アザーズの戦い (1030年)
表示
アザーズの戦い (1030年) | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
アラブ・ビザンツ戦争中 | |||||||
| |||||||
衝突した勢力 | |||||||
ビザンツ帝国 | ミルダース朝 | ||||||
指揮官 | |||||||
ロマノス3世アルギュロス コンスタンティノス・ダラッセノス レオン・コイロスファクテス | シブル・アッ=ダウラ・ナスル | ||||||
戦力 | |||||||
約20,000人 (現代の推計) |
700人から2,000人 (中世の史料) | ||||||
アザーズの位置(青)と11世紀当時の主なシリア周辺の都市の地図 |
1030年8月に起こったアザーズの戦い︵アザーズのたたかい、英: Battle of Azaz︶は、シリアの都市のアザーズ近郊で、ビザンツ皇帝ロマノス3世アルギュロスが率いるビザンツ帝国軍とアレッポのアミールであるシブル・アッ=ダウラ・ナスルが率いるミルダース朝軍の間で行われた戦闘である。
シリア北部に位置するアレッポは長期にわたってビザンツ帝国︵東ローマ帝国︶とその隣人であるアラブ人の間における紛争の火種となっており、ビザンツ帝国はアンティオキアを占領した969年以降都市の保護権を主張していた。1029年にアンティオキアのビザンツ帝国の将軍がアレッポを支配するミルダース朝によって敗北を喫した余波で、軍事面における経験がなかったロマノス3世が自らアレッポに対する軍事行動に乗り出した。軍事行動の動機についてはさまざまな説明が存在するものの、同時代のビザンツ帝国の年代記作者は、皇帝がバシレイオス2世を始めとする前任者たちの軍事的栄光を追い求めていたと説明している。これに対してミルダース朝は貢納の支払いを含む和平の申し入れのために使者を派遣したものの、成功を確信していたロマノス3世は提案の受け入れを拒否して使者を拘束した。皇帝の将軍たちは暑く乾燥した夏のシリアでの軍事行動を避けるように進言したが、ロマノス3世は進言を受け入れずに進軍を続けた。アラブ側の史料によれば、ミルダース朝の部隊はビザンツ軍と比較してかなり小規模であったものの、大部分はベドウィンの軽装備の騎兵で構成されており、重装備の敵に対して優れた機動力を有していた。
双方の軍隊はビザンツ軍が野営地を築いたアレッポの北に位置するアザーズの近郊で衝突した。ミルダース朝の部隊はビザンツ軍の偵察部隊を奇襲して壊滅させ、ビザンツ軍の野営地に繰り返し攻撃を加え始めた。食糧と水を確保することができなくなったビザンツ軍は飢えと渇きに苦しむようになり、ミルダース朝軍に対する攻撃も失敗に終わった。最終的にビザンツ軍は8月10日にアンティオキアへの撤退を開始したが、アルメニア人傭兵が物資の略奪を始めたために大混乱に陥り、アラブ人は無秩序と化したビザンツ軍を攻撃して完全に打ち負かした。ロマノス3世は敗走し、ビザンツ軍の残存者とともにアンティオキアへ逃れた。しかし、ミルダース朝は莫大な戦利品を手に入れたにも関わらず、勝利を十分に活用することができなかった。ロマノス3世のコンスタンティノープルへの帰還後に現地に残った将軍たちは、アラブ側の要塞を次々に占領して状況を挽回することに成功し、1031年にはミルダース朝がビザンツ帝国と条約を結んでアレッポは再びビザンツ帝国の従属下に置かれることになった。
ロマノス3世がアザーズの近郊で軍と野営している様子を描いたマドリー ド・スキュリツェスの細密画
ロマノス3世は1030年3月31日にアレッポへの軍事行動を自ら率いるためにコンスタンティノープルを出発し[16]、7月20日にアンティオキアに到着した[17][16]。プセルロスによれば、自身の成功を強く確信していたロマノス3世は、来るべき凱旋のために特別な王冠を用意し、誇大な演出でアンティオキアへ入城した[18][16][注 2]。ビザンツ軍の接近を知ったナスルは、従兄弟のムカッリド・ブン・カーミルが率いる使節を派遣し[17]、ビザンツ帝国の宗主権を認め、貢納の支払いを再開すると申し出た[20]。プセルロスは、ナスルの使節は﹁この戦争を望んでいないと宣言し、あらゆる戦争の口実を皇帝に対して与えなかった﹂が、ロマノス3世が﹁今や脅しをかける方針で臨み、力を誇示することを求めていた﹂ために、皇帝が目標を変えない限りビザンツ側は戦争を準備するであろうと理解したと述べている[18]。一方でヤフヤー・アル=アンターキーは、使節にはジャッラーフ家出身のタイイ族の族長であるハッサーン・ブン・ムファッリジュも加わり、ハッサーンとともに自分たちは皇帝の味方であり、皇帝の遠征が行われる際には軍事奉仕を提供し、必要であれば人質の提供もすると申し出たと記録している[21]。
現代の歴史家のハインツ・ハルムによれば、ハッサーン・ブン・ムファッリジュはロマノス3世に対して進軍を続けるように促した。タイイ族は前年にファーティマ朝の将軍のアヌーシュタキーン・アッ=ディズバリーの前にティベリアス湖付近で敗北を喫して降伏を余儀なくされていたが、ジャッラーフ家はパレスチナの牧草地帯を取り戻すためにロマノス3世の支援を利用したいと考えていた[22]。スキュリツェスは、軍隊が乾燥した夏のシリアの砂漠に慣れておらず、兵の重装備が負担となっていたことを理由として、ビザンツ軍の将軍たちがこのような条件下での軍事行動による危険を避けてナスルの申し出を受け入れるようにロマノス3世へ進言したと記録している[8]。この記録は、素早い移動に慣れていた遊牧民であるベドウィンのキラーブ族が、より重く動きの遅いビザンツ軍よりも明確な利点を持っていたとする現代の学者の見解にも反映されている[23][24]。
アレッポに対する遠征は容易に成功を収めるであろうと信じていたロマノス3世は将軍たちの忠告を拒否した。そしてムカッリドを拘束し、7月27日に軍を率いてアザーズ︵ギリシア語ではアザジオン︶へ向かった[25]。ハッサーンに対しては同時に皇帝の権威の印として槍を送り、配下の者とともに待機して自分の到着を待つように指示した[22]。プセルロスはこの決定について、ロマノス3世は﹁戦争は軍隊の多募によって決すると考え、皇帝が頼りにしていたのは大規模な軍勢にあった﹂と記している[26][27]。ビザンツ軍はアザーズに近い不毛な平原に野営し、野営地の周囲に防御のための深い塹壕を掘った[17]。その一方でナスルとスィマールは戦争への準備を進めた。両者は一族をアレッポから避難させ、キラーブ族とその他のベドウィンの部族の戦士、特にヌマイル族の戦士を招集し、さらにはジハード︵聖戦︶の呼びかけの下でアレッポと周囲の農村地帯のイスラーム教徒の住民を動員した[25]。動員された部隊の大部分はアレッポとその城塞を守っていたスィマールの指揮下に入った。一方でナスルが率いた残りの部隊は全て軽武装のキラーブ族とヌマイル族の騎兵で構成され、ナスルの部隊がビザンツ軍と対決するために出発した[25][24]。
ナスルの部隊についてのアラブ側の史料の説明はさまざまである。アレッポの年代記作者のイブン・アル=アディームとアル=アズィーミー︵1160年代没︶は騎兵の数を923人と記録し、イブン・アビール=ダム︵1244年没︶は700人、エジプトのアル=マクリーズィー︵1442年没︶は2,000人と記録しているものの、イブン・アル=ジャウズィー︵1201年没︶は100人の騎兵と1,000人の歩兵を記録している。ザッカールの見解では、ナスルの部隊は全て騎兵で構成されていたとほぼすべての史料が主張しているため、イブン・アル=ジャウズィーの数字は非常に疑わしいとしている[28]。ビザンツ軍の規模は現代の学者によっておよそ20,000人と推定されており、軍隊には多くの外国人の傭兵が含まれていた[27]。ナスルの部隊の比較的正確な数とは対照的に、アラブの年代記作者はビザンツ軍の規模について300,000人または600,000人という現実的とは言い難い数字を記録している[28]。
アザーズで敗走するビザンツ軍をアラブ人が追撃する様子を描いたマド リード・スキュリツェスの細密画
ビザンツ軍はアザーズに近いトゥバルに防御を固めた野営地を設営し[22]、ロマノス3世はこの一帯の偵察のために指揮官でパトリキオスのレオン・コイロスファクテスが率いるエクスクービテース軍団を派遣した[8][27][19]。しかし、コイロスファクテスは奇襲を受けて捕えられ[8][27][19]、ほとんどの配下の者が殺されるか捕虜となった[29]。この成功はアラブ人の士気を高め、防御された野営地の外に位置していたと思われる市場を焼き払ってビザンツ側の食糧の調達を阻止し、8月8日にはロマノス3世の野営地へ攻撃を加え始めた[8][22][27]。その結果、ビザンツ軍は飢えと、特に喉の渇きに苦しみ始めた[8][27]。そしてコンスタンティノス・ダラッセノスがアラブ人に対する攻撃を率いたものの、敗北して野営地へ逃げ戻った[30][19]。
ビザンツ軍は意気消沈し、8月9日に皇帝の評議で軍事作戦を放棄してビザンツの領土へ引き返すことを決定した[22][30]。また、ロマノス3世は自軍の攻城兵器を焼却するように命じた[22][29]。翌8月10日の朝に軍隊はアンティオキアへ向けて撤退を始めたものの[27]、アルメニア人の傭兵が撤退の機会を利用して野営地の物資の略奪を始めたために軍の統制が崩れた[27][29]。この事態は塹壕を守っていた兵士たちが身の安全を図って野営地から逃げ出したことでさらなる混乱を引き起こした[29]。ナスルはこの混乱に付け込んでキラーブ族の部隊を率いて退却するビザンツ軍へ奇襲攻撃を加えた[29]。プセルロスは、アラブ人が集団を分散させて攻撃を加えたことで大軍による攻撃であるかのような錯覚を生み出し、ビザンツ軍を混乱に陥れて兵卒にパニックを引き起こしたと記録している[26]。ほとんどのビザンツ軍の部隊が喉の渇きと赤痢によって疲弊していたために、軍隊は崩壊して逃走した[30]。プセルロスはこの時の様子を次のように記している。
かつて全世界を平定し、戦争の備えと戦闘陣形において全ての蛮族の大軍に対して無敵であった軍勢が、その時は敵を目にすることすら耐えられず、彼らの声の轟きだけで耳と魂を縮みあがらせて、全軍が雪崩をうって敗走に転じたのであった。[31]
ビザンツ軍の敗走中に関する出来事は史料によって説明が異なっている。スキュリツェスによれば、皇帝の護衛部隊であるヘタイレイアだけが規律を維持し、ほとんど捕らえかけられていたロマノス3世は部隊の抵抗によって逃亡に成功した[32]。一方でプセルロスは皇帝の護衛部隊が逃走し、﹁後ろを振り返ることすらせずに皇帝を見捨てた﹂と記録している[26][33]。さらに、スキュリツェスはビザンツ軍が﹁悲惨な敗走﹂に苦しみ、いくつかの部隊では無秩序な集団暴走の中で兵士たちが仲間同士で殺されたと記しているが[32]、ヤフヤー・アル=アンターキーはビザンツ軍は意外にもほとんど人的消耗を被らなかったと記録している[34]。ヤフヤーによれば、高い立場にあったビザンツ軍の軍人の中で死亡したのは二人の指揮官のみであり、さらにもう一人の指揮官がアラブ人によって捕らえられた[34]。
アラブ人はビザンツ軍が慌しく逃走した際に放棄された無傷な状態の軍隊の荷車を含む[27]、多大な戦利品を手に入れた[26]。伝えられるところによれば、戦利品の中には70頭のラクダに乗せなければならなかった程の財宝と豪華な皇帝の天幕が含まれていた[22]。歴史家のティエリ・ビアンキによれば、ナスルとヌマイル族の同盟軍の間だけで金貨を運ぶ300頭のラバを捕獲した[4]。ビザンツ側では軍事行動において皇帝たちが伝統的に持ち運んでいたテオトコスの聖なるイコンだけが守られた[35][36]。
エデッサの占領後にアラブ人の攻撃からゲオルギオス・マニアケスの部 隊が要塞を守る様子を描いたマドリード・スキュリツェスの細密画
この戦役におけるビザンツ軍の敗北は、およそ40年後に起こったマラズギルトの戦いの時とは異なり、まだ十分な国力を有していたビザンツ帝国にとって長期に及ぶ後退にはつながらなかった[31][37]。一方のミルダース朝、ファーティマ朝、そしてバグダードを本拠地とするアッバース朝は、アラブ側の勝利を活用することができなかった[37]。ロマノス3世はコンスタンティノープルへ帰還したものの、一方でアンティオキアにカテパノとドメスティコス・トーン・スコローン︵スコライ軍団司令長官︶としてそれぞれニケタス・ミステイアとプロトヴェスティアリオス︵宦官の官位一つ︶のシュメオンを残し、より涼しい気候で水の入手が容易な年の後半に遠征を再度実行するように命じた[36][38]。一方でファーティマ朝はビザンツ帝国の失敗に付け込んでアヌーシュタキーン・アッ=ディズバリーがジャッラーフ家とカルブ族の協力者を攻撃したものの、10月にボスラでの戦いで敗北するという結果に終わった[36]。
ロマノス3世の失敗は、アザーズでのビザンツ軍への勝利から引き返してきた800人のアラブ人に対するテルークの長官であるゲオルギオス・マニアケスの勝利によって部分的に緩和された。勝利の余勢を駆ったアラブ人はマニアケスに自身の領地を明け渡すように要求した。マニアケスは最初は応じるように見せ掛けてアラブ人に食糧や水を送ったが、その後攻撃を加えてアラブ人を圧倒した[39]。マニアケスの成功の後、アザーズの戦いの余波でビザンツ帝国の支配に対して立ち上がったアラブ人の国境地帯の領主とマラキヤ︵タルトゥースとバニヤースの間に位置する海沿いの町︶の国境の砦の占領を目指すファーティマ朝に対するビザンツ軍の抵抗が続いた。ニケタスとシュメオンはこれらの攻撃をうまく退け、12月には短い包囲戦の後にアザーズを含むいくつかの要塞を次々に占領し、ビザンツ軍が数ヶ月前に敗北したトゥバルは灰燼に帰した。続く2年間にビザンツ軍は組織的に丘陵地帯に位置する現地の部族の砦を占領して支配下に置き、シリアにおけるビザンツ帝国の地位を回復させた[36][40][41]。東方でのビザンツ帝国の復活は1031年にマニアケスがエデッサを占領したことで最高潮に達した[42][43]。
一方のミルダース朝ではナスルがスィマールを本人がアレッポを離れていた間に追放し、その後単独でアレッポを支配した[43][44]。しかしながら、この行動は結果的にスィマールとキラーブ族の間におけるスィマールの支持者による脅威を招くことになり、ナスルはビザンツ帝国に許しと保護を求める必要に迫られた[44]。さらに、ビザンツ軍の敗北後の1031年には、ナスルの競合勢力であるハッサーン・ブン・ムファッリジュが率いるタイイ族と、ラーフィ・ブン・アビール=ライルが率いるカルブ族が、ロマノス3世の招きに応じてアンティオキアの南東に位置するルージュ平原に20,000人に及ぶ部族民を引き連れて移住してきた。ナスルはこれによってさらなる脅威さらされることになった[45][46]。ナスルは強力な隣人であるビザンツ帝国の敵意を取り除くために、1031年4月に息子のアムルをコンスタンティノープルへ派遣し、ビザンツ帝国に対して従属国と臣下の立場に戻る条約の締結を求めた[40][41][47]。これに応じて結ばれた条約では、ナスルはビザンツ帝国へ年間500,000ディルハムの貢納を求められ、一方で侵略を受けた場合にはビザンツ帝国がナスルを支援することを義務付けていた[48]。この合意は、1032年にニケタスとナスルによるアラー山で発生したドゥルーズ派の反乱に対する共同での鎮圧につながった[49]。ミルダース朝の兄弟間の紛争は、ナスルがアレッポからシリアを統治し、スィマールがラフバからメソポタミア方面を統治する形でキラーブ族の指導者がアミール政権を分割する調停を成立させたことで収束することになった[44]。
その後、1038年にアヌーシュタキーンがハマーの近郊における戦いでナスルを破って戦死させ、アレッポをも占領したものの、スィマールが後にミルダース朝によるアレッポの支配を回復した[50][51]。ミルダース朝は時折中断を挟みながらも1080年までアレッポの支配を維持した[24]。一方でロマノス3世は1032年に再び東方への遠征を実行に移したが、進軍中に首都で陰謀事件が発生したことで中止を余儀なくされ、さらには皇后のゾエとパフラゴニア家の一派がロマノス3世支持派の勢力を駆逐した。その結果、権威の低下と孤立化に陥ったロマノス3世は1034年4月11日にパフラゴニア家のミカエルによって浴場で溺死させられ、ミカエルがミカエル4世︵在位‥1034年 - 1041年︶として帝位につくことになった[52]。
背景
969年10月28日にアンティオキアが将軍のミカエル・ブルツェスが率いるビザンツ帝国軍によって陥落した[1]。その後、アレッポのアミール政権は同年にビザンツ帝国との間で条約を結び、条約締結以降はビザンツ帝国に臣従していた。しかし、ビザンツ皇帝バシレイオス2世︵在位‥976年 - 1025年︶の死の数年前にアレッポの政権はエジプトのファーティマ朝の宗主権下に入った。新興のミルダース朝︵1025年 - 1080年︶がアレッポの支配権を獲得するまでの間に、アレッポとシリア北部に対するビザンツ帝国の影響力は全般的に大きく低下していた[2][3]。1029年にパレスチナで発生したウクフワーナの戦いでミルダース朝のアミールであるサーリフ・ブン・ミルダースがファーティマ朝軍に敗れて戦死した後、サーリフの若い息子のナスルとスィマールが後継者となった[4]。その一方でアンティオキアのビザンツ帝国のカテパノ︵国境地域の軍を統括する指揮官︶であるミカエル・スポンデュレスが、サーリフの後継者たちの経験不足をミルダース朝の領土を保護下に置く機会と捉えてこの状況を利用しようとした[4]。さらにスポンデュレスは、イスラーム教徒の集団による沿岸地帯の山地内への要塞の建設と、マアッラト・アン=ヌウマーンにおける宗教対立に起因するイスラーム教徒とキリスト教徒の衝突に苛立ちを募らせていた[4]。そして皇帝のロマノス3世アルギュロス︵在位‥1028年 - 1034年︶に報告することなくミルダース朝に対して独断でビザンツ軍を差し向けた。しかし、派遣された軍隊は1029年7月のキーバールでの戦闘でキラーブ族の軍隊によって壊滅させられた[4][5]。ミルダース朝の母体となったキラーブ族はシリア北部で最も強力なアラブ部族であり、ミルダース朝の軍隊の中核を形成していた[6]。 その後、ロマノス3世がミルダース朝への攻撃に乗り出すことになったものの、その動機についてはさまざまな説明が存在する[7]。ロマノス3世はスポンデュレスを解任したが[7]、中世のアラブの年代記作者であるヤフヤー・アル=アンターキー︵1066年頃没︶とイブン・アル=アディーム︵1262年没︶は、ロマノス3世がスポンデュレスの敗北への復讐を決意したために行動を起こしたと説明している[4]。一方、同時代のビザンツ帝国の歴史家であるヨハネス・スキュリツェスとミカエル・プセルロスは、この目前に迫っていた軍事行動はロマノス3世の栄光を追い求めようとする動機に基づいていたと述べている。文官出身のロマノス3世は軍事経験を完全に欠いていたにもかかわらず、あるいはむしろそのためにバシレイオス2世を始めとする前任者たちの行為を模倣することに熱心であった。プセルロスによれば、ロマノス3世はトラヤヌスやアウグストゥスといった古代のローマ皇帝、さらにはアレクサンドロス大王とすら競うことを望んでいた[8][9][10]。 現代の歴史家であるスハイル・ザッカールは、これらのすべての説明は慎重に扱う必要があると指摘した上で、ビザンツ帝国にとって主要なアラブの敵対勢力であるファーティマ朝がサーリフ・ブン・ミルダースが死亡したばかりであったアレッポを征服する可能性があるとロマノス3世が考えていたために、ファーティマ朝からのアレッポの独立を確保しようと行動を起こした可能性が最も高いと主張している[11]。この主張は、おそらくロマノス3世がミルダース朝に代わってアレッポの統治者の地位に据えようと考えていた、かつてのアレッポの支配者でありミルダース朝の敵対者であるマンスール・ブン・ルウルウが皇帝の随員の中に含まれていたことを根拠の一つにしている[11]。一方でビザンツ学者の根津由喜夫は、ビザンツ帝国内の政治力学的視点から、ロマノス3世が自己の権威の確立のために小アジアの有力な軍事貴族で潜在的な対抗者であったコンスタンティノス・ダラッセノスを超える軍事的実績を残そうしていたとするものや[12][注 1]、儀礼的な戦争行為の成果による国威発揚と権力基盤の強化といった動機を挙げている[14]。また、ロマノス3世はナスルとスィマールに送った書簡の中で、ミルダース朝のアミールの﹁敵対者たちが…二人の﹁若さ﹂を理由に都市を奪い取るかもしれない﹂と懸念を示し、報酬と引き換えにアレッポを引き渡すように要求した[15]。戦いの序章
戦闘
戦いの余波
脚注
注釈
出典
- ^ Honigmann 1935, p. 94.
- ^ Wortley 2010, pp. 357–358.
- ^ Stevenson 1926, pp. 242, 255–256.
- ^ a b c d e f Bianquis 1993, p. 117.
- ^ 太田 1992, p. 334.
- ^ Bianquis 1993, pp. 115, 117.
- ^ a b Zakkar 1971, p. 109.
- ^ a b c d e f Wortley 2010, p. 359.
- ^ Sewter 1953, pp. 42–43.
- ^ 根津 1991, p. 261.
- ^ a b Zakkar 1971, p. 111.
- ^ 根津 1991, pp. 274–275, 289.
- ^ 根津 1991, pp. 260–261, 272.
- ^ 根津 1991, p. 291.
- ^ Zakkar 1971, pp. 111–112.
- ^ a b c 根津 1991, p. 283.
- ^ a b c Zakkar 1971, p. 112.
- ^ a b Sewter 1953, p. 42.
- ^ a b c d 根津 1991, p. 284.
- ^ Wortley 2010, pp. 358–359.
- ^ 太田 1992, p. 337.
- ^ a b c d e f g Halm 2003, p. 341.
- ^ Zakkar 1971, pp. 117–118.
- ^ a b c Bianquis 1993, p. 122.
- ^ a b c Zakkar 1971, p. 113.
- ^ a b c d Sewter 1953, p. 43.
- ^ a b c d e f g h i Shepard 2010, p. 102.
- ^ a b Zakkar 1971, p. 114.
- ^ a b c d e Zakkar 1971, p. 116.
- ^ a b c Wortley 2010, pp. 359–360.
- ^ a b 根津 1991, p. 285.
- ^ a b Wortley 2010, p. 360.
- ^ Zakkar 1971, p. 117.
- ^ a b Wortley 2010, p. 360 (note 36).
- ^ Sewter 1953, p. 44.
- ^ a b c d Halm 2003, p. 342.
- ^ a b Zakkar 1971, p. 118.
- ^ Wortley 2010, pp. 361–362.
- ^ Wortley 2010, pp. 360–361.
- ^ a b Wortley 2010, pp. 361–362, 363.
- ^ a b Stevenson 1926, pp. 256–257.
- ^ Wortley 2010, p. 365.
- ^ a b Halm 2003, p. 343.
- ^ a b c Zakkar 1971, pp. 107–108.
- ^ Zakkar 1971, p. 119.
- ^ Canard 1965, p. 484.
- ^ Halm 2003, pp. 342–343.
- ^ Zakkar 1971, pp. 107–108, 119.
- ^ Halm 2003, pp. 328, 343.
- ^ Bianquis 1993, p. 118.
- ^ 太田 1992, pp. 344–345, 363.
- ^ 根津 1991, pp. 285–287.