- インド共和国
- भारत (ヒンディー語)
India (英語)
-
- 国の標語:सत्यमेव जयते
ラテン文字転写: Satyameva Jayate
(サンスクリット語: まさに真理は自ずと勝利する)
- 国歌:ジャナ・ガナ・マナ
-
国名
正式名称は、भारत ︵ヒンディー語: ラテン文字転写は、Bharat。読みは、バーラト︶。補助公用語の英語による国名は、India ︵インディア︶。
政体名を付け加えた、ヒンディー語のभारत गणराज्य ︵ラテン文字転写: Bharat Ganarajya︶、英語の Republic of Indiaを正式名称とする資料もあるが、憲法その他の法的根拠に基づくものではない。
日本語による表記は、インド。これもまた、共和制であることから政体名を付加して、インド共和国とされることもある。また、連邦制をとっていることから、インド連邦としたり、さらには、インド連邦共和国という表記も稀に目にする。1947年の独立から1950年に大統領制に移行するまでを、インド連邦、それ以降を、インド共和国と使い分ける人もいる。なお、日本の外務省はインドとしている。また印度という漢字の表記がある。
地理
多くの地域では雨期が存在し、三つの季節、夏、雨期、冬に分けられる。雨期を除いてほとんど雨の降らない地域が多い。
インドでは早い時期に農耕牧畜が発達したため、無制限な開発が行われ、それが土地の乾燥をもたらした。現在も放牧が行われており、植生が元に戻るのは難しい。ただし、全土が乾燥しているわけではなく、緑があふれている地域もある。ちなみに、木材の価格は高く、多くの場合豊富な大理石のほうが安く使える。
地方行政区分
インドは 28 の州と, 6 つの連邦直轄地域と、首都圏 (National capital territory) である デリーから構成される。
ただし、ジャンム・カシミール州はその全域をパキスタンが、ジャンム・カシミール州の一部とアルナーチャル・プラデーシュ州のほとんどを中国が、それぞれ領有権を主張している。
代表的な都市
歴史
詳細はインドの歴史と南アジア史参照
ヴェーダ時代からラージプート時代まで
インドのイスラム化と南インドのヒンドゥー王朝
ムガル帝国
16世紀、中央アジアでティムール帝国が滅亡すると、ティムールの一族であるバーブルが北インドへ南下し、デリー・スルタン朝を倒してムガル帝国を建てた。3代皇帝のアクバルは、ヒンドゥー教徒との融和を図るとともに統治機構の整備に努めた。しかし、6代皇帝のアウラングゼーブは、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラム教スンナ派に基づく統治を行ったために各地で反乱が勃発、帝国は衰退にむかった。
17世紀、スペイン・ポルトガルの没落に伴い、アジア海域世界への進出をイギリスとオランダが推進した。両国は東南アジアでアンボイナ事件で衝突し、イギリスは東南アジアから駆逐されたためインドへ進出した。しかし、インド産の手織り綿布をイギリス東インド会社がヨーロッパに持ち込むと大流行となり、イギリスは対インド貿易を重視した。一方、フランスも徐々にインド進出を図っており、利害が対立した両国は、新大陸と同様にインドでも抗争を続けた。
18世紀後半、七年戦争によってフランスをインドから駆逐すると、1765年にベンガル地方の徴税権︵ディーワーニー︶を獲得したことを皮切りにイギリス東インド会社主導の植民地化が進み、19世紀前半にイギリスの対インド貿易が自由化されたことで、イギリスから機械製綿織物がインドへ流入、インドの伝統的な綿織物産業は破壊された。さらに、近代的な地税制度を導入したことも、インド民衆を困窮させた。こうした要因から1857年、第一次インド独立戦争︵セポイの反乱、シパーヒーの反乱、インド大反乱︶が起こった。徹底的な鎮圧を図ったイギリスは、翌年にムガル帝国を完全に滅ぼし、インドを直接統治下においた。20年後の1877年には、イギリス女王がインド皇帝を兼任するイギリス領インド帝国が成立した。
ただし、小規模な貿易拠点などのいくつかが、フランスやポルトガルの植民地のまま残った。
被植民地時代
イギリスはインド統治に際して分割統治の手法をとった。インド人知識人層を懐柔するため、1885年には諮問機関としてインド国民会議を設けた。しかし、民族資本家の形成に伴い反英強硬派が台頭したこと、日露戦争における日本の勝利、ベンガル分割令への憤りなどから反英機運が一層強まった。こうした中、イギリスは独立運動の宗教的分断を図り、親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させた。
第一次世界大戦で、自治の約束を信じてイギリスに戦争協力したにもかかわらず裏切られたことや、民族自決の理念が高まったことに影響され、インドではさらに民族運動が高揚した。マハートマー・ガンディーの登場は、いままで知識人主導であったインドの民族運動を、幅広く大衆運動にまで深化させた。ガーンディーが主導した非暴力独立運動は、イギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。第二次世界大戦では国民会議派から決裂した急進派のチャンドラ・ボースが日本の援助によってインド国民軍を結成し、独立をめざす動きも存在した。
独立
戦後、インド内のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の争いは収拾されず、1947年8月15日、イスラム教国家のパキスタンとの分離独立となった。初代首相にはネルーが就任した。長期にわたって国民会議派が政権を担ったが、1990年代よりヒンドゥー至上主義の立場をとる人民党が勢力を伸ばし政権を獲得した。
パキスタンとの対立はその後も続き、カシミール問題と東パキスタンを原因として、三度の印パ戦争が勃発した。両国の対立は現在も続いている。また、隣国の中華人民共和国による侵略を数度に渡り受け、同国との間の緊張状態が現在も続いている。
現代
近年はIT産業や製造業を中心に経済成長を続け、ロシアやブラジルなどとともにBRICsの一角として注目を集める存在となった。また、2006年7月9日には、核弾頭搭載可能な中距離弾道ミサイル﹁アグニ3﹂︵射程3500km︶の初の発射実験を行った。当局は当初、発射は成功したとしたが、その後上空でミサイル下部の切り離しが出来ず、目標落下地点には到達しなかったと発表した。
広大な国土に対するインフラ整備が進んでいないこともあり天災による被害を受けやすく、2006年8月10日、モンスーンによる洪水の被害者は、東部のグジャラート、南東部のアーンドラ・プラデーシュの2州だけで、約1300万人に上った。全土での死者は、10日までの9日間で240人に達した。
政治
国家元首は、大統領である。実権はなく、内閣の助言に従い国務を行う。議会の上下両院と州議会議員で構成される選挙会によって選出される。任期5年。
副大統領は、議会で選出される。大統領が任期満了、死亡、解職で欠ける場合は、副大統領の地位のままその職務を行う。任期は大統領と同じ5年だが、就任時期をずらすことで、地位の空白が生ずることを防止する。また、副大統領は、上院の議長を兼任する。
行政府の長は、首相で、下院議員の総選挙後に、大統領が任命する。閣僚は、首相の指名に基づき、大統領が任命する。内閣は下院に対して連帯して責任を負う︵議院内閣制︶。
議会は、両院制で、州代表の上院︵ラージヤ・サバー︶と、国民代表の下院︵ローク・サバー︶とで構成される。上院は、245議席で、233議席を州議会議員による間接選挙で選び、12議席を大統領が有識者の中から指名する。任期は6年で、2年ごとに3分の1ずつ改選。下院は、545議席で、543議席を18歳以上の国民による小選挙区制選挙で選出し、2議席を大統領がアングロ・インディアン︵イギリス系インド人:植民地時代にイギリス人とインド人との間に生まれた混血のインド人、もしくはその子孫の人々︶から指名する。任期は5年だが、任期途中で解散される場合がある。有権者の人口が多いため、選挙の投票は、5回にわけて行われる。2004年の下院選挙は、4月20日に第1回の投票が行われ、5月13日に開票される。
インドの政治を軍事の面から見てみると、インドの軍事制度は非常に安定している。特に、シビリアン・コントロールがアジアでも有数と言えるほどに徹底されている。
領土紛争
カシミール問題
日本とのつながり
主な農業
経済
ハイテク関連施設
大学や研究機関などには直径十数メートルから数十メートルのパラボラアンテナが地上や屋上に設えてあり、衛星を用いてインターネット接続ができる。
インド国内にはこのようなパラボラアンテナを備えた施設が国全体を取り囲むように州ごとに存在し、周辺地域へは光ケーブルを用いてサービスされている。しかし、建設工事の近代化は遅れており、STPI (Software Technology Parks of India) から周辺に敷設中の光ファイバーの工事現場では、建設重機は見当たらず、殆どが手掘りであった。︵2002年2月現在)
アメリカとのつながり
冷戦期の反米親ソ路線とは裏腹に現在では友好関係を保っている。
インドではソフトウェア産業の優秀な人材が揃っており、英語を話せる人も多いためアメリカへの人材の引き抜きや現地でのソフトウェア産業の設立が盛んになっている。そのため、ハイテク産業でのアメリカとのつながりが大きく、アメリカで就職したり、インターネットを通じてインド国内での開発、運営などが行われたりしている。
また、アメリカとインドは地球の反対側に位置するため、アメリカの終業時刻がインドの始業時刻に相当し、終業時刻にインドへ仕事を依頼すると翌日の始業時刻には成果品が届くことからもインドの優位性が評価されるようになった︵→オフショア︶。
一時期、シリコンバレーは“IC”でもつと言われたことがあるが、この場合のICは集積回路のIntegrated Circuitsを指すのではなくインド人と中国人を意味する。
中華人民共和国との比較
インドと中華人民共和国を比較した場合、インドのIT関連技術者の英語能力の方が高く、同一のIT知識を有している技術者でもインドの英語能力の優位性が認められ、アメリカIT産業のレインとして高く評価されている。またインド人自らもこれを自負している。
バイオテクノロジー
インドというとITが有名だが、バイオテクノロジーの分野にも力を入れている。1986年にはバイオテクノロジー庁が設立された。
通貨
ルピー (Rs, Rupee) とパイサ (Pise)。1ルピーは100パイサ。25パイサ未満の通貨はほとんど出回っていない。1万円は約3900~4000ルピー︵2004年8月現在。一般が銀行で両替する場合のレート︶。[1]
交通
高速道路などは計画・建設中の段階である。デリー・コルカタ・チェンナイ・ムンバイを結ぶ延長約5800kmの道路(通称「黄金の四角形」)が2005年末に完成予定であり、また、国内を東西方向・南北方向に結ぶ
+型の延長約7300kmの道路(通称「東西南北回廊」)も2007年末に完成する予定である。
鉄道
現在では鉄道が移動の主体となっている。航空機も、一部の富裕層でしか使われていない。貧富の差が激しいのにあわせて、使う乗物によってかかる費用が大きく違う。例︶ムンバイ、デリー間。飛行機の外国人料金: 6000ルピー。二等の寝台: 400ルピー。また日本の新幹線を基にした高速鉄道や貨物鉄道も計画されている。
主な工業
人口
- インドの人口は1950年以降、毎年1,000万~1,500万人の勢いで増加し続け、2005年には11億人を突破した。国連の予測では今後もこのペースで増加し、2030年代に中国を追い抜くと言われる。中国が一人っ子政策を見直されない限り2030年代で人口が頭打ちになるのと比べ驚異的な伸びといえる。ただし2030年代以降は毎年500~700万人増と人口増加はやや鈍化する。とはいえ2050年には16億人近くに達し、その後も増加し続け、2100年には18億人近くになるというのが大方の専門家の見方だ。またインドは人口構成が若いのが特徴で、2000年の中位年齢は23歳、2050年でも38歳と言われている。因みにアメリカ合衆国の2050年の中位年齢は40歳、中国は43歳、EUは48歳、日本は53歳と推定される。
年
|
人口(万人)
|
増加率 (%)
|
1950
|
3億5756 |
×
|
1960
|
4億4234 |
2.2
|
1970
|
5億5491 |
2.3
|
1980
|
6億8885 |
2.2
|
1990
|
8億4641 |
2.1
|
2000
|
10億169 |
1.9
|
2005
|
11億337 |
×
|
2010
|
11億7380 |
1.4
|
2020
|
13億1221 |
1.1
|
2030
|
14億1657 |
0.8
|
2040
|
14億8571 |
0.5
|
2050
|
15億9000 |
0.3
|
2100
|
17億9000 |
0.3
|
国民
パンジャーブ地方に暮らす一部の民族は、起源をヨーロッパのロマ(ジプシー)と同じにする。そのほか、民族によって服装や生活様式の違いがはっきりと分かれていることが多い。
人種
有史以前からユーラシア大陸の東西から何派にもわたって様々な集団が流入してきたため、黄色、白色、黒色等、多様な肌の色の人種が古来より暮らしている。一部他人種と混血している場合もあるが、クラスがはっきり分かれているため明確な違いがある場合が多い。同じ地域に暮らしていても、混血していることがすくない。人種はかなりの割合で重なった地域に暮らしている。
インド、特に北インドには、イラン・イラク高原から移住してきた遊牧民を祖とするアーリア人が多く居住している。彼らは分布上はコーカソイドに属する。コーカソイドと言っても飽くまで人種としての区分であり、アラブ人、南アジア人、などもコーカソイドである。北インドに居住する人々は黒色人種程ではないにしろ日焼けをしたように濃色の皮膚で、同じコーカソイド人種でありながらヨーロッパ人と対照的である。︵詳細はアーリア人、コーカソイド参照︶
しかし、南インドには、黒色人種ネグロイドに属するドラヴィダ人が多く居住している。ドラヴィダ人はアーリア人とは大きく異なり、典型的な農耕民族で、人種形質から遺伝系統までが違う。アーリア人と比べ、皮膚の色彩は黒褐色で非常に濃く、背が低い傾向にある。アフリカ中南部に起源を持つ他の黒色人種とも異なり、彼らの祖先は地中海周辺の農耕地帯に起源を持ち、紀元前3500年頃、アーリア人より2千年ほど前にインドに移住して、農耕を築いた集団とされ、それによりインダス文明の繁栄をもたらした。(詳細はドラヴィダ人、ネグロイド参照。︶
ちなみにヴェッダ人などの非アーリア、非ドラヴィダの先史時代以来のインド亜大陸先住人種も非常に濃い色の皮膚を持つが、これらの人種群から区別する作業が行われている。彼等はドラヴィダ人が到達するよりも更に古い時代からインドに居住していた人々の形質を色濃く残す子孫であると思われる。
言語
インドの言語、インドの国語の一覧、インドの言語の話者数一覧、ドラヴィダ語族 を参照
ヒンディー語を連邦公用語とするが、ヒンディー語圏以外では各地方の言語が日常的に話されている。インドで最も多くの人に日常話されている言葉はヒンディー語で、約4億人の話者がいると言われ、インドの人口の40%を占める。英語は全国に広く普及しており、ヒンディー語圏以外の地方では地方の言葉以外に英語とヒンディー語を加えた三つの言葉を話せる人も多い。またクラスや職業によっては、そもそも英語を母語にする人も珍しくなく、英語しか話せない人もいる。大企業やハイテク産業では大抵の場合、英語が話されている。しかし一方で、地域や階級によっては英語がまったく通じないこともしばしばである。1991年の国勢調査によると、178,598人︵調査対象者の0.021%︶が英語を母語にしており、9000万人以上︵同11%︶が英語を第一、第二、ないし第三の言語として話すとしている。
インドはイギリスの植民地であったため英語の影響は強く、現在も共通語的役割を果たしている。そのためインドの憲法も英語で書かれているが、この憲法の中には憲法施行︵1950年︶後15年で英語を公用語から除外するとしている。現在、憲法はヒンディー語で翻訳され、正文とされているが、現実には15年を経過しても英語を除外することができず、公用語法において英語の使用を無期限延長することとしている。そのため現在も英文憲法はヒンディー語憲法と共に正文となっている。ただし英語離れとでも言うべき動きは進んでおり、すでにボンベイ、カルカッタ、マドラスという大都市さえも、それぞれムンバイ、コルカタ、チェンナイという現地語の名へと公式に改められた。こうした傾向はインド国内でのナショナリズムの拡大・浸透が続く限り今後も進むものと見られるが、連邦公用語のヒンディー語は今だ全国に浸透していない。特にインド南部タミル・ナードゥ州などではヒンディー語を連邦公用語とすることへの反発が強い。
インドの言語は北部のインド・ヨーロッパ語族インド語派と南部のドラヴィダ語族に大きく分かれる。ドラヴィダ語族の言語は主に南部のアーンドラ・プラデーシュ州、カルナータカ州、ケーララ州、タミル・ナードゥ州で話され、それ以外の地域がインド・ヨーロッパ語族に含まれる。この様に北部と南部とで言語が大きく異なっているため、インド・ヨーロッパ語族に含まれるヒンディー語がドラヴィダ語族の人々への浸透の遅れる原因ともなっている。
近年︵1980年代以降︶のヒンドゥー・ナショナリズムの高まりと共に、サンスクリットを公用語にしようという動きも一部で高まっている。もともと中世以前においてはインド圏の共通語であったと予想されているサンスクリットは、各地方語の力が強まりその役割が果たされなくなった後も、上位カーストであるブラフミンの間では基礎教養として身に付けられてきたという経緯がある。しかし古い言語であるだけに、現在︵学者・研究者による会議の席上や特殊なコミュニティー等を除けば︶日常語として話している人はほとんど居らず、またその複雑さ故に同言語の学習に多年を要することなどもあり、実際の普及は滞っているのが現状である。
インドの公用語
宗教
多くの人はヒンドゥー教徒で、それにまつわる身分差別であるカースト制度の影響は今でも残っている。その為、クラス︵階層︶や貧富の差が非常に大きい。
イスラム教徒もインド国内に多数おり、その数ではインドは世界第3位のイスラム教国となり、︵1位インドネシア、2位パキスタン︶ヒンドゥー教から一方的に迫害されることはないが、ヒンドゥー教徒の力が強いためにイスラム教徒との勢力争いで、暴動が起きることもある。そのためイスラム教徒がヒンドゥー教の寺院を破壊したり、その逆にヒンドゥー教徒がイスラム教のモスクを破壊したりといった事件も後を絶たない。
その他インドの長い歴史の中で、ジャイナ教やスィク教(シク教)、ゾロアスター教がヒンドゥー社会の中で生き残って来た理由は、彼らの社会的な力のせいである。ジャイナ教徒には裕福な商人が多く、シーク教徒には強い戦士が多くまた裕福な人々が多い。ゾロアスター教徒︵パールスィー︶にも裕福な人々が多く、政治的な力を持っている人々も多い。ちなみに、インド最大の財閥のひとつであるタタは、ゾロアスター教徒の財閥である。
インドの人口に占める各宗教の割合: ヒンドゥー教徒80.5%、イスラム教徒13.4%、キリスト教徒2.33%、シク教徒1.84%、仏教徒0.76%、ジャイナ教徒0.40%、アイヤーヴァリ教徒0.12%
仏教
仏教発祥の地であるが、5世紀から12世紀の間に衰退、十三世紀初頭のイスラム教徒によるビクラマシーラ大僧院の破壊により、僧院組織は壊滅的打撃をうけ、インド仏教は、ベンガル地方でベンガル仏教徒とよばれる小グループが細々と命脈を保つのみとなった。
カシミール州のラダック地方、ヒマーチャルプラデーシュ州の北部、シッキム州など、チベット系住民が居住する地方では、チベット仏教が伝統的に信仰されている。
しかし1956年、インド憲法の起草者の一人で初代法務大臣を務めたアンベードカルが死の直前に、自らと同じ50万人の不可触民と共に仏教徒に改宗し、インド仏教復興の運動が起こった。現在は日本人僧の佐々井秀嶺がアンベードカルの正式な後継者と認められ、インド仏教運動を継続している。
近年、ヒンドゥー教のカーストを嫌う不可触民や下層階級の人々がヒンドゥー教から仏教に改宗する動きがあり、公式統計では仏教徒は人口の0.7%(約700万人︶に達している︵1億人以上との説もある︶。
文化
日本人が持つインドのイメージは一般的には食料品のカレーの国であり、暑く、不潔で、階層があり、男性はターバンを女性はサリーをまとった人々が住む国と感じている場合が多い。この理由はインドを単純に南北に分けた場合、首都ニューデリーやガンジス川を含む北インドの情報が多く南インドの情報が少ないことに帰因している。
思想
インドにおいて発達した思想は、法(धर्म ダルマ)・利(अर्थ アルタ)・愛(काम カーマ)の三つ、あるいはこれらに解脱(मोक्ष モークシャ)を加えた四つを主題として展開してきた。法は主にヴェーダに述べられる祭式とそれにまつわるバラモン等の四つのヴァルナの正しい生き方に関わり、利は主にクシャトリヤの国王を中心とした国家の正しい運営方法あるいはあり方に関わり、愛は格好よさ・夫婦の生活・性交・遊女など広く男女の間柄についてのあり方に関わっている。また解脱とその前提となる輪廻(संसार サンサーラ)は、人間の死後のあり方に関わっており、インドにおけるほとんどすべての宗教思想や哲学と密接な関係にある。
教育
情報産業の基礎としての数学教育に力を入れており、2桁の九九を学ぶ。加熱する教育熱のため、インドにも受験戦争が存在する。
映画
インド国内では各地方の言語でそれぞれ独自に映画が制作されていることもあり、インドは世界で最も多くの年間映画制作本数をほこる国である。特に北部を中心にインド全土で上映されるヒンディー語による娯楽映画は、その制作の中心地であるムンバイーの旧名ボンベイとアメリカのハリウッドをもじって﹁ボリウッドフィルム﹂と呼ばれている。様々なタイプの映画があるが、多くはミュージカル要素を含んだ映画で、これらは日本で﹁マサーラムービー﹂と呼ばれ親しまれている。
おしん、七人の侍などの日本映画も人気がある。
世界遺産
インド国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が21件、自然遺産が5件ある。
祝日
日付 |
日本語表記 |
現地語表記 |
備考 |
1月26日 | 共和国の日 | Republic Day | |
8月15日 | 独立記念日 | Independence Day | |
10月2日 | ガンジー誕生日 | Gandhi Jayanti | |
他に、ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教の祭日があり、信者が祝う。
その他
●ギリシャの数学がインドで応用され、数字の0︵ゼロ︶を加えて発展させ、アラビアでの完成への中継ぎの役目を果たした。
●世界初の大学はインドのTakshilaにて紀元前7世紀に設立された。紀元前4世紀に設立されたNalanda大学における教育学も一つであるが、今は見る影もない。
●インドは世界で初めてダイヤモンドを広めた。GIAの発表によると、西暦1896年までインドは世界へのダイヤモンドの唯一の源であった。
●インドのサンスクリット語はラテン語やギリシャ語と兄弟であるらしい。Sir William Jonesは個人的な感想として﹁ギリシャ語よりパーフェクトであり、ラテン語より豊富であり、そのどちらよりも精巧である。﹂と言ったそうだ。一昔前の1987年7月号のForbes誌ではコンピューターソフトに最も適した言語という説が紹介されていたが、現在は不明。︵インド・ヨーロッパ語族を参照︶
●その膨大な数の人口と、コーカソイド特有の顔立ちが要因となり、インドは美人の産地という声も一部ではある。︵2000年のミス・ユニバース、ミス・ワールド、ミス・アジアはインド人が席巻した︶。
●1500万人とも言われる膨大な数の在外インド人(NRI/Non Resident Indians)は世界中に移住しており、その中の一部はインドへの投資も積極的である。
●アインシュタインは﹁現在の我々があるのは数の数え方を教えてくれたインド人のおかげである。それが無かったら、その後の重要な科学的な発見は成しえなかった。﹂と個人的な感想を残したが、アインシュタイン自身は勉強で歴史を選考しておらず、歴史に関しては疎かったため、このような的外れな発言をしたと思われる。︵実際、数学の概念はメソポタミアとエジプトが起源である︶。
●大野晋は南インドのタミル語が日本語の起源だという個人的な説を唱えた。
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
インドに関連するメディアがあります。
外部リンク