に似︵に︶た玉︵たま︶の枝︵えだ︶を作︵つく︶らせて、姫︵ひめ︶のところに持︵も︶つて行︵ゆ︶きました。翁︵おきな︶も姫︵ひめ︶もその細工︵さいく︶の立派︵りつぱ︶なのに驚︵をどろ︶いてゐますと、そこへ運︵うん︶わるく玉職人︵たましよくにん︶の親方︵おやかた︶がやつて來︵き︶て、千日︵せんにち︶あまりも骨折︵ほねを︶つて作︵つく︶つたのに、まだ細工賃︵さいくちん︶を下︵くだ︶さるといふ御沙汰︵ごさた︶がないと、苦情︵くじよう︶を持︵も︶ち込︵こ︶みましたので、まやかしものといふことがわかつて、これも忽︵たちま︶ち突︵つ︶っ返︵かへ︶され、皇子︵みこ︶は大恥︵おほはぢ︶をかいて引︵ひ︶きさがりました。
第三番︵だいさんばん︶の阿倍︵あべ︶の右大臣︵うだいじん︶は財産家︵ざいさんか︶でしたから、あまり惡︵わる︶ごすくは巧︵たく︶まず、ちょうど、その年︵とし︶に日本︵につぽん︶に來︵き︶た唐船︵とうせん︶に誂︵あつら︶へて火鼠︵ひねずみ︶の皮衣︵かはごろも︶といふ物︵もの︶を買︵か︶つて來︵く︶るように頼︵たの︶みました。やがて、その商人︵あきうど︶は、やう〳〵のことで元︵もと︶は天竺︵てんじく︶にあつたのを求︵もと︶めたといふ手紙︵てがみ︶を添︵そ︶へて、皮衣︵かはごろも︶らしいものを送︵おく︶り、前︵まへ︶に預︵あづか︶つた代金︵だいきん︶の不足︵ふそく︶を請求︵せいきゆう︶して來︵き︶ました。大臣︵だいじん︶は喜︵よろこ︶んで品物︵しなもの︶を見︵み︶ると、皮衣︵かはごろも︶は紺青色︵こんじよういろ︶で毛︵け︶のさきは黄金色︵おうごんしよく︶をしてゐます。これならば姫︵ひめ︶の氣︵き︶に入︵い︶るに違︵ちが︶ひない、きっと自分︵じぶん︶は姫︵ひめ︶のお婿︵むこ︶さんになれるだらうなどゝ考︵かんが︶へて、大︵おほ︶めかしにめかし込︵こ︶んで出︵で︶かけました。姫︵ひめ︶も一時︵いちじ︶は本物︵ほんもの︶かと思︵おも︶つて内々︵ない〳〵︶心配︵しんぱい︶しましたが、火︵ひ︶に燒︵や︶けないはずだから、試︵ため︶して見︵み︶ようといふので、火︵ひ︶をつけさせて見︵み︶ると、一︵ひと︶たまりもなくめら〳〵と燒︵や︶けました。そこで右大臣︵うだいじん︶もすっかり當︵あ︶てが外︵はづ︶れました。
四番︵よばん︶めの大伴︵おほとも︶の大納言︵だいなごん︶は、家來︵けらい︶どもを集︵あつ︶めて嚴命︵げんめい︶を下︵くだ︶し、必︵かなら︶ず龍︵たつ︶の首︵くび︶の玉︵たま︶を取︵と︶つて來︵こ︶いといつて、邸内︵やしきうち︶にある絹︵きぬ︶、綿︵わた︶、錢︵ぜに︶のありたけを出︵だ︶して路用︵ろよう︶にさせました。ところが家來︵けらい︶たちは主人︵しゆじん︶の愚︵おろか︶なことを謗︵そし︶り、玉︵たま︶を取︵と︶りに行︵ゆ︶くふりをして、めい〳〵の勝手︵かつて︶な方︵ほう︶へ出︵で︶かけたり、自分︵じぶん︶の家︵いへ︶に引︵ひ︶き籠︵こも︶つたりしてゐました。右大臣︵うだいじん︶は待︵ま︶ちかねて、自分︵じぶん︶でも遠︵とほ︶い海︵うみ︶に漕︵こ︶ぎ出︵だ︶して、龍︵たつ︶を見︵み︶つけ次第︵しだい︶矢先︵やさき︶にかけて射落︵いおと︶さうと思︵おも︶つてゐるうちに、九州︵きゆうしう︶の方︵ほう︶へ吹︵ふ︶き流︵なが︶されて、烈︵はげ︶しい雷雨︵らいう︶に打︵う︶たれ、その後︵のち︶、明石︵あかし︶の濱︵はま︶に吹︵ふ︶き返︵かへ︶され、波風︵なみかぜ︶に揉︵も︶まれて死人︵しにん︶のようになつて磯端︵いそばた︶に倒︵たふ︶れてゐました。やう〳〵のこと、國︵くに︶の役人︵やくにん︶の世話︵せわ︶で手輿︵てごし︶に乘︵の︶せられて家︵いへ︶に着︵つ︶きました。そこへ家來︵けらい︶どもが駈︵か︶けつけて、お見舞︵みま︶ひを申︵まを︶し上︵あ︶げると、大納言︵だいなごん︶は杏︵すもゝ︶のように赤︵あか︶くなつた眼︵め︶を開︵ひら︶いて、﹁龍︵たつ︶は雷︵かみなり︶のようなものと見︵み︶えた。あれを殺︵ころ︶しでもしたら、この方︵ほう︶の命︵いのち︶はあるまい。お前︵まへ︶たちはよく龍︵たつ︶を捕︵と︶らずに來︵き︶た。うい奴︵やつ︶どもぢや﹂
とおほめになつて、うちに少々︵しよう〳〵︶殘︵のこ︶つてゐた物︵もの︶を褒美︵ほうび︶に取︵と︶らせました。もちろん姫︵ひめ︶の難題︵なんだい︶には怖︵お︶じ氣︵け︶を振︵ふる︶ひ、﹁赫映姫︵かぐやひめ︶の大︵おほ︶がたりめ﹂と叫︵さけ︶んで、またと近寄︵ちかよ︶らうともしませんでした。
五番︵ごばん︶めの石上︵いそのかみ︶の中納言︵ちゆうなごん︶は燕︵つばめ︶の子安貝︵こやすがひ︶を獲︵と︶るのに苦心︵くしん︶して、いろ〳〵と人︵ひと︶に相談︵そうだん︶して見︵み︶た後︵のち︶、ある下役︵したやく︶の男︵をとこ︶の勸︵すゝ︶めにつくことにしました。そこで、自分︵じぶん︶で籠︵かご︶に乘︵の︶つて、綱︵つな︶で高︵たか︶い屋︵や︶の棟︵むね︶にひきあげさせて、燕︵つばめ︶が卵︵たまご︶を産︵う︶むところをさぐるうちに、ふと平︵ひら︶たい物︵もの︶をつかみあてたので、嬉︵うれ︶しがつて籠︵かご︶を降︵おろ︶す合圖︵あひず︶をしたところが、下︵した︶にゐた人︵ひと︶が綱︵つな︶をひきそこなつて、綱︵つな︶がぷっつりと切︵き︶れて、運︵うん︶わるくも下︵した︶にあつた鼎︵かなへ︶の上︵うへ︶に落︵お︶ちて眼︵め︶を廻︵まは︶しました。水︵みづ︶を飮︵の︶ませられて漸︵やうや︶く正氣︵しようき︶になつた時︵とき︶、﹁腰︵こし︶は痛︵いた︶むが子安貝︵こやすがひ︶は取︵と︶つたぞ。それ見︵み︶てくれ﹂
といひました。皆︵みな︶がそれを見︵み︶ると、子安貝︵こやすがひ︶ではなくて燕︵つばめ︶の古糞︵ふるくそ︶でありました。中納言︵ちゆうなごん︶はそれきり腰︵こし︶も立︵た︶たず、氣病︵きや︶みも加︵くは︶はつて死︵し︶んでしまひました。五人︵ごにん︶のうちであまりものいりもしなかつた代︵かは︶りに、智慧︵ちえ︶のないざまをして、一番︵いちばん︶慘︵むご︶い目︵め︶を見︵み︶たのがこの人︵ひと︶です。
そのうちに、赫映姫︵かぐやひめ︶が並︵なら︶ぶものゝないほど美︵うつく︶しいといふ噂︵うはさ︶を、時︵とき︶の帝︵みかど︶がお聞︵き︶きになつて、一人︵ひとり︶の女官︵じよかん︶に、﹁姫︵ひめ︶の姿︵すがた︶がどのようであるか見︵み︶て參︵まゐ︶れ﹂
と仰︵おほ︶せられました。その女官︵じよかん︶がさっそく竹取︵たけと︶りの翁︵おきな︶の家︵いへ︶に出向︵でむ︶いて勅旨︵ちよくし︶を述︵の︶べ、ぜひ姫︵ひめ︶に逢︵あ︶ひたいといふと、翁︵おきな︶はかしこまつてそれを姫︵ひめ︶にとりつぎました。ところが姫︵ひめ︶は、﹁別︵べつ︶によい器量︵きりよう︶でもありませぬから、お使︵つか︶ひに逢︵あ︶ふことは御免︵ごめん︶を蒙︵かうむ︶ります﹂
と拗︵す︶ねて、どうすかしても、叱︵しか︶つても逢︵あ︶はうとしませんので、女官︵じよかん︶は面目︵めんぼく︶なさそうに宮中︵きゆうちゆう︶に立︵た︶ち歸︵かへ︶つてそのことを申︵まを︶し上︵あ︶げました。帝︵みかど︶は更︵さら︶に翁︵おきな︶に御命令︵ごめいれい︶を下︵くだ︶して、もし姫︵ひめ︶を宮仕︵みやづか︶へにさし出︵だ︶すならば、翁︵おきな︶に位︵くらい︶をやらう。どうにかして姫︵ひめ︶を説︵と︶いて納得︵なつとく︶させてくれ。親︵おや︶の身︵み︶で、そのくらゐのことの出來︵でき︶ぬはずはなからうと仰︵おほ︶せられました。翁︵おきな︶はその通︵とほ︶りを姫︵ひめ︶に傳︵つた︶へて、ぜひとも帝︵みかど︶のお言葉︵ことば︶に從︵したが︶ひ、自分︵じぶん︶の頼︵たの︶みをかなへさせてくれといひますと、﹁むりに宮仕︵みやづか︶へをしろと仰︵おほ︶せられるならば、私︵わたし︶の身︵み︶は消︵き︶えてしまひませう。あなたのお位︵くらゐ︶をお貰︵もら︶ひになるのを見︵み︶て、私︵わたし︶は死︵し︶ぬだけでございます﹂
と姫︵ひめ︶が答︵こた︶へましたので、翁︵おきな︶はびっくりして、﹁位︵くらゐ︶を頂︵いたゞ︶いても、そなたに死︵し︶なれてなんとしよう。しかし、宮仕︵みやづか︶へをしても死︵し︶なねばならぬ道理︵どうり︶はあるまい﹂
といつて歎︵なげ︶きましたが、姫︵ひめ︶はいよ〳〵澁︵しぶ︶るばかりで、少︵すこ︶しも聞︵き︶きいれる樣子︵ようす︶がありませんので、翁︵おきな︶も手︵て︶のつけようがなくなつて、どうしても宮中︵きゆうちゆう︶には上︵あが︶らぬといふことをお答︵こた︶へして、﹁自分︵じぶん︶の家︵いへ︶に生︵うま︶れた子供︵こども︶でもなく、むかし山︵やま︶で見︵み︶つけたのを養︵やしな︶つただけのことでありますから、氣持︵きも︶ちも世間︵せけん︶普通︵ふつう︶の人︵ひと︶とはちがつてをりますので、殘念︵ざんねん︶ではございますが……﹂
と恐︵おそ︶れ入︵い︶つて申︵まを︶し添︵そ︶へました。帝︵みかど︶はこれを聞︵きこ︶し召︵め︶されて、それならば翁︵おきな︶の家︵いへ︶にほど近︵ちか︶い山邊︵やまべ︶に御狩︵みか︶りの行幸︵みゆき︶をする風︵ふう︶にして姫︵ひめ︶を見︵み︶に行︵ゆ︶くからと、そのことを翁︵おきな︶に承知︵しようち︶させて、きめた日︵ひ︶に姫︵ひめ︶の家︵いへ︶におなりになりました。すると、まばゆいように照︵て︶り輝︵かゞや︶ぐ女︵をんな︶がゐます。これこそ赫映姫︵かぐやひめ︶に違︵ちが︶ひないと思︵おぼ︶し召︵め︶してお近寄︵ちかよ︶りになると、その女︵をんな︶は奧︵おく︶へ逃︵に︶げて行︵ゆ︶きます。その袖︵そで︶をおとりになると、顏︵かほ︶を隱︵かく︶しましたが、初︵はじ︶めにちらと御覽︵ごらん︶になつて、聞︵き︶いたよりも美人︵びじん︶と思︵おぼ︶し召︵め︶されて、﹁逃︵に︶げても許︵ゆる︶さぬ。宮中︵きゆうちゆう︶に連︵つ︶れ行︵ゆ︶くぞ﹂
と仰︵おほ︶せられました。﹁私︵わたし︶がこの國︵くに︶で生︵うま︶れたものでありますならば、お宮仕︵みやづか︶へも致︵いた︶しませうけれど、さうではございませんから、お連︵つ︶れになることはかなひますまい﹂
と姫︵ひめ︶は申︵まを︶し上︵あ︶げました。﹁いや、そんなはずはない。どうあつても連︵つ︶れて行︵ゆ︶く﹂
かねて支度︵したく︶してあつたお輿︵こし︶に載︵の︶せようとなさると、姫︵ひめ︶の形︵かたち︶は影︵かげ︶のように消︵き︶えてしまひました。帝︵みかど︶も驚︵おどろ︶かれて、﹁それではもう連︵つ︶れては行︵ゆ︶くまい。せめて元︵もと︶の形︵かたち︶になつて見︵み︶せておくれ。それを見︵み︶て歸︵かへ︶ることにするから﹂
と、仰︵おほ︶せられると、姫︵ひめ︶はやがて元︵もと︶の姿︵すがた︶になりました。帝︵みかど︶も致︵いた︶し方︵かた︶がございませんから、その日︵ひ︶はお歸︵かへ︶りになりましたが、それからといふもの、今︵いま︶まで、ずいぶん美︵うつく︶しいと思︵おも︶つた人︵ひと︶なども姫︵ひめ︶とは比︵くら︶べものにならないと思︵おぼ︶し召︵め︶すようになりました。それで、時々︵とき〴〵︶お手紙︵がみ︶やお歌︵うた︶をお送︵おく︶りになると、それにはいち〳〵お返事︵へんじ︶をさし上︵あ︶げますので、やう〳〵お心︵こゝろ︶を慰︵なぐさ︶めておいでになりました。
さうかうするうちに三年︵さんねん︶ばかりたちました。その年︵とし︶の春先︵はるさき︶から、赫映姫︵かぐやひめ︶は、どうしたわけだか、月︵つき︶のよい晩︵ばん︶になると、その月︵つき︶を眺︵なが︶めて悲︵かな︶しむようになりました。それがだん〳〵つのつて、七月︵しちがつ︶の十五夜︵じゆうごや︶などには泣︵な︶いてばかりゐました。翁︵おきな︶たちが心配︵しんぱい︶して、月︵つき︶を見︵み︶ることを止︵や︶めるようにと諭︵さと︶しましたけれども、﹁月︵つき︶を見︵み︶ずにはゐられませぬ﹂
といつて、やはり月︵つき︶の出︵で︶る時分︵じぶん︶になると、わざ〳〵縁先︵えんさき︶などへ出︵で︶て歎︵なげ︶きます。翁︵おきな︶にはそれが不思議︵ふしぎ︶でもあり、心︵こゝろ︶がゝりでもありますので、ある時︵とき︶、そのわけを聞︵き︶きますと、﹁今︵いま︶までに、度々︵たび〳〵︶お話︵はなし︶しようと思︵おも︶ひましたが、御心配︵ごしんぱい︶をかけるのもどうかと思︵おも︶つて、打︵う︶ち明︵あ︶けることが出來︵でき︶ませんでした。實︵じつ︶を申︵まを︶しますと、私︵わたし︶はこの國︵くに︶の人間︵にんげん︶ではありません。月︵つき︶の都︵みやこ︶の者︵もの︶でございます。ある因縁︵いんねん︶があつて、この世界︵せかい︶に來︵き︶てゐるのですが、今︵いま︶は歸︵かへ︶らねばならぬ時︵とき︶になりました。この八月︵はちがつ︶の十五夜︵じゆうごや︶に迎︵むか︶への人︵ひと︶たちが來︵く︶れば、お別︵わか︶れして私︵わたし︶は天上︵てんじよう︶に歸︵かへ︶ります。その時︵とき︶はさぞお歎︵なげ︶きになることであらうと、前々︵まへ〳〵︶から悲︵かな︶しんでゐたのでございます﹂
姫︵ひめ︶はさういつて、ひとしほ泣︵な︶き入︵い︶りました。それを聞︵き︶くと、翁︵おきな︶も氣違︵きちが︶ひのように泣︵な︶き出︵だ︶しました。﹁竹︵たけ︶の中︵なか︶から拾︵ひろ︶つてこの年月︵としつき︶、大事︵だいじ︶に育︵そだ︶てたわが子︵こ︶を、誰︵だれ︶が迎︵むか︶へに來︵こ︶ようとも渡︵わた︶すものではない。もし取︵と︶つて行︵い︶かれようものなら、わしこそ死︵し︶んでしまひませう﹂﹁月︵つき︶の都︵みやこ︶の父母︵ちゝはゝ︶は少︵すこ︶しの間︵あひだ︶といつて、私︵わたし︶をこの國︵くに︶によこされたのですが、もう長︵なが︶い年月︵としつき︶がたちました。生︵う︶みの親︵おや︶のことも忘︵わす︶れて、こゝのお二人︵ふたり︶に馴︵な︶れ親︵した︶しみましたので、私︵わたし︶はお側︵そば︶を離︵はな︶れて行︵い︶くのが、ほんとうに悲︵かな︶しうございます﹂
二人︵ふたり︶は大泣︵おほな︶きに泣︵な︶きました。家︵いへ︶の者︵もの︶どもゝ、顏︵かほ︶かたちが美︵うつく︶しいばかりでなく、上品︵じようひん︶で心︵こゝろ︶だての優︵やさ︶しい姫︵ひめ︶に、今更︵いまさら︶、永︵なが︶のお別︵わか︶れをするのが悲︵かな︶しくて、湯水︵ゆみづ︶も喉︵のど︶を通︵とほ︶りませんでした。
このことが帝︵みかど︶のお耳︵みゝ︶に達︵たつ︶しましたので、お使︵つか︶ひを下︵くだ︶されてお見舞︵みま︶ひがありました。翁︵おきな︶は委細︵いさい︶をお話︵はなし︶して、﹁この八月︵はちがつ︶の十五日︵じゆうごにち︶には天︵てん︶から迎︵むか︶への者︵もの︶が來︵く︶ると申︵まを︶してをりますが、その時︵とき︶には人數︵にんず︶をお遣︵つか︶はしになつて、月︵つき︶の都︵みやこ︶の人々︵ひと〴〵︶を捉︵つかま︶へて下︵くだ︶さいませ﹂
と、泣︵な︶く〳〵お願︵ねが︶ひしました。お使︵つか︶ひが立︵た︶ち歸︵かへ︶つてその通︵とほ︶りを申︵まを︶し上︵あ︶げると、帝︵みかど︶は翁︵おきな︶に同情︵どうじよう︶されて、いよ〳〵十五日︵じゆうごにち︶が來︵く︶ると高野︵たかの︶の少將︵しようしよう︶といふ人︵ひと︶を勅使︵ちよくし︶として、武士︵ぶし︶二千人︵にせんにん︶を遣︵や︶つて竹取︵たけと︶りの翁︵おきな︶の家︵いへ︶をまもらせられました。さて、屋根︵やね︶の上︵うへ︶に千人︵せんにん︶、家︵いへ︶のまはりの土手︵どて︶の上︵うへ︶に千人︵せんにん︶といふ風︵ふう︶に手分︵てわ︶けして、天︵てん︶から降︵お︶りて來︵く︶る人々︵ひと〴〵︶を撃︵う︶ち退︵しりぞ︶ける手︵て︶はずであります。この他︵ほか︶に家︵いへ︶に召︵め︶し仕︵つか︶はれてゐるもの大勢︵おほぜい︶手︵て︶ぐすね引︵ひ︶いて待︵ま︶つてゐます。家︵いへ︶の内︵うち︶は女︵をんな︶どもが番︵ばん︶をし、お婆︵ばあ︶さんは、姫︵ひめ︶を抱︵かゝ︶へて土藏︵どぞう︶の中︵なか︶にはひり、翁︵おきな︶は土藏︵どぞう︶の戸︵と︶を締︵し︶めて戸口︵とぐち︶に控︵ひか︶へてゐます。その時︵とき︶姫︵ひめ︶はいひました。﹁それほどになさつても、なんの役︵やく︶にも立︵た︶ちません。あの國︵くに︶の人︵ひと︶が來︵く︶れば、どこの戸︵と︶もみなひとりでに開︵あ︶いて、戰︵たゝか︶はうとする人︵ひと︶たちも萎︵な︶えしびれたようになつて力︵ちから︶が出︵で︶ません﹂﹁いやなあに、迎︵むか︶への人︵ひと︶がやつて來︵き︶たら、ひどい目︵め︶に遇︵あ︶はせて追︵お︶っ返︵かへ︶してやる﹂
と翁︵おきな︶はりきみました。姫︵ひめ︶も、年寄︵としよ︶つた方々︵かた〴〵︶の老先︵おいさき︶も見屆︵みとゞ︶けずに別︵わか︶れるのかと思︵おも︶へば、老︵おい︶とか悲︵かな︶しみとかのないあの國︵くに︶へ歸︵かへ︶るのも、一向︵いつこう︶に嬉︵うれ︶しくないといつてまた歎︵なげ︶きます。
そのうちに夜︵よる︶もなかばになつたと思︵おも︶ふと、家︵いへ︶のあたりが俄︵にはか︶にあかるくなつて、滿月︵まんげつ︶の十︵じつ︶そう倍︵ばい︶ぐらゐの光︵ひかり︶で、人々︵ひと〴〵︶の毛孔︵けあな︶さへ見︵み︶えるほどであります。その時︵とき︶、空︵そら︶から雲︵くも︶に乘︵の︶つた人々︵ひと〴〵︶が降︵お︶りて來︵き︶て、地面︵じめん︶から五尺︵ごしやく︶ばかりの空中︵くうちゆう︶に、ずらりと立︵た︶ち列︵なら︶びました。﹁それ來︵き︶たっ﹂と、武士︵ぶし︶たちが得物︵えもの︶をとつて立︵た︶ち向︵むか︶はうとすると、誰︵だれ︶もかれも物︵もの︶に魅︵おそ︶はれたように戰︵たゝか︶ふ氣︵き︶もなくなり、力︵ちから︶も出︵で︶ず、たゞ、ぼんやりとして目︵め︶をぱち〳〵させてゐるばかりであります。そこへ月︵つき︶の人々︵ひと〴〵︶は空︵そら︶を飛︵と︶ぶ車︵くるま︶を一︵ひと︶つ持︵も︶つて來︵き︶ました。その中︵なか︶から頭︵かしら︶らしい一人︵ひとり︶が翁︵おきな︶を呼︵よ︶び出︵だ︶して、﹁汝︵なんぢ︶翁︵おきな︶よ、そちは少︵すこ︶しばかりの善︵い︶いことをしたので、それを助︵たす︶けるために片時︵かたとき︶の間︵あひだ︶、姫︵ひめ︶を下︵くだ︶して、たくさんの黄金︵おうごん︶を儲︵まう︶けさせるようにしてやつたが、今︵いま︶は姫︵ひめ︶の罪︵つみ︶も消︵き︶えたので迎︵むか︶へに來︵き︶た。早︵はや︶く返︵かへ︶すがよい﹂
と叫︵さけ︶びます。翁︵おきな︶が少︵すこ︶し澁︵しぶ︶つてゐると、それには構︵かま︶はずに、﹁さあ〳〵姫︵ひめ︶、こんなきたないところにゐるものではありません﹂
といつて、例︵れい︶の車︵くるま︶をさし寄︵よ︶せると、不思議︵ふしぎ︶にも堅︵かた︶く閉︵とざ︶した格子︵こうし︶も土藏︵どぞう︶も自然︵しぜん︶と開︵あ︶いて、姫︵ひめ︶の體︵からだ︶はする〳〵と出︵で︶ました。翁︵おきな︶が留︵と︶めようとあがくのを姫︵ひめ︶は靜︵しづ︶かにおさへて、形見︵かたみ︶の文︵ふみ︶を書︵か︶いて翁︵おきな︶に渡︵わた︶し、また帝︵みかど︶にさし上︵あ︶げる別︵べつ︶の手紙︵てがみ︶を書︵か︶いて、それに月︵つき︶の人々︵ひと〴〵︶の持︵も︶つて來︵き︶た不死︵ふし︶の藥︵くすり︶一壺︵ひとつぼ︶を添︵そ︶へて勅使︵ちよくし︶に渡︵わた︶し、天︵あま︶の羽衣︵はごろも︶を着︵き︶て、あの車︵くるま︶に乘︵の︶つて、百人︵ひやくにん︶ばかりの天人︵てんにん︶に取︵と︶りまかれて、空高︵そらたか︶く昇︵のぼ︶つて行︵ゆ︶きました。これを見送︵みおく︶つて翁︵おきな︶夫婦︵ふうふ︶はまた一︵ひと︶しきり聲︵こゑ︶をあげて泣︵な︶きましたが、なんのかひもありませんでした。
一方︵いつぽう︶勅使︵ちよくし︶は宮中︵きゆうちゆう︶に參上︵さんじよう︶して、その夜︵よ︶の一部始終︵いちぶしじゆう︶を申︵まを︶し上︵あ︶げて、かの手紙︵てがみ︶と藥︵くすり︶をさし上︵あ︶げました。帝︵みかど︶は、天︵てん︶に一番︵いちばん︶近︵ちか︶い山︵やま︶は駿河︵するが︶の國︵くに︶にあると聞︵きこ︶し召︵め︶して、使︵つか︶ひの役人︵やくにん︶をその山︵やま︶に登︵のぼ︶らせて、不死︵ふし︶の藥︵くすり︶を焚︵た︶かしめられました。それからはこの山︵やま︶を不死︵ふし︶の山︵やま︶と呼︵よ︶ぶようになつて、その藥︵くすり︶の煙︵けむ︶りは今︵いま︶でも雲︵くも︶の中︵なか︶へ立︵た︶ち昇︵のぼ︶るといふことであります。
底本‥﹁竹取物語・今昔物語・謠曲物語 No.33﹂復刻版日本兒童文庫、名著普及会
1981︵昭和56︶年8月20日発行
底本の親本‥﹁竹取物語・今昔物語・謠曲物語﹂日本兒童文庫、アルス
1928︵昭和3︶年3月5日発行
※拗促音の小書きの散在は、底本通りです。
入力‥しだひろし
校正‥noriko saito
2011年4月3日作成
青空文庫作成ファイル‥
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