「キャロライン・オブ・ブランズウィック」の版間の差分
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ドイツの[[ブラウンシュヴァイク]]で生まれた。両親は不仲であり、父親は愛人と暮らしていた。[[ガヴァネス]]から教育を受けたが、十分と言えるものではなかった。1794年に[[プリンス・オブ・ウェールズ]]︵王太子︶のジョージと婚約した。
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ドイツの[[ブラウンシュヴァイク]]で生まれた。両親は不仲であり、父親は愛人と暮らしていた。[[ガヴァネス]]から教育を受けたが、十分と言えるものではなかった。1794年に[[プリンス・オブ・ウェールズ]]︵王太子︶のジョージと婚約した。
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[[1793年]]、王太子ジョージの借金は、再三の政府の埋め合わせにもかかわらず40万[[ポンド (通貨)|ポンド]]に達していた。国王の年間宮廷費が83万ポンドであるのに対し、その半分を彼の借金が占めるという有様である。おまけにジョージは、意中の年上の未亡人{{仮リンク|マリア・フィッツハーバート|label=フィッツハーバート夫人|en|Maria Fitzherbert}}と1785年に彼女の自宅で秘密裡に結婚式までしていた<ref name=nishiyama1/>。夫人は[[カトリック教会|カトリック教徒]]であったため、ローマ・カトリック教徒と結婚した場合には王位継承権を失うとする [[1701年王位継承法]]に触れる上、25歳未満の王族の結婚は国王の同意がなければ無効とする[[1772年]]発令の{{仮リンク|王室結婚令|en|Royal Marriage Act}}にかんがみてもこの結婚は無効だった<ref name=nishiyama1>{{Cite journal|和書|author=西山清 |title=プリンス・リージェントの功罪とキャロライン裁判の顛末(1) |journal=早稲田大学大学院教育学研究科紀要 |ISSN=1340-2226 |publisher=早稲田大学大学院教育学研究科 | |
[[1793年]]、王太子ジョージの借金は、再三の政府の埋め合わせにもかかわらず40万[[ポンド (通貨)|ポンド]]に達していた。国王の年間宮廷費が83万ポンドであるのに対し、その半分を彼の借金が占めるという有様である。おまけにジョージは、意中の年上の未亡人{{仮リンク|マリア・フィッツハーバート|label=フィッツハーバート夫人|en|Maria Fitzherbert}}と1785年に彼女の自宅で秘密裡に結婚式までしていた<ref name=nishiyama1/>。夫人は[[カトリック教会|カトリック教徒]]であったため、ローマ・カトリック教徒と結婚した場合には王位継承権を失うとする [[1701年王位継承法]]に触れる上、25歳未満の王族の結婚は国王の同意がなければ無効とする[[1772年]]発令の{{仮リンク|王室結婚令|en|Royal Marriage Act}}にかんがみてもこの結婚は無効だった<ref name=nishiyama1>{{Cite journal|和書|author=西山清 |title=プリンス・リージェントの功罪とキャロライン裁判の顛末(1) |journal=早稲田大学大学院教育学研究科紀要 |ISSN=1340-2226 |publisher=早稲田大学大学院教育学研究科 |date=2011-03 |volume=22 |pages=125-138 |naid=40019229466 |url=https://waseda.repo.nii.ac.jp/records/10655 |CRID=1050001202459787264}}</ref>。困り果てた父ジョージ3世は、正式な結婚を王太子に迫り、それを条件に借金の棒引きを持ちかけた。肖像画でその美貌が謳われていたキャロラインをジョージが選び、政略もあり結婚となった。
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[[ファイル:Caroline of Brunswick.jpg|left|150px|thumb|若い頃のキャロライン王妃]] |
[[ファイル:Caroline of Brunswick.jpg|left|150px|thumb|若い頃のキャロライン王妃]] |
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[[1795年]]、[[ロンドン]]に到着したキャロラインと面会したジョージは、彼女の強烈な体臭に面食らったという(日本ほど入浴の習慣のないヨーロッパでは体臭が当たり前だったが、キャロラインは風呂嫌いで有名だった)。キャロラインの方もジョージの異常な肥満体([[1791年]]には110kgあったという)に失望したという。3日後、[[セント・ジェームズ宮殿]]で結婚式が行われたが、式にのぞんだジョージはやけくそのように酔っぱらい、弟たちに左右を支えられて立っている有様であった。 |
[[1795年]]、[[ロンドン]]に到着したキャロラインと面会したジョージは、彼女の強烈な体臭に面食らったという(日本ほど入浴の習慣のないヨーロッパでは体臭が当たり前だったが、キャロラインは風呂嫌いで有名だった)。キャロラインの方もジョージの異常な肥満体([[1791年]]には110kgあったという)に失望したという。3日後、[[セント・ジェームズ宮殿]]で結婚式が行われたが、式にのぞんだジョージはやけくそのように酔っぱらい、弟たちに左右を支えられて立っている有様であった。 |
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[[1796年]]1月に長女[[シャーロット・オーガスタ・オブ・ウェールズ|シャーロット]]が生まれてすぐに2人は別居した。シャーロット王女は王家が養育し、母キャロラインから引き離された。1806年にキャロラインが不倫の子を産んだという噂が立てられ、シャーロット王女への面会が制限された<ref name=nishiyama1/>。キャロラインの不貞を調査した﹃ザ・ブック﹄が[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]によってまとめられ、これがキャロライン側についた[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]によりのちに公開されると、ジョージ4世の乱交ぶりが明らかとなり、キャロラインに国民の同情が集まった<ref name=nishiyama2>{{Cite journal|和書|author=西山清 |title=プリンス・リージェントの功罪とキャロライン裁判の顛末(2) |journal=早稲田大学大学院教育学研究科紀要 |ISSN=1340-2226 |publisher=早稲田大学大学院教育学研究科 | |
[[1796年]]1月に長女[[シャーロット・オーガスタ・オブ・ウェールズ|シャーロット]]が生まれてすぐに2人は別居した。シャーロット王女は王家が養育し、母キャロラインから引き離された。1806年にキャロラインが不倫の子を産んだという噂が立てられ、シャーロット王女への面会が制限された<ref name=nishiyama1/>。キャロラインの不貞を調査した﹃ザ・ブック﹄が[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]によってまとめられ、これがキャロライン側についた[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]によりのちに公開されると、ジョージ4世の乱交ぶりが明らかとなり、キャロラインに国民の同情が集まった<ref name=nishiyama2>{{Cite journal|和書|author=西山清 |title=プリンス・リージェントの功罪とキャロライン裁判の顛末(2) |journal=早稲田大学大学院教育学研究科紀要 |ISSN=1340-2226 |publisher=早稲田大学大学院教育学研究科 |date=2013-03 |volume=23 |pages=67-79 |naid=120005300895 |url=https://waseda.repo.nii.ac.jp/records/10665 |CRID=1050001202488471552}}</ref>。
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娘と会うのをジョージに妨害され、孤独の生活に追いやられた被害者というイメージをホイッグ党の手腕で強く国民に印象付けたキャロラインは、[[イギリスの議会|議会]]から年金を得て、[[1814年]]から大陸諸国への旅行を許されて出国し、外国暮らしを始めた。[[エルサレム]]で聖キャロライン騎士団を設立、愛人のバルトロメーオ・ペルガーミ(Bartolomeo Pergami)を[[グランドマスター (騎士団)|総長]]に任命した<ref>[http://www.economist.com/node/7246065 British royal history: Queen be | The Economist]</ref><ref>[http://www.britishmuseum.org/research/collection_online/collection_object_details.aspx?objectId=1647076&partId=1 British Museum - A R-Y-L visit to a foreign capital or, the ambassador not at home]</ref>。 |
娘と会うのをジョージに妨害され、孤独の生活に追いやられた被害者というイメージをホイッグ党の手腕で強く国民に印象付けたキャロラインは、[[イギリスの議会|議会]]から年金を得て、[[1814年]]から大陸諸国への旅行を許されて出国し、外国暮らしを始めた。[[エルサレム]]で聖キャロライン騎士団を設立、愛人のバルトロメーオ・ペルガーミ(Bartolomeo Pergami)を[[グランドマスター (騎士団)|総長]]に任命した<ref>[http://www.economist.com/node/7246065 British royal history: Queen be | The Economist]</ref><ref>[http://www.britishmuseum.org/research/collection_online/collection_object_details.aspx?objectId=1647076&partId=1 British Museum - A R-Y-L visit to a foreign capital or, the ambassador not at home]</ref>。 |
2024年2月21日 (水) 06:29時点における版
キャロライン・オブ・ブランズウィック Caroline of Brunswick | |
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イギリス王妃 ハノーファー王妃 | |
![]() 1820年 | |
在位 | 1820年1月29日 - 1821年8月7日 |
全名 |
Caroline Amelia Elizabeth キャロライン・アメリア・エリザベス |
出生 |
1768年5月17日![]() ![]() |
死去 |
1821年8月7日(53歳没)![]() ![]() |
埋葬 |
1821年8月25日![]() |
結婚 | 1795年4月8日 |
配偶者 | ジョージ4世 |
子女 | シャーロット |
家名 | ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン家 |
父親 | カール・ヴィルヘルム・フェルディナント |
母親 | オーガスタ・オブ・ウェールズ |
生涯
ドイツのブラウンシュヴァイクで生まれた。両親は不仲であり、父親は愛人と暮らしていた。ガヴァネスから教育を受けたが、十分と言えるものではなかった。1794年にプリンス・オブ・ウェールズ︵王太子︶のジョージと婚約した。 1793年、王太子ジョージの借金は、再三の政府の埋め合わせにもかかわらず40万ポンドに達していた。国王の年間宮廷費が83万ポンドであるのに対し、その半分を彼の借金が占めるという有様である。おまけにジョージは、意中の年上の未亡人フィッツハーバート夫人と1785年に彼女の自宅で秘密裡に結婚式までしていた[3]。夫人はカトリック教徒であったため、ローマ・カトリック教徒と結婚した場合には王位継承権を失うとする 1701年王位継承法に触れる上、25歳未満の王族の結婚は国王の同意がなければ無効とする1772年発令の王室結婚令にかんがみてもこの結婚は無効だった[3]。困り果てた父ジョージ3世は、正式な結婚を王太子に迫り、それを条件に借金の棒引きを持ちかけた。肖像画でその美貌が謳われていたキャロラインをジョージが選び、政略もあり結婚となった。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2b/Caroline_of_Brunswick.jpg/150px-Caroline_of_Brunswick.jpg)
脚注
参考文献
関連書
外部リンク
- The Trial of Her Majesty, Queen Caroline, Consort of George IV, for an Alledged Adulterous Intercourse with Bartolomo Bergami - キャロライン王妃とベルガミの不貞に関する裁判記録(英語)
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