功山寺挙兵

1865年に高杉晋作らが長州藩で起こしたクーデター

12151865112 []
高杉晋作挙兵像(功山寺境内)

概要

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辿

主な団体と人物

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長州正義派

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長州正義派諸隊

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長州俗論派

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鎮静会議員・その他長州藩士

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長州藩侯

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長州藩主。

萩藩の最高権力者であるものの指導力を発揮できず、時々に藩政を牛耳る正義派・俗論派の両方の意見に半ば盲目的に従った。

  • 毛利敬親 (前長州藩藩主 隠居したものの長州藩内ではトップと目されていた)
  • 毛利元徳 (長州藩藩主 敬親子息)

長州支藩

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長州には複数の支藩があり、支藩藩主らは概ね尊皇攘夷思考で正義派に同情的であったが、正義派・俗論派の争いは宗藩である長州本藩の内部抗争として積極的な介入を避けた。

しかし俗論派が長州本藩を掌握し正義派諸隊に圧力をかけると、居場所をなくした諸隊は無許可で長府藩に移動し、支藩藩主らに正義派への助力を乞う。

長州藩岩国領

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長州には支藩の他に、関ヶ原の戦いの経緯により江戸幕府から半ば独立勢力と認められた岩国領があった。

長州藩・毛利氏の家臣であり岩国領領主である吉川経幹は、朝敵認定され、かつ内乱状態に陥り身動きの取れない長州本藩の代わりに、長州藩を代表して幕府と和戦交渉をした。吉川は、征長軍との開戦回避のために正義派幹部の処刑をしきりに求めた為、高杉からは俗論派筆頭・奸臣と憎悪された。しかし、征長軍が困難な休戦条件を持ち出す度、長州本藩の利益と藩主父子の安全を最優先に交渉に臨み、戦争を回避させたのも吉川であった。

五卿

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[1]

退

退

脱藩浪士

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退70
  • 中岡慎太郎 (土佐脱藩浪士 公卿らの世話役)
  • 中村円太 (福岡脱藩浪士)
  • 淵上郁太郎 (久留米脱藩浪士)
  • 所郁太郎 (美濃国の医者 遊撃隊軍監)
  • 高橋熊太郎 (水戸脱藩浪士 遊撃隊参謀)

征長軍総督府

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朝廷および幕府より長州征討を命じられ、西国を中心に三十五藩の藩兵により構成された討伐軍。

総督は尾張藩主徳川慶勝で、広島を本営とし長州征討に関する全権を委任されていた。副総督は越前藩主松平茂昭で、小倉を本営とし九州諸藩を統括した。総勢十五万人という大連合軍であるが、幕閣と総督の意思疎通すら出来ておらず、動員された諸藩の士気も低かった。

  • 徳川慶勝 (尾張藩藩主 征長軍総督 広島を本営とする)
  • 成瀬正肥 (尾張藩附家老 総督名代)
  • 長谷川敬 (尾張藩士 巡見使の一人)
  • 永井尚志 (江戸幕府大目付・若年寄 広島征長軍帯同)
  • 戸川安愛 (江戸幕府目付 広島征長軍帯同)
  • 松平茂昭 (越前藩藩主・征長軍副総督 九州諸藩統括 小倉に在する)
  • 若井鍬吉 (尾張藩士 小倉に在した広島本営との連絡役)

福岡藩

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薩摩藩

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退

西

経過

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元治元年9月

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俗論派の攻勢

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925

926

西

930

福岡藩・薩摩藩の和平斡旋

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2 西

元治元年10月

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駆逐される正義派

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103

104

105



107

109

1011退



1013

1017

1018

1020




抗命

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1021



10221111118 使 使使

1023

1024西 西西西

1025

7

1027

     

1029

元治元年11月

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離脱計画

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111 使

退 便

112



113西

114


開戦回避への運動

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西 西 使 1814調 西西



使

115 使

117

118西

119

12



1110


三家老四参謀の死

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1111

使 使



1112

使200

1113 退

開戦回避

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1114

姿 18

殿[2]

使

諸隊と五卿の長府行

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1115 殿



7

1116

1117 宿

戦争回避条件のすり合わせ

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1118 西 調 西 西 西 西 西西

西

西


戦争回避三条件

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1119

   



   



西

福岡・薩摩藩への命令

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1120 便 姿



西

馬関会所

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使 便

高杉の帰還決意

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1122 退

1123 西 西退 使

1125駿

支藩藩主の萩行

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高杉帰還

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調





1128

元治元年12月

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福岡藩の説得

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121

 

123





西 西西 西



125



127 西

赤禰武人の帰還

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128



使 使 辿 西



使

1211西

1212西      

西使西使

高杉の独走

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退 姿 1214

使 560 使 使

1213

調

調







       

功山寺挙兵

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1215 84 1214





使 1933

使

15 15



使

1216

80 120

18203 363 12263


長谷川の助言

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使使 使 使使

伊佐への移動と五卿萩行

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1217 退



西



使

甲子殉難十一烈士

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1218 7 使7 姿7 西使 7

使西

12197

使使 宿

7使 723

山口城破却確認

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使使

1220 7 西

使7 西 7 西調使

藩主父子蟄居確認

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使

使

1221使 23使

1223

若井の助言と俗論派の硬化

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使 使

使 2,000

1224 使

諸隊鎮静部隊結成

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12月25日、藩政府は決起した高杉らの追討を決め、毛利宣次郎を諸隊鎮静総奉行に任命した。 だがこの鎮静部隊編成には俗論派政府内で激論があった。 俗論派内の強硬派は全諸隊の追討と厳罰を主張する。 しかし大多数の意見は、決起した遊撃隊のみを追討し処罰についても首謀者のみに留めるものであった。 最終的に俗論派政府は、馬関にて決起した高杉ら遊撃隊のみを追討することとする議案を藩主へ提出した。 しかしこの追討についても、議案を見た藩主敬親が一読の後にこれを鎮静に改めさせた。 「そうせい公」と呼ばれた敬親が、議案を自ら変更することは非常にまれであった。

清水親知(清太郎)切腹

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[3]


征長軍解兵令

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1227

使        

使



1228 使

諸隊解散令

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使 使

調

使133 使 使

1771228

1229




元治2年1月

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赤禰武人

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211



使

伊崎会所襲撃

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12



使



13使

14 使

使

絵堂の戦い

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15使 退

200 1,000

16

6             





3600200

200

太田の戦い

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17

使 使

使 使

50 1,000

沿V

18

19 200

110400 退V 退 退


高杉合流

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111

16

      

112

114102退

五卿九州行

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赤村の戦い

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116沿 退退

4060

山口掌握

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20



118 使 鹿







121 退28

収縮する俗論派

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125 使

128

130西 使

元治2年2月

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萩へ

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22

25



29

210

214 使



222

227228322殿

元治2年3月

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戦後

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315





317

528

49調 使 25

西 西西

脚注

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(一)^ 427

(二)^ 殿511115()2015622

(三)^  . https://dl.ndl.go.jp/pid/3035010/1/39 

参考文献・関連文献

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  • 徳富蘇峰編述『公爵山縣有朋伝(上・中・下)』山縣有朋公記念事業会、1933年
  • 防長史談會編『防長史談會雑誌』国書刊行会、1976年
  • 海原徹『高杉晋作 動けば雷電のごとく』ネルヴァ書房、2007年
  • 堀哲三郎編『高杉晋作全集(上・下)』新人物往来社、1974年
  • 末松謙澄編『防長回天史』東京国文社、1912年

外部リンク

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座標: 北緯33度59分45.26秒 東経130度58分54.87秒 / 北緯33.9959056度 東経130.9819083度 / 33.9959056; 130.9819083