三宮四郎
来歴
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大分県生まれ。慶應義塾大学卒業後、目黒蒲田電鉄︵現・東京急行電鉄︶に入社。五島慶太社長の知遇を得て、1942年に東京急行電鉄取締役に就任。1946年同社専務取締役に昇任した。その後いったん同社監査役に転任する。
京王電気軌道は戦時統合により東京急行電鉄︵大東急︶に合併され、同社の京王営業局とされていたが、終戦後の1947年︵昭和22年︶12月26日に大東急からの分離独立を決議[1]。翌1948年︵昭和23年︶5月29日の設立総会で三宮が取締役社長に就任、同年6月1日に京王線・井の頭線とバス3営業所をもって京王帝都電鉄として発足した[1]。
三宮は京王帝都電鉄の初代社長として戦後復興に尽力し、財務基盤が脆弱な中で、鉄道施設の大規模な改良や新型鉄道車両︵京王2600系電車︶の投入、急行運転開始などの積極投資を行い、現在の京王線の基礎を作るとともに、戦災のダメージが著しかった井の頭線の復興も果たした[1]。
このほかバス事業の基盤強化として、京王帝都電鉄発足直後の1948年︵昭和23年︶9月16日には路線バスの都区内第2の拠点として永福町営業所を新設、1951年︵昭和26年︶には観光バス事業、1956年︵昭和31年︶10月6日には高速バス事業を開始︵のち﹁中央高速バス﹂として運行︶した[1]。それと前後して、1955年︵昭和30年︶7月9日には高尾自動車、翌1956年︵昭和31年︶2月29日には奥多摩振興を買収して京王グループ傘下とし、のち1963年︵昭和38年︶の西東京バス統合への道筋を付けている[1]。
鉄道事業の芳しくない収支を補うため事業の多角化も志向し、1953年︵昭和28年︶6月24日には京王帝都観光協会︵現‥京王観光︶を設立した[1]。また東京都調布市内に、1955年︵昭和30年︶4月3日には京王遊園︵廃園︶、1956年︵昭和31年︶6月16日には東京菖蒲園︵のち﹁京王百花苑﹂と改称、現‥京王フローラルガーデンANGE︶を開園するなど、沿線観光地の整備も手がけた[1]。
また当時の重要なレジャー産業のひとつであった映画事業にも意欲を示し、1956年︵昭和31年︶9月10日には、映画興行会社﹁京王映画株式会社﹂を設立、同年12月25日には映画館﹁新宿京王﹂を開館している[1]。なお、﹁新宿京王﹂は現在の﹁京王新宿三丁目ビル﹂︵新宿区新宿3丁目1-24︶にあり、﹁新宿京王劇場﹂﹁新宿京王地下﹂に分かれていた。1980年代頃までは営業を続けていたが、その後家庭用ビデオデッキが普及しレンタルビデオ店が増加、映画館の需要が低下するといち早く映画事業から撤退している。
1957年︵昭和32年︶4月15日、取締役社長を退任[1]。専務取締役であった井上定雄︵のち京王プラザホテル社長︶が後任として京王帝都電鉄取締役社長に就任した[1]。
1954年、東京急行電鉄取締役に再任︵京王の取締役社長と兼任︶。五島慶太の没後は、1959年に五島美術館常務理事に就任、1973年まで東京急行電鉄取締役をつとめた。1973年11月8日死去。享年76。
日映設立計画
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1957年︵昭和32年︶には映画事業の拡大を目指し、大映専務の曾我正史、千土地興行社長の松尾國三らと共同で映画製作会社﹁日映﹂︵同名で1941年設立の日映とは無関係︶の設立に動く。京王が4億円を出資し、聖蹟桜ヶ丘駅付近に撮影所を建設する計画であった。しかし、京王の本業以外への過剰投資を憂慮した東急の五島慶太会長の猛反対に遭い、さらに当時の運輸大臣宮沢胤勇も、京王が申請していた鉄道事業に対する7億円の政府融資の却下に言及する事態となる。その結果、京王は日映への出資を取り止めた。このとき三宮は失踪事件を引き起こし、京王社長を事実上更迭された。[要出典]
三宮は生真面目な人物で、堅物で口数も少なく愛嬌もない性格であった。そのため堅実な三宮が、映画製作という﹁水商売﹂に参画を表明したとき周囲は驚いたという。日映事件の際に、東急会長の五島慶太は三宮を呼び、子会社の東映再建の苦労話を聞かせて断念を迫ったが、三宮は﹁彼ら︵曾我や松尾︶に義理がある﹂と言い張り聞く耳を持たなかった。すると五島は﹁30年に及ぶ俺との義理より、昨日今日の義理を重んじるのか﹂と激怒し、さすがに三宮も折れざるを得なかった。三宮は五島の意向に加え、宮沢胤勇運輸大臣が京王への政府融資の却下に言及したことで、同じく政府融資を申請中であった東急や東急系の小田急や京急に問題が波及することを恐れ、日映からの撤退に追い込まれた。宮沢運輸大臣を動かしたのは、曾我に裏切られた格好になった大映社長永田雅一の政界工作によるものだと言われている。
日映設立を計画した際、曾我や松尾は﹁東急の五島︵慶太︶会長の承諾を得ているのか﹂と訊ねると、三宮は﹁それは問題ない﹂﹁いつまでも京王は子供ではない﹂と応じた。東急時代の同僚であった大川博が東映再建を成功させ、東急のナンバー2に登りつめたことに対し、三宮に強いライバル意識があったとも言われる。日映への出資を断念したとき三宮は失踪騒ぎを起こすが、義理固い人物であり、騒動収束のためきちんと曾我や松尾と対面し、謝罪の上で京王社長を引責辞任することを伝えている。[要出典]
親族
編集参考文献
編集- 京王帝都電鉄株式会社総務部『京王帝都電鉄30年史』京王帝都電鉄、1978年。