フランス領ルイジアナ
かつて北アメリカに存在したフランスの植民地
- ルイジアナ
- La Louisiane (フランス語)
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← 1682年 - 1769年
1801年 - 1803年→
→
→
→(フランスの国旗[注釈 1]) (政府が使用しているフランス国旗の小紋章)
ユトレヒト条約以前のヌーベルフランス-
公用語 フランス語 首都 モービル(1702年-1720年)
ビロクシ(1720年-1722年)
ニューオーリンズ(1722年以降)- 国王
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1534年 - 1547年 フランソワ1世 1715年 - 1763年 ルイ15世 - ヌーベルフランス総督
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1534年 - 1541年 ジャック・カルティエ 1755年 - 1760年 ピエール・フランソワ・ド・リゴー - 人口
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1700年代 100万人以上のネイティブ・アメリカン(東西ミシシッピ)人 1702年 1,500人のヨーロッパ人(東西ミシシッピ)人 1763年 20,000人のヨーロッパ人とアフリカ人(東西ミシシッピ)人 1803年 50万人以上のネイティブ・アメリカン(西ミシシッピ)人 1803年 70,000人のヨーロッパ人とアフリカ人(西ミシシッピ)人 - 変遷
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設立 1682年 西ルイジアナをスペインに割譲 1762年 東ルイジアナをイギリスに割譲 1763年 スペインから譲渡 1801年3月21日 ルイジアナ買収 1803年4月30日 アメリカに移行 1803年12月20日
通貨 フランス・フラン 現在 アメリカ合衆国
カナダ
フランス領ルイジアナ︵フランスりょうルイジアナ、フランス語: La Louisiane、英語: Louisiana︶は、北アメリカ大陸のフランス植民地・ヌーベルフランスの一管轄地域の名前である。17世紀から18世紀にかけての名称であり、この地方を探検したフランス人の探検家ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールによって、フランス国王ルイ14世に因んでルイジアナと名づけられた。元々、その領域はミシシッピ川流域のほとんどを含んでおり、南北は五大湖からメキシコ湾まで、東西はアパラチア山脈からロッキー山脈まで広大に広がっていた。管理上は、アーカンザス川から北のアッパー・ルイジアナ︵フランス語: Haute-Louisiane︶とローワー・ルイジアナ︵フランス語: Basse-Louisiane︶に分かれていた。現代のアメリカ合衆国ルイジアナ州は、フランス領ルイジアナのほんの一部に過ぎないが、これはこの歴史的な地域の名前を貰ったものである。
1682年にラ・サールがこの地域を探検して、フランスが領有権を主張したものの、人も財源も不足していたために大きな発展は暫くの間無かった。フレンチ・インディアン戦争において、フランスがイギリスに敗れたことにより、1763年にミシシッピ川を境として東側をイギリスに、西側はフロリダと引き換えにスペインに割譲された。フランスは秘密の条約で西側の領土を取り戻したが、ナポレオン・ボナパルトが1803年にアメリカ合衆国への譲渡︵ルイジアナ買収︶を決め、フランスの支配は終わった。
アメリカとイギリスの間の国境を定めるために結ばれた1818年の条約で、北緯49度線より北にあった部分をイギリス領カナダに編入し、そこは今日ではアルバータ州とサスカチュワン州の一部となっている。
自然と地理 編集
18世紀、フランス領ルイジアナは今日のアメリカ合衆国中西部のほとんどを含んでいた。今日使われている意味合いでの国境の正式な定義が無かったので、その正確な境界を同定することは難しい。人口がそこそこあって、防御線が施されていたのは、ミシシッピ川渓谷周辺のみであった。おおまかに言って、北の境界は五大湖、特にミシガン湖とエリー湖である。東は、アパラチア山脈でイギリス領アメリカ植民地と境を接していた。西はグレートプレーンズとロッキー山脈が支配できていた境界であったが、そこから先はアメリカ州の先住民族が支配する﹁ワイルド・ウエスト﹂であった。南の境界はメキシコ湾であり、植民地の港を提供していた。
植民地のほとんどが平坦であり、ヨーロッパ人の移動には都合が良かった。平均標高は1,000 m 足らずである。西部にいくと山がちとなり、中南部ではオザーク高原が例外的な高地である。
ルイジアナの湿地
フランス領ルイジアナの低地は、温和な気候であるが、晩夏から初秋にかけて起こるメキシコ湾沿岸のハリケーンが特徴でもある。冬季には霜が降りるが、米、タバコ、藍の栽培が可能である。この地域の地形の代表的なものは、ミシシッピ川三角州に見られる湖沼と多くの湿地である。ミシシッピ川から小川が分流し長く緩やかな流れを形成しており、総計数千キロメートルにおよぶ網目状の航行可能な水路となっている。
ジャック・マルケット
●1673年: ルイ・ジョリエとジャック・マルケットがミシシッピ川の探検を始める
●1682年: カブリエ・ド・ラ・サールがミシシッピ川を下り河口に達する
●1699年: ピエール・ル・モアン・ディベルビーユがルイジアナ海岸を探検し、メキシコ湾岸のビロクシを建設する
●1701年: アントワーヌ・ド・ラ・モトがデトロイトを建設する
●1702年: ジャン=バティスト・ル・モワン・ド・ビエンビーユ知事がルイジアナ植民地の首都としてモービルを建設する[5]
●1713年: エチエンヌ・ド・バニアールがミシシッピ川探検の最初の報告書を出版する
●1714年: ルイジアナで最古の恒久的開拓地ナキトッシュがルイ・ジュシュリュー・ド・サンデニにより建設される
●1717年: 黒人の公式徴兵がルイジアナで始まる
●1718年: ニューオーリンズが建設される
●1719年: モービルに最初のアフリカ黒人奴隷船が寄港、上陸する[5]
●1720年: ビロクシがフランス領ルイジアナの首都になる
●1720年: スペインのビラスール遠征隊がコロンバスの近くでポーニー族に襲われ、スペインの領土内侵入は1763年まで中断される
●1723年: ニューオーリンズがフランス領ルイジアナの公式首都になる
●1723年: ブランズウィック近くにオーリンズ砦が建設される
●1762年: 秘密条約・フォンテーヌブロー条約 (1762年)の調印で、秘密裏にフランスがスペインにルイジアナを割譲
●1763年: パリ条約でフランスがミシシッピ川の東側とカナダをイギリスに割譲。ケイジャンのニューオーリンズとミシシッピ川の西への移住が開始される
●1764年: ピエール・ラクレドがセントルイスを建設する
●1764年: フォンテンブロー条約の内容が暴露される
●1768年: クレオールとドイツ人の開拓者が1768年の反乱で新しいスペイン知事を逃亡させる︵ルイジアナ動乱 (1768年)︶
●1769年: スペインが反乱を鎮圧し、首謀者を処刑。公式にスペインの法制下に入れる
●1778年: フランスが英国に宣戦布告。アメリカ独立戦争に参加。
●1779年: スペインが英国に宣戦布告。
●1788年: ニューオーリンズ大火 (1788年)でニューオーリンズの大半を亡失。スペインのスタイルで再建される
●1800年: 秘密条約・サン・イルデフォンソ条約の調印で、秘密裏にフランスがスペインからルイジアナを取り戻す
●1803年: ナポレオン・ボナパルトがアメリカ合衆国にルイジアナを譲渡
●1804年: 3国の旗の日。スペインが公式にルイジアナをフランスに返却。続いてフランスがアメリカ合衆国に譲渡
ディベルヴィルが探検した地域
1713年のユトレヒト条約でスペイン継承戦争が終結した。これは、ルイジアナにおけるフランスの力の弱化の始まりでもあった。ルイ14世はその孫であるフェリペ5世がスペイン王家を継がせることに成功したが、フェリペ5世はフランスの王位継承権を放棄していた。さらにアカディアと西インド諸島の植民地が幾つか失われた。ルイジアナはフランス領として残ったが、北アメリカのイギリス植民地からの影響が増大するという懸念があった。フランス国王はこの影響をアパラチア山脈の東に押し込めておこうとして、ルイジアナの西に位置するニュースペインとの同盟を試みた。この政策は家族の絆で正当化されるものであるが、スペイン植民地の鉱物資源や貿易の促進という思惑もあった。ルイ14世は西方への探検を奨励した。1714年、ルイ・ジュシュリュー・ド・サンデニがレッド川を航行し、リオ・グランデ川まで行き着いた。同じ年、エチエンヌ・ド・バニアールがミズーリ川を航行した。フランスの影響力の範囲は相当に拡がってきており、これらの航行はアメリカ西部への探検の基礎となった。
コルベール
アンシャン・レジームの指導者たちはヌーベルフランスの管理を行い、奨励したが、それにはさまざまな理由があった。
アンリ4世の治世︵1553年-1610年︶では、ヌーベルフランスの植民地化が積極的に推進された。ブルボン朝フランス王国の初代国王であるアンリ4世は、個人的に海外情勢に興味を持った。17世紀、宰相のリシュリューとコルベールは植民政策を推進した。ルイ14世とその閣僚はヨーロッパの他の国家と常に争っている王国の大きさに懸念を抱いていた。ヨーロッパの対立関係と政治的な同盟ゲームはルイジアナの歴史に直接あるいは間接に大きな影響を及ぼした。新世界におけるイギリスの影響力を制限したいという望みが常に王家の政策であった。
太陽王ルイ14世は、北アメリカの仲裁者の外患と対抗する力を制限することに注意を払った。ルイ14世は貴族院すなわち議会を欲しなかった。1685年にはヌーベルフランスにおけるすべての出版を禁じた。1660年代、植民地は王家の財産であった。1712年から1731年にかけて、フランス領ルイジアナは裕福な実業家アントワーヌ・クローザットの支配下に入り、その後ジョン・ローによって作られたミシシッピ会社が管理し植民地に入る移民の募集を行った。1731年、ルイジアナはフランス王家の支配下に戻った。フランス本国とは逆にパリの法律に基づく同じ法律︵当時としては平等主義的︶が植民地全体に適用された。これは暫く平衡を図るものとして働き、権威に対する暴動や反乱が稀なものとなった。しかし、中央集権化された政府はフランスとルイジアナを分かつ距離を考えれば無理があった。17世紀の終わりから18世紀の初めに掛けて、メキシコ湾の植民地人はほとんど完璧に自分達だけでやっていくしかなくなり、本国よりも先住民族をはるかに当てにするようになっていた。しかし、この距離が利点になることもあった。植民地人が密貿易をやっても罪に問われなかったからである。ルイ14世の海軍と貿易に関する大臣ジャン=バティスト・コルベールは国庫を膨らませることに熱心であった。コルベールは貿易会社を解散させ、国と植民地における生産量の増加に注意を払った。重商主義者としてのコルベールはできる限り多くのものを売り、輸入に頼らないことが必要だと考えた。フランスの貿易独占を目指した。君主制の出費を抑えることを欲した。しかし、アメリカの植民地を動かして行くには多くの金を投資し、重要な人的資源を活躍させる必要があった。フランス本国では経済的な基盤︵工場や港︶に多くの労力が割かれたが、ルイジアナでの投資は不十分であった。人や物を動かす機能について何の計画も立てられなかった。一方でフランスの懐は戦争のために疲弊していたが、ルイジアナの植民地人は本国に税金を納める必要が無く、悪名高い塩税も免れていた。
17世紀の北アメリカ地図
アンシャン・レジームの下で、ルイジアナはアメリカにおけるフランス帝国の大きな植民地ヌーベルフランスの一部となった。これには今日のカナダも含まれていた。ヌーベルフランスは元々総督によって治められていた。この地位はバンタドール公によって独占されていた。そこでブルボン朝の他の所有物と同様に議会を備えることにした。その首都は1759年までケベック市に置かれた。一人の総督と一人の監督官が任命されこの広大な帝国領土を治めることになった。理論上はルイジアナがカナダの属国になった。さらに、カナダの植民地人によって探検され移民がおこなわれたので、フランス本国からの開拓者の数よりも多くなった。ニューオーリンズとケベックも遠大な距離があったので、都市や砦の外では情報連絡も限られたものになった。
フランスの開拓地は広く分散していたので、事実上自治的な性格のものになっていた。ヌーベルフランスの広大で多様な植民地を、ルイジアナを含む5つの政府にわけて管理することが決められた。五大湖の南のイリノイは1717年にルイジアナに付け加えられた。フランス領ルイジアナの最初の首都はモービルであった。続いて1720年にはビロクシに、1722年にはニューオーリンズに変えられた。ルイジアナの知事は最も顕著な性格のものであったが、最も力を持っていたわけではなかった。知事は軍隊を指揮し、外交関係の責任があった。第二の地位は警察の長官であった。その機能はフランスの監督官に似ており、管理をし、王の代行となり、司法や警察力および財政にかんする権限があった。この知事と長官で、予算、商品価格の設定、高等委員会︵法廷︶の議長および国勢調査の統括も行った。国王に指名されるルイジアナの兵站士官は、時には知事の部下と諍いを起こすくらいの広い権限があった。内陸の軍事基地は司令官達によって統率された。
ニューオーリンズのサン・ルイ大聖堂
北アメリカのフランス領は一つの教区の権威下にあり、その本部はケベックにあった。大主教は国王が指名し報酬を払っており、ヌーベルフランスの精神面の首長となった。宗教的な制約は緩やかであったので、住民の信仰心は大変弱いものであった。ルイジアナの住民はフランスやカナダよりも信仰的な生活にかけるものが少なかった。十分の一税、すなわち信仰の証として牧師に納めるものもフランスより少なかった。それでも教会はフランス領ルイジアナの探検に重要な役割を果たした。イエズス会を中心とする使節団を送り、先住民族の改宗を進めた。学校や病院を建てた。1720年にはアーサリン教団︵en︶がニューオーリンズで病院を運営した。教会と宣教師達はアメリカ・インディアンとの接点を作った。17世紀のマルケット師のような聖職者は探検隊にも加わった。イエズス会は祈りの書を多くのインディアン言語に翻訳し、インディアンの改宗の役に立てた。インディアン種族と共に生活する場合もあり、他の習慣や信仰との混合主義を避けることはできなかった。心からのまた恒久的な改宗者の数は限られており、宣教師の教えを受けた者は三位一体に心酔して心の高みに入るか、全く拒絶するかであった。
黒人法 ︵フランス語: Code Noir︶
1717年、フランスの財務大臣ジョン・ローはルイジアナに黒人奴隷を輸入することを決めた。その目的はローワー・ルイジアナのプランテーション経済を発展させることであった。インドの会社がこの地域の奴隷貿易を独占していた。1719年から1743年にかけて、およそ6,000名の奴隷がアフリカから輸入された。これら奴隷の一部はイリノイに送られ農場の耕作や鉱山労働に使われた。ローワー・ルイジアナの経済は結果的に奴隷に頼るものとなった。他のフランス植民地と同様に、奴隷の条件は﹁奴隷法﹂によって規定された。しかし、この法が広範囲に適用されたわけではなく、奴隷にはある程度の自由度があった。当初、公休日には奴隷が耕作して育てた穀物の一部を売ることが許された。あるものはプランテーションとは離れて、狩りに、木こりにあるいは家畜を飼った。人種間の結婚や奴隷が集団を作ることは禁じられていたが、同棲や女性が家の主人であることはしばしば見られた。奴隷の生活と仕事は厳しく、特に収穫の季節は疑いも無く大変であった。また運河の維持は退屈な重労働でもあった。
奴隷の住まいは質素であった。単純な藁布団で眠った。多くの者はいくつかのトランクと台所用品を持っていた。奴隷の条件は主人から受ける待遇によって変わった。主人が残酷な場合、しばしば逃亡し沼地かニューオーリンズの市内に隠れた。しかし、逃亡奴隷が作った社会︵マルーン︶は多く短命であった。ルイジアナには西インド諸島で見られるようなマルーンの集落が知られることは無かった。一方で、カリブ海地方で見られた奴隷の反乱はあまり無かった。自由になれる確率が低く、また自由を買うこともできなかった。自由を得た奴隷︵女性や元兵士に見られた︶は小さな地域社会を形成し、差別と戦わねばならなかった。裁判になると彼らには厳しく、武器を持つ権利が無かった。奴隷はルイジアナ社会のクレオール化︵言語、文化などの様々な人間社会的な要素の混交現象︶に貢献した。奴隷はアフリカからオクラをもたらしたが、これがガンボ︵アメリカ南部の料理︶の準備に使われた。黒人法は黒人がキリスト教の教育を受けることを要求していたが、多くは密かに原始宗教を信じ、あるいは2つの信教の要素を結合させた。
18世紀初期のルイジアナ知事ディベルビーユ
ウジェーヌ・ドラクロワ作 ナチェズ族, メトロポリタン美術館, 1832-1835. ナチェズ族はフランス領ルイジアナの激しい敵対者であった
フランス人とインディアンは多くの分野で互いに影響を与えあった。フランス人は、繊維、アルコール、武器などを購入するインディアンの言葉を学び、ときにはその信仰も採用した。﹁森の走者﹂や兵士はカヌーや鹿皮製の靴を借りた。彼らの多くは野生の米や熊や犬のような様々な肉などインディアンの食材を食べた。植民地人は食料の供給をインディアンに頼ることがあった。クレオール料理はこの相互の影響の産物である。例えば﹁サガミテ﹂はトウモロコシをドロドロに溶かし、熊の脂とベーコンを混ぜて煮込んだものである。今日、セミノール語源の﹁ジャンバラヤ﹂は肉と米を使いスパイスを効かせた多くの料理のことを指している。時にはシャーマンが伝統的な療法で植民地人を治療することもあった︵傷にはモミの木の分泌液、ガラガラヘビの咬み傷にはゼンマイを使った︶。
多くの開拓者がインディアンの戦闘力を賞賛し恐れてもいたが、その文化を侮り、白人よりも人種的に混じり合っていると見なす者もいた。1735年、ルイジアナでは政府の承認無しに人種間で結婚することを禁じた。イエズス会の聖職者はインディアンの放縦な生活を憤慨していたと想像される。幾つかの不一致︵インディアンはトウモロコシ畑を荒らした豚を殺した︶や、時には暴力的な対峙︵フォックス族、ナチェズ族の蜂起やチカチャ族に対する遠征︶があったが、フランス人の方が数が少なかったために、ルイジアナにおけるインディアンとの関係は概ね良好であった。フランスの帝国主義は幾つかの戦争とインディアンの一部の奴隷化に現れた。しかし、ほとんどの場合、両者の関係は対話と交渉に基づいて築かれていた。
罠狩猟者の肖像
ルイジアナは大きく2つの地域に分けられ、それぞれ異なる経済の仕組みを持っていた。
フランス革命の間、ルイジアナはスペインの支配下にあって動揺していた。フランス語を話す民は本国に請願を送り、奴隷の反乱が1791年と1795年に起こった。
1800年10月1日に調印されたサン・イルデフォンソ条約では、パルマ侯爵領と引き替えにスペインがフランスに西部ルイジアナとニューオーリンズを戻すことになった。植民地の占領のためにナポレオンが送った軍隊はまず、サン=ドマング︵今日のハイチ︶のハイチ革命を鎮圧することに使われた。サン=ドマングで失敗し、イギリスとのアミアンの和約締結にも失敗したナポレオンは、1803年に新興のアメリカ合衆国にこの広大なルイジアナの領土を譲渡する決心をした。1803年、ルイジアナは8千万フラン︵1,500万ドル︶で売却された︵詳しくは、﹁ルイジアナ買収﹂を参照︶。アメリカの主権は1803年12月20日に確立された。
ミネソタ州の州章
フランスによるルイジアナの植民地化は、今日でも重要な意味を持つ文化的遺産を残した。フランス語とケイジャン語の継承は危機的状況になってきた。このために﹁ルイジアナにおけるフランス語の発展のための委員会﹂が1968年に創られた。議論の対象は、教えられるべきフランス語の方言、すなわちフランス語そのもの、カナダのフランス語、標準的ルイジアナのフランス語、あるいはケイジャン・フランス語である。今日、ルイジアナのケイジャンの多い地域ではカナダのアカディア人社会との協力関係を作り、学校で言語を再教育する教授を送って貰っている。2003年では、ルイジアナの人口の7%はフランス語を話し、他の多くは英語を母語としている。ルイジアナ州の人口の25%はフランス人を先祖に持ち、その姓がフランス起源となっている。
多くの市や村の名前もフランス起源となっている。例えば、セントルイス、デトロイト、バトンルージュ、ニューオーリンズおよびモービルである。ミネソタ州の州旗および州章はフランス起源である。歴史的なお祭りや記念行事はフランスの影が反映される。1999年、ルイジアナは設立から300周年を祝った。2001年、デトロイトも同様だった。2003年、ルイジアナ買収から200周年が祝われ、多くの行事や歴史を想起する公式の会議が開かれた。特定の場所にはフランスが残した文化的遺産を見聞できるものがある。最初に上げられる例がニューオーリンズ市内のフレンチ・クォーターである。フランス人が造った多くの砦も再建され観光客に公開されている。
ルイジアナ州の民事法体系はアメリカ合衆国の中で唯一、コモンロー系︵英米法︶ではなく、大陸法系であり特にフランス民法をベースにしている。
ルイジアナの文化の重要な部分は、フランス領時代にその根を見いだすことができる。クレオールの歌はブルースやジャズに影響を与えた。ケイジャン音楽はフランス語で歌われることが多く、今日でも生き残っている。ニューオーリンズのカーニバルはマルディ・グラで最高潮に達するが、長いローマ・カトリックの伝統を残したものである。