小栗虫太郎
日本の小説家
小栗 虫太郎︵おぐり むしたろう、1901年︵明治34年︶3月14日 - 1946年︵昭和21年︶2月10日︶は、日本の小説家、推理作家、秘境冒険作家。本名‥小栗 栄次郎︵おぐり えいじろう︶。東京都千代田区外神田出身。
ペンネーム |
織田 清七 小栗 虫太郎 |
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誕生 |
小栗 栄次郎 1901年3月14日 日本・東京府東京市神田旅籠町(現・東京都千代田区外神田) |
死没 |
1946年2月10日(44歳没) 日本・長野県中野市 |
墓地 | 文京区源覚寺 |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 京華中学校卒業 |
活動期間 | 1933年 - 1946年 |
ジャンル | 探偵小説、冒険小説 |
代表作 | 『黒死館殺人事件』(1934年) |
デビュー作 |
『或る検事の遺書』(1927年・事実上のデビュー作) 『完全犯罪』(1933年・小栗虫太郎としてのデビュー作) |
影響を受けたもの
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ウィキポータル 文学 |
略歴 編集
1901年3月14日、東京市神田旅籠町︵現・東京都千代田区外神田︶で生誕。生家は代々の酒問屋の小田原屋の分家であった。父親は1911年に死去しているが、本家からの仕送りや貸家の賃貸収入のため生活には困らなかった[1]。
1913年、東京女子高等師範学校附属小学校卒業。
1918年、京華中学校を卒業し樋口電気商会に入社[1]。
1920年10月、結婚[1]。
1922年9月、亡父の財産を元手として四海堂印刷所を設立。閉鎖するまでの4年の間に探偵小説に目覚め、発表のあてのないまま、短編﹃或る検事の遺書﹄﹃源内焼六術和尚﹄と長編﹃紅殻駱駝の秘密﹄﹃魔童子﹄を執筆した[1]。﹁或る検事の遺書﹂は1927年に︵後述︶、その他3作は1936年に発表されている。
1926年9月、印刷所を閉鎖。以後、作家デビューするまでの6年間は無職で、亡父の収集した骨董類を売って食いつないでいた[1]。
1927年、織田清七名義で、﹁或る検事の遺書﹂を、春陽堂の発行していた﹁探偵趣味の会﹂の機関誌﹃探偵趣味﹄の10月号に発表する。
1933年春、﹃完全犯罪﹄を執筆し、中学の先輩ではあったが一面識もなかった甲賀三郎に原稿を送り、甲賀の推薦状を得て原稿を﹃新青年﹄︵博文館︶の水谷準編集長に持ち込む[1]。たまたま、﹃新青年﹄7月号︵6月5日頃発売︶に掲載予定だった横溝正史の作品が、横溝の結核悪化のために執筆不能となったため、急遽代理原稿として掲載されることとなり、作家デビューを果たした[2]。同誌10月号掲載の﹃後光殺人事件﹄で、刑事弁護士の法水 麟太郎︵のりみず りんたろう︶を探偵役としてデビューさせる。
1934年、大作﹃黒死館殺人事件﹄を﹃新青年﹄に発表する。
1936年、第4回︵1936年下半期︶直木賞候補となる[3]。
1937年、親交のあった海野十三、木々高太郎とともに、探偵小説専門誌﹃シュピオ﹄の創刊に加わる[1]。
1941年11月、陸軍報道班員としてマレーに赴く[注釈1]。この時まで海外旅行はおろか、関東平野から出たことすらなかったという。翌1942年末帰国[1]。
1943年、マレーの秘密結社をテーマとした﹁海峡天地會﹂を﹃新青年﹄に掲載。生来病弱であり、身体の衰弱が進む[4]。
虫太郎と娘
1944年、長野県でキクイモから果糖を製造する事業に取り組む。翌1945年5月には長野県へ疎開[1]。
終戦後、﹁これからは長編だけにする﹂[1]と宣言し、﹁社会主義探偵小説﹂と銘打った長編小説﹃悪霊﹄の執筆に取り組むが、その矢先の1946年2月10日、疎開先の長野県中野市で脳溢血のため死去。死の数日前まで闇酒を飲んでいたため、死因をメチルアルコール中毒とする説が流布している[注釈2]が、遺族は﹁完全なる脳溢血であった﹂としている[1]。享年45。遺作﹃悪霊﹄は探偵小説誌﹃ロック﹄︵筑波書林︶の昭和21年4月号に掲載され、後に笹沢左保の手によって完結編が書かれた。
没後の再評価 編集
1968年に桃源社が﹁大ロマンの復活﹂シリーズの1冊として﹃人外魔境﹄を刊行したことから再評価が始まった。桃源社では1971年までに小栗虫太郎作品のほとんどを再刊[注釈3]、のちに再編集して﹃小栗虫太郎全作品﹄全9巻︵1979年︶を刊行した。 現代教養文庫版﹃小栗虫太郎傑作選﹄全5巻︵1976年 - 1982年︶を編纂した松山俊太郎は、桃源社版について、﹁はじめて網羅的な﹁虫太郎作品集﹂を形成した﹂ことを高く評価しながらも、その校訂に杜撰な点が多いことを批判している[5]。なお、現代教養文庫版は、当初は種村季弘が担当するはずだったが、種村が桃源社の仕事も引き受けていたために遠慮し、その口利きで松山のもとに回ってきたものという[6]。現代教養文庫版では厳密な校訂を行うとともに、小栗自身による語句の誤りについても修正が施されているが、これについて松山は、後に﹁校定というものからいえばまったく邪道﹂で、﹁本来なら注記はしてもそれを残さなければならないのを直してしまったというのは、私の犯罪になってくるわけですよ﹂と自己批判している[7]。 2021年、二松學舎大学教授の山口直孝が、1941年︵昭和16年︶3月から11月にかけて﹃九州新聞﹄︵﹃熊本日日新聞﹄の前身の一つ︶などの地方紙に連載されたまま単行本化されずにいた、小栗の長編小説﹃亜細亜の旗﹄を発見した。日本と中国・上海を舞台とする家庭小説で、小栗作品の特徴である非現実的な場面設定や難解な専門用語などは見られないという。あまりに作風が異なるために代作ではないかとも疑われたが、山口は﹁作者の言葉が予告に載っている。また、当時の小栗の知名度から考えても、あえて代作をさせるメリットがない﹂として、小栗作品だと断定した[8][9][10]。2021年3月に春陽堂書店より小栗虫太郎生誕120年・没後75年記念出版として刊行された[11]。遺稿 編集
2016年度に成蹊大学情報図書館が草稿、創作ノートなどを含む資料を購入し、また小栗の遺族より遺品や書籍などの資料の寄贈を受けた[12]。図書館では2017年11月13日から12月1日まで企画展﹁小栗虫太郎 -PANDEMONIUM ︵大魔城︶の扉を開く-﹂を開催した[13]。作風 編集
膨大なペダントリー︵衒学趣味︶が最大の特徴で、作中ではカタカナのルビが多用され、様々な書物からの引用が見られる[14]。 なお、作中に登場するペダントリーは必ずしも正確ではなく、しばしば小栗の創作や誤解が含まれていることが指摘されている。﹃黒死館殺人事件﹄の校訂を行った松山俊太郎は、﹁難解語彙・事項のかなりの部分が、苦しまぎれの捏造と、観念連合の過敏性に基く錯誤の産物と推定される﹂と指摘している[15]。また、作中では暗号が頻出するが、暗号研究家の長田順行は、小栗が実際に参考文献としたと推定されるのはアンドレ・ランジー﹃暗号学﹄のJ・C・H・マクベスによる英訳[注釈4]のみであり、﹁暗号の個々の記述については、その中には非論理的なものもあり、マクベス本からの引用も正確でない﹂と指摘している。もっとも長田は、﹁仮りに、今一冊の暗号文献を与えられたとして、誰が虫太郎のようにそれを見事に駆使して“超百科全書的な展示”に置き換えることができるであろうか﹂とも記している[16]。 作品に頻出するモチーフとしては、異国趣味、心理学、フロイディズム、犯罪学、生理学、オカルティズムなどがある[17]。このほか、しばしばレズビアン趣味を登場させる傾向がある︵﹃紅毛傾城﹄﹃白蟻﹄﹃絶景万国博覧会﹄﹃方子と末起﹄など︶[18]。 探偵小説として見た場合、形式的には本格探偵小説でありながら、舞台設定、登場人物の設定や言動、トリック、そして探偵役による推理のいずれもが非現実的、という独特の作風で知られる[17]。江戸川乱歩は﹁作風の非現実﹂を認めつつも、﹁トリックの具象化などを試みないで、全体として眺めるならば、この作者はどんな本格探偵作家にもまして、探偵小説的な味いを身に備えている﹂と評した[17]。また中島河太郎は﹁もっとも本格物らしく装って、本格物でない類の作風﹂と評している[19]。日下三蔵は、﹁現実世界に即した論理ではなく、著者が構築した﹁小栗宇宙﹂の内部での論理を楽しむべき作品﹂[20]と評した。一方で、探偵小説の本格性を重視しペダントリーを嫌った坂口安吾は、S・S・ヴァン・ダインの亜流として作風自体を否定している[注釈5]。 この現実離れした特異な作風について、江戸川乱歩は、﹁少し突飛な比喩を用いるならば、次元の異なる世界を三次元の言葉によって、非ユークリッドの世界をユークリッドの言葉によって、紙の上に描き出そうとする烈しい情熱にとりつかれているのだ﹂[21]、また大下宇陀児は﹁シュールレアリズム﹂[22]と、それぞれ評した。 文体については悪文という評価がある一方、澁澤龍彦は﹁意識して作り出したスタイル﹂であり、﹃黒死館殺人事件﹄について﹁大まかなリズムに乗りさえすれば、あの長い分量を比較的すらすらと読み通すことさえ可能なのだ﹂と評している[23]。人物 編集
海野十三とは無二の親友同士[24][25]。一方、探偵作家として尊敬していたのは江戸川乱歩と夢野久作の2人だけだったという[26]。久作に対しては﹃ドグラ・マグラ﹄出版記念会の直後に、﹁夢の野にすむ獏ならぬ九州︵くす︶男 大舌︵おほした︶吐きてえど川を干すらん﹂と書いた手紙を送っている[注釈6]。また、乱歩によれば、虫太郎は戦後、1946年1月に上京して乱歩と会った際に﹁江戸川さん、結局ぼくはあなたにかなわなかったですよ﹂と語ったという[27][注釈7]。 ﹃シュピオ﹄同人として盟友関係であった木々高太郎については、﹁あの人は大したことないよ﹂と評する一方、木々と久生十蘭は﹁直木賞をとるだろう﹂と予見していたという[26]。 ﹃黒死館殺人事件﹄をはじめとする原稿のほとんどを妻に清書させていた[28][29]。 画家の茂田井武は、1937年頃、﹃新青年﹄の挿絵を描いていた縁で小栗家に居候をしていた[30]。また、探偵作家の左頭弦馬も上京した際に2、3か月ほど居候していたが、小栗から﹁キミには才能がないから、郷里に帰りなさい﹂と宣告されて京都に帰郷したという[31]。 極度の雷嫌いで、乾信一郎によれば、午後に雷雨が降ることを午前中から感知する能力があったという[32]。 幼少時に死去した父親については、自己中心的な人物として含むところがあったらしく、作品には父殺しのモチーフが頻出する[33]。虫太郎と横溝正史 編集
小栗のデビュー作﹁完全犯罪﹂は本来、﹃新青年﹄水谷準編集長の企画として1933年︵昭和8年︶7月号に横溝正史が百枚物の読み切りを書く予定であったものが、5月7日に横溝が大喀血して執筆不可能となり、急遽小栗がピンチヒッターとして掲載されたものだった。横溝は水谷編集長に平謝りだったが、水谷からは﹁心配することはない、こちらに手ごろな長さの作品があるから﹂と静養に努めるよう言われたという。この水谷の手持の原稿というのが﹁完全犯罪﹂だった。横溝は﹁世にこれほど強力なピンチヒッターがまたとあろうか。私が健康であったとしても、﹃完全犯罪﹄ほど魅力ある傑作を書く自信はなかった﹂と述べている[34]。 太平洋戦争の始まる少し前、ある会の帰りに横溝は小栗と二人でおでん屋で酒を飲んだ。そのとき、小栗が﹁横溝さん、あんたが病気をしたおかげで、私は世の中へ出られたみたいなもんだよ﹂と言ったという。横溝は﹁阿房なことをいいなはんな。わしが病気をしてもせんでも、あんたは立派に世の中へ出る人じゃ﹂と答えた。すると小栗は﹁それはそうかも知れないが、少くとも二三ヵ月早くチャンスが来たことは確かだからね﹂と言う。横溝は重ねて﹁よしよし、それなら、今度お前さんが病気をするようなことがあったら、私がかわって書いてあげる﹂と答えたという[35]。 横溝は太平洋戦争末期に岡山県に疎開し、以後もしばらく岡山県に留まっていたが、1946年の春先、小栗から﹁海野十三に住所を聞いたから﹂と、突然手紙をもらった。小栗はその手紙の中で、﹁今後の探偵小説は本格でなければならぬ、自分も今後本格一筋でいくつもりである﹂と、意気軒高だったという。横溝も同じ思いだったので賛同し、2、3度文通を重ねたが、メチル禍により、小栗の突然の訃報に接したのは唖然とせざるを得なかったと語っている[34]。 戦争中、横溝はほとんど誰とも往復せず、誰とも文通しなかった。戦争が終わってからまた旧交を温め、二三度手紙を往復したかと思うと、突然小栗急逝の電報である。横溝には何が何やらわけがわからなかったが、間もなく海野十三から詳しい報告を聞いて、初めて死の真相を知った。横溝は痛恨傷心のあげく、二三日何もしないで寝込んでしまったという。小栗が死ぬ前に書き送った手紙で、小栗の探偵小説に対する熱情が、並々ならぬものであることがうかがわれ、それだけに失望落胆は大きかったという[35]。 小栗は突然の死の前に、﹃ロック﹄で長編連載を予定していた。このため同誌の山崎徹也編集長は途方に暮れ、横溝に代わりの長編連載を頼んできた。当時﹃宝石﹄で﹃本陣殺人事件﹄を連載していた横溝だったが、﹁虫太郎のピンチヒッターというところが、いささかおセンチ野郎の私の心を動かし﹂たそうで、引き受けたのが﹃蝶々殺人事件﹄だった。横溝は﹁虫太郎のことを思えばおセンチにならざるを得ない﹂と、この作家の早世を儚んでいる[34]。作品 編集
シリーズ作品 編集
法水麟太郎シリーズ 編集
元捜査局長で刑事弁護士の法水麟太郎[注釈8]を探偵役とするシリーズ。長編2編と短編8編が書かれている。 ●﹁後光殺人事件﹂︵短編、﹃新青年﹄1933年10月︶ ●﹁聖アレキセイ寺院の惨劇﹂︵短編、﹃新青年﹄1933年11月︶ ●﹁夢殿殺人事件﹂︵短編、﹃改造﹄1934年1月︶ ●﹁失楽園殺人事件﹂︵短編、﹃週刊朝日﹄1934年3月︶ ●﹃黒死館殺人事件﹄︵長編、﹃新青年﹄1934年4月 - 12月︶ - 1935年5月新潮社から単行本刊行。法水麟太郎シリーズの初長編。冒頭に﹃聖アレキセイ寺院の惨劇﹄の結末についての言及がある。 ●﹁オフェリヤ殺し﹂︵短編、﹃改造﹄1935年2月︶ ●﹁潜航艇﹁鷹の城﹂︵ハビヒツブルク︶﹂︵短編、﹃新青年﹄1935年4月 - 5月︶ - 初出時の題名は﹁鉄仮面の舌﹂、﹃地中海﹄︵ラジオ科学社、1938年︶に収録された際に改題。 ●﹁人魚謎お岩殺し﹂︵短編、﹃中央公論﹄1935年8月︶ ●﹃二十世紀鉄仮面﹄︵長編、﹃新青年﹄1936年5月 - 9月︶ - 1936年9月春秋社から単行本刊行。作家が﹁新伝奇小説﹂と銘打った第二長編。東南アジアから五島列島に架空都市までの広がりをもち、恋愛の要素がある。 ●﹁国なき人々﹂︵短編、﹃オール讀物﹄1937年8月︶人外魔境シリーズ 編集
鳥獣採集人の折竹孫七を主人公とする秘境探検小説のシリーズ︵ただし、第1話﹁有尾人﹂と第2話﹁大暗黒﹂には折竹は登場しない︶。全13編。単行本﹃人外魔境﹄にまとめられている。
●﹃人外魔境﹄
(一)﹁有尾人︵ホモ・コウダッス︶﹂︵﹃新青年﹄1939年5月, 7月。以下掲載誌同じ︶
(二)﹁大暗黒︵ラ・オスクリダット・グランデ︶﹂︵1939年10月 - 11月︶
(三)﹁天母峰︵ハーモ・サムバ・チョウ︶﹂︵1940年1月︶
(四)﹁﹁太平洋漏水孔︵ダブックウ︶﹂漂流記﹂︵1940年2月︶
(五)﹁水棲人︵インコラ・パルストリス︶﹂︵1940年3月︶
(六)﹁畸獣楽園︵デーザ・バリモー︶﹂︵1940年4月︶
(七)﹁火礁海︵アーラン・アーラン︶﹂︵1940年5月︶
(八)﹁遊魂境︵セル・ミク・シュア︶﹂︵1940年6月︶
(九)﹁第五類人猿︵だいごアンソロポイド︶﹂︵1940年7月︶
(十)﹁地軸二万哩︵カラ・ジルナガン︶﹂︵1940年8月︶
(11)﹁死の番卒︵セレーノ・デ・モルト︶﹂︵1940年10月︶
(12)﹁伽羅絶境︵ヤト・ジャン︶﹂︵1940年11月︶
(13)﹁アメリカ鉄仮面︵クク・エー・キングワ︶﹂︵1941年7月︶ - 別題﹁成層圏の遺書﹂。