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この項目では、アイヌの文化について説明しています。考古学上の時代区分については「アイヌの歴史」をご覧ください。 |
アイヌ文化︵アイヌぶんか︶とは、アイヌが13世紀︵鎌倉時代後半︶頃から現在までに至る歴史の中で生み出してきた文化である。現在では、大半のアイヌは同化政策の影響もあり、日本においては日常生活は表面的には和人と大きく変わらない。しかし、アイヌであることを隠す人達もいる中、アイヌとしての意識は、その血筋の人々の間では少なからず健在である。アイヌとしての生き方はアイヌプリとして尊重されている。アイヌ独特の文様︵アイヌ文様︶や口承文芸︵ユカㇻ︶は、北海道遺産として選定されている。前時代の擦文文化とアイヌ文化の違いについては、﹁蝦夷#えぞ﹂の項を参照。
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アイヌ文化という語には二つの意味がある。ひとつは文化人類学的な視点から民族集団であるアイヌ民族の保持する文化様式を指す用法であり、この場合は現代のアイヌが保持あるいは創造している文化と、彼らの祖先が保持していた文化の両方が含まれる。もうひとつは考古学的な視点から、北海道や東北地方北部の先住民が擦文文化期を脱した後に生み出した文化様式を指す用法である。
擦文文化期の終わりに全く別の民族が北海道に進入してアイヌ文化を形成したわけではないということであるとする説が主流である。これは、和人が12世紀まで平安文化を保持し、13世紀から鎌倉文化と呼ばれる時期に移行した状況に近い。すなわち担い手は同じであるが、文化様式が変化したということである。縄文から弥生の変化ほど文化の断絶があったわけではないが擦文時代とは文化風習が大きく違い、オホーツク文化との融和によるものとされている。このことはコロポックル論争でアイヌ以前に先住者があったという説を否定しているが、どの説にも確固たる証拠があるわけではなく、Y型ハプロ遺伝子が縄文人に存在せず、大陸の沿海地方に多く含まれることからも、これは未だ繊細な問題である。
ここで問題となるのは、﹁アイヌ文化﹂という語が﹁ある民族集団の文化﹂と﹁歴史上のある時期に存在した文化様式﹂のいずれも意味するという状況のわかりにくさである。アイヌは現在も民族集団として存在しているが、現代のアイヌはチセに住み漁労採集生活を送っているわけではないから、考古学的な意味でのアイヌ文化を保持しているとは言えない。しかし現代のアイヌは考古学的な意味でのアイヌ文化を担った人々の末裔であり、現代のアイヌの保持する文化様式もまたアイヌ文化と呼ばれる資格を持つのである。
瀬川拓郎は2007年にこうした問題の存在を指摘し、中世から近世にかけての︵考古学的な文脈での︶﹁アイヌ文化﹂を、北海道考古学史上最も重要な遺跡の1つである二風谷遺跡にちなんで﹁ニブタニ文化﹂と呼ぶことを提案している。
本項では﹁近世以前のアイヌ﹂節において考古学・歴史学的な意味での﹁アイヌ文化﹂について主に解説し、﹁近代のアイヌ﹂﹁現代のアイヌ﹂節において、文化人類学・社会学的な意味での﹁アイヌ文化﹂について主に解説する。
松前藩領内のアイヌを描いたアイヌ絵(小玉貞良作)。後ろの従者は交易用の乾し鮭などを背負っている(18世紀)
1869年、明治政府によって開拓使が置かれた。明治政府は北海道・樺太・北方領土に居住するアイヌにも和人と同様に戸籍︵壬申戸籍︶を作成した。開拓使は言語も含め和人と同様の学校教育を行い、施行された法律︵散髪脱刀令、平民苗字必称義務令︶なども和人と同様アイヌにも一律に適用した[要出典]。文明開化の一環で、丁髷や帯刀など旧来の和人文化とともに、刺青やイオマンテ︵熊送り︶などの伝統文化を禁じ、近代化の名のもと一律に西欧化が図られた。結果、アイヌの伝統的な生活文化の衰退を招き、アイヌが生業を営んできた土地や資源をアイヌ古来のしきたり通り利用できなくなったことは否めない[要出典]。また1875年に明治政府はロシアと樺太・千島交換条約を締結したことにより、日本国籍を選択した樺太アイヌは北海道へ移住し、残りたい者は現地に留まった。一方、生活物資補給の問題や国防上の理由から、根室県官吏の説得を受け千島アイヌは色丹島に移住した︵﹃千島巡航日記﹄︶[40][41]。
イザベラ・バードは1878年6月から9月にかけて日本を旅行した際、北海道も訪れており当時のアイヌの生活や風俗について﹁Unbeaten Tracks in Japan﹂に記述を残している。
1899年には北海道旧土人保護法が施行され、アイヌ学校の設立とともにアイヌの子弟は和人の子弟とは別の学校に通うようになった。また、明治政府はアイヌへの日本語教育も推進した[要出典]。ただし、これらの学校ではアイヌ語やアイヌ文化は教えられることが無く、またアイヌ文化については否定的に表象されるなど、近世アイヌ文化の破壊は更に進んだとされる[要出典]。1937年に北海道旧土人保護法が改正され、アイヌ学校は廃止された。
アイヌ文化の研究者はいたものの、アイヌ語やアイヌ文化の膨大な資料を残した金田一京助でさえアイヌを滅ぶべき民族と捉える[42]など、偏見は根強かった。結局、こうした状況は第二次世界大戦に日本が敗れるまで続いた。
イギリス人宣教師のジョン・バチェラーによってアイヌ語辞典が出版され、1891年(明治24年)に設立された春採アイヌ学校で教師となった永久保秀二郎(和人)(1849~1924年)が「アイヌ語雑録」をまとめ、学術的に研究したり、記録したりする試みが行われるようになった。主な研究者としてはユーカラを記録・翻訳した知里幸恵、知里真志保、金田一京助(和人)(1882 - 1971年)などが挙げられる。樺太アイヌ文化の研究ではブロニスワフ・ピウスツキ、レフ・シュテルンベルク、千徳太郎治が知られる。
20世紀初頭、バチェラー八重子、違星北斗、森竹竹市らアイヌの歌人が登場し、近代アイヌの置かれた境遇を短歌など文学の分野で表現し始めた。彼らの作品は現代までアイヌの思想に影響を与え続けている。
後に国会議員になったアイヌの萱野茂らは、アイヌ文化研究と資料収集を進め、各地に資料館や博物館が建設された。
1970年代後半からアイヌの伝統文化復興の気運が高まり、平取町、白老、旭川などでイオマンテが行われた。また1983年には屈斜路湖でシマフクロウの霊を送る儀式も行われている。札幌では1982年より豊平川で鮭の遡上を迎える儀式﹁アシリチェップノミ﹂が行われるなど、アイヌの精神世界を見直す動きが1980年代前半に相次いで見られた。伝統舞踊については北海道内で保存会が20存在し、うち17件は﹁アイヌ古式舞踊﹂の名称で1984年に国の重要無形民俗文化財に指定されている。また1997年には﹁アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律﹂が制定された。国会議員となった萱野茂は母語であるアイヌ語で国会質問を行ったりアイヌ語辞典を編纂するなど、アイヌ語の保存に取り組んだ。﹁アイヌ古式舞踊﹂は、2009年にユネスコの無形文化遺産に登録されている。また、アイヌ文化の保存には日本人のみならず、韓国人なども関わっている[43]。
アイヌの伝統的な舟艇であるイタオマチㇷ゚を復元する活動も始まり、二風谷ではチㇷ゚サンケ︵舟おろしの儀式︶が開催されるようになっている。また知床地域で観光資源としてイタオマチㇷ゚を建造するグループもある。
なお、ウタリを統括する団体であるウタリ協会は毎年アイヌ文化祭を開催している。
アイヌの歴史の積極的な表象も始まり、毎年9月23日には新ひだか町でシャクシャインの追悼法要が開催されている。また敢えてアイヌであることは強調しなかったものの、砂澤ビッキは彫刻家として世界的な評価を得た。
OKI率いるアイヌ・ダブ・バンドの演奏風景
近年、隣接する文化圏以外の文化要素を取り入れたり、他地域の先住民と交流する動きも活発になっている。アイヌと和人の混血であるOKIは樺太アイヌの伝統楽器であるトンコリ演奏をレゲエやダブなどの音楽に持ち込み、いわゆるワールドミュージックの音楽家として世界的に知られている。また同じくアイヌと和人のハーフである酒井兄妹が中心となって結成されたアイヌ・レブルズはラップなどのヒップホップ音楽とアイヌの伝統舞踊やアイヌ語の詩を融合させた作品を発表している。
他地域の先住民との交流活動も近年は珍しくない。札幌を本拠とするグループのアイヌ・アート・プロジェクトは2000年に北米のトリンギット族と音楽や舞踊で共演した他、ハワイのマウイ島で毎年開催される国際カヌー・フェスティバルに参加してのイタオマチプ建造なども行った。また2007年には浦川治造ら関東のアイヌが横浜にてハワイ先住民の伝統カヌーのためのカムイノミを開催した。
●2010年より、札幌大学はアイヌを対象にした﹁ウレシパ・プロジェクト﹂という制度を開始した。アイヌ子弟の学費免除などの奨学生制度や、アイヌ文化の授業、発信などが柱となっている[44]。
●経済産業省は、アイヌ文化を対象にしたビジネスを展開している中小企業を対象に、﹁アイヌ中小企業振興対策事業﹂を行なっている[45]。
●文化庁には、アイヌ文化振興・研究推進機構という下部組織が存在し、アイヌ語の普及や、アイヌ文化の伝承・再興を図っている。
●農林水産省は、1976︵昭和51︶年よりアイヌの農業・林業・漁業従事者を対象に、所得及び生活水準の向上を図るため﹁アイヌ農林漁業対策事業﹂を行っている[46][47]。
アイヌ民族が和人(日本人)に陵虐された、という被害者としての立場を利用して、様々な弱者集団への優遇措置を享受しているという内容の風説が、おおよそ2014年から2015年にかけて主張され始めた。この風説に漫画家の小林よしのりは「アイヌは北海道の先住民ではない」と主張し、その根拠として「殖産の時代、アイヌ民族は自らを『アイヌ』と自称していなかったから」と示した。小林の意見に対し評論家の古谷経衡は「『ある民族が〜〜と自称していないから、その民族は存在しない』という理屈が通るのなら、『アメリカにネイティブ・アメリカン(インディアン)は存在しない』と言うことすらできよう」と切り捨てており、さらに「私も北海道出身だが、アイヌ特権など聞いたことがない」と否定した[48]。
アイヌ文化には土地の私有という概念は無く、その代わりにコタンが入会権を持つ入会地や漁場が存在しており、コタンで必要な生物資源は基本的にそのコタンの入会地から調達されていた。こうした入会地をイオルと呼び、﹁伝統的生活空間﹂と訳される。和人文化における入会地とは異なり、イオルは生物資源調達の場であると同時に、祭祀などアイヌの精神文化とも密接に関わっている点に特色がある。
しかし明治時代以降、アイヌ文化に対する理解を欠いた政府の政策により、イオルを基盤としたアイヌの生活様式や文化は破壊され、今日までに失われてしまった。そこで近年、問題となっているのがイオルの再生である。
1996年には内閣官房長官の私的諮問機関がイオル再生を政策の1つとして検討対象とし、公園形式でアイヌの伝統文化継承の場としてのイオルを復活させるという提言をまとめた。1998年には北海道が有識者とアイヌの代表者による懇談会を発足させ、1999年に﹁伝統的生活空間の再生に関する基本構想﹂がまとめられた。2000年には国土交通省北海道局、文化庁、北海道、アイヌ文化振興・研究推進機構、北海道ウタリ協会が共同で﹁アイヌ文化振興等施策推進会議﹂を設置し、イオル再生を含めたアイヌ文化の振興策を検討。2002年に7箇所をイオル再生の候補地として選定した[49]。
しかし、こうして選定された再生イオル制度の使い勝手の悪さを指摘する声もあり、必ずしもイオル再生が順調に推移しているとは言い切れない[50]。
- 中核イオル-白老町[51]
- 地域イオル-札幌市、旭川市、平取町、静内、十勝、釧路
(一)^ 瀬川 2007, p. 16.
(二)^ 瀬川 2007, p. 15.
(三)^ 瀬川 2007, pp. 190–191.
(四)^ サハリン発見﹁アイヌ鎧﹂の年代について
(五)^ 瀬川 2007, p. 195-199.
(六)^ 瀬川 2007, p. 47.
(七)^ 瀬川 2007, pp. 57–59.
(八)^ 森洋輔. “チャランケ”. 白老町. 2021年1月30日閲覧。
(九)^ ﹃歴史と民俗アイヌ﹄更科源蔵 社会思想社 1968年 p133
(十)^ ﹃図解アイヌ﹄ 角田陽一 新紀元社 2018年 p197
(11)^ 瀬川 2007, pp. 46–47.
(12)^ ﹃鈴木重尚 松浦武四郎 唐太日記﹄︵嘉永7年︵1854年刊行︶に、弘化3年当時の状況の一部の記述が見える。
(13)^ 河野広道 知里真志保 性に関するアイヌの習俗
(14)^ ab“アイヌプリの葬儀を次の世代へ伝える #アイヌ”. NHK北海道. 2022年3月8日閲覧。
(15)^ “北海道・アイヌ民族の遺骨 故郷の土に返したい‥東京新聞 TOKYO Web”. 東京新聞 TOKYO Web. 2022年3月8日閲覧。
(16)^ 麓慎一﹁北千島アイヌの改宗政策について:色丹島におけるアイヌの改宗政策と北千島への帰還問題を中心に﹂︵PDF︶﹃立命館言語文化研究﹄第19巻第1号、立命館大学国際言語文化研究所、2007年9月、43-55頁、CRID 1520290882409310720、ISSN 09157816。
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(19)^ 櫻井義秀﹁アイヌ民族の宗教意識と文化伝承の課題﹂﹃北海道アイヌ民族生活実態調査報告﹄第1号、北海道大学アイヌ・先住民研究センター、2012年1月、97-104頁、NAID 120003762624。
(20)^ 瀬川 2007, p. 167.
(21)^ 瀬川 2007, pp. 61–65.
(22)^ 中世から近代のアイヌ史 - 児島恭子
(23)^ 瀬川 2007, p. 146.
(24)^ “和漢三才図会 巻第十八・十九”. 九州大学デジタルアーカイブ. 2012年7月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年3月18日閲覧。
(25)^ ハインリッヒ・フォン シーボルト﹃小シーボルト蝦夷見聞記﹄平凡社、1996年2月1日、41-41頁。
(26)^ 関東在住アイヌ民族の会-レラの会 Archived 2008年8月20日, at the Wayback Machine.
(27)^ ﹃歴史と民俗アイヌ﹄更科源蔵 社会思想社 1968年p182
(28)^ 海保嶺夫 エゾの歴史 232-233頁 ISBN 978-4-0615-9750-1
(29)^ 天理大学附属天理図書館
(30)^ 北海道ウタリ協会 Archived 2014年4月26日, at the Wayback Machine.
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(32)^ “︿3﹀木彫家 貝澤徹さん”. 読売新聞オンライン (2023年1月18日). 2023年1月19日閲覧。
(33)^ “空自練習機の新マークはアイヌ文様 道内の市民団体が利用差し止めを要請‥北海道新聞デジタル”. 北海道新聞デジタル. 2023年1月19日閲覧。
(34)^ “記者の目‥伝統無縁の類似品出現 アイヌ文様保護に議論を=平山公崇︵北海道報道部︶”. 毎日新聞. 2023年1月19日閲覧。
(35)^ “空自機のアイヌ文様に抗議 市民団体が使用停止を要請﹁民族の自己決定の権利をないがしろに﹂”. 日刊スポーツ (2023年1月19日). 2023年1月19日閲覧。
(36)^ 次郎太, 北原 (2018年). “アイヌ文様は﹁魔除け﹂か : 衣文化に付随する通説を検証する”. 北海道博物館アイヌ民族文化研究センター研究紀要 = Bulletin of Ainu Culture Research Center, Hokkaido Museum / 北海道博物館アイヌ民族文化研究センター 編. pp. 1–18. 2023年1月19日閲覧。
(37)^ 擦文時代人のくらしⅠ﹁鍛冶職人﹂ Archived 2012年12月2日, at the Wayback Machine.
(38)^ “最上徳内﹃蝦夷国風俗人情之沙汰﹄”. アイヌ民族情報センター活動誌 (2007年10月17日). 2014年3月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月18日閲覧。
(39)^ 遠藤匡俊﹁根室場所におけるアイヌの命名規則と幕府の同化政策﹂﹃歴史地理学﹄第44巻第1号、歴史地理学会、2002年1月、48-59頁、CRID 1050001202675661056、ISSN 03887464。
(40)^ 秋月俊幸﹃千島列島をめぐる日本とロシア﹄北海道大学出版会、2014年。ISBN 9784832933866。全国書誌番号:22428033。https://id.ndl.go.jp/bib/025444390。
(41)^ 大矢京右 資料紹介 小島倉太郎関連資料 市立函館博物館 研究紀要 第20号
(42)^ アイヌを愛した国語学者、じゃなかったの?~﹃金田一京助と日本語の近代﹄
(43)^ ﹁アイヌ舞踊、私も 韓国人女性、継承へ意気込み 釧路・阿寒湖﹂﹃朝日新聞﹄2018.8.17
(44)^ “ウレシパ・プロジェクト を実施”. 札幌大学文化学部. 2011年2月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年3月29日閲覧。
(45)^ “平成25年度新事業活動促進支援補助金﹁アイヌ中小企業振興対策事業﹂の公募について”. 経済産業省中小企業庁. 2013年3月29日閲覧。
(46)^ “アイヌ農林漁業対策事業”. 農林水産省. 2013年8月18日閲覧。
(47)^ “アイヌ農林漁業対策事業”. 北海道. 2013年8月18日閲覧。
(48)^ ネットを徘徊する怪物﹁差別的デマ﹂は、いま誰を餌食にしているのか(2/4ページ) 現代ビジネス 2018.11.29 ︵2020年3月17日閲覧︶
(49)^ “Nittan vol. 15”. 2009年5月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年6月18日閲覧。
(50)^ アイヌの今‥民族共生に向けて
(51)^ 伝統的生活空間︵イオル︶の再生について