アテルイ生誕の地
大墓公阿弖流為または大墓公阿弖利為は、古代日本の律令国家から﹁水陸万頃にして、蝦虜、生を存す﹂[原1]、﹁賊奴の奥区なり﹂[原2]と呼ばれた、現在の衣川以北の北上川流域平野部となる磐井郡・江刺郡・胆沢郡一帯︵岩手県南部︶に勢力を持っていたと考えられている胆沢の蝦夷の族長である。
蝦夷社会が記録した史料は残っていないが、古代日本の律令国家が編纂した六国史が彼の名前を4度記録している。その内訳はいずれも旧字体で、延暦8年の巣伏の戦いの記事の中に﹁阿弖流爲﹂[原3]で1度、延暦21年の降伏の記事の中に﹁大墓公阿弖利爲﹂[原4][原5][原6]で2度、﹁大墓公﹂[原7]で1度となる。このことから本来の名前は﹁大墓公阿弖流爲﹂または﹁大墓公阿弖利爲﹂であったと樋口知志はいう。
アテルイ広場のシンボル像
姓については、朝廷から与えられた﹁公﹂の姓が付されている[原6]。坂上田村麻呂のもとに帰降した直後の記事のため、大墓公の姓は降服後に律令国家から賜与されたものとする見解がある。しかしながら結果として河内国椙山で斬られたことからみても、律令国家が帰服した人物にわざわざ姓を与えたとは考えがたく、国家に従った蝦夷族長が離反した際に姓を剥奪された例もいくつかみられるため、大墓公の姓は朝廷軍と戦う延暦8年より以前に律令国家から賜与されていたものと考えるのが妥当であるとの見解もある。いずれにせよ彼ないし大墓公一族が、かつては律令国家との間にかなり良好な政治的関係を築いていたことを示す。
名については、﹃続日本紀﹄は﹁阿弖流爲﹂、﹃日本後紀﹄に基づく﹃日本紀略﹄﹃類聚国史﹄は﹁阿弖利爲﹂と表記しているが、正式な漢字表記が﹁阿弖流爲﹂なのか﹁阿弖利爲﹂なのかは不明。また本人がどのように漢字表現していたのかも不明。高橋崇は、正史の表記も疑わしく、政府側が彼の名の音を耳にし適当に漢字表記したからこそ2通りの表記になったのではないかとしている。鈴木拓也は、いわゆる夷語の音訳の問題であり、実際の発音は﹁アテルイ﹂と﹁アテリイ﹂の中間であろうとしている。
姓は従来﹁大墓公﹂を﹁たものきみ﹂と読む説が有力であった。一方では﹁たも﹂に﹁大墓﹂の文字を当てるのは不自然であるとして、﹁大墓﹂を文字通り﹁大きな墓﹂の意味であると解釈することで、岩手県奥州市胆沢南都田にある角塚古墳の被葬者一族の系譜を引くものであると律令国家に認定されたことから大墓公の姓が与えられたのではないかとの推測から、﹁大墓公﹂を和語で﹁おおつかのきみ﹂﹁おおはかのきみ﹂などと読む見解が注目された。しかし﹁公﹂の姓は和銅3年4月21日︵ユリウス暦710年5月23日︶に蝦夷族長らに対して本拠地︵本貫地︶の地名に﹁君﹂のカバネを付した姓を与えて編戸に準ずる扱いを保障し[原8]、天平宝字3年10月8日︵ユリウス暦759年11月2日︶に諸姓の﹁君﹂字が﹁公﹂字に改められたことを受けて蝦夷族長らの﹁君﹂の姓も﹁公﹂の姓に換えられたことに由来するため[原9]、本来﹁大墓﹂の字で表されるものは蝦夷居住地域の地名であることから、﹁大墓公﹂の解釈に和語として意味を持つ訓読は避けるべきであるとの見解もある。
一般的に名は﹁阿弖流為﹂を﹁あてるい﹂、﹁阿弖利為﹂を﹁あてりい﹂と読み、従来﹁阿弖流為=アテルイ﹂とされている。
仮に﹁大墓公﹂を﹁たものきみ﹂と読む場合は大墓が表す地名の候補として、延暦八年の征夷のうち巣伏の戦いで蝦夷軍が朝廷軍に奇襲作戦を仕掛けた地点でもある奥州市水沢羽田町の田茂山を﹁大墓﹂の遺称地として﹁たも﹂と読む見解があり、現在は田茂山説を採用する研究者が最も多いと樋口は言う。他にも岩手県奥州市江刺に大萬館・小萬館と呼ばれる館跡があることに関連付けて﹁大墓公﹂は﹁大萬公﹂の誤記ではないする説もある。
また氏姓ではなく名前こそ地名に由来する可能性が高いとして、跡呂井が出生の地であったのではないかと関連付けられることもある。
しかしながら大墓公、阿弖流為、阿弖利為の解釈はいずれも推測の域を出ず、これらの説について高橋崇、は安易に類似の地名を求め、正史の転写次第での誤記とする考え方は危険であると述べている。
※日付は和暦による旧暦。西暦表記の部分はユリウス暦とする。
延暦八年の征夷がおこると、朝廷軍は延暦8年3月9日︵789年4月8日︶に多賀城から進軍を始め、延暦8年3月28日︵789年4月22日︶に﹁陸道﹂を進軍する2、3万人ほどの軍勢が衣川に軍営を置いた[原10]。征東将軍・紀古佐美は4月6日︵5月5日︶付の奏状で衣川に軍営を置いたことを長岡京へと報告するが、その後30日余りが経過しても戦況報告がないことを怪しんだ桓武天皇は延暦8年5月12日︵789年6月9日︶に衣川営に長期間逗留している理由と、蝦夷側の消息を報告せよと勅を発した[原10]。
衣川営での逗留を責める桓武天皇からの勅が陸奥へと届けられたと思われる延暦8年5月19日︵789年6月16日︶頃、古佐美は進軍するよう命じた。5月下旬から末頃、中・後軍より各2000人ずつ選抜された計4000人の軍兵が、衣川営を出発後、北上川本流を渡河して東岸に沿って北進、アテルイの居宅やや手前の地点で蝦夷軍300人程と交戦した[原3]。
比レ至二賊帥夷阿弖流為之居一、有二賊徒三百許人一、迎逢相戦。……
賊(ぞく)帥(すい)夷(えみしの)阿(あ)弖(て)流(る)為(ゐ)が居(をるところ)に至(いた)る比(ころほひ)、賊(ぞく)徒(と)三(さむ)百(びゃく)許(にん)人(ばかり)有りて迎(むか)へ逢(あ)ひて相(あひ)戦(たたか)ふ。 — ﹃続日本紀﹄巻第四十,延暦八年六月甲戌︵三日︶条、[15][16]
蝦夷軍は北へと退却したため、朝廷軍はこれを追いつつ途上の村々を焼き払いながら北上し、前軍との合流地点であったらしい巣伏村を目指した。しかし前方から800人ほどの蝦夷軍が現れて朝廷軍を押し戻すと、東の山上に潜んでいた400人ほどの蝦夷軍が朝廷軍の後ろへとまわって退路を絶ち、川と山に挟まれた狭い場所に追い込まれた朝廷軍は蝦夷軍に翻弄されて総崩れとなった。
朝廷軍の損害は戦闘による死者25人、矢疵を負った負傷者245人、溺死者1036人、裸で泳ぎ生還した者1257人と、胆沢の蝦夷軍は朝廷に対して驚異的な惨敗を与えた。戦死者は陸奥国磐城郡の別将・丈部善理︵死後、外従七位下から外従五位下︶、進士・高田道成、陸奥国会津郡の人と思われる会津 壯麻呂・安宿戸吉足・大伴五百継達。﹃続日本紀﹄には﹁賊帥夷阿弖流爲が居︵おるところ︶に至る比︵ころあい︶﹂とのみあり[原3]、胆沢の蝦夷軍はアテルイの居宅やや手前で朝廷軍と交戦しているが、アテルイが蝦夷軍を指揮していたのかまでは不明。高橋崇は蝦夷側の抵抗戦線の中心人物であったといってよいだろうとしている。
延暦11年(792年)斯波村︵志波村︶の夷・胆沢公阿奴志己、王化を申し出るも放還。
延暦11年(792年)7月25日爾散南公阿波蘇王化と入朝を希望、11月宇漢米公隠賀と共に長岡京へ入京、爵第一等を授けられる。
延暦13年︵794年︶6月13日征夷副将軍坂上田村麻呂、百済王俊哲達が蝦夷を征す。
延暦13年︵794年︶10月28日征夷大将軍大伴弟麻呂﹁斬首四百五十七首級、捕虜百五十人、獲馬八十五疋、焼落七十五処﹂と戦勝報告、鴨・松尾神社へ神階を加階、帝は平安京遷都詔をのべた。
延暦20年10月28日︵801年12月7日︶、平安京へと凱旋した征夷大将軍・坂上田村麻呂が桓武天皇に節刀を返上して延暦二十年の征夷が終結した。
延暦21年1月9日︵802年2月14日︶、延暦二十年の征夷で平定された陸奥国胆沢城に胆沢城を造営するために田村麻呂が胆沢の地へと特派されてきた[原11]。
延暦21年1月11日︵802年2月16日︶、駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野の10国に対して国中の浪人4000人を陸奥国胆沢城の柵戸として移住させることが勅によって命じられた[原12]。胆沢郡下野郷・上総郷、江刺郡信濃郷・甲斐郷という地名は移民の出身地を示している。胆沢城造営についての史料は僅少で、造営開始の時期や完成した時期などは不明である。
延暦21年4月15日︵802年5月19日︶、陸奥国にいた田村麻呂から、大墓公阿弖利爲と盤具公母禮が種類500余人を率いて降伏した報告が平安京に届けられた[原4][原5][注釈1]。
夏四月庚子 造陸奧國膽澤城使 田村麻呂等言 夷大墓公阿弖利為 盤具公母禮等率二種類五百餘人一降。 — 日本後紀 延曆廿一年、[23]
〇夏四月庚(十五)子(日) 造陸奧国胆(いさ)沢(わ)城(じょ)使(うし) 陸奧出羽按(あ)察(ぜ)使(ち)従三位坂上大宿禰田村麻呂らが、﹁夷(えみし)大(おお)墓(もの)公(きみ)阿(あ)弖(て)利(り)為(い) ・盤(いわ)具(ぐの)公(きみ)母(も)礼(れ)らが五百余人の仲間を率いて降服しました﹂と言上してきた。 — 日本後紀 延曆廿一年、[24]
アテルイらの根拠地である胆沢はすでに征服されており、北方の蝦夷の首長にはすでに服属していた者もいたため、アテルイらは進退きわまっていたものと思われる。
田村麻呂へ並び従い盤具公と共に平安京へと向かった大墓公は、延暦21年7月10日︵802年8月11日︶に平安京に着いた[原7][25]
[26]
[27]
。
甲子、造陸奧国膽沢城使田村麿来 夷大墓公二人並従 — 日本紀略 延曆廿一年、[28]
〇甲(十)子(日) 造陸奧国胆沢城使坂上田村麻呂が帰京した。夷大墓公阿弖利為と盤具公母礼ら二人を従えていた。 — 日本後紀 延曆廿一年、[29][30]
交戦中捕獲した場合戦勝の証拠として都へ進上する原則を適用したものと考えられている[26]。
上記に関連して延暦217月25日︵802年8月26日︶には平安京で百官が桓武天皇に上表を奉って、蝦夷平定を祝賀している[原13]。
延暦21年8月13日︵802年9月13日︶、大墓公阿弖利爲と盤具公母禮の2虜は奥地の賊首であることを理由として斬られた。
丁酉斬二 夷大墓公阿弖利為 盤具公母禮等一、 此二虜者並奧地之賊首也、斬二二虜一時、将軍等申云、此度任レ願返入招二其賊類一、而公卿執論云野性獸心反覆無レ定、儻縁二朝威一、獲二此梟帥一、縱依二申請一、放二還奧地一、所謂養レ虎遺レ患也、即捉二兩虜一、斬二於河内國□山一、 — 日本後紀 延曆廿一年、[32][33]
夷大墓公阿弖利((流))為・盤((磐カ))具公母礼等を斬す。此の二虜(りょ)は、並びに奥地の賊(ぞく)首(しゅ)なり。二虜を斬する時、将軍等申して云へらく、﹁此の度は願(ねがい)に任せて返(へん)入(にゅう)せしめ、其の賊類を招かむ﹂とまうす。而るに公卿執論して云へらく、﹁野(やせ)性(い)獸(じゅ)心(うしん)にして、反覆定(さだめ)无(な)し。儻(たまた)ま朝(ちょ)威(うい)に縁(よ)りて此の梟(きょ)帥(うすい)を獲(とら)ふ。縱(も)し申請に依りて奥地に放(ほう)還(かん)すれば、所(いわ)謂(ゆる)虎を養ひて患(うれい)を遺すならむ﹂といへり。即ち両虜を捉えて、河内国の……山(やま)に斬す。︵﹃日本紀略﹄延暦二十一年八月丁酉︹十三日︺条︶ — 樋口知志、
公卿会議で田村麻呂が﹁この度は願いに任せて返入せしめ、其の賊類を招かん﹂と大墓公阿弖利爲と盤具公母禮を故郷に返して彼らに現地を治めさせるのが得策であると主張したが、公卿たちは執論して﹁野生獣心にして、反復定まりなし。たまたま朝威に縁りてこの梟帥を獲たり。もし申請に依り、奥地に放還すれば、いわゆる虎を養いて患いを残すなり﹂と田村麻呂の意見が受け容れられることはなかった。そのため大墓公阿弖利爲と盤具公母禮は奥地の賊首として捉えられ、河内国□山で斬られた︵アテルイ終焉の地節も参照︶[原6]。なお、史料がごくわずかで推測の域をでないが、朝威を重んじて軍事︵蝦夷征討︶の正当化にこだわった桓武天皇の意思によって阿弖利爲らを斬る決定がされたとする説もある[25]。
アテルイの死後、胆沢や周辺地域でアテルイと母禮が殺されたことに報復する弔い合戦などの反乱が発生した形跡は一切ない。
弘仁5年12月1日︵815年1月14日︶、嵯峨天皇は﹁既に皇化に馴れて、深く以て恥となす。宜しく早く告知して、夷俘と号すること莫かるべし。今より以後、官位に随ひて称せ。若し官位無ければ、即ち姓名を称せ﹂と蝦夷に対して夷俘と蔑称することを禁止する勅を発し、ここに征夷の時代が終焉した[原14]。
古代の東北で暮らしていた蝦夷︵えみし︶については①蝦夷=アイヌ説と②蝦夷=辺民説の論争が続いており、いまだに決着がついていない。後者は﹁蝦夷=日本人説﹂あるいは﹁蝦夷=和人説﹂とも呼ばれる。
﹁蝦夷=アイヌ説﹂は、以下のような論拠で﹁彼らはアイヌ人か、控え目にいってアイヌ語を使う人々といってよい﹂と主張する。
▽﹃日本書紀﹄の斉明天皇5年︵659年︶の条によれば、この年の遣唐使が蝦夷の男女2人を連れて渡航し、唐の高宗に謁見した。遣唐使の渡航日誌によれば、高宗との間で概略、次のような問答が交わされた。﹁蝦夷の国はどの方角にあるのか﹂﹁東北です﹂﹁蝦夷は幾種あるのか﹂﹁3種あります。遠くにいる者は都加留︵つかる︶、次の者は麁︵あら︶蝦夷、近くにいる者を熟︵にぎ︶蝦夷と名付けています﹂。この謁見については中国側の文献にも記録が残っている。随行した蝦夷は、人の頭にひょうたんを載せ、それを次々に弓矢で射抜いて高宗を驚かせたという[38]。
▽東北の蝦夷と畿内の朝廷勢力は宝亀5年︵774年︶から弘仁2年︵811年︶まで、足かけ38年にわたって激しい戦争を繰り広げたが、畿内勢力は蝦夷との交渉に訳語︵おさ︶という通訳︵官職︶を必要とした。史書は蝦夷の言葉を﹁夷語︵いご︶﹂と記している[39]。
▽言語学者の金田一京助やアイヌ語地名研究者の山田秀三の実証的な研究によって、東北とりわけ東北北部にはアイヌ語源と考えられる地名が多数残っていることが判明した[40]。これは、東北北部には日本語を話す人々とは異なる人々が長く暮らしていたことを示している。
一方の﹁蝦夷=日本人説﹂は、戦後の考古学による知見を基に﹁蝦夷=アイヌ説﹂を否定する。その主な根拠は次の通りである。
▽昭和28年︵1953年︶に岩手県水沢市︵︵現奥州市︶の常盤︵ときわ︶遺跡で籾︵もみ︶の痕︵あと︶が付いた弥生土器が発見された。昭和33年︵1958年︶には青森県南津軽郡の垂柳︵たれやなぎ︶遺跡で弥生時代の水田跡が発掘された。これらは東北北部でも水田稲作が行われたことを示している[41]。この時代、アイヌ系の人々は狩猟採集生活をしていたとされており、これら水田稲作の担い手とは考えられない。
▽岩手県胆沢︵いさわ︶町︵現奥州市︶に角塚︵つのづか︶古墳という前方後円墳がある。日本最北の前方後円墳であり、国の史跡に指定されている。全長45メートル、高さ4メートル余りの小ぶりの古墳だが、出土した埴輪などから5世紀後半の築造と推定されている[42]。
▽胆沢は、蝦夷と畿内勢力との38年戦争の際、蝦夷の指導者アテルイ︵阿弖流為︶が根拠地としたところだが、その戦争の300年ほど前に前方後円墳が造られていたことになる。前方後円墳は畿内の朝廷が支配する地域で築造されたものであり、胆沢も5世紀後半には畿内勢力の影響下にあったことを示している。
以上のように﹁蝦夷=アイヌ説﹂と﹁蝦夷=日本人説﹂にはそれぞれの論拠があり、決着はついていない。この論争は、古代の東北・北海道を中心に使われていた﹁蕨手刀︵わらびてとう︶﹂をどう捉えるかという問題もからみ、複雑な展開を見せている。
﹁□山﹂については、テキストとして広く利用されてきた新訂増補国史大系﹃日本紀略﹄では﹁杜山﹂、旧輯国史大系﹃日本紀略﹄および増補六国史﹃日本後紀﹄︵逸文︶では﹁植山﹂、鴨祐之﹃日本逸史﹄では﹁椙山﹂とあり、かねてより異漢字表記に異同があることが知られていた。﹁河内国﹂の後に続く地名は、神英雄が写本を調査した結果、主に以下のように分類された[45]。
﹁杴山﹂
名古屋市蓬左文庫本︵江戸時代初期︶、国立公文書館林家本︵江戸時代中期?︶
﹁植山﹂
宮内庁書陵部谷森本(谷-一九五・江戸初期)・谷森本(谷-三四〇・江戸中期)、宮内庁書陵部久邇宮文庫本︵江戸時代末期︶、無窮会神習文庫菊屋幸三郎校本︵江戸時代後期?︶
﹁︵欠︶+山﹂
宮内庁書陵部松岡本・日本紀類︵江戸時代中期︶
﹁椙山﹂
宮内庁書陵部編年紀略︵江戸時代末期︶・日本逸史︵宝永7年︵1710年︶︶、神宮文庫天明四年奉納本︵江戸時代中期︶・三冊本︵江戸時代末?︶、無窮会神習文庫大覚寺本︵江戸時代後期?︶、国立公文書館内務省地理局本︵江戸時代後期?︶、東洋文庫東洋文庫本︵文政7年︶
﹁榲山﹂
無窮会神習文庫会田家蔵書本︵江戸時代後期?︶
﹁木山﹂
神宮文庫明治写
神は﹃日本紀略﹄の写本を調査した結果、新訂増補国史大系が﹁杜山﹂としているのは、宮内庁書陵部所蔵久邇宮文庫本の﹁植﹂のくずし字を読み誤ったもので、﹁杜山﹂と記す写本が存在しないことを明らかにした[46]。また調査した30本程度ある﹃日本紀略﹄の写本のうち、判読不能なものもあるが24本を閲覧調査して、おおむね﹁植山﹂と﹁椙山﹂に分けるとこができた[注釈5][46]。また﹁植山﹂を﹁椙山﹂へと訂正した写本が複数あること、﹁植山﹂と記された4例の写本はすべて興福寺門跡一条院の伝本に関連した同一系統であることに対して、﹁椙山﹂と記された10例の写本は原本を一つの系統に求めることが困難であるため、﹃日本紀略﹄の原本に掲載されていた本来の文字は﹁椙山﹂であると結論した[46]。
歴史学者西本昌弘は、杜山を牡山の誤写とみなし山埼橋南詰(現在の京都府八幡市橋本から大阪府枚方市楠葉中之芝付近︶の牡山︵男山・京都府八幡市[47]︶をアテルイの処刑地と推定している。
今泉隆雄は、神の述べる通り﹁杜山﹂は誤りだが、植山説と椙山説のどちらが正しいかはわからないとしている[49]。
宇山説・杉山説ともに有力な批判もあり、現在、アテルイが斬られた地は河内国のどこかであること以外は不詳である。
河内国植山という記述から、主に﹁ウエヤマ﹂という地名が旧河内国内において他には見当たらないという理由によって、枚方市北部の旧宇山村︵1966年宇山町・宇山東町・養父東町・養父西町・養父元町・養父丘1~2丁目・東牧野町・牧野下島町・牧野本町1~2丁目、1968年招提田近3丁目・東山1~2丁目、1971年牧野北町、1973年楠葉面取町となる※他の地区と混ぜ合せ区分けされている[50]︶と推定する説がある。旧交野郡宇山村は元和元年︵1615年︶に上山村から改称したとされる。
1900年、歴史学者吉田東伍の著書﹃大日本地名辞書﹄は植山は宇山と記述している[51]。吉田は﹃日本紀略﹄に掲載されているアテルイ処刑地だけでなく埋葬地についても旧菅原村藤坂の鬼墓と記載している[51]。
鬼墓は関祖衡・並河誠所が企画し、関の死後、並河を中心として編纂された﹃五畿内志﹄等を根拠に﹁伝王仁博士墓﹂とされている︵王仁#遺跡と顕彰運動参照︶[52]。
また発掘調査の結果、宇山の丘は古墳だったことが判明している[53]
[54]
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﹃大日本地名辞書﹄はその後に出版された地名辞書類や専門書などに影響を与え、﹃大阪府全志﹄[55]︵1922年︶、﹃枚方市史﹄[56]︵1951年︶、﹃角川日本地名大辞典﹄27巻[57]︵1983年︶、﹃日本歴史地名大系﹄第28巻[58]︵1986年︶などでも河内国植山は宇山であると書かれ続けている。
歴史学者今井啓一は百済王祖廟に近いここ宇山で斬ったのではなかろうかと述べているいる。
一方、枚方市は﹁宇山=植山説が成立するためには、(a)河内国杜山や、(b)河内国椙山よりも、(c)河内国植山の方が正しいことを論証する必要がある[60]﹂と主張、鈴木拓也は宇山町をアテルイ終焉の地とするには﹁植山﹂が正しい漢字表記であること、﹁植山﹂と﹁上山﹂が結びつくことを証明しなければならないと指摘している。
河内国椙山という記述からは、スギヤマという地名が旧河内国内において他にはないため枚方市東部の「杉」(旧交野郡杉村)と推定されている[61]。
しかし「河内国□山」は「村」や「郷」の名が付かないことから地名としての□山ではなく山そのもの指し、郡の名が付されていないことから国の名だけでそれとわかる著名な山であったものと考えられるため疑問が残る。
河内国杜山という記述は枚方市や[62]、牡山すなわち男山[63][47]に比定した説がある。西本昌弘は杜山は牡山で延暦4年︵758年︶藤原種継暗殺事件実行犯牡鹿木積麻呂が処刑された﹁山埼橋︵やまざきばし︶南の河の頭﹂であろうと推定している。山埼橋の南は男山である。現在、男山は京都府八幡市の鳩ヶ峰とその周辺地域をさすが、山城国と河内国の境界に位置し﹁河内国交野雄徳山﹂と表記する例もある[原15]。
﹁杜山﹂は﹁牡(おと)山(こやま)﹂︵男山[47]︶の誤写であろう。牡山烽(とぶ)火(ひ)は山(やま)城(しろ)・河内両国の境界にあったが︵﹃日本後紀﹄延暦十五︵七九六︶年九月一日条︶、七八五︵延暦四︶年には藤原種(たね)継(つぐ)暗殺事件の実行犯が﹁山(やま)埼(ざき)橋(ばし)南(みなみの)河(かと)頭(う)で斬られている︵﹃日本紀略﹄延暦四年九月二十四日条︶。山埼橋南詰の牡山は平安初期の刑場だったのであろう。 — 西本昌弘、[64]
牡山烽火。無レ所二相當一。非常之備。不レ可二蹔闕一。宜㆘山城河内兩國。相共量二定便處一置㆗彼烽燧㆖。 — 日本後記 延暦十五年九月一日条、[65][66]
*牡(おと)山(こやま)[67]の*烽(とぶ)火(ひ)[68]、相(あい)当(あた)る所無し。非常の備(そなえ)、蹔(しばら)くも闕(か)く可(べ)からず。宜しく山城・河内両国、相(あい)共に便(びん)処(しょ)を量り定め、彼(か)の*烽(ほう)燧(すい)[68]を置くべし — 日本後記 延暦十五年九月一日条、[69]
今泉隆雄は牡鹿木積麻呂らが処刑された山埼橋の南は交通の要衝であり、人の会集するところのため、ここでの死刑執行は律令が規定する東西市でのそれと同じ意味をもったと指摘している。
杉村・宇山村がある現在の枚方市周辺は桓武天皇がたびたび遊猟をおこなった交野の地で、桓武天皇の外戚で陸奥鎮守将軍等を務めた百済王氏の本拠地付近となる。旧杉村・旧宇山村がある枚方市には明確にいつからかは不明であるがかつて天皇が所領する﹁禁野﹂があり、一般人の鷹狩は禁じられていた。朝廷が自ら禁野を穢すとは考えられないため杉・宇山を比定地とすることに対して批判もある[70][71]。
馬部隆弘は、宮内庁書陵部﹁満基公記 合綴 河内国禁野交野供御所定文 道平公記抄出﹂にて記された禁野の大まかな地理的記述[72]からその範囲を推定して宇山説を否定する見解を示している[70][73]。
……禁野内に死人が放置されることがないよう日々の巡回警護を﹁野守専当﹂の職分として定めていたり、忌日にあたっている者が供御所に勝手に墓をつくることを禁じる条文がみえる。…… 一、御野内にて穢駈鷹駈の外ハ曽不可殺生者也 鷹の餌を獲るための狩り︵穢駈︶と鷹を使っての狩り︵鷹駈︶以外の殺生は禁じるというものである。……禁野の中心やや西寄りに位置する宇山でのアテルイ処刑など毛頭考えられない。 — 馬部隆弘、[70][73]
一方では、室町時代の禁野の範囲とアテルイが処刑された平安時代初期・西暦802年の禁野の範囲や禁野の定義、穢れについての概念が合致していたかどうかは定かではなく[74]、また旧宇山村他は京都府と大阪府の国境線上の山地に飛び地があり墓地等ももうけられ[75][76]、中世墓地も出土している[77](この地域は両墓制がみられる[78])。そのためアテルイが斬られた802年の後の大同3年︵808年︶河内国交野雄徳山︵男山︶[47][63]での埋葬が禁じられているが、宇山村東山飛地は男山の裾野にあたるとの見解もある。
禁レ葬二埋於河内國交野雄徳山一。以レ採㆘造二供御器一之土㆖也。 — 類聚國史 大同三年正月廿八日条、[79]
河(かわ)内(ちの)国(くに)の交(かた)野(の)の*雄(おと)徳(こや)山(ま)[67][47][63]に葬(そう)埋(まい)するを禁(きん)ず。供(く)御(ご)の器(うつわ)を造るの以てなり。 — 日本後記 大同三年正月廿八日条、[80]
通称「首塚」と伝阿弖流為・母禮之塚の碑(牧野公園)
大阪府枚方市片埜神社隣の牧野公園︵片埜神社の旧社地︶に﹁伝 阿弖流為 母禮 之塚﹂碑がある。顕彰碑が整備される以前は﹁首塚﹂と称される塚状の高まりであった[81][82][83]。遺跡地図ではその場所に牧野阪古墳が記され[84][85][86]、その隣に西寺の瓦が出土した牧野阪瓦窯跡が記されている。周辺一帯は牧野阪遺跡と呼ばれている。
枚方市史第一巻﹁阪の古墳﹂によると[87]昭和28年︵1953年︶台風13号による被害復旧のため破壊された。発掘はされていないので小丘が確実に古墳であったのかどうかは不確定で、その日時や詳しい場所や残存物処理方法も未記載であるが、1954年当時大阪歯科大学の学生であった宮川徏が﹁枚方市字阪の一古墳概報[88]﹂を記している。
昭和28年秋近畿地方を襲った13號台風の被害復舊工事のため、建設省のもとに本古墳一帯が土砂採取地に當てられた。そこで直に調査にかゝったが、パワーショベルによる機械化採土のため、主体部遺構など充分調査しえないまゝに破壊されてしまった……ほゞ高さ3~4m径15m前後の圓墳で……恐らく粘土や砂礫などの棺外設備を設けず、たゞ木棺をそのまゝ直葬した様な最も簡単な埋葬形式のものと考えたい。遺物としては圓筒埴輪の小片のみであるが、古墳の年代推定に手がかりを興える貴重な資料となった。……そしてこれらの點より本古墳の年代も、5世紀とは下らないと推定される。なお、御援助下さった北野耕平、生澤英太郎の兩氏に感謝したい。 — 宮川徒、[88]
令和元年︵2019年︶馬部隆弘は1954年当時の古墳の所在地を宮川徏へ尋ね、﹁首塚﹂のある牧野公園西側敷地ではなく道路を挟んだ東側敷地であるとの回答を得ている[89]。
2017年10月馬部隆弘は枚方市史資料室が所蔵する枚方市広報課旧蔵アルバムの昭和27年(1952年)造成直前と造成直後の伝阿弖流為母禮之塚の碑周辺から片埜神社・清岸寺方向を見渡した写真を掲載し、「造成前の牧野公園はもともと片埜神社境内の荒れ地で、塚らしいものは見あたらない」と報告した[90]。
牧野阪二丁目の伝阿弖流為母禮之塚の碑の土地[91]と2020年宮川徏が「枚方市字阪の一古墳概報」の古墳の場所であると指摘した宇山町の土地[92]が複数個人から枚方市へ売却されたのは土地登記簿によると1954年3月31日である。
1948年の航空写真[81]や1945~1950年頃の航空写真[93]では「伝 阿弖流為 母禮 之塚」碑がある牧野公園は森であるが、1956年[82],1961年[83],1961~1964年頃[94]の航空写真では何本かの木々を残して地面が剥き出しになっている様子が撮影されている。
伝承や書籍の掲載は複数種類ある。
(一)1900年吉田東伍﹃大日本地名辞書﹄のアテルイが斬られた宇山と葬られた藤阪の鬼墓︵現・伝王仁墓︶[51]
(二)1979年河北新報報道の﹁蝦夷の統領が処刑された場所﹂である宇山町[注釈6]の古塚(宇山二号墳)と﹁アテルイ﹂埋葬場所と思われはじめた﹁戦いに負けた大物武将の首塚﹂と伝えられてきた牧野阪の牧野公園内のマウンド︵片埜神社旧境内︶[95]
(三)1988年地域文化誌まんだ等で掲載されたアテルイの胴体を埋葬した胴塚である宇山東町の宇山一号墳と、首を埋葬した首塚︵牧野阪の牧野公園内のマウンド︶[96]
古塚(宇山二号墳)が処刑地かどうかは発掘では判定できないが、宇山一号墳・二号墳は発掘の結果平安時代以前の古墳と判明したため、古墳の上から埋葬した等でなければ、1988年地域文化誌まんだが掲載したアテルイ胴体が葬られた胴塚(宇山一号墳)という伝承は史実ではないと判明したことになる。宇山一号墳から江戸時代の祭祀跡が出土したため、村人が被葬者をアテルイと考えたのではないかと瀬川は推定している[97]が、胴が埋葬された胴塚というまんだの記載と河北新報が報道した地元の﹁蝦夷の統領が処刑された場所﹂という古塚(宇山二号墳)の伝承との関係性は未知である。
1988年、どの地域の伝承かは明記されていないが、瀬川芳則は胴塚のアテルイの胴体が埋葬された伝承は寛文四年︵一六六四︶﹁悪路王首像﹂鹿島神宮奉納をきっかけに誕生したのではないかと推定している。悪路王や高丸は伝承民話にてアテルイと同一視される場合がある。
河北新報社で私が案内された首像の台座には、﹁伝(でん)蝦(えぞ)夷(おう)王(たも)大(の)墓(き)公(み)阿弖流為首像﹂と刻んだプレートがあった。この首像は奥州住人水谷加兵衛が、寛文四年︵一六六四︶に﹁悪路王首像﹂として鹿島神宮に奉納した首像の複製品であるが、……河北新報社主であり祭主でもあった一力一夫氏…﹁…母礼ともども斬刑に遭ったのであります。……公の首級が遥か千里を飛んで楽土を潤す北上河畔に帰ったという言い伝えが、やり場のない往時の人々の心情を物語っております。﹂︵社主祭文︶
ドウ塚を阿弖流為の胴塚とする俗説は、どうやら相当新しい時代に生み出されたように思える。さきの河北新報の祭文にもあるように、蝦夷王大墓公阿弖流為に対する無念の気持は、斬首された首級が遥か千里を飛び、懐かしい故郷の北上河畔にもどってきたという伝説を生むにいたるのである。鹿島神宮に首像が奉納された一七世紀には、それはできあがっていた伝説であるかも知れない。あるいはこの首像奉納がきっかけとなって、こうした話が生みだされたのかもしれない。 そしてこの首級帰郷の伝説をよく知る者によって、首の無い遺骸を葬る胴塚の発想がなされ、さらに宇山というかっ好の地にかの俗説を定着させたものであろう。 — 瀬川芳則、[96]
2020年、馬部隆弘は蝦夷が殺害されたという﹁伝承﹂を話す枚方市民は存在していたが、この﹁伝承﹂は1900年﹃大日本地名辞書﹄から派生したものだと思い、伝承とは先祖代々伝わってきた類のものであると考え、この﹁伝承﹂は伝承ではないと判断し、論文へ書かなかったと述べた。
アテルイが当地近くで殺害されたという言説は、明治33年(1900)に刊行された吉田東伍氏の著書に始まり、昭和47年(1972)に刊行された﹃枚方市史﹄などにも引用されている。これらは、﹃日本紀略﹄の解釈から提示された仮説・学説で、当然ながら伝承ではない。
一方で、枚方市には蝦夷が殺害されたという﹁伝承﹂があると熱心に主張する方々もたしかに何人もいた。しかし、蝦夷が殺害されたという﹁伝承﹂は、どう聞いても先祖代々伝わってきた類のものではなく、明らかに上記の学説が発端となったものばかりであった。このようなものは到底伝承として扱えなかった。また、この程度のことを説明する必要もないというのが当時の筆者の判断である。 — 馬部隆弘、[89]
2006年、枚方市で勤務していた馬部隆弘は﹃大日本地名辞書﹄︵1900年︶の﹁アテルイ宇山で斬られ藤阪で埋葬される﹂という記載は一般には広がらなかったと述べていた。
一 アテルイ処刑地宇山説と﹁首塚﹂の関係……この説の初見は、明治三三年(一九〇〇)に出版の始まる吉田東伍﹃大日本地名辞書﹄である。……﹃大阪府全志﹄[98]や旧﹃枚方市史﹄[99]にもこの記述は踏襲されるが、この説が一般に広まることはなかったようで、昭和末期に至るまで管見の限りガイドブックなどの一般書への掲載は確認できない。……明治以降アテルイ処刑地を宇山とする説がある一方で、地元では一切その伝承がなく、反面一九八〇前後になってアテルイの﹁首塚﹂と称されるものが宇山(近世宇山村)内ではなく隣接する牧野阪(近世坂村)に突如として生まれたことからも、これは現代に創造された史蹟由緒といってよい。 — 馬部隆弘、[100][101]
明治33年(1900年)吉田東伍﹃大日本地名辞書﹄出版
[102]
宇山……延暦二十一年坂上田村麿蝦夷二酋を河内植山に斬ると云ふは此なるべし……乃斬於河内植山。〇宇山の東一里菅原村大字藤坂に鬼墓あり夷酋の墳歟。……津田……於爾墓オニツカ〇河内志云、王仁墓、在河内國交野郡藤坂村東北墓谷、今稱於爾墓。按ずるに此は百濟博士王仁にや、又蝦夷酋を植山に斬りたれば、是其墓にあらずや。 — 吉田東伍,大日本地名辞書(1900年(初版),1907年(第二版),1913年(第三版),1937年(再版),1969年(増補版),1992年(新装版))、[51]
明治40年(1907年)﹃大日本地名辞書﹄第二版出版[102]
大正2年(1913年)﹃大日本地名辞書﹄第三版出版[102]
大正11年(1922年)﹃大阪府全志﹄出版[55]
舊名の上山は植山ならんとの説あり、植山は大日本史坂上田村麻呂の傳に﹁延暦二十一年……乃斬於河内植山﹂と見ゆる植山是れなり — 大阪府全志、[55]
昭和10年(1935年) 歴史学者の熊田葦城はアテルイ終焉の地は宇山、埋葬場所は藤阪の鬼墓︵伝王仁墓︶と記す。
夷酋大墓公阿弖利為……河内國植山とは、北河内郡牧野村大字宇山の事なるべし宇山の東一里、菅原村大字藤坂に、鬼塚あり、夷酋の首を斬りたるは、此處なるべしと云ふ、さすれば、大墓なるべし、今、之れを王仁の墓と稱す — 熊田葦城(1935)、[103]
昭和12年(1937年)﹃大日本地名辞書﹄再版[102]
昭和26年(1951年)﹃枚方市史﹄出版[56]
大字宇山 旧交野郡宇山村で牧ノ郷に属して古くは上山村と称したが、元和元年宇山村と称する様になった。延暦二十一年征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷の二酋長を率いて京師に帰り、次いで之を斬った河内植山とは当地の事と考えられる — 枚方市史(1951)、[56]
昭和40年(1965年)歴史学者今井啓一﹃百済王敬福﹄出版。文武天皇4年(700年)百済王遠宝初代常陸守就任、天平21年(749年)陸奥守・百済王敬福の東大寺大仏への黄金調達等の百済王氏代々の東北地方への尽力、宝亀11年(780年)鎮守副将軍就任から延暦14年(795年)死去するまでの百済王俊哲の偉功への敬意から、かつて百済王俊哲の副将であった坂上田村麻呂が連れ帰ったアテルイとモレを百済王氏の本居近くで斬ったのではないかとしている。
当時、陸奥守であった百済王敬福が世上、坂上田村麻呂の蝦夷経営の偉功を称し、また事実この大事業も田村麻呂によって一応、成功したとすべきではあるが、はじめ田村麻呂は鎮守将軍百済王俊哲の副将だった者である
……大字宇山︵関西医科大学の西北︶がある。旧くは上山村と称し、元和年間に宇山の文字に改めたようであるが、旧名の上山(うえやま)は植山であろう……先之、百済王氏の氏人の多くが蝦夷の鎮撫・経略に力を尽し、殊に後述するように百済王俊哲は光仁宝亀以来、屢次、然も長期に亘って蝦夷の懐柔・帰服に功をたて、俊哲自身はすでに延暦一四・七辛未、陸奥鎮守将軍従四位で卒しているけれども、曽ってはその幕僚であり、ともに勤労した坂上田村麻呂としては、先任者たる百済王祖廟(いま枚方市に入る旧中宮、通称百済野の丘陵上に旧村社百済王神社があり、これに隣して百済寺阯があり、この辺一帯は敬福以来、百済王氏の本居であった)に蝦夷経路の次第を報告し、その後廟議のままに心ならずも二酋を百済王廟に近いここ宇山に斬ったのではなかろうか。 — 今井啓一、[104]
昭和42年︵1967年︶和歌森太郎博士考証の学習漫画日本の歴史3貴族の黄金時代平安時代︵集英社︶出版、日本紀略では夷大墓公阿弖利為と盤具公母礼達が五百余人の仲間と共に降伏したと書かれているが、漫画では坂上田村麻呂の朝廷軍が山側と河側からアテルイ軍を挟み撃ちにして蝦夷の城をおとし、自害しようとするアテルイを田村麻呂が止めて降伏させる物語として描かれている︵続日本紀で書かれた坂上田村麻呂が東北へ派遣される前の巣伏の戦いで川と山に挟まれ追いつめられ大敗したのは朝廷軍側である︶。貴族たちは﹁アテルイほどの男だいちどたすけてもまた勢力をもりかえずぞ﹂と河内国での処刑を実行、アテルイは﹁田村麻呂につたえてくれもういちどあいたかったと﹂とのべ、田村麻呂は﹁蝦夷に生まれたばかりにかわいそうなアテルイ!﹂と手をあわせている[105]。
昭和44年(1969年)増補版﹃大日本地名辞書﹄出版[102]
昭和45年︵1970年︶花巻文化財保護委員山本賢三はアテルイは宇山で斬られ藤阪の鬼墓︵現・伝王仁墓︶で葬られたという吉田東伍の記録を支持する。
吉田東伍博士は大日本地名辞書に北河内郡牧野村に大字宇山という所があって、宇山の東一里菅原村大字藤坂に鬼墓あり、夷酋の墓かとして、延暦二十一年坂上田村麻呂蝦夷二酋を河内国植山に斬ると云うは此なるべしとし、大日本史の文を引いているが、今近くに宇山という所があるのを見ると植山とあるのが、正しかろうと思われるし、これは筆者は昭和八年六月末、実地に見て知っており、その当時も土地の人は鬼墓と呼んでいることを知ったが、現今は百済から来朝した博士王仁の墓として歴史教科書に写真を掲げているものもあるが、形式からしても王仁の時代に当たるものではなく明かに吉田東伍博士の説の如きものに相違ないと思われる。
高さ一メートルにも足りず、直径一メートル位の有るか無きかのもので、到底古墳盛期時代の王仁の墓とは認められないもので、植山に近い宇山という地名も近くにあるし、大きさなどからしても斬り捨てたというこの二酋の葬地に相違ないと思われるのである。それにしてもよくも形ばかりも残っており、而も二個あって鬼墓という名が今に至るまでも遺存していることは誠に嬉しいことである。 — 山本賢三、[106]
昭和46年︵1971年︶歴史学者の高橋富雄はアテルイは枚方市で斬られたと記す。
そして、田村麻呂のせつなる申請を却下して、これを河内国杜山︵大阪府枚方市︶に斬ったのである — 高橋富雄(1971)、[107]
昭和47年︵1972年︶枚方市史第2巻出版、アテルイ枚方市︵宇山︶終焉説に疑問を呈する。
……宇山=植山説が成立するためには、(a)河内国杜山や、(b)河内国椙山よりも、(c)河内国植山の方が正しいことを論証する必要がある — ﹃枚方市史﹄2巻、[60]
昭和48年︵1973年︶千賀四郎﹃みちのくの栄枯﹄、アテルイ枚方市で終焉と記す。
ふたりは河内国杜山︵大阪府枚方市︶で処刑された — 千賀四郎(1973)、[108]
平成5年︵1993年︶の枚方市議会にて、教育委員会社会教育部長が20年前︵1973年︶頃からいわれはじめたという伝承について語り、議事録に残されている。2006年この議事録を引用した[70]馬部隆弘は2020年3月教育委員会社会教育部長は1990年5月25日の日付けのメモを残した田宮久史であると発表した[89]。1993年
したがいまして、そういう点で非常にここは伝承もない、まだ、ほんの二〇年ほど前から一部の方が胴塚とか、首塚とか、宇山地区にはそういう多分古墳だろうと思うんですが。実際胴塚と呼ばれていますところは発掘調査の結果、古墳だったということがわかりましたが、首塚、胴塚というようなことで伝わってきておりました。しかし、阿弖流為のと言い出したのは、ほんの二〇年ほどのことです……盛んに水沢市の方からラブコールが起こったということでございます。確かに水沢市の方からいろいろ申し入れもあったんですけれども、おっしゃるような形でお断りを申し上げたというのが実情です。 — 枚方市教育委員会社会教育部長﹃平成五年第三回定例会 枚方市議会会議録﹄A議員の質問及び答弁︵四三六~五六抜粋︶、[109]
アテルイの首塚は1970年代末から言われ始めたことであり、牧野公園のある牧野地区に古くからそのような伝承があった形跡は全く認められていないとの意見もあるが[110]、記録では1970年代前半から言われ始めているようである。
昭和53年︵1978年︶﹃蝦夷 : 古代東北の英雄たち﹄︵河北新報社︶はアテルイとモレは枚方市で斬られたと記す。
阿弖流為と母礼は八月十三日、河内国杜山︵大阪府枚方市︶で斬刑に処される — ﹃蝦夷 : 古代東北の英雄たち﹄(1978)、[111]
通称「首塚」(大阪府枚方市牧野公園)
通称「首塚」の石(大阪府枚方市牧野公園)
昭和54年(1979年)、河北新報大阪支社は『蝦夷の統領ここに眠る?』という記事で「阿弖流為処刑地と埋葬場所見つかる」「地元の人々が保存」「大阪枚方 古くから首塚の伝承」と報道した。
首塚は式内片埜神社の古くからの氏子が発見し、その後追跡調査した先々代の宮司さんは、宇山町の竹薮内で処刑地と古老たちが伝えていた小さな塚山を見つけたという内容であった。
現在の﹁枚方市宇山︵うやま︶町﹂が有力とされているものの、同編さん室ではなお“確証がない”と懐疑的な立場をとっている。ところが数年前、同神社の氏子……が、元の神社の神域で現在は公園になっている神社のわきにある首塚を発見した。古くから﹁ヘビ塚﹂﹁鬼塚﹂などと呼ばれ、付近住民の間には“さわるとたたりがある”などの言い伝えが残されていたという。﹁もしや斬刑にされた蝦夷の統領を葬ったものでは!﹂との声が付近住民から高まり、市民有志が約5メートル四方、高さ2メートルの土盛り塚に柵︵さく︶を巡らし保存するようになっていた……この塚の中央には長い間の風雪でかなりすり減った高さ五十センチぐらいの自然石が置いてあり、……岡田宮司によると三年ほど前には二つの石碑があった。同宮司は……︵2︶神社の所在地は地理的に河内国でも京都に一番近く、地元には古くから”戦いに負けた大物武将の首塚がある”との伝承があった(3)現場は、小高い丘のように土が盛ってあり“たたりがある”などの言い伝えがあったためか、人の手が入った様子は全くない……たまたま最近、同神社から北東に1キロほど離れた同市宇山町の竹やぶでも高さ3メートル、周囲5メートルぐらいの古塚が発見され、朽ちはてた桜の古木とともに、古くから﹁蝦夷の統領が処刑された場所﹂と伝えられていることがわかった。
この場所は、同町二九四と二九五[注釈6]の境にあるが、土地の所有者は昔から﹁自分の土地ではない﹂と忌みきらっていたという。こんなことから、見方によっては﹁処刑地﹂と﹁埋葬地﹂が合致することになり、貴重な遺跡に間違いないと地元では話題を呼んでいる。……梅原猛京都市立芸術大学長の話……ここが二人の蝦夷︵えぞ︶の首領の処刑の地と結び付くかどうかは、確証がない限りなんとも言えないが、できればもっと地元の古老の証言が欲しい。 — 河北新報、[95]
蝦夷の統領が処刑された場所という伝承がある宇山町の古塚はその地番が同じことから宇山東町295にあった宇山二号墳と思われる。ちなみに宇山遺跡の東に隣接する養父丘遺跡の比丘尼塚古墳には蘇我氏・物部氏の争いで大勢の尼僧が斬られて埋葬されたという伝承が伝えられていた[113]。今は石室と思われる花崗岩と須恵器等が残っている[114]。
2002年から2012年まで枚方市で勤務していた馬部隆弘は、2006年発表の論文で勤務先で発見した枚方市史編纂室担当者であった田宮久史の1990年5月25日付けメモ︵現在は枚方市立中央図書館市史編纂室にて保管︶にて書かれていたそれよりさらに10年ほど前︵1979年頃︶の出来事を元にアテルイの首塚伝承の成立過程を説明、﹁枚方市においては、二〇年間では無理だが、三〇年間語られると﹁伝承文化﹂として成立するようである﹂と批判した[70]。
……(1)一〇年ほど前、牧野地区の女性が市史編さん室に時々電話してきた。曰く、夢に時々長い白髪で白いあご髭の人が地中から半身を乗り出して何かを訴える。どんな人で何を言っているのかわからないが、昔この辺で何かありましたか。(2)田宮ほとんど冗談として対応。昔、エゾの酋長が斬られた話がありますから、そんな関係でしょうか。(3)その女性、また後日曰く、きっとその酋長だと思う。恨みをもって未だに成仏できずに苦しんでいるに違いない。きちんとお祠りしてあげなさい。(4)……(2)北上︵河北︶新報大阪支社の記者は河内で斬られたとすることから本市を訪ね、田宮から女性の存在を知り、片埜神社宮司を取材して、アテルイの墓を発見したとばかりに大きく報道した。(3)…… — 馬部隆弘発見の枚方市史編纂室担当者田宮久史1990年5月25日付けメモ、[70][115][110]
昭和57年(1982年)、河北新報担当者はアテルイの墓探索を切望し、地域史雑誌まんだ編集部を訪れている。
実はこの発掘調査のはじまる二ヵ月前、私は仙台市に本社がある河北新報社で、……阿弖流為の首像に案内してもらっていた。……昭和五七年の秋のある日、﹁まんだ﹂編集室にこの河北新報社から二人の来客があった。来訪の主旨は、阿弖流為の墓が発見できたかどうかの確認をすることであった。そして明治維新以来、東北地方は日本の政治の中で軽んじられてきたが、こうした東北蔑視の根源は、遠く阿弖流為斬殺の時代にまでさかのぼること。また戊辰戦争に勝ち誇った薩摩や長州﹁官軍﹂は、﹁白河︵福島県︶以北、一山百文﹂と東北地方の人と山河を嘲笑したのであったが、これに憤慨した一力健治郎は東北蔑視許せずと河北新報を発刊し、その振興につとめてきたこと。……いつの日にか阿弖流為の墓を発見して欲しいと力説されたのであった。……河北新報社主であり祭主でもあった一力一夫氏は、阿弖流為らの戦いぶりとその処刑について次のように述べている。﹁楽土は、やがて大和朝廷の覇道が侵すところとなり……日高見国は、卓越した行政機構、軍事組織を持ち、その独立と自尊とを誇り得る国でした。朝廷軍の侵攻に対しても、四度にわたってこれを撃破、敗走させましたが、……坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、……東国の各族長は朝廷の軍に投じ、公︵阿弖流為︶も、磐具公母礼と共に、民を安んぜんがため十余年に及ぶ矛を収め、和議に応じたのであります。将よく将を知り、田村麻呂は、朝廷に楽土東国の山河、人身の全きを期さんとする公の意を汲み、公と共に京に赴いたのでありましたが……母礼ともども斬刑に遭ったのであります。公の無念さ、東国の人々の怒りは如何ばかりであったか。公の首級が遥か千里を飛んで楽土を潤す北上河畔に帰ったという言い伝えが、やり場のない往時の人々の心情を物語っております。﹂︵社主祭文より︶ — 瀬川芳則、[116]
昭和58年(1983年)﹃角川日本地名大辞典﹄27巻出版[57]
うやま 宇山<枚方市>……延喜年間坂上田村麻呂が蝦夷の首長2人を斬った土地とする伝説がある︵地名辞書・全志4︶ — 角川書店、角川地名大辞典27大阪府Ⅱ(1983)
昭和60年(1985年)今井啓一 ﹃百済王敬福﹄改1985年版出版[117]
昭和61年(1986年)歴史学者の高橋崇は﹃坂上田村麻呂(新稿版)﹄で宇山東町の宇山一号墳・二号墳の所在地の写真を掲載している。
あの阿弖流為がついに田村麻呂の軍門に降ったのである。彼らの根拠地は、すでに征服されてしまっていた。北方の蝦夷たちの首長ですでに服属したものもいた。進退きわまった阿弖流為であった︵阿弖流為等は降伏したのではなく、﹁平和的講和﹂の申し入れをしたとか、逆に田村麻呂が和睦を申し出たが、結局、阿弖流為等は、だまされて処刑されてしまうという、いわば郷土愛的な発言もある。史料的裏付けの乏しい解釈には慎重でありたいと願う︶。……伝阿弖流為処刑地<河内杜山,大阪府枚方市>(水沢市教育委員会提供) — 高橋崇、[118]
1986年﹃日本歴史地名大系﹄第28巻出版[58]
宇山村……延暦二一年︵八〇二︶坂上田村麻呂が蝦夷の二首長を率いて帰京、二人は八月一三日に斬られたが、その場所を当地に比定する説がある︵大日本地名辞書・大阪府全志︶ — 平凡社、[58]
昭和63年(1988年)、枚方市文化財研究調査会が数ヵ月かけて宇山遺跡の発掘調査を実施し、河北新報が﹁蝦夷の統領が処刑された場所﹂と報道した宇山町の古塚[注釈6][95](宇山二号墳)から道路を挟んで東側の宇山東町290外7筆の塚を6世紀後半の宇山一号墳[53]と命名し、アテルイの胴塚の伝承を持つと記した[119]。
枚方市宇山町の竹籔の一面に、﹁どうづか﹂と呼ぶことのある直径約15メートルの小マウンドがあった……そして﹁どうづか﹂とか﹁胴塚﹂で、延暦21︵802︶年に斬首された蝦夷王阿弖流為の、首の無い遺骸を葬った塚だという……昭和57年の秋のある日、﹁まんだ﹂編集室にこの河北新報社から二人の来客があった。来訪の主旨は、阿弖流為の墓が発見できたかどうかの確認をすることであった……いつの日にか阿弖流為の墓を発見して欲しいと力説されたのであった — 瀬川芳則、[116]
片埜神社の北にある牧野公園の中には、阿弖流為の首塚だと伝承されたマウンドがあります。今回、調査されたマウンドも阿弖流為の胴塚だと言い伝えられていました — 三宅俊隆、"枚方市"宇山一号墳""まんだ35号,1988年1月
……宇山遺跡の所在地に、住宅建設が行われることになった昭和六三年。枚方市文化財研究調査会は、開発予定地の遺跡発掘を、四月末から七月中旬まで実施している。……墳丘を四分割……近世の屋瓦と多数の灯明皿︵土師質小皿︶があった。これは墳丘の上に小さな祠をおき屋根に瓦を葺いていたこと、そして人びとがまつりごとを行っていたことを示している。江戸時代の人が、ここを阿弖流為の墓だと考えていたらしい……江戸時代の人が、この古墳を壊した時には、横穴式木室も木棺もすでに腐って失われてしまっていたことであろう。人びとは、床面に散乱する人骨や歯を見て、大いに驚きかつ恐怖し、もう一度土を盛り上げたのであろう — 瀬川芳則、[97]
まず最上部に小型の近世の屋瓦と多数の灯明皿……墳丘の盛り土の中を調べると、六世紀後半頃の須恵器と江戸時代のくらわんか碗︵古伊万里・古曽部︶が混りあっているという。これでこの墳丘状のマウントが、江戸時代に積み上げた土盛りであることが判った。……墳丘状の盛り土を取り除くと、人骨とひと目で判る骨片や鉄製の鏃・ヤリガンナ・鍔︵つば︶が付いた直刀︵ちょくとう︶・馬の轡︵くつわ︶などが多くの須恵器と共に見つかりはじめた。……そしてやはり六世紀後半の古墳があった。……墓拡を掘った方は、組合せ式木棺直葬墓である。……もうひとつの木棺墓は……横穴式木室とよべる構造が、この江戸時代の土盛りの下から現れたわけである。……そのころの当地には三浦蘭阪や岡田本房・小野逸子など学者・文人が少なくない。こうした人びとの中から、いつの日にか、阿弖流為の墓などという意見がでたものであるかも知れない。 — 瀬川芳則、[120]
1988年当時は地元で胴塚と伝えられていたと語られていたが、2013年になると宇山一号古墳が発見されて以来、地元では古墳が発見される以前よりアテルイの首塚とセットで﹁胴塚﹂と呼んでいたという確証のない話が伝えられはじめたと語られるようになった。
旧水沢市社会教育課内では﹁アテルイを顕彰する会﹂、大阪府吹田市では﹁関西胆江同郷会﹂が誕生。
碑の﹁建立記念誌﹂の﹁アテルイを顕彰する会﹂藤波隆夫会長の﹁阿弖流為をおもう﹂によると、昭和六十年に高橋会長と﹁熱い思いでアテルイを語りあった﹂とあり、同六十二年に両会長は枚方市を訪ね、この時﹁関西胆江会﹂が発足し﹁会長に高橋敏男さんが推され﹂とあるので、こちらの文章がより正確に顕彰運動の萌芽期を示しているものと受け止められる。 — 新野直吉、[121]
1988年2月28日、東北熊襲発言事件が発生する。
平成元年(1989年)、関西岩手県人会・関西アテルイ顕彰会は何度か枚方市へ足を運び供養碑建立を陳情したが枚方市から確証がないと却下される[122][123][124]。
平安建都一二〇〇年︵平成六年・一九九四︶に古代東北・蝦夷の雄・阿弖流為︵アテルイ︶・母禮︵モレ︶り顕彰碑を京都・清水寺境内に建立し……当初︵一九八九年︶はアテルイ首塚の伝承地、枚方市牧野公園に供養碑を建立しようと、枚方市に陳情し、安倍満穂氏︵胆沢町出身・現関西岩手県人会会長︶と共に何度か足を運び運動しましたが、確証がないという事で残念ながら却下されました。 — 高橋敏男(北天会・関西アテルイ顕彰会)、[122]
平成2年(1990年)、岩手県人会・縄文アテルイ・モレの会がアテルイの首塚の掲示板設置を申請、枚方市は不許可とする[123][124]。
1990年、青森県出身の歴史地理学者神英雄はアテルイ終焉の地を大阪府枚方市杉とした。
……﹃日本紀略﹄の諸写並びに﹃日本逸史﹄写本を比較・検討して、﹃日本後紀﹄に記載されていた地名を推定すると、原典に記されていた文字は︹椙山︺であったと見られる。……後世の関連地名には、唯一交野郡に杉村︵現枚方市杉地区︶があるだけである。 — 神英雄、[125]
1990年5月25日付け枚方市史編纂室勤務の田宮氏のメモが2006年にて公開される。1990年から更に約10年前のある市民との出来事が、アテルイ首塚の由来となったという旨が記載されていた[70]。
1990年6月1日﹁北天鬼神-阿弖流為・田村麻呂伝﹂出版。第二章4節にて東日流外三郡誌の荒吐王阿弖流為を掲載した流れで、東北地方各地のアラハバキ神の写真を掲載しつつ下記のように紹介している。
……大方の貴族官人は田村麻呂の嘆願を聞き入れる耳を持たなかった。-野生獣心、反覆定まりなし……奥地に放し返せば、いうところの虎を養い、災いを残す- 蝦夷を人間ではなく獣とみているのである。……北上市出身の東海大学教授・相沢史郎氏から、その杜山を調査した貴重なレポートをいただいたので……十年ほど前、牧野公園に不思議な伝承があるということがわかった。この塚は、﹁へび塚﹂とか﹁鬼塚﹂と呼ばれていた……また、近くには蝦夷の統領が処刑され、埋葬されたという伝承のある古塚もあったことから、このへび塚こそ阿弖流為と母礼の埋葬地であろうとされた、というのである。このレポートで相沢氏は﹁へび塚﹂の呼称は、エビ塚、エミシ塚が転化してへび塚となったものが多い、と付記している。……この百済王氏の本拠地で阿弖流為たちを斬ったのはどういう意味があるのか、というのだ。相沢氏はいう。﹁これは、古代の征服は、荒ぶる神の呪力を鎮めることから始まってまつろわぬ者の征服が行われた。……阿弖流為も母礼も、国家鎮護の神社に祀られたのであろう。だが、祈願されて阿弖流為たちの魂は鎮まったのだろうか。いや、平安京の暗黒の夜の空を、すさまじい叫び声をあげて飛びまわる鬼の首こそ、北のまつろわぬ魂であったのだ。いまもこの魂たちは鎮まっていないのかもしれない。﹂と。﹂ — 菊池敬一、[126]
へび塚の名称は枚方市出口の光善寺﹁蛇塚﹂の、鬼塚の名称は藤阪の﹁ワニ塚︵オニ塚︶﹂と同名である[127]。
1990年11月21日~1991年5月16日・1991年9月9日~10月3日、宇山遺跡第15次調査で宇山東町295-1の6世紀前半の古墳、宇山二号墳が発掘調査される[128]。
宇山一号墳……非常に珍しい﹁横穴式木室﹂と﹁組合式木棺直葬︵墓︶﹂が並列してみつかり注目を浴びました……今回の調査地……宇山二号墳……棺内に二体が合葬されていたものと思われます。 — 三宅俊隆、"枚方市・宇山遺跡︵第一五次調査︶"まんだ43号,1991年
歴史教育者協議会の﹃歴史地理教育﹄は、アテルイとモレが枚方市で終焉をむかえたと記した。
しかし、その後、アテルイとモレは河内の国杜山︵大阪府枚方市︶で首をきられた — 大橋宗昭、[129]
平成3年(1991年)、歴史学者の 瀧浪貞子はアテルイの霊を撫するために作られた胴塚という伝承を記し、﹁伝アテルイの首塚﹂として塚の上の石の写真を掲載した。
72伝アテルイの首塚 坂上田村麻呂の助命もむなしく殺されたアテルイ。付近に胴塚もあり、アテルイの怨霊を慰撫するために作られたと伝えられる。大阪府枚方市。 — 瀧浪貞子、[130]
平成4年(1992年)、新装版﹃大日本地名辞書﹄出版[102]
平成5年(1993年)、岩手県人会や縄文アテルイ・モレの会はアテルイの首塚の掲示板の設置を枚方市へ申請、却下される。枚方市への碑の建立は学術的根拠を理由に断られ続け、京都・清水寺にて建立されている。
この問題については、今から10年前の平成5年9月議会で大槻議員の一般質問が行われておりますので、詳しいことはその議事録を見ていただきたいと思いますが、当時、本市教育委員会は、根拠がないということで、記念碑の建立を否定されております。
一方、それ以前より、岩手県人会や縄文アテルイ・モレの会では、平成元年と2年にアテルイの首塚の掲示板の設置を申請されましたが、これも許可されず、結局のところ、田村麻呂が建立したと言われる清水寺に、建都1200年の記念の一環として、平成6年に顕彰碑が設立されたものであります。 — 堀井勝議員、[131]
北天の雄 阿弖流為母禮之碑(音羽山 清水寺)
平成6年︵1994年︶11月6日、京都市東山区の清水寺にて平安遷都1200年を記念して﹁北天の雄 阿弖流為 母禮之碑﹂の除幕式と法要が執り行われた。顕彰碑は関西胆江同郷会、アテルイを顕彰する会、関西岩手県人会、京都岩手県人会によって建立された[132]。
清水寺の碑は、もとは岩手県人会などが﹁枚方市にあるアテルイの首塚と称されるものにアテルイの碑を建てたい﹂と希望したことに対して、枚方市が﹁歴史的根拠のない場所に顕彰碑を建設すべきでない﹂と断ったことから、清水寺にアテルイの碑が建てられたという経緯がある。
岩手県胆沢・江差地方の人々の阿弖流為礼賛は著しいものがある。二市三町一村のこの地帯では﹁アテルイの里﹂を宣言、標榜して観光立地を推進しているし、もっと感心することに、吹田市の高橋敏男氏を会長とする﹁関西胆江同郷会﹂が、阿弖流為と母礼の慰霊・顕彰のための碑を建てたことがある……彼らの終焉の地とされる枚方市に建碑を策した高橋会長たちは、学術的根拠を優先する当局からの許可を得られないでいた。そこに田村麻呂建立の名刹京都東山の音羽山清水寺で、森清範貫主の理解ある英断によって、平成六年、岩手県産御影石のの堂々たる碑が境内にでき、十一月六日除幕法要が行われたのである。副知事以下の岩手県の熱意は新聞でも報道されたほどである。地元には水沢市社会教育課内に事務局を置く﹁アテルイを顕彰する会﹂があり、地元の大先輩顕彰は追慕と讃仰の念に満ちている。 — 新野直吉、[133]
1994年9月9日号・16日号にて、井沢元彦がアテルイについての記事を掲載した
﹃週間ポスト﹄……平成6年9月9日号と16日号に﹁"蝦夷征伐"とアテルイ処刑の不思議﹂の項目が登場。そこで井沢氏は、︻1︼﹁アテルイの処刑は、桓武の決断と考えていい﹂、︻2︼怨霊におびえる桓武がアテルイを処刑できたのは﹁アテルイ︵蝦夷︶は怨霊化しないという確信があった﹂からで、﹁蝦夷たちは"人間以外"であると考えていた﹂からだと、断じている。 — アテルイを顕彰する会、[134]
1994年11月、朝日日本歴史人物事典にてアテルイの首塚・胴塚掲載
……河内国杜山︵比定地未詳︶で処刑された。枚方市には怨霊を慰撫するために作られたという阿弖流為の首塚,胴塚がある — 朝日日本歴史人物事典(1994)、[135]
歴史教育者協議会の﹃歴史地理教育﹄は、アテルイとモレは枚方市で処刑されたと記した。
二人は河内国杜山︵枚方市、杜は植か︶で処刑されてしまった — 田中仁、[136]
清水寺の碑が建立された翌年となる平成7年︵1995年︶頃から牧野公園内の首塚と呼ばれる小丘は、アテルイ由来の塚として岩手県県人会などの主催でアテルイの慰霊祭が行われ、片埜神社による祭祀が開始された[110]。
平成12年︵2000年︶の吉川英治文学賞に高橋克彦﹃火怨 北の耀星アテルイ﹄が選ばれると、平成14年︵2002年︶には当時の水沢市で行われた﹁阿弖流為没後1200年祭﹂で秋田県に本拠地を置く劇団わらび座が同作品をミュージカルにして公演した。
翌春、わらび座は京都公演をおこなうのに先立ち、清水寺の﹁北天の雄 阿弖流為 母禮之碑﹂の前で鎮魂の奉納公演をおこなうと、以後は全国公演に取り組み、大阪公演は主催がアテルイを成功させる会︵岩手県・関西岩手県人会・関西アテルイモレの会など︶、後援が大阪府・大阪市および大阪府教育委員会・大阪市教育委員会などで実施された。関係者が﹁最後の公演は枚方で﹂と呼びかけた結果、平成16年︵2004年︶に枚方公演がおこなわれた。
平成9年(1997年)1月、高橋克彦﹃火怨~北の耀星アテルイ~﹄河北新報にて連載開始[134]。
1997年3月、枚方市副読本﹁郷土枚方の歴史﹂出版。
しかし、杜山、椙山、植山のなかで植山が正しいとする論拠はなく、まして、牧野公園内のマウンドを処刑地あるいは首塚とする歴史的根拠はまったくない。 — 福山昭、[137]
奥羽大学助教授氷室利彦がアテルイ首塚を訪ね、新興住宅地住民へ胴塚の場所を聴く様子がレポートされている。
アテルイの首塚……コンビニエンスストアで胴塚の場所を尋ねると﹁大分前からアパートになっていますわ﹂と……昔は深い竹藪︵やぶ︶で薄気味悪い所だったらしい……﹁アテルイとモレは、岩手県南の北上川流域に位置する胆沢江刺から1000キロ近く離れたここで処刑されたんです﹂と言うと、父親がえっと驚いた声をあげた。娘は目を丸くし、﹁この辺りで霊が飛んでると話しているお婆ちゃんがいるんです﹂と言った。
アテルイの首が、平泉の達谷窟まで飛んだという伝説を付け加えると、﹁だからあのお婆ちゃん、四隅に柱を建てて、お払いしてるんだ﹂と彼らは納得した。﹁わたしらには、気が触れているとしか見えませんがネ﹂と店主は言った。……霊が飛び交っているというさっきの話を思い出し、背中の汗が涼しく感じた。アテルイの首塚伝説は、今も生きているのである。︵奥羽大学助教授・東北矯正歯科学会理事、郡山市︶ — 氷室利彦、[138]
平成10年(1998年)10月、枚方市伝承文化保存懇話会発足。瀬川芳則会長︵関西外国語大学国際言語学部教授︶[139]。
平成11年(1999年)3月、蝦夷の首長アテルイの説明板設置。宇山一号墳と宇山二号墳近くの宇山東公園にも設置される。
……平安時代前期に属する遺跡の存在については明らかではありませんが、この宇山の地は蝦夷の首長阿弖流為らのロマンを秘めるゆかりの地の一となっています。平成十一年︵一九九九︶三月 — 枚方市、[140]
1999年10月、高橋克彦﹃火怨~北の耀星アテルイ~﹄講談社より出版[134]。
平成15年(2003年)増補版﹃大日本地名辞書﹄出版
2003年、﹁ひらかた昔ばなし 子ども編﹂発刊、元小学校教諭による子供向け文学作品が掲載される。
昨(きの)日(う)の敵(てき)は今(きょ)日(う)の友(とも)・・・六、田(たむ)村(ら)麻(ま)呂(ろ)と阿(あ)弖(て)流(る)為(い)……公(こう)園(えん)の中(なか)には﹃阿(あ)弖(て)流(る)為(い)﹄の塚(つか)があり、……阿(あ)弖(て)流(る)為(い)から、﹁自(じぶ)分(ん)の命(いのち)は捨(す)てても、どんなにかして、蝦(えみ)夷(し)の人(ひと)たちを救(すく)い、幸(しあわ)せにしてやりたい。﹂……田(たむ)村(ら)麻(ま)呂(ろ)は、……﹁昨(きの)日(う)の敵(てき)は今(きょ)日(う)の友(とも)だ。﹂……田(たむ)村(ら)麻(ま)呂(ろ)は、天(てん)皇(のう)や朝(ちょ)廷(うてい)に、﹁もう二度(ど)と戦(たたかう)う考(かんが)えは持(も)っていません。だから、陸(む)奥(つ)へ帰(かえ)してあげてください。﹂と、必(ひっ)死(し)に命(いのち)ごいをしました。……田(たむ)村(ら)麻(ま)呂(ろ)は、……目(め)の届(とど)く所(ところ)に墓(はか)をもうけて、ほうむりました。それが﹁河(かわ)内(ち)の国(くに)・交(かた)野(のご)郷(おり)・宇(うや)山(ま)﹂だったのです。……北(きた)上(かみ)川(がわ)が流(なが)れる胆(いさ)沢(わ)のよい風(ふう)景(けい)と、よくにた、淀(よど)川(がわ)が流(なが)れている景(けし)色(き)のよい交(かた)野(の)を選(えら)んだのではないでしょうか。 — 木村倶子、[141]
2007年・伝阿弖流為母禮之塚の碑建立(枚方市)と教科書掲載
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平成17年(2005年)3月、中学校歴史教科書﹁中学社会 歴史 未来をみつめて﹂︵教育出版︶文部科学省の検定に合格。長屋王と阿弖流為が対比されて書かれている。
都で暮(く)らす人々地方で戦う人々~長(なが)屋(やお)王(う)と阿(あ)弖(て)流(る)為(い)・田(たむ)村(ら)麻(ま)呂(ろ)
1.長(なが)屋(やお)王(う)の暮らし 長屋王は、天(てん)武(むて)天(んの)皇(う)の孫にあたる人物です。……動物には貴(きち)重(ょう)な米をえさとしてあたえるいっぽう,長屋王自身は暑いときに氷(ひむ)室(ろ)︵天然の冷(れい)蔵(ぞう)庫(こ)︶から運ばせた氷をうかべるなど、現(げん)代(だい)人(じん)もうらやむような生活を楽しんでいました。……全国的に流行した天(てん)然(ねん)痘(とう)……都の人々の間ではひそかに,長屋王ののろいではないかとうわさになりました。
2.阿(あ)弖(て)流(る)為(い)の抵(てい)抗(こう) ……蝦(えみ)夷(し)は自らの土地と名(めい)誉(よ)を守るため,阿弖流為らをリーダーに団(だん)結(けつ)し,……阿弖流為は,前回までの戦いで多くの兵士を失い,また土地の荒(こう)廃(はい)による食(しょ)糧(くり)難(ょうなん)を前に,ついに約500名とともに降(こうふく)伏しました。……現(げん)在(ざい),大阪府枚(ひら)方(かた)市(し)には,﹁エゾ塚(づか)﹂とよばれる石(せき)碑(ひ)があり,阿弖流為の墓(はか)とも伝えられています。また鹿(かし)島(まじ)神(んぐ)宮(う)︵茨(いば)城(らき)県︶に奉(ほう)納(のう)されている,﹁悪(あく)路(ろお)王(う)首(くび)像(ぞう)﹂は阿弖流為との言い伝えもあります。 — 中学社会 歴史 未来をみつめて(平成17年3月30日検定済)、[142]
2005年、小学校副読本﹁わたしたちのまち枚方 小学校3・4年﹂発刊。アテルイの墓といわれる所について牧野公園内の首塚の写真を掲載している。
アテルイの墓といわれる所……降(こう)伏(ふく)し処(しょ)刑(けい)され、その首(くび)塚(つか)は、牧野公園内にあるといわれています。 — わたしたちのまち枚方 小学校3・4年、[143]
平成18年(2006年)、子供向け郷土史﹁楽しく学ぶ枚方の歴史﹂でアテルイの首塚について書かれる。
牧野阪の牧野公園には、近年、﹁アテルイの首塚﹂と呼ばれるようになった塚があります。この塚は、アテルイをきちんと弔ってやりたいという人々の気持ちが生んだものといえるでしょう。 — 福山昭、服部敬、村田路人、大竹弘之、[144]
通称﹁首塚﹂と伝阿弖流為・母禮之塚の碑︵牧野公園︶
﹁伝 阿弖流為 母禮 之塚﹂碑
︵大阪府枚方市牧野公園︶
伝阿弖流為母禮之塚の碑の裏側の碑文︵大阪府枚方市牧野阪・牧野公園内︶
枚方市はその後、中司宏枚方市長︵当時︶が突如として生まれたアテルイの首塚と称されたものに対し記念碑建立実現に向けた支援を行うと方針転換した[110]。このような経緯から平成19年︵2007年︶3月に牧野公園内のアテルイの首塚を削った箇所へ﹁伝 阿弖流為 母禮 之塚﹂と記された石碑が建立されることになった[145][146]。
平成19年(2007年)3月4日、﹁伝阿弖流為母禮之塚﹂の碑の除幕式が行われ、清水寺森貫主が講話を行う[147][148]。例年9月にアテルイ・モレ祭が行われている[149]。
延暦二十一年︵八〇二年︶秋八月十三日、蝦夷の首長アテルイとモレの二人は、征夷大将軍坂上田村麻呂らの助命嘆願もむなしく、﹁野生獣心反覆無定﹂として河内國で処刑された。肥沃な蝦夷地日高見國の征服は古くからの朝廷の悲願であったが、延暦八年には五万余の大軍が北上川河畔でアテルイの軍に大敗する有様であった。郷土史の先覚者たちにより両名最後の地と目され、また首塚の伝えをもつ当地に、千二百年の時を隔て多くの賛同者の浄財により塚を建立する。
記 関西外国語大学教授 瀬川芳則
塚の表記は京都・清水寺貫主 森清範による。
平成十九年三月四日建立 伝 阿弖流為 母禮之塚建立実行委員会
平成20年(2008年)3月、小学生向け副読本﹁市制60周年記念﹁発進!!タイムマシンひらかた号﹂﹂出版。巻頭の挨拶は松山雅子大阪教育大学教授。アテルイの首塚についてふれ﹁伝阿弖流為母禮之塚﹂の碑の写真を掲載する。伝承でも歴史でもない子供向け作品を掲載している。
牧(まき)野(の)の阪(さか)と宇(うや)山(ま)地区にはこんな言い伝えが残っています。……人々は、美しくて豊かな土地の恵(めぐ)みを受け、平和に暮らしていました。しかし、朝(ちょ)廷(うてい)は、その豊かな田畑や砂(さき)金(ん)が採(と)れるこの地方をなんとか治(おさ)めたいと考えていました。……こうして族(ぞく)長(ちょう)のアテルイと副(ふく)将(しょう)モレは、田(たむ)村(ら)麻(ま)呂(ろ)に降(こう)伏(ふく)しました……﹁・・・ただ、最後に一つだけ約束してほしいことがある。わたしに付(つ)き添(そ)った者の命だけは助けてやってほしい。この身はどうなっても構(かま)わん。たとえ処(しょ)刑(けい)されようが構(かま)わん。ただ、あの者たち・・・。そして、胆(いさ)沢(わ)で暮らす者たちのこと・・・。田(たむ)村(ら)麻(ま)呂(ろ)、あなただから、わたしは・・・。﹂……また、心の中では、お互いの命をかけて戦ってきた相手であるアテルイに対し、敵というよりも違(ちが)った感情が沸(わ)いてくるのでした。……そして、かれらを処(しょ)刑(けい)しないよう朝(ちょ)廷(うてい)に願い出ようと約束をし、いっしょに降(こう)伏(ふく)した五百あまりの人たちを解(と)き放(はな)ちました。……夕陽は……淀川の水(みな)面(も)に映し出されて……遠い日(ひた)高(か)見(み)の国︵現在の奥(おう)州(しゅ)市(うし)付近︶を流れる北(きた)上(かみ)川(がわ)とだぶって見えたにちがいありません。約束を果たせなかった田(たむ)村(ら)麻(ま)呂(ろ)には、二人の最(さい)後(ご)の地としてせめて、ふさわしい場所をかなえることしかできませんでした。この夜、都の多くの人たちが、北東の空へと飛んでいく明るい二つの輝く星を見たといいます。 — 枚方市教育委員会,奥州市教育委員会,岩手県県南広域振興会,延暦八年の会、[151]
平成23年(2011年)3月30日、中学校教科書﹃新しい社会 歴史﹄︵東京書籍︶文部科学省検定合格。伝阿弖流為母礼之塚の石碑の写真が掲載される。平成30年(2018年)の教科書検定を合格した版にても掲載されている。
4.アテルイが処刑されたと伝えられる場所に立つ塚 坂(さか)上(のう)田(えの)村(たむ)麻(らま)呂(ろ)にゆかりのある京(きょ)都(うと)市(し)の清(きよ)水(みず)寺(でら)にも,アテルイをたたえられる碑(ひ)が立てられています。︵大(おお)阪(さか)府(ふ)枚(ひら)方(かた)市(し)︶ — 新しい社会 歴史︵平成23年3月30日検定済︶、[152]
上記教科書では﹁アテルイが処刑されたと伝えられる場所に立つ塚﹂と掲載されているが
﹁蝦夷の統領が処刑された場所﹂という伝承があるのは約400mほど離れた宇山の古塚(宇山二号墳)[注釈6]であり、その﹁蝦夷の統領﹂はアテルイに限定されておらず、
﹁アテルイが処刑されたと伝えられる場所に立つ塚﹂とされた﹁首塚﹂の伝承は﹁戦いに負けた大物武将の首塚﹂である[95][120]。
﹁首塚﹂がアテルイゆかりのものといわれだしたのは1970年代初頭であると1993年枚方市議会にて教育委員会社会教育部長が報告している[109]。
1988年以降地域文化誌まんだ等で掲載された宇山東町の宇山一号墳(胴塚)に胴体、牧野阪の首塚に首が埋葬されたという伝承がどの地域のものかは明記されていないが、瀬川芳則は鹿島神宮に悪路王首像が奉納された17世紀頃発生した伝承で[153]、発掘調査の際出土した江戸時代の祭祀跡から江戸時代三浦蘭阪等文人が住む村の地元民は日本紀略の河内国植山という記載と併せて古墳の被葬者をアテルイと考えていたと推定している[97]。
胴を胴塚(宇山一号墳)へ首を牧野公園内の首塚へ埋葬したというまんだの記載と地元宇山の古塚(宇山二号墳)の伝承との関係性は不明である。1979年河北新報が報道した﹁蝦夷の統領が処刑された場所﹂という伝承がある古塚は報道された地番から1988年発掘調査された宇山一号墳ではなく道路を挟んで向かい側の1990~1991年発掘調査された宇山二号墳と思われる[128][95]。
2006年馬部隆弘は﹃大日本地名辞書﹄(1900年)の宇山で斬られたという記述は一般へ伝播しなかったとして﹁アテルイ処刑地を宇山とする説がある一方で、地元では一切その伝承がなく﹂とし[100][101]、2020年には﹁枚方市には蝦夷が殺害されたという﹁伝承﹂があると熱心に主張する方々もたしかに何人もいた。しかし、蝦夷が殺害されたという﹁伝承﹂は、どう聞いても先祖代々伝わってきた類のものではなく、明らかに上記の学説が発端となったものばかりであった。このようなものは到底伝承として扱えなかった。また、この程度のことを説明する必要もないというのが当時の筆者の判断である﹂としたが[89]、伝承の派生経路は未実証で、﹃大日本地名辞書﹄のアテルイ埋葬地は藤阪の鬼墓(伝王仁墓)であり、1980年代﹁まんだ﹂が記載した地域伝承の埋葬場所は﹁首塚﹂﹁胴塚﹂であり、1979年河北新報の報道では﹁首塚﹂である。
瀬川芳則は、阿弖流為・母礼の石碑は史跡ではないと断言しつつ﹁人々の寄付金によって石碑が建てられ、披露の式典に参加した奥州市の幹部職員が涙しながら修辞を述べたのが印象的である﹂と記している。
馬部隆弘は、枚方市に対し﹁アテルイの﹁首塚﹂の一件は公共機関が動けば嘘も真になる、その典型的な事例といえよう﹂とし、牧野公園の小丘がアテルイの首塚となった経緯が書かれた1990年5月25日付けの枚方市史編纂室担当者田宮氏のメモランダムを引用し伝承発生を1980年頃とした上で﹁枚方市においては、二〇年間では無理だが、三〇年間語られると﹁伝承文化﹂として成立するようである﹂と非常に強く批判している[70][71][110]。
平成14年︵2002年︶から枚方市の市史担当部署で非常勤職員として勤めていた馬部は、枚方市教育委員会が平成20年︵2008年︶に市制60周年記念の一環で発行した﹃発進!!タイムマシンひらかた号﹄にアテルイ首塚、伝阿弖流為母禮之塚[155]、七夕伝説、伝王仁墓に関する椿井文書なども登場することについて、枚方市役所では歴史的な内容の記述がある場合は市史料室がチェックする習わしであったことから、馬部の立場上、不適切な記述は全て書き換えるよう要望したが、冊子の編集を担当した指導主事から﹁史実でなくてもいいから、子供たちが地元の歴史に関心を持つことの方が大事﹂との編集方針を明言されたことを、著書﹃椿井文書―日本最大級の偽文書﹄で明かしている。ただし、伝王仁墓に関する椿井文書であると馬部が推定した﹃王仁墳廟来朝記﹄は﹃発進!!タイムマシンひらかた号﹄では掲載されておらず、2008年﹁発進!!タイムマシンひらかた号﹂が出版される前に枚方市にはアテルイの塚があると歴史学専門書へ書いた[130]のも、教科書へ書いた[142]のも歴史学者である。
平成14年︵2002年︶はアテルイ没後1200年にあたり、岩手県を中心にアテルイブームが巻き起こったことで東北地方在住の人たちにアテルイの名前が浸透した。かつては﹁反逆者﹂として日本史の悪役であったアテルイの復権運動は、新たな日本史像を再構築するにあたって意義深いものであった。
しかしアテルイ復権運動は、かつての中央中心の征夷史観をそのまま裏返したかのように、国家と蝦夷社会との対立関係や、国家の侵略性と蝦夷社会の自律性・主体性にもとづく﹁正義﹂とがやや一面的に強調されすぎるきらいがあった。またそうした見方は、アテルイがあたかも東北人の中央に対する自立や抵抗の象徴のように扱われることもしばしばあった。
高橋崇は、著書﹃坂上田村麻呂﹄において、アテルイの降伏に対し郷土愛的な側面があることについて﹁史料的裏付けの乏しい解釈には慎重でありたいと願う﹂と論じている。
- 京都市東山区
田村麻呂が創建したと伝えられる京都の清水寺境内には、平安遷都1200年を期し1994年(平成6年)11月に、「北天の雄 阿弖流為母禮之碑」と記された碑が建立されている[157][158]。
-
「北天の雄 阿弖流為母禮之碑」(京都清水寺)
-
「北天の雄 阿弖流為母禮之碑」裏側
- 岩手県奥州市
2005年︵平成17年︶には、アテルイの忌日に当たる9月17日に併せ、岩手県奥州市水沢羽田町の羽黒山に﹁阿弖流為 母禮 慰霊碑﹂と記された石碑が建立されている。この慰霊碑は、アテルイやモレの魂を分霊の形で移し、故郷の土の中で安らかに眠ってもらうことを願い、地元での慰霊、顕彰の場として建立実行委員会によって、一般からの寄付により作られた。尚、慰霊碑には、浄財寄付者の名簿などと共に、2004年︵平成16年︶秋に枚方の牧野公園内首塚での慰霊祭の際に奥州市水沢の﹁アテルイを顕彰する会﹂によって採取された首塚の土が埋葬されている[159]。及川洵は、アイヌ民族によるアテルイ慰霊祭について疑問視している[160]
2001年のアテルイ没後1200年記念事業の一環で[要出典]、東北本線の水沢駅 - 盛岡駅間で運行する朝の快速列車1本に「アテルイ」という愛称が付けられた[161]。なお、2023年3月18日のダイヤ改正で快速「アテルイ」は廃止されたため、現存しない[162]。
国立天文台水沢VLBI観測所に設置され、2013年4月1日に共同利用開始された天文学専用スーパーコンピュータに水沢地域の英雄である「アテルイ」の名がつけられた[163]。計算能力を活かして果敢に宇宙の謎に挑んでほしい、という願いが込められている。また2018年6月からは前システムの6倍の演算能力をもつ「アテルイII(アテルイ ツー)」が稼働している。
鹿島神宮の白馬祭の由来に関して記された天福元年︵1233年︶の文書の一節に﹁初代摂関家将軍となった藤原頼経が関東下向の時に悪来王を退治した﹂と書かれている[原16]。
その後、正安2年︵1300年︶頃に成立したとされる﹃吾妻鏡﹄では﹁文治5年︵1189年︶9月28日に源頼朝が鎌倉帰還の途中に立ち寄った達谷窟は、坂上田村麻呂と藤原利仁が征夷の時に賊主・悪路王と赤頭が立て籠った岩屋と教えられた﹂と記されている[原17]。
これら鎌倉時代以降の文献に登場する悪路王なる人物をアテルイと結びつけようとする説もある[167]。
高橋崇は、悪路王など坂上田村麻呂伝説全般について﹁採るに足らぬ俗説﹂としている。また新井白石が﹃読史余論﹄で陸奥の夷高丸が駿河の国清見が関まで攻め上がり、田村丸はこれをうち取り、北に追って陸奥の神楽岡で斬ったと記述していることについても﹁合理性と実証を重んじた史学者として白石らしからぬ叙述﹂と批判している。
桃崎有一郎は著書﹃武士の起源を解きあかす: 混血する古代、創発される中世﹄において、﹃吾妻鏡﹄での悪路王は田村麻呂と利仁の2人に討伐されたとあるが、2人は同じ時代の人物ではなく、悪路王についても実在した可能性がほぼないとしている。
蝦夷側で記した史料は残っておらず、古代日本の律令国家が編纂した六国史と称される正史のうち﹃続日本紀﹄で1箇所、﹃日本後紀﹄で3箇所にアテルイの名前が伝えられている
[注釈7]。
阿弖流爲/大墓公阿弖利爲が記録される資料
●﹃続日本紀﹄
●﹃日本後紀﹄ - 散逸度が高く、抄録しか残らない。
●﹃類聚国史﹄
●﹃日本紀略﹄ - 六国史の抜粋。﹃日本後紀﹄の散逸部分を知る助けになる。
- ^ 『続日本紀』延暦八年七月丁巳(十七日)条
- ^ 『続日本紀』延暦八年六月庚辰(九日)条
- ^ a b c 『続日本紀』延暦八年六月甲戌(三日)条
- ^ a b 『類聚国史』延暦二十一年四月庚子(十五日)条
- ^ a b 『日本紀略』延暦二十一年夏四月庚子(十五日)条
- ^ a b c d 『日本紀略』延暦二十一年八月丁酉(十三日)条
- ^ a b 『日本紀略』延暦二十一年秋七月甲子(十日)条
- ^ 『続日本紀』和銅四年四月辛丑(二十一日)条
- ^ 『続日本紀』天平宝字三年十月辛丑(八日)条
- ^ a b 『続日本紀』延暦八年五月癸丑(十二日)条
- ^ 『日本紀略』延暦二十一年春正月丙寅(九日)条
- ^ 『日本紀略』延暦二十一年春正月戊辰(十一日)条
- ^ 『日本紀略』延暦二十一年秋七月己卯(二十五日)条
- ^ 『日本後紀』弘仁五年十二月朔(一日)条
- ^ 『類聚国史』巻七十九 大同三年正月庚戊(一日)条「禁葬埋於河内國交野雄徳山」
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(一)^ ﹃阿弖流為﹄ - コトバンク
(二)^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、﹃コンサイス日本人名辞典 第5版﹄、株式会社三省堂、2009年 42頁。
(三)^ abc高橋 1986, p. 100.
(四)^ abcdefghi樋口 2013, pp. i–iv.
(五)^ ab高橋 1986, pp. 100–101.
(六)^ abcdefghi樋口 2013, pp. 35–37.
(七)^ abcd鈴木 2016, pp. 52–54.
(八)^ abcde高橋 1986, pp. 101–102.
(九)^ 樋口 2013, pp. 17–18.
(十)^ ab樋口 2013, pp. 212–214.
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(14)^ abcd樋口 2013, pp. 218–220.
(15)^ 青木和夫(校注); 稲岡耕二(校注); 笹山晴生(校注); 白藤禮幸(校注)﹃続日本紀 五﹄岩波書店、1998年2月16日、430-431頁。
(16)^ 藤原継縄 (1657年). “続日本紀 巻第四十 延暦八年”. 2020年10月25日閲覧。
(17)^ 高橋 1986, p. 148.
(18)^ abc樋口 2013, pp. 273–275.
(19)^ abc高橋 1986, p. 150.
(20)^ 鈴木 2016, p. 52.
(21)^ abc高橋 1986, pp. 150–151.
(22)^ ab樋口 2013, pp. 275–277.
(23)^ ﹃日本後紀第三巻﹄1764年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574111/7。2020年10月24日閲覧。
(24)^ 森田悌﹃日本後紀︵上︶﹄講談社︿講談社学術文庫﹀、2006年10月10日、272-273頁。ISBN 4-06-159787-6。
(25)^ abc樋口知志﹃阿弖流為 夷俘と号すること莫かるべし﹄ミネルヴァ書房︿ミネルヴァ日本評伝選 126﹀、2013年10月10日。ISBN 978-4-623-06699-5。 ﹁田村麻呂に率いられた二人は七月十日に入京した﹂
(26)^ ab鈴木拓也編﹃三十八年戦争と蝦夷政策の転換﹄吉川弘文館︿東北の古代史4﹀、2016年6月20日、55頁。ISBN 978-4-642-06490-3。 ﹁坂上田村麻呂は、七月十日に阿弖流為・母礼の二人をともなって入京する︵﹃日本紀略﹄︶交戦中に捕獲された蝦夷は都に送られ、戦勝の証拠として天皇に進上される原則があるが︵熊谷、二〇〇七※熊谷公男﹁蝦夷移配策の変質とその意義﹂熊田亮介・八木光則編﹃九世紀の蝦夷社会﹄高志書院、二〇〇七年︶、交戦の後に自主的に投降した阿弖流為・母礼にもこの原則を適用し、長年にわたる征夷の成果として入京させたとみられる。﹂
(27)^ abc森田悌﹃日本後紀(上)﹄講談社︿講談社学術文庫﹀、2006年、274頁。ISBN 4061597876。 ﹁甲子(十日) 造陸奥国胆沢城使坂上田村麻呂が帰京した。夷大墓公阿弖利為と盤具公母礼ら二人を従えていた。﹂
(28)^ ﹃日本紀略 五巻﹄、98頁。https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M2014031720594655421。2020年10月24日閲覧。
(29)^ 森田悌﹃日本後紀︵上︶﹄講談社︿講談社学術文庫﹀、2006年10月10日、274-275頁。ISBN 4-06-159787-6。
(30)^ ﹃日本後紀第三巻﹄1764年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574111/8。2020年10月24日閲覧。
(31)^ abc高橋 1986, pp. 151–152.
(32)^ ﹃日本後紀第三巻﹄1764年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574111/8。2020年10月24日閲覧。
(33)^ ﹃日本紀略 五巻﹄、98頁。https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M2014031720594655421。2020年10月24日閲覧。
(34)^ 樋口 2013, pp. 277.
(35)^ abcdefghi樋口 2013, pp. 277–279.
(36)^ 樋口 2013, pp. 280–281.
(37)^ 樋口 2013, pp. 290–293.
(38)^ 高橋崇﹃蝦夷︵えみし︶﹄中公新書、4-6頁。随行した蝦夷の弓矢の技量については東北学院大学の熊谷公男教授の講演録︵胆江日日新聞、2002年11月9日付︶
(39)^ 鈴木拓也編﹃三十八年戦争と蝦夷政策の転換﹄吉川弘文館、137頁
(40)^ 山田秀三﹃東北・アイヌ語地名の研究﹄草風館、2-6頁。金田一京助﹃古代蝦夷とアイヌ﹄平凡社、154-165頁
(41)^ 工藤雅樹・福島大学教授の講演﹁エミシ・エゾ・アイヌ﹂︵2000年9月6日、9月7日︶の記録
(42)^ 岩手県胆沢町教育委員会﹃角塚古墳―整備基本計画策定に伴う形態確認調査報告書﹄︵2002年3月︶
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日本後紀, (明和1年), doi:10.11501/2574111, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574111/9
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(45)^ 神英雄﹃歴史と伝承:日野昭博士還暦記念論文集﹄永田文昌堂、1988年、546頁。
(46)^ abc神英雄﹃歴史と伝承:日野昭博士還暦記念論文集﹄永田文昌堂、1988年、蝦夷梟帥阿弖利為・母礼斬殺地に関する一考察。
(47)^ abcde角川日本地名大辞典編纂委員会﹃角川日本地名大辞典 京都府上巻﹄26巻、角川書店、1982年7月1日、327頁。ISBN 978-4040012612。 男山<八幡市>八幡山ともいい、雄徳山・牡山︵日本書紀︶とも書く。八幡市西方、生駒山地最北端に位置する山。……当山南麓の﹁洞ヶ峠﹂は、山城から河内へぬける高野街道筋の要地であった
(48)^ 西本 2013, pp. 57–58.
(49)^ 今泉隆雄﹃日本古代国家の展開 ︿上巻﹀﹄思文閣出版、1995年、三人の蝦夷-阿弖流為と呰麻呂・真麻呂-。
(50)^ ﹁角川地名大辞典﹂編纂委員会・竹内理三(編)﹃角川日本地名大辞典﹄27巻、角川書店、1983年、191頁。
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(52)^ 並河誠所﹃五畿内志﹄日本古典全集刊行会、1733年(昭和4年)、421頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179444/33。
(53)^ ab西田敏秀﹁宇山遺跡︵第4次調査︶・宇山一号墳 調査地 枚方市宇山東町 調査期間:1988年4月27日~7月16日﹂﹃枚方市文化財年報10﹄、財団法人枚方市文化財研究調査会、1991年3月。
(54)^
西田敏秀﹁宇山遺跡︵第15次調査︶調査地 枚方市宇山東町 調査期間:1990年11月21日~1991年5月16日,1991年9月9日~1991年10月3日﹂﹃枚方市文化財年報13(1991年度分)﹄、財団法人枚方市文化財研究調査会、1994年3月31日。
(55)^ abc井上正雄﹃大阪府全志. 巻之4﹄大阪府全志発行所、1922年、1346頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/705。 ﹁舊名の上山は植山ならんとの説あり、植山は大日本史坂上田村麻呂の傳に﹁延暦二十一年……乃斬於河内植山﹂と見ゆる植山是れなり。﹂
(56)^ abc寺嶋宗一郎編﹃枚方市史﹄枚方市、1951年、125頁。 ﹁大字宇山 旧交野郡宇山村で牧ノ郷に属して古くは上山村と称したが、元和元年宇山村と称する様になった。延暦二十一年征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷の二酋長を率いて京師に帰り、次いで之を斬った河内植山とは当地の事と考えられる﹂
(57)^ ab﹁角川地名大辞典﹂編纂委員会・竹内理三(編)﹃角川日本地名大辞典﹄27巻、角川書店、1983年。 ﹁うやま 宇山<枚方市>……延喜年間坂上田村麻呂が蝦夷の首長2人を斬った土地とする伝説がある︵地名辞書・全志4︶﹂
(58)^ abc﹃日本歴史地名大系﹄28巻、平凡社、1986年。 ﹁宇山村……延暦二一年︵八〇二︶坂上田村麻呂が蝦夷の二首長を率いて帰京、二人は八月一三日に斬られたが、その場所を当地に比定する説がある︵大日本地名辞書・大阪府全志︶﹂
(59)^ 今井 1985, pp. 25–26.
(60)^ ab枚方市史編纂委員会; 片山長三; 吉田清治; 阪本平一郎﹃枚方市史﹄2巻、枚方市、1972年、247頁。 ……宇山=植山説が成立するためには、(a)河内国杜山や、(b)河内国椙山よりも、(c)河内国植山の方が正しいことを論証する必要がある
(61)^ 神英雄﹃歴史と伝承:日野昭博士還暦記念論文集﹄永田文昌堂、1988年、551頁。
(62)^ 河北新報社編集局(編)﹃蝦夷 東北の源流﹄河北新報社、1979年4月20日、12頁。
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(64)^ 西本昌弘﹃桓武天皇﹄山川出版︿日本史リブレット011﹀、2013年、57-58頁。ISBN 978-4-634-54811-4。
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(67)^ ab牡山(七九頁16)現在は男山と表記し、現京都府八幡市の西部、生駒山地最北端に位置する山。……桓武天皇はここに烽火を置くことにしたのである。後に男山には石清水八幡宮が勧請されている。
(68)^ ab烽火(七九頁17)和名抄に烽燧とあり、訓は度布比。昼は煙を放ち、夜は火を発して急事を伝達する軍事施設……
(69)^ 黑板伸夫; 森田悌﹃訳注 日本史料 日本後記﹄集英社、2003年11月30日、78-81頁。
(70)^ abcdefgh馬部隆弘﹁蝦夷の首長アテルイと枚方市 -官民一体となった史跡の捏造-﹂﹃史敏﹄第3巻、史敏刊行会木、2006年、72-90頁。
(71)^ ab馬部隆弘﹃由緒・偽文書と地域社会-北河内を中心に-﹄勉誠出版、2019年、282頁。
(72)^ 尾崎安啓﹃市史紀要(第四号)﹄(寝屋川市)市史編纂委員会、平成4年10月、25頁。
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(75)^ ﹁角川地名大辞典﹂編纂委員会・竹内理三(編)﹃角川日本地名大辞典﹄27巻、角川書店、1983年、191頁。
(76)^
上山昭則﹃河州上山家の研究﹄上山昭則、昭和57年、"二 宇山村東山飛地絵図(写真版)"。
(77)^ 三宅俊雄﹃地域文化誌まんだ28号﹄28巻、まんだ編集部、1986年8月、22頁。
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(79)^ ﹃六国史 : 国史大系. 類聚國史﹄経済雑誌社。doi:10.11501/950692。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950692/322。2020年10月24日閲覧。
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(87)^ 枚方市史編纂委員会; 片山長三; 吉田清治; 阪本平一郎﹃枚方市史﹄1巻、1967年12月31日、337-338頁。
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