「イニャツィオ・シローネ」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
(4人の利用者による、間の5版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
[[ファイル:Silone.JPG|代替文=イニャツィオ・シローネ 戦後撮影された写真|サムネイル|イニャツィオ・シローネ]] |
[[ファイル:Silone.JPG|代替文=イニャツィオ・シローネ 戦後撮影された写真|サムネイル|イニャツィオ・シローネ]] |
||
'''イニャツィオ・シローネ'''(Ignazio Silone、[[1900年]][[5月1日]] - [[1978年]][[8月22日]])は、[[イタリア]] |
'''イニャツィオ・シローネ'''(Ignazio Silone、[[1900年]][[5月1日]] - [[1978年]][[8月22日]])は、[[イタリア]]の[[小説家]]、[[政治家]]。[[本名]]は'''セコンディーノ・トランクィッリ''' Secondino Tranquilli だが、戦後、本名でも[[ペンネーム]]であったイニャツィオ・シローネを採用。 |
||
[[1965年]]に『非常口』Uscita di sicurezza でマルツォット賞を、[[1968年]]に『あるつつましきキリスト教徒の冒険』L'avventura d'un povero cristiano でスーパー・[[カンピエッロ賞]]、また、[[1969年]]には[[エルサレム賞]]を受賞している。 |
[[1965年]]に『非常口』Uscita di sicurezza でマルツォット賞を、[[1968年]]に『あるつつましきキリスト教徒の冒険』L'avventura d'un povero cristiano でスーパー・[[カンピエッロ賞]]、また、[[1969年]]には[[エルサレム賞]]を受賞している。 |
||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
||
[[アブルッツォ州]][[ペシーナ]]の小土地所有農家に生まれる。[[1911年]]に父を亡くし、[[1915年]]にはアブルッツォ州で起きた[[アベッツァーノ地震|アヴェッツァーノ地震]]で母をも失って、弟ロモロとともに孤児となる。 |
|||
17歳で |
17歳でアブルッツォ地方の農業[[労働組合]]の[[書記長]]に抜擢され、大地震後の復興事業を巡る不正を告発。間もなく学業を中断、ローマに移住して、本格的に政治活動を開始。[[イタリア社会党]]の青年部総会で週刊の[[機関誌]]「ラヴァングアルディア」の[[編集長]]に任命された。[[1919年]]に、北イタリアの[[トリノ]]で[[アントニオ・グラムシ]]に出会い、[[1921年]]1月、[[イタリア共産党]]の結成に参加。[[ソ連]]をはじめ、[[欧州]]各地の国際会議に頻繁に参加するとともに、[[トリエステ]]で党の[[機関紙]]『イル・ラヴォラトーレ』の編集などに携わる。以後も、党の機関誌上で活発な執筆活動を行う。 |
||
[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]の[[ファシズム]]政権下で、[[共産党]]が非合法となると、弾圧を受けながらも、[[パルミロ・トリアッティ]]らとともにイタリア国内、次いで亡命先の欧州都市で地下活動を継続。しかし、[[1929年|1927年]]以降、顕著になり始めていた[[スターリニズム]]を目の当たりにし批判を強め、[[1931年]]、ついにイタリア共産党から除名された{{Efn|トリアッティに対しシローネは「最後の闘争は共産主義者と共産主義の転向者の間で行われることになるだろう」と冗談めかして伝えたことがあったという<ref>{{Cite book|和書|author=I・ドイッチャー|year=1958|title=変貌するソヴェト|publisher=みすず書房|pages=P.136}}</ref>。}}。 |
[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]の[[ファシズム]]政権下で、[[共産党]]が非合法となると、弾圧を受けながらも、[[パルミロ・トリアッティ]]らとともにイタリア国内、次いで亡命先の欧州都市で地下活動を継続。しかし、[[1929年|1927年]]以降、顕著になり始めていた[[スターリニズム]]を目の当たりにし批判を強め、[[1931年]]、ついにイタリア共産党から除名された{{Efn|トリアッティに対しシローネは「最後の闘争は共産主義者と共産主義の転向者の間で行われることになるだろう」と冗談めかして伝えたことがあったという<ref>{{Cite book|和書|author=I・ドイッチャー|year=1958|title=変貌するソヴェト|publisher=みすず書房|pages=P.136}}</ref>。}}。 |
||
13行目: | 13行目: | ||
1930年、肺病を病み、[[スイス]]で療養。そのままこの地が亡命先となり、1944年、[[ナチス・ドイツ軍]]の占領下にあった[[ローマ]]が開放されてまもなく帰国するまで、主として[[チューリッヒ]]に滞在。療養中に、余命わずかと信じて書いた小説『フォンタマーラ』(1933年)が、世界的なベストセラーとなる{{Efn| ロシアの革命家[[レフ・トロツキー]]は1933年にこの小説の書評の中で「この本の部数を広めるのを助けるのは、すべての革命家の義務である」と述べた<ref>{{Cite book|和書|author=L・トロツキー|year=1978|title=革命の想像力|publisher=柘植書房|pages=P.135}}</ref>。}}。中立の維持に神経をとがらせるスイス政府の厳しい検閲下、小説『パンと葡萄酒』(1937年、邦訳1951年)、『雪の下の種』(1941年)ほか、戯曲『そして、彼は隠れた』(1943年)やエッセイ『独裁者の学校』(邦題『[http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN4-00-024121-4 独裁者になるために]』)などの文学作品を発表。その傍ら、[[ナチス・ドイツ]]から逃れてきた[[バウハウス]]の芸術家や文化人とともに総合文化誌《インフォルマシオン》の刊行などにも携わる。[[フランス]]がナチス軍に占領された後は、亡命で離散していたイタリア社会党の再建を陸の孤島となったスイスで指揮し、亡命者に政治活動を禁じるスイスの法律に違反した廉で投獄されたが、国際的な支援によるスイス政府への圧力が功を奏しファシズムの支配するイタリアへの身柄引き渡しは免れる。 |
1930年、肺病を病み、[[スイス]]で療養。そのままこの地が亡命先となり、1944年、[[ナチス・ドイツ軍]]の占領下にあった[[ローマ]]が開放されてまもなく帰国するまで、主として[[チューリッヒ]]に滞在。療養中に、余命わずかと信じて書いた小説『フォンタマーラ』(1933年)が、世界的なベストセラーとなる{{Efn| ロシアの革命家[[レフ・トロツキー]]は1933年にこの小説の書評の中で「この本の部数を広めるのを助けるのは、すべての革命家の義務である」と述べた<ref>{{Cite book|和書|author=L・トロツキー|year=1978|title=革命の想像力|publisher=柘植書房|pages=P.135}}</ref>。}}。中立の維持に神経をとがらせるスイス政府の厳しい検閲下、小説『パンと葡萄酒』(1937年、邦訳1951年)、『雪の下の種』(1941年)ほか、戯曲『そして、彼は隠れた』(1943年)やエッセイ『独裁者の学校』(邦題『[http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN4-00-024121-4 独裁者になるために]』)などの文学作品を発表。その傍ら、[[ナチス・ドイツ]]から逃れてきた[[バウハウス]]の芸術家や文化人とともに総合文化誌《インフォルマシオン》の刊行などにも携わる。[[フランス]]がナチス軍に占領された後は、亡命で離散していたイタリア社会党の再建を陸の孤島となったスイスで指揮し、亡命者に政治活動を禁じるスイスの法律に違反した廉で投獄されたが、国際的な支援によるスイス政府への圧力が功を奏しファシズムの支配するイタリアへの身柄引き渡しは免れる。 |
||
[[ファイル:Tomba di Silone.JPG|代替文=Ignazio Silone_Tomba a Pescina|サムネイル|Tomba di Ignazio Silone]] |
[[ファイル:Tomba di Silone.JPG|代替文=Ignazio Silone_Tomba a Pescina|サムネイル|Tomba di Ignazio Silone]] |
||
[[第二次世界大戦]]直後は、イタリア社会党の幹部として、憲法制定議会議員に選出され、党の機関誌『[[アヴァンティ |
[[第二次世界大戦]]直後は、イタリア社会党の幹部として、憲法制定議会議員に選出され、党の機関誌『[[アヴァンティ]] Avanti!』の編集長なども務めるが、間もなく政党間の駆け引きに失望、1950年代半ばからは文筆活動に専念。戦後は、亡命先で出版した作品に大幅に加筆、ほぼ新しい作品として上梓するとともに、新たな小説、エッセイを発表。 |
||
スイス亡命時代から育んだ世界各国の知識人たちとの親交も生かし、世界的な見地と知己を持つ雑誌﹃テンポ・プレゼンテ︵現代︶﹄を創刊、編集の手腕を発揮する一方、冷戦下で東西の文化人の対話を促し、また、作家の自由、政治的独立を守る活動のために尽力した。イタリア・[[国際ペンクラブ|ペンクラブ]]の会長も歴任。
|
|||
[[1969年]]、[[エルサレム賞]]を受賞。小説の多くは映画やテレビドラマ化されている。 |
[[1969年]]、[[エルサレム賞]]を受賞。小説の多くは映画やテレビドラマ化されている。 |
||
39行目: | 41行目: | ||
=== 日本語訳 === |
=== 日本語訳 === |
||
*『 |
*『パリへの旅』([[菅泰男]]訳、世界文学社、1946年)、短編集 |
||
*『パリへの旅』(短編集、[[菅泰男]]訳、世界文学社、1946年) |
|||
*『パンと葡萄酒』([[山室静]]・[[橋本福夫]]訳、月曜書房、1951年) |
*『パンと葡萄酒』([[山室静]]・[[橋本福夫]]訳、月曜書房、1951年) |
||
*『フォンタマーラ』(奥野拓哉訳、岩波書店「岩波現代叢書」、1952年)、原書は1949年版 |
|||
*『葡萄酒とパン』([[齋藤ゆかり]]訳、[[白水社]]、2000年) |
*『葡萄酒とパン』([[齋藤ゆかり]]訳、[[白水社]]、2000年) |
||
*『[https://www.iwanami.co.jp/book/b264478.html 独裁者になるために]』( |
*『[https://www.iwanami.co.jp/book/b264478.html 独裁者になるために]』(齋藤ゆかり訳、[[加藤周一]]解説、[[岩波書店]]、2002年)、原書は1962年版 |
||
*『フォンタマーラ』(齋藤ゆかり訳、[[光文社古典新訳文庫]]、2021年 |
*『フォンタマーラ』(齋藤ゆかり訳、[[光文社古典新訳文庫]]、2021年) |
||
==参考文献== |
==参考文献== |
||
* Silone Romanzi e saggi, a cura di Bruno Falcetto, Mondadori, Milano, 1998 |
* Silone Romanzi e saggi, a cura di Bruno Falcetto, Mondadori, Milano, 1998 |
||
* |
* シローネ「葡萄酒とパン」(白水社)、齋藤ゆかりの訳者あとがき |
||
* Luce d’Eramo, Ignazio Silone, a cura di Yukari Saito, Castelvecchi, Roma, 2014 |
* Luce d’Eramo, Ignazio Silone, a cura di Yukari Saito, Castelvecchi, Roma, 2014 |
||
==注釈== |
== 注釈 == |
||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
{{Notelist}} |
{{Notelist}} |
||
== |
== 出典 == |
||
<references/> |
<references/> |
||
63行目: | 64行目: | ||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
⚫ | |||
{{典拠管理}} |
|||
⚫ | |||
{{Normdaten}} |
|||
{{DEFAULTSORT:しろおね いにやついお}} |
{{DEFAULTSORT:しろおね いにやついお}} |
||
[[Category:イタリアの小説家]] |
[[Category:20世紀イタリアの小説家]] |
||
[[Category: |
[[Category:イタリアの政治家]] |
||
[[Category:アメリカ芸術文学アカデミー会員]] |
|||
[[Category:エルサレム賞受賞者]]<!-- 1969年 --> |
|||
[[Category:チーノ・デル・ドゥーカ世界賞の受賞者]]<!-- 1971年 --> |
|||
[[Category:アブルッツォ州出身の人物]] |
[[Category:アブルッツォ州出身の人物]] |
||
⚫ | |||
⚫ | |||
[[Category:イタリア共産党]] |
[[Category:イタリア共産党]] |
||
[[Category:イタリアの政治家]] |
|||
[[Category:イタリア社会主義]] |
[[Category:イタリア社会主義]] |
||
⚫ | |||
⚫ |
2023年5月18日 (木) 15:27時点における最新版
生涯[編集]
アブルッツォ州ペシーナの小土地所有農家に生まれる。1911年に父を亡くし、1915年にはアブルッツォ州で起きたアヴェッツァーノ地震で母をも失って、弟ロモロとともに孤児となる。 17歳でアブルッツォ地方の農業労働組合の書記長に抜擢され、大地震後の復興事業を巡る不正を告発。間もなく学業を中断、ローマに移住して、本格的に政治活動を開始。イタリア社会党の青年部総会で週刊の機関誌﹁ラヴァングアルディア﹂の編集長に任命された。1919年に、北イタリアのトリノでアントニオ・グラムシに出会い、1921年1月、イタリア共産党の結成に参加。ソ連をはじめ、欧州各地の国際会議に頻繁に参加するとともに、トリエステで党の機関紙﹃イル・ラヴォラトーレ﹄の編集などに携わる。以後も、党の機関誌上で活発な執筆活動を行う。 ムッソリーニのファシズム政権下で、共産党が非合法となると、弾圧を受けながらも、パルミロ・トリアッティらとともにイタリア国内、次いで亡命先の欧州都市で地下活動を継続。しかし、1927年以降、顕著になり始めていたスターリニズムを目の当たりにし批判を強め、1931年、ついにイタリア共産党から除名された[注釈 1]。 1930年、肺病を病み、スイスで療養。そのままこの地が亡命先となり、1944年、ナチス・ドイツ軍の占領下にあったローマが開放されてまもなく帰国するまで、主としてチューリッヒに滞在。療養中に、余命わずかと信じて書いた小説﹃フォンタマーラ﹄︵1933年︶が、世界的なベストセラーとなる[注釈 2]。中立の維持に神経をとがらせるスイス政府の厳しい検閲下、小説﹃パンと葡萄酒﹄︵1937年、邦訳1951年︶、﹃雪の下の種﹄︵1941年︶ほか、戯曲﹃そして、彼は隠れた﹄︵1943年︶やエッセイ﹃独裁者の学校﹄︵邦題﹃独裁者になるために﹄︶などの文学作品を発表。その傍ら、ナチス・ドイツから逃れてきたバウハウスの芸術家や文化人とともに総合文化誌︽インフォルマシオン︾の刊行などにも携わる。フランスがナチス軍に占領された後は、亡命で離散していたイタリア社会党の再建を陸の孤島となったスイスで指揮し、亡命者に政治活動を禁じるスイスの法律に違反した廉で投獄されたが、国際的な支援によるスイス政府への圧力が功を奏しファシズムの支配するイタリアへの身柄引き渡しは免れる。作品[編集]
日本語訳[編集]
●﹃パリへの旅﹄︵菅泰男訳、世界文学社、1946年︶、短編集 ●﹃パンと葡萄酒﹄︵山室静・橋本福夫訳、月曜書房、1951年︶ ●﹃フォンタマーラ﹄︵奥野拓哉訳、岩波書店﹁岩波現代叢書﹂、1952年︶、原書は1949年版 ●﹃葡萄酒とパン﹄︵齋藤ゆかり訳、白水社、2000年︶ ●﹃独裁者になるために﹄︵齋藤ゆかり訳、加藤周一解説、岩波書店、2002年︶、原書は1962年版 ●﹃フォンタマーラ﹄︵齋藤ゆかり訳、光文社古典新訳文庫、2021年︶参考文献[編集]
●Silone Romanzi e saggi, a cura di Bruno Falcetto, Mondadori, Milano, 1998 ●シローネ﹁葡萄酒とパン﹂︵白水社︶、齋藤ゆかりの訳者あとがき ●Luce d’Eramo, Ignazio Silone, a cura di Yukari Saito, Castelvecchi, Roma, 2014注釈[編集]
出典[編集]
- ^ I・ドイッチャー『変貌するソヴェト』みすず書房、1958年、P.136頁。
- ^ L・トロツキー『革命の想像力』柘植書房、1978年、P.135頁。
- ^ “Cronologia – Amici Silone” (イタリア語). 2020年5月22日閲覧。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- Amici Silone (イタリア語+一部英語)