ドゥルーズ派
シーア派 |
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教説 |
イマーム • マフディー ガイバ • タキーヤ |
分派 |
十二イマーム派 |
イマーム |
アリー • ハサン • フサイン |
ドゥルーズ派︵ドゥルーズは、アラビア語: الدرزية, al-Durūzīya︶は、レバノンを中心に、シリア・イスラエル・ヨルダンなどに存在するイスラム教︵イスラーム︶系の宗教共同体。レバノン内戦時は、キリスト教徒のマロン派と激しく対立した。
歴史的にはシーア派の一派イスマーイール派から分派したものだが、教義からみてシーア派の枠内に収まるかは微妙で、イスラム第三の宗派と呼ばれることもある。さらにイスラム教の枠に収まるかも怪しいと考えられ、多くのムスリム︵イスラム教徒︶はドゥルーズ派はイスラムではないと考えている。
ドゥルーズ派共同体の成員は民族的にはアラブ人で、中東全域でおよそ100万人が存在するとされる。北アメリカ・南アメリカ・ヨーロッパなどにも海外共同体が存在する。ドゥルーズ派はまた、その成立に至る経緯や彼らの居住地域において単独で多数派を形成しきれず、他宗教・他宗派と対立・協調を繰り返してきたことから、全体として世俗的・進歩的な政治スタンスを支持する傾向がある。
歴史[編集]
ドゥルーズ派の源流は、8世紀にシーア派の主流派の十二イマーム派から分離して生まれたイスマーイール派である。10世紀にイスマーイール派はチュニジアでファーティマ朝を建国し、イマームがそのカリフを称した。ファーティマ朝のもとでのイスマーイール派の教説の展開の中で、10世紀末に即位した第6代カリフ、ハーキムの治世に彼を神格化するグループがあらわれ、事実上ファーティマ朝の多数派から分派した。
1021年、ハーキムが失踪すると、イスマーイール派の従来の教義を堅持する多数派の巻き返しが起こり、ハーキムを神格化するドゥルーズ派は弾圧を受け、ファーティマ朝の支配するエジプトを追われてシリア地方の山岳地帯に宣教の場を見出した。彼らはグノーシス主義の影響を受けたとみられる独自の教理を発展させ、他のムスリムから厳しく異端視されるようになっていった。
ドゥルーズ派はレバノン山地などの山岳地帯でジュンブラート家・アルスラーン家などいくつかの有力家系を指導者として結束し、少数派でありながらオスマン帝国時代から近代にかけてレバノン・シリアの政治の表舞台にたって活動した。19世紀前半にはレバノン山地北部に共同体を形成するキリスト教徒のマロン派と激しく対立し、カトリックに近いマロン派にはフランスが後援者としてついた関係から、イギリスがドゥルーズ派を後援するという国際紛争にまで発展、とくに1860年には激しい衝突を起こした。オスマン帝国解体後の1925年にはシリア地方を統治するフランスに対する反乱を起こし、シリア地方全域を巻き込む反仏闘争のきっかけをつくっている。
第二次世界大戦後はジュンブラート家のカマール・ジュンブラートとワリード・ジュンブラートの父子が世俗主義を掲げる進歩社会党を結成、国家の世俗化による権利向上を目指したドゥルーズ派の運動の指導者となり政府の要職を歴任、1975年から始まるレバノン内戦でも大きな役割を果たした。
五色旗やイスラエル国旗を掲げるドゥルーズ派のボーイスカウト・ガー ルスカウト
イスラエルにおいてもごく少数ながらジュリスなどにドゥルーズ派の住民たちが存在している。ドゥルーズコミュニティは、イスラエル多数派のユダヤ人と﹁血の盟約﹂を結び、ドゥルーズ派の男性はイスラム教徒やキリスト教徒のアラブ人とは異なりイスラエル国防軍における兵役義務がある。2008年のテルアビブ大学によるドゥルーズコミュニティの若者に対する調査では、94%が﹁ドゥルーズ系イスラエル人﹂と自認している。