「イニャツィオ・シローネ」の版間の差分
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[[1919年]]に、北イタリアの[[トリノ]]で[[アントニオ・グラムシ]]に出会い、[[1921年]][[1月|1月]]、[[イタリア共産党]]の結成に参加。[[ソ連]]をはじめ、[[欧州]]各地の国際会議に頻繁に参加するとともに、[[トリエステ]]で党の[[機関紙]]『イル・ラヴォラトーレ』の編集に携わる。以後も、党の機関誌上で活発な執筆活動を行う。 |
[[1919年]]に、北イタリアの[[トリノ]]で[[アントニオ・グラムシ]]に出会い、[[1921年]][[1月|1月]]、[[イタリア共産党]]の結成に参加。[[ソ連]]をはじめ、[[欧州]]各地の国際会議に頻繁に参加するとともに、[[トリエステ]]で党の[[機関紙]]『イル・ラヴォラトーレ』の編集に携わる。以後も、党の機関誌上で活発な執筆活動を行う。 |
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[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]の[[ファシズム]][[政権]]下で、[[共産党]]が[[非合法]]となると、[[弾圧]]を受けながらも、[[パルミロ・トリアッティ]]らとともにイタリア国内、次いで[[亡命]]先の欧州都市で地下活動を続ける。しかし[[1929年]]に、顕著になり始めていた[[スターリニズム]]を目の当たりにして批判を強め、[[1931年]]、ついにイタリア共産党から[[除名]]された。 |
[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]の[[ファシズム]][[政権]]下で、[[共産党]]が[[非合法]]となると、[[弾圧]]を受けながらも、[[パルミロ・トリアッティ]]らとともにイタリア国内、次いで[[亡命]]先の欧州都市で地下活動を続ける。しかし[[1929年]]に、顕著になり始めていた[[スターリニズム]]を目の当たりにして批判を強め、[[1931年]]、ついにイタリア共産党から[[除名]]された{{Efn|トリアッティに対しシローネは「最後の闘争は共産主義者と共産主義の転向者の間で行われることになるだろう」と冗談めかして伝えたことがあったという<ref>{{Cite book|和書|author=I・ドイッチャー|year=1958|title=変貌するソヴェト|publisher=みすず書房|pages=P.136}}</ref>。}}。 |
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1930年、肺病を病み、スイスで療養。そのままこの地が亡命先となり、[[第二次世界大戦]]終了直後にイタリアに帰国するまで、主として[[チューリッヒ]]に滞在した。療養中に、余命わずかと信じて書いた小説﹃フォンタマーラ﹄︵1933年︶が、世界的なベストセラーとなる{{Efn| ロシアの革命家[[トロツキー]]は1933年にこの小説の書評の中で﹁この本の部数を広めるのを助けるのは、すべての革命家の義務である﹂と述べた<ref>{{Cite book|和書|author=L・トロツキー|year=1978|title=革命の想像力|publisher=柘植書房|pages=P.135}}</ref>。}}。中立の維持に神経をとがらせるスイス政府の厳しい[[検閲]]下、﹃パンと葡萄酒﹄︵1937年︶、﹃雪の下の種﹄︵1941年︶ほか、エッセイ﹃独裁者の学校﹄︵邦題﹃[http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN4-00-024121-4 独裁者になるために]﹄︶文学作品を発表。その傍ら、[[ナチス]]・[[ドイツ]]から逃れてきた[[バウハウス]]の芸術家や文化人とともに雑誌︽インフォルマシオン︾の刊行などにも携わった。[[フランス]]がナチス軍に[[占領]]された後、亡命で離散していたイタリア社会党の再建に一役買って、亡命者に政治活動を禁じるスイスの法律に違反した廉で投獄されたが、国際的な支援によるスイス政府への圧力が功を奏しファシズムの支配するイタリアへの身柄引き渡しは免れた。
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1930年、肺病を病み、スイスで療養。そのままこの地が亡命先となり、[[第二次世界大戦]]終了直後にイタリアに帰国するまで、主として[[チューリッヒ]]に滞在した。療養中に、余命わずかと信じて書いた小説﹃フォンタマーラ﹄︵1933年︶が、世界的なベストセラーとなる{{Efn| ロシアの革命家[[トロツキー]]は1933年にこの小説の書評の中で﹁この本の部数を広めるのを助けるのは、すべての革命家の義務である﹂と述べた<ref>{{Cite book|和書|author=L・トロツキー|year=1978|title=革命の想像力|publisher=柘植書房|pages=P.135}}</ref>。}}。中立の維持に神経をとがらせるスイス政府の厳しい[[検閲]]下、﹃パンと葡萄酒﹄︵1937年︶、﹃雪の下の種﹄︵1941年︶ほか、エッセイ﹃独裁者の学校﹄︵邦題﹃[http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN4-00-024121-4 独裁者になるために]﹄︶文学作品を発表。その傍ら、[[ナチス]]・[[ドイツ]]から逃れてきた[[バウハウス]]の芸術家や文化人とともに雑誌︽インフォルマシオン︾の刊行などにも携わった。[[フランス]]がナチス軍に[[占領]]された後、亡命で離散していたイタリア社会党の再建に一役買って、亡命者に政治活動を禁じるスイスの法律に違反した廉で投獄されたが、国際的な支援によるスイス政府への圧力が功を奏しファシズムの支配するイタリアへの身柄引き渡しは免れた。
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2020年3月8日 (日) 03:41時点における版
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