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鎌倉街道︵かまくらかいどう︶は、鎌倉と各地とを結ぶ道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉政庁が置かれた鎌倉と各地とを結んでいた古道を指す。
鎌倉街道の趣を残す朝比奈切通し付近。
これについては鎌倉往還︵かまくらおうかん︶や鎌倉道︵かまくらみち︶とも呼ばれ、また鎌倉海道︵かまくらかいどう︶とも書く。一方で、現況の道路で﹁鎌倉街道﹂や﹁かまくらみち﹂と通称される路線も存在する。
古道としての鎌倉街道とは、鎌倉時代に幕府が置かれた鎌倉と各地とを結んだ道路網を指す[注釈1]。鎌倉時代の関東近郊の主要道の意として用いられる。
1192年、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、支配力強化のために鎌倉を中心に東国の各地域を結ぶ新たな道路整備に力を注ぎ、次々と放射状に延びる道路網が建設された。東国15カ国[注釈2]の御家人が番役として幕府に順番に奉仕したため、おおむねその範囲にわたる。それだけではなく、古代朝廷では十分支配が及ばなかった東北地方や蝦夷地まで交通圏が拡大したことや、西は越中、飛騨、信州から東国を経て鎌倉に向かう道筋が何本か明らかになっており、鎌倉街道あるいは鎌倉道と呼ばれる道はかなり広範囲に数多くあったとみられている。
鎌倉街道は、律令時代の官道︵五畿七道︶に比べ、幅が不揃いで、曲がりが多く、複線の区間も少なくなかった。古道研究の専門家は、各地の武家や寺社が作った道を利用したためと説明している。また、鎌倉街道だったと言い伝えられながら、鎌倉街道の他区間とつながらない道がある。その理由として、鎌倉街道という言葉が使われるようになった江戸時代には、地元の道を、鎌倉街道だったと言い伝えるようになったことによると推測する研究者もいる[6]。
鎌倉街道の幹線道は、五畿七道とほぼ同じく、全国の国府を通り、街道沿いに守護所も置かれたが、その数はごく限られていた。特によく知られるのが、上道︵かみつみち、かみのみち︶・中道︵なかつみち、なかのみち︶・下道︵しもつみち、しものみち︶[注釈3]とよばれる関東地方を中心に広がる主要な幹線道3本で、さらに支線も加わり、現在でも鎌倉街道の名を残すところも多い。鎌倉から武蔵、上野の国府を通り、碓氷峠を越えて信濃へ行く道︵上道︶、東海道筋をたどる京鎌倉往還、鎌倉から甲斐とを結ぶ道︵御坂路、甲州鎌倉道︶、下野の国府を通って白河関を越える道︵中道︶、常陸の国府を通って勿来関を越えて奥州へ行く道︵下道︶などがあった。御坂路については、甲斐路︵御坂路︶の項目を参照。
一方で、鎌倉街道の呼び名が一般的に用いられるようになったのは江戸時代以降で、鎌倉時代に書かれた鎌倉政庁自らの記録である﹃吾妻鏡﹄をはじめ、当時の諸文献に﹁鎌倉街道﹂の呼び名は見られず、江戸時代の書物である﹃新編武蔵風土記稿﹄や﹃江戸名所図会﹄︵江戸名所圖會︶などに鎌倉街道が散見されている[注釈4]。
軍事道路としての側面は、鎌倉時代初期に頼朝が、鎌倉から大軍を率いて奥州平泉の藤原氏を滅ぼした奥州征伐の際に使用した。この他は幕府が実際に軍事目的で使用したという記録は多くない。元弘三年︵1333年︶の鎌倉幕府滅亡時、朝廷方の新田義貞が上道を通って鎌倉に侵攻した時に逆に利用された。
﹃吾妻鏡﹄で﹁鎌倉との往還道﹂という意味で用いられている道路名には以下のようなものがある。
(一)京や駿河・遠江と鎌倉の間を繋ぐ東海道︵さらに古代と同様に鎌倉より下総・常陸へ至る道も含まれる︶
(二)鎌倉から丸子の渡しを通過し武蔵東部や下野に向かう中路
(三)さらに中路を経て奥州に向かう奥大道
(四)鎌倉から関戸の渡しを通過し武蔵西部や上州に向かう下道
(五)下道からさらに信濃・越後に向かう北陸道
(六)鎌倉と下野足利荘とを繋ぐ経路上の道である武蔵大路︵経路不明ながら上記の下道および古代の東山道武蔵路と重なる︶
以下に、﹃吾妻鏡﹄に記述のある道路名について解説する。なお、東海道と北陸道については各項目を参照のこと。
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﹃吾妻鏡﹄の養和元年9月16日の条に、下野国足利庄の桐生六郎が幕府の命により追討の命が下された主人の藤原俊綱の首を取って、武蔵大路よりその首を持参したとある。
鎌倉の北西にある扇谷地区から源氏山を西へ、梶原谷から藤沢に抜ける道は、かつて﹁武蔵大路﹂と呼ばれ、鎌倉街道最大の道筋であった。境川に沿い町田市、多摩市、︵武蔵︶国府の府中を過ぎて、群馬県、栃木県の北関東へ続いていた。
鎌倉時代に編まれた『宴曲抄』の中の歌謡「善光寺修行」には道中の地名が織りこまれており、『吾妻鏡』でいう下道の経路と推定される。
由比の浜(鎌倉市由比ヶ浜) - 常葉山(鎌倉市常盤) - 村岡(藤沢市村岡地区)[注釈 16] - 柄沢(藤沢市柄沢付近) - 飯田(横浜市泉区上飯田町・下飯田町付近) - 井出の沢(町田市本町田) - 小山田の里(町田市小野路町) - 霞ノ関(多摩市関戸) - 恋が窪(恋ヶ窪村、国分寺市の東恋ヶ窪及び西恋ヶ窪) - 久米川(東村山市と所沢市との境付近、久米川宿(東村山市久米川町付近)) - 武蔵野(所沢市一帯の地域) - 堀兼(狭山市堀兼) - 三ツ木(狭山市東三ツ木) - 入間川(狭山市を流れる入間川で右岸に宿(入間川宿)があった) - 苦林(毛呂山町越辺川南岸の苦林宿[注釈 17]) - もりと(坂戸市大字森戸) - 大蔵(嵐山町大蔵) - 槻川(嵐山町菅谷の南を流れる川) - 比企が原(嵐山町菅谷周辺) - 奈良梨(小川町大字奈良梨) - 荒川(寄居町の荒川) - 見馴川(現在の小山川) - 見馴の渡(見馴川の渡) - 児玉(本庄市児玉町児玉) - 雉が岡(本庄市児玉町八幡山) - 鏑川(藤岡市と高崎市の境を流れる) - 山名(高崎市山名町) - 倉賀野(高崎市倉賀野町) - 衣沢(高崎市寺尾町) - 指出(高崎市石原町付近) - 豊岡(高崎市の上・中・下豊岡町) - 板鼻(安中市板鼻) - 松井田(安中市松井田町松井田) - 臼井山(碓氷峠) - 離山 (軽井沢町の離山) - 浅間(軽井沢町追分宿) - しのの目(小諸市東雲) - 日影(小諸市御影新田) - 望月(佐久市望月宿)- 布引(布引観音) - 海野(東御市海野宿)- 白鳥(東御市白鳥神社)- 岩下(上田市岩下)- 塩尻(上田市塩尻)- 坂木(坂城町) - 力石の渡し(笄の渡し) - 佐良科(千曲市稲荷山)- 姨捨(姨捨山の麓長谷寺付近) - 筑摩(千曲川) - 篠の井(長野市篠ノ井布施) - 今井神社(長野市川中島町今井) - 川中島(長野市川中島町四ッ屋) - 犀川(小市の渡し(小市橋)) - 安茂里(長野市安茂里) - 山王(長野市南長野北石堂町) - 後町(長野市長野東後町、長野市南長野西後町) - 善光寺 - 吉田大銀杏(長野市吉田) - 稲積一里塚(長野市稲田) - 多古(長野市三才) - 吉一里塚(長野市吉) - 黒川(飯綱町黒川) - 沼辺(野尻湖) - 関川(妙高市関川) - 新井(妙高市新井) - 越後国府
江戸時代の寛延4年に酒井忠昌により著された﹃南向茶話﹄によると、﹁王子村の脇に谷村[注釈18]という所があり、畑道の間道が昔の当国の往還道であったため鎌倉海道と呼び伝えられているそうですね﹂と問われたとあり、これに対し、下記のように答えたとある‥
そのとおりです。私︵酒井忠昌︶もそう聞いています。この谷村という所ではそのように呼ばれており、畑道も鎌倉海道と呼ばれています。谷村の古老の方に拠れば、当国の方には池沼が多くぬかるみの土地柄のため、現在の青山百人町の西北の方、原宿[注釈19]という所を経て、千駄ケ谷八幡の前︵この土地では今も地名の小名として﹁鎌倉海道﹂と呼んでいる︶、大窪[注釈20]を過ぎ、高田馬場より雜司ケ谷[注釈21]法明寺の脇を通り、護国寺の後ろを通り、現在の中山道を横切り、谷村、滝野川村[注釈22]を経て、豊島村より千住の方へ向かうのが、いにしえの道筋です、とのことです。この説を考察するに、その間の道筋に三箇所も旧名鎌倉海道が残っていることから、何の根拠も無いことではありません。現在の青山百人町から真っ直ぐに相模国の小田原への往還道を俗に中道と呼び、東海道より二里近く、日本橋より相州小田原まで十八里であり、・・・︵後略︶
江戸時代の天保年間に刊行された﹃江戸名所図会﹄の﹁十三﹂には、﹁堀兼の井戸﹂の説明文として鎌倉街道の記述がある。これによると、﹁堀兼の井戸は河越の南、堀兼村にあり、浅間宮の傍にあるため浅間堀兼と称されている。浅間宮の前の道は、古の鎌倉街道で、上州信州への往還道である﹂とされ、﹃吾妻鏡﹄でいう下道と推定される。鎌倉街道上道の支道、堀兼道と呼ばれている。
また、﹁九﹂には、﹁千駄ヶ谷八幡宮﹂︵鳩森八幡神社︶の説明文として、﹁南向亭云く﹂と前述南向茶話を引用し、八幡宮前の道は鎌倉街道の旧跡である、と記述している。
﹁六﹂には、﹁鼻缼地蔵︵鼻欠地蔵︶﹂︵横浜市金沢区大道二丁目︶について﹁鎌倉道沿いにある﹂と記述している。朝夷奈切通を越え、金沢へ向かう鎌倉街道下道に該当する。
﹁十二﹂には、﹁大鏡山南蔵院﹂︵豊島区高田︶の説明文として、﹁昔鎌倉街道の通路なりとて、鎌倉街道の楓樹と號くるもの、今その境内に存せり。﹂と記述がある。
鎌倉街道という言葉は江戸時代の文化・文政年間に江戸幕府により編纂された江戸および周辺地の地誌に頻用されており、江戸時代に江戸周辺の住民が鎌倉街道と口伝する道があったことが分かっている。
現在、﹁鎌倉街道には上道・中道・下道という3つの主要道があった﹂とされることが多いが、これらの言葉の由来については定かではない。﹁中道﹂については﹃吾妻鏡﹄にも﹁中路﹂の記述があり、これが語源となったと推定されている。一方、現在﹁上道﹂﹁下道﹂とされるルートは﹃吾妻鏡﹄ではそれぞれ﹁下道﹂﹁東海道﹂に相当し、同書の記述とは相違している。﹁鎌倉街道・上道﹂は、江戸時代に上洛の道︵上道︶の一道であった中仙道︵木曾街道︶と並行しており、いつしか両者が混同し、従来の下道が﹁鎌倉街道・上道﹂と呼ばれるようになったとの推定がある。また、奈良の道に上道・中道・下道があったことから、鎌倉街道についても同じように呼ばれるようになった、との説がある。阿部正道は律令国名と同様に都に近い方から上中下と呼ぶ 慣習によるものとしている。
以下に現在、鎌倉街道﹁上道・中道・下道﹂とされているルートを記す。
鎌倉街道上道として定説化しているのは、鎌倉から武蔵西部を経て上州に至る古道で、鎌倉 - 化粧坂 - 瀬谷 - 本町田 - 小野路 - 府中 - 所沢 - 入間 - 笛吹峠 - 奈良梨 - 山名 - 高崎のルートである。武蔵国府付近は、東芝府中工場 - 分倍 - 中河原へ抜けるルートとなっている[注釈25]。
﹃吾妻鏡﹄には﹁上道﹂の記述は無く、現在の鎌倉街道上道は﹃吾妻鏡﹄に下道として記録されているものに近い。
上道のルートは、古代律令時代の駅路で、奈良時代に廃絶した東山道武蔵路と似通った道筋を通っているが、おおよそ近くを通るだけで完全に一致するところはないとみられている。また、所沢以南は東山道武蔵路とほぼ一致しているものの、その北側は平安時代後期の有力武士団で後に鎌倉幕府の御家人として編成される秩父氏や児玉氏の拠点がある武蔵国の比企郡や児玉郡、上野国の多胡郡を通るように付け替えられた道であるとする見方もある。当時、秩父氏・児玉氏・相模国の三浦氏は婚姻関係で結ばれ、鎌倉幕府成立以前から相互の交通が盛んであったとみられている[73]。
京鎌倉往還は、極楽寺坂より腰越、片瀬を通り、相模から駿河へは足柄路または箱根路を越え、遠江、三河、尾張、美濃を通り不破関跡を越えて琵琶湖畔を経て京都粟田口に達する。
極楽寺坂は鎌倉時代初期には無く[注釈33]、それ以前は古東海道がもとになった稲村ヶ崎回りの路をとっていた。
片瀬からは、鎌倉時代には固瀬駅より砥上渡しで片瀬川を渡り、西進して引地川を渡り現在の辻堂に入っていたが[注釈34]、室町時代に遊行寺の門前町が構成されるとそちらに回るようになり、古道は消失した。
足柄路は、古代東海道の坂本駅︵さかもとのうまや︶とされる関本宿︵南足柄市関本︶から狩川沿いに進み、足柄峠を越えて駿河に入り竹ノ下宿︵小山町竹之下︶で甲斐に向かう御坂路と分岐し、黄瀬川沿いに南下して黄瀬川宿︵沼津市大岡︶に至る。相模湾側からは、酒匂宿︵小田原市酒匂︶から北上し、小田原市鴨宮を経て、同市飯泉もしくは同市桑原から酒匂川を渡り、南足柄市岩原から狩川沿いに進み関本宿に至った、と考えられている。
箱根路は、湯本から湯坂道[注釈35]により芦之湯︵箱根町︶へ、さらに芦ノ湖畔の葦河宿[注釈36]、箱根外輪山を越えて、元山中︵三島市川原ケ谷︶を経由する﹁平安鎌倉古道﹂[注釈37]により三島へ、さらに駿河車返︵沼津市︶へと至る。
鎌倉時代初期には足柄路が利用され、次第に箱根路が使われるようになった。
﹃吾妻鏡﹄の建長4年︵1252年︶3月19日の条から、宗尊親王の鎌倉入りの経由地が記述されている。それによると経由地は3月19日、六波羅を出て、昼、野路︵草津市野路、旧老上村︶駅、夜、鏡︵竜王町大字鏡、旧鏡山村︶駅。20日、昼、四十九院︵豊郷町四十九院︶、夜、箕浦︵米原市箕浦、旧息長村︶。21日、昼、野上︵関ケ原町野上、旧相川村︶。22日、昼、黒田︵一宮市木曽川町黒田、旧木曽川町︶、夜、萱津︵あま市下萱津、旧萱津村︶。23日、昼、鳴海︵名古屋市緑区鳴海町、旧鳴海町、鳴海宿︶、夜、矢作︵岡崎市矢作町、旧矢作町︶。24日、昼、渡津︵豊橋市清須町渡津橋︶、夜、橋本︵湖西市新居町新居、旧新居町、新居宿︶。25日、昼、引田、夜、池田︵磐田市池田、旧池田村、天竜川池田の渡し︶。26日、昼、懸河︵掛川市掛川︶、夜、菊河︵菊川市︶。27日、昼、岡部︵藤枝市岡部町岡部、旧岡部町︶、夜、手越︵静岡市駿河区手越、旧長田村︶。28日、昼、蒲原︵静岡市清水区蒲原、旧蒲原町蒲原、蒲原宿︶、夜、木瀬河︵沼津市大岡字木瀬川、旧大岡村︶。29日、昼、鮎澤︵御殿場市新橋鮎沢、旧御厨町、旧々新橋村︶、夜、関本。
となる。建長4年︵1252年︶4月1日の条には、﹁関本宿を出発して固瀬宿に到着した。少し休んだ後に、稲村ケ崎から鎌倉に入った﹂とある。
鎌倉は三方を山に囲まれ、南に相模湾が面する要害の地として有利な立地であったことから、鎌倉と諸国を結ぶ街道をつなぐために、鎌倉周囲の山を掘り割って切通しが作られた。外部に通じる道に7カ所の切通しがつくられたことから、これらは﹁七切通し﹂︵鎌倉七口︶とよばれ、敵の侵攻に対抗する防御を固める要所でもあった。
七切通しは、朝夷奈切通、亀ヶ谷坂、化粧坂切通、極楽寺坂切通、巨福呂坂切通、大仏切通、名越切通の7カ所であり、鎌倉街道との対応は、上道‥化粧坂切通、中道‥巨福呂坂切通、下道‥朝夷奈切通、京鎌倉往還‥極楽寺坂切通、房総三浦鎌倉道‥名越切通、とされている。
大仏切通は上道本道とはされていないが、鎌倉市長谷・常盤・笛田に所在し、前述﹃宴曲抄﹄﹁善光寺修行﹂の由比の浜 - 常葉山 - 村岡のルートに当たる。
●なるべく平坦な直線距離を取る。
●見晴らしがいいように丘陵や台地、微高地の尾根を通る。
●尾根道の場合、掘割状の凹型の断面となる。幅は騎馬が2列並んで通れる程度で決して広くはない。
鎌倉街道「駒が橋」。鎌倉時代、源頼朝がこの地を通った時、駒(馬)を橋の代わりに用いたことからこの名称が付けられた。
横浜市港北区
現在でも﹁古道・鎌倉街道﹂の面影を残すところ道筋を見ることができる場所もある[注釈38]ものの、﹁古道・鎌倉街道﹂は、鎌倉時代の記録に基づき整理されたものか、近世以降の地元民の口伝を整理したものであるか、全てが解明されているわけではない。また発掘調査による報告もあるが、現在﹁鎌倉街道﹂とよばれている道路から並行した場所にあることから、﹁古道・鎌倉街道﹂がそのまま現在の道路に引き継がれているわけではない。近世以降の地元民の口伝に基づく鎌倉街道は廃れてしまったものもあるが、逆に拡幅されるなどしたものもあると推察されている。2022年には、埼玉県毛呂山町の鎌倉街道上道が鎌倉街道として初めて国の史跡に指定された[110]。
以下に現在﹁鎌倉街道﹂と呼ばれる道路等について概説する。
1996年に文化庁が選定した「歴史の道百選」には、下記の鎌倉街道が含まれている。
- 24 鎌倉街道上道
- 26 鎌倉街道上総路
- 29 鎌倉街道七口切通
- 38 鎌倉街道御坂路
口伝により現在、鎌倉街道と呼ばれる古道・鎌倉往還道のうちには、市道として断続的に名前が残っている箇所もある︵東村山市・小平市内などの府中街道に平行するような形態の狭い幅の道路など。その他関東各地に名称が残る︶。
大部分が近代の宅地開発や市街地化、道路環境整備などに伴い姿を大きく変えているが、未舗装のままや宿場の街並みが残り、かつての雰囲気を偲ばせる箇所も一部に残る。
●国分寺市と府中市の市境で黒鐘公園付近にある伝鎌倉街道
●町田市の町田宿・井出の沢付近から小野路宿付近にかけての旧経路。このうち七国山峠には新田義貞が軍馬に水を与えたという﹁鎌倉井戸﹂が残っている。七国山は七国山緑地保全地域に指定されている。
●上記の小野路宿付近から多摩市南野の一本杉公園にかけて、鎌倉裏街道跡およびその切り通しがあり、整備・保存されている[129]。
●三芳町竹間沢の古井戸地蔵あたりに残る﹁鎌倉街道﹂︵三芳町指定文化財︶。
●深谷市畠山﹁鎌倉街道上道﹂︵深谷市指定文化財・史跡︶ - 掘割遺構が良好に残る[注釈41]。
●利根町の鎌倉街道︵利根町指定文化財︶。下総国府から常陸国府に通じる下道の一部と考えられている。大平-奥山-押戸と繋がっていた。旧鬼怒川の河道︵下総国・常陸国の国境、利根と龍ケ崎の間︶を渡河する地点にある。
旧鎌倉街道(上道) 埼玉県所沢市星の宮。
札の辻、旧甲州街道︵左右︶と旧鎌倉街道の交差。東京都府中市宮西町。川越道起点であった。
旧鎌倉街道(上道)切通。東京都国分寺市西元町4、伝鎌倉街道。
神奈川県、静岡県、愛知県にも東海道沿いに鎌倉街道跡、旧鎌倉街道、鎌倉古道などと呼ばれる古道の跡が残っている(東海道の項目参照)。
- 箱根町/湯坂路
- 三島市/平安・鎌倉古道
- 三島市(三嶋大社の西側の祓所神社から西に延びる道路)
- 安城市/鎌倉街道及び花の瀧伝承地(市指定史跡)
- 刈谷市/祖母神社境内(市指定文化財)
- 豊明市/二村山鎌倉街道(市指定文化財)
- 名古屋市南区
(一)^ 鎌倉幕府の御家人が有事の際に﹁いざ鎌倉﹂と鎌倉殿の元に馳せ参じた道だった。
(二)^ 東国15カ国とは、遠江国以東の東海道10国︵遠江国、駿河国、伊豆国、甲斐国、相模国、武蔵国、安房国、上総国、下総国、常陸国︶および信濃国以東の東山道5国︵信濃国、上野国、下野国、陸奥国、出羽国︶を指す。
(三)^ この書き方、読み方はいろいろある。
(四)^ ﹃新編武蔵風土記稿﹄、荏田、菅生村の項など。
(五)^ 以下の24名。
小山出羽前司︵小山長村︶、
宇都宮下野前司︵宇都宮泰綱︶、
阿波前司︵薬師寺朝村。小山朝正の男︶、
周防五郎兵衛尉︵島津忠景、
塩谷親時︶、
氏家余三︵氏家経朝︶跡︵氏家公宗︶、
壱岐六郎左衛門尉︵葛西朝清︶、
壱岐七郎左衛門尉︵葛西時重︶、
出羽四郎左衛門尉︵小山時朝、中条光家︶、
陸奥留守兵衛尉︵井沢︵留守︶恒家︶、
宮城右衛門尉、和賀三郎兵衛尉︵和賀行時︶、
和賀五郎右衛門尉︵和賀景行︶、
芦野地頭、
福原小太郎︵那須資広︶、
渋江太郎兵衛尉、
伊古宇又次郎、
平間江︵川崎市上平間および下平間︶地頭、
清久右衛門次郎、
鳩井兵衛尉︵鳩井重元︶跡、
那須肥前々司︵那須資村︶、
宇都宮五郎兵衛尉︵宇都宮泰親︶、
岩手左衛門太郎、岩手次郎、
矢古宇右衛門次郎。
(六)^ 鎌倉時代には矢古宇郷は、川口市・草加市にまたがっていた。
(七)^ ﹃新編武蔵風土記稿﹄﹁谷古宇村﹂に﹁古くはこの辺りの村々全て一郷にて矢古宇と唱え﹂とある。
(八)^ ﹃新編武蔵風土記稿﹄﹁鳩ヶ谷宿﹂に﹁吾妻鏡仁治四年三月十二日の条の鳩谷兵衛尉重元とこの鳩井兵衛尉は同一人物﹂とある。﹂
(九)^ 宇都宮付近では田原街道の田川橋梁が古来﹁鎌倉橋﹂と呼ばれており、またこの田原街道を北上すると頼朝奥州征伐の際に奉幣した宇都宮二荒山神社の神官を代々務めた宇都宮一族の中里氏の本領﹁中里﹂に至り、中里を東進すると氏家を経て矢板に至ることなどから、田原街道筋は当時の鎌倉街道中路ないしその支路と推察される。
(十)^ 現在、白河関は那須町伊王野から北北東に向かった先の福島県白河市旗宿にあり、白河神社がその遺物と考えられているが、芦野は伊王野から北北西に向かう現在の国道294号沿線の地名である。
(11)^ ﹃吾妻鏡﹄治承5年閏2月23日の条に、﹁固古我高野等渡﹂とある。また、﹃新編武蔵風土記稿﹄の﹁上高野村﹂に﹁舊くは上下の分ちなし﹂として、﹃吾妻鏡﹄の同条を引用し、﹁村境を流れる古利根川は古の高野川にしてそこに設しわたりて高野渡と呼びしか﹂とし、また﹁須賀村の傳へに古の鎌倉街道とて久米原村の方より入り古利根川をこえて下高野村に通せし﹂とある。現在の宮代町から杉戸町へ渡る満願寺橋の位置が高野の渡し跡と推定されている。
(12)^ ﹃新編武蔵風土記稿 外国府間村﹄﹁利根川 村の東を流る︵中略︶渡船場あり對岸元栗橋村に達す脇渡場と唱ふ﹂
(13)^ 江戸時代も幸手領を守る堤は補強された。
(14)^ ﹃新編武蔵風土記稿﹄﹁向古河村﹂﹁村内に元奥州街道あり﹂
(15)^ 万葉集に収められた歌の中の﹁許我の渡り﹂とも考えられている。
(16)^ ﹃新編相模国風土記稿﹄渡内村に﹁鎌倉道村の西北に係る﹂とある。
(17)^ 堂山下遺跡︵埼玉県入間郡毛呂山町大字川角字堂山下1020番地他︶が苦林宿跡と推定されている。
(18)^ ﹃新編武蔵風土記稿﹄﹁瀧野川村﹂では、この谷村に対して、瀧野川村の小名谷津を示している。
(19)^ ﹃新編武蔵風土記稿﹄﹁原宿村﹂に﹁昔、相模国鎌倉からの奥州筋の往還があり、宿駅を設置したため、この名前がある。﹂﹁龍岩寺の伝承で、源義家の奥州下向の時、渋谷城に滞溜し龍岩寺に軍勢が到着したため、門前の坂を勢揃坂と呼ぶ﹂とある。
(20)^ ﹃新編武蔵風土記稿﹄﹁東大久保村﹂に﹁村の北側に奥州古街道があり、田畑の間を戸山の方へ進む﹂とある。
(21)^ ﹃新編武蔵風土記稿﹄﹁雜司ヶ谷村﹂に﹁村の中程に古奥州道がある﹂とある。
(22)^ ﹃新編武蔵風土記稿﹄﹁瀧野川村﹂に、﹁金剛寺より南の方、石神井川の対岸小高き所鎌倉古街道の跡という﹂とある。
(23)^ 豊島区高田1-18、35、36辺り。名称の由来は、練馬方面から江戸に行くのにここで1泊しなければならなかったため、と言われている。
(24)^ ﹃江戸名所図会﹄の﹁十二﹂に、﹁宿坂関の旧跡﹂の記述があり、金乗院と同じ絵に描かれている。
(25)^ 芳賀善次郎は、新田義貞の鎌倉攻め後の道と推定している。
(26)^ ﹃新編相模国風土記稿﹄小菅ヶ谷村鼬川の条に﹁鎌倉古道の係る所橋を架す新橋と唱ふ﹂と記述がある。
(27)^ ﹃新編武蔵風土記稿﹄の﹁荏田村﹂に﹁村の北の境に古の鎌倉海道のあとあり︵中略︶川和村のほうまでもその蹟のこり﹂とある。
(28)^ 武部健一は、﹁中路﹂は赤坂御用地を通る、としている。芳賀善次郎はそれを、江戸初期の旧街道であろう、としている。
(29)^ ﹃新編武蔵風土記稿﹄の﹁等々力村﹂に下野毛村から入り衾村に続く鎌倉街道の記述がある。芳賀善次郎は等々力を通る筋を中道の東回り本道としている。ただし芳賀善次郎は上野毛通を中道筋として推定しているが、﹃新編武蔵風土記稿﹄は等々力村字宿を当時驛家があった場所とし満願寺を字関にありとしているので両者は厳密には一致しない。
(30)^ 芳賀善次郎は二子ー渋谷間について矢倉沢往還ではなく、上野毛・上目黒経由のルートを本道としている
(31)^ 下道の、丸子近辺での多摩川渡河地点について、矢口の渡し、平間の渡し︵下丸子︵大田区︶・平間︵幸区・中原区︶︶、丸子の渡し︵中原区上丸子︶など説があり、変遷や複数の分岐もあったと考えられる
(32)^ 武部健一は六浦より木更津に渡るルートを示しているが、下道等の名称は明示していない。
(33)^ 極楽寺坂は、北条重時が極楽寺の建立を命じた正元元年︵1259︶頃切り開かれたと考えられている。
(34)^ 現藤沢市辻堂地区には、辻堂郷土史研究会による﹁京、鎌倉往還﹂の道標が設置されている。
(35)^ 浅間山、鷹巣山を通る尾根道。湯本から尾根筋に上る坂が湯坂と呼ばれる。
(36)^ 江戸時代東海道箱根宿の前身。
(37)^ 元山中には鎌倉時代から山中関所が設置されていた。
(38)^ 東京都国分寺市西元町など。
(39)^ 江戸時代の鎌倉街道とする説もある。
(40)^ 小野川などの水上交通との関係から求められた鎌倉街道下道の支線の一つと考えられる。
(41)^ ﹃新編武蔵風土記稿﹄﹁赤浜村﹂の﹁赤浜渡之図﹂には、"鎌倉古街道"が描かれている。
(一)^ 齋藤慎一 2010, p. 155﹃鎌倉往還とも呼ばれた﹄
(二)^ abc武部健一 2015, p. 86.
(三)^ ab燕石十種. 第一 南向茶話.
(四)^ abcde浅井建爾 2001, p. 92.
(五)^ abcdefgh武部健一 2015, p. 87.
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(121)^ 散歩の途中 鎌倉街道を歩く 上道その6狭山から嵐山.
(122)^ 芳賀善次郎 1978, p. 166 図中で県道坂戸入間線と表記されている現国道407号との交差点
(123)^ 歴史の散歩道 鎌倉古街道・梅岩寺コース.
(124)^ 街道コース 小平市.
(125)^ ab伝鎌倉街道︻市重要史跡︼.
(126)^ 鎌倉街道上道を歩く3.
(127)^ 芳賀善次郎 1978, p. 92.
(128)^ 七国山緑地保全地域.
(129)^ 多摩の歴史をたずねて 多摩よこやまの道と古街道群
(130)^ 三芳町 鎌倉街道.
(131)^ 深谷市指定文化財・史跡.
(132)^ 新編武蔵風土記稿 赤浜村.
(133)^ ab利根町 鎌倉街道.
(134)^ 利根町指定文化財.
(135)^ 鎌倉街道上道埼玉編 利根町の鎌倉街道.
(136)^ 高橋修 & 宇留野主税 2017, p. 193.
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(139)^ 楽苦我喜情報館 鎌倉街道.
(140)^ 箱根ナビ 湯坂路(鎌倉古道).
(141)^ 夫婦弥次喜多 道中絵巻 箱根湯坂路.
(142)^ 三島市公式ホームページ 鎌倉古道.
(143)^ 安城市 鎌倉街道及び花の瀧伝承地.
(144)^ 鎌倉街道伝承地︵祖母神社境内︶.
(145)^ 歴史の小径 鎌倉街道周辺.
(146)^ 豊明市指定文化財 二村山鎌倉街道.
(147)^ 名古屋市:鎌倉街道.