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「シャブタイ・ツヴィ」の版間の差分

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== 概略 ==

[[イズミール]]で生まれ育ったシャブタイ・ツヴィは幼くして[[カバラ]]に目覚め、青年時代にはいくつもの神秘主義を習得していた。このころよりすでに奇行癖があったようで、それは生涯変わらぬ彼の性癖として知られているのだが、その性癖によって預言者を自称していた'''アブラハム・ナタン'''('''ガザのナタン''')から[[救世主]]と見なされるようになった。ツヴィは各地のユダヤ人社会を巡り歩いて大勢の信奉者を味方につけると、伝統的な戒律や道徳を否定したり自分の兄弟や友人たちを各国の王に任命するなど、破天荒な行動で耳目を集めた。

トルコのスミルナ(現在[[イズミール]])で生まれ育ったシャブタイ・ツヴィは幼くして[[カバラ]]に目覚め、青年時代にはいくつもの神秘主義を習得していた。このころよりすでに奇行癖があったようで、それは生涯変わらぬ彼の性癖として知られているのだが、その性癖によって預言者を自称していたアブラハム・ナタン([[ガザのナタン]])から[[救世主]]と見なされるようになった。ツヴィは各地のユダヤ人社会を巡り歩いて大勢の信奉者を味方につけると、伝統的な戒律や道徳を否定したり自分の兄弟や友人たちを各国の王に任命するなど、破天荒な行動で耳目を集め、欧州のユダヤ人世界に一大ムーヴメントを起こした。




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==経歴==

== 経歴 ==

=== 幼少年時代 ===


[[西]]162671[[]]5386[[|9]][[]]<ref>[[1624]][[1525]]91626[[1666]]8105426940</ref>

彼の父モルデカイ・ツヴィは鶏肉、鶏卵の商人としてヨーロッパでの販売網を押さえて財を成した人物で、[[ロマニオット]]が出自であると見られている。息子に「シャブタイ」(שבתי)という名前を与えたのは、彼が安息日(שבת:シャバット)に生まれた子供だったからであり、それはユダヤ人社会の慣例に基づいたものである。




[[]]<ref>6Sabbatai Zevi16</ref>[[]][[]]調

===幼少年時代===



=== 青年時代 ===


[[西]]162671[[]]5386[[|9]][[]]<ref>[[1624]][[1525]]91626[[1666]]8105426940</ref>[[]]שבתישבת

少年時代よりエン・ソフ(カバラにおける神の概念)や[[セフィロト]](カバラでは全宇宙の縮図、あるいは「善の領域」とされている)といったカバラの概念に馴染んでいたツヴィは、ラビ・ヨセフ・エスカパ([[1572年]] - [[1662年]])やラビ・イツハク・デ・アルボといったイズミールの著名なラビの手ほどきでユダヤ教の教育を受けた。エスカパからは「ハハム」(賢者)の称号が与えられ、若くしてイズミールの賢者のひとりに数えられるようになった。ツヴィはまもなく20歳になろうとするころから隠遁生活をはじめ、カバラと神秘主義に没頭しつつ禁欲的な生活を送った。彼は20代の前半に2度結婚しているのだが、性生活を敬遠したため2度とも離婚せざるを得なかったという。イズミールでは極度の敬虔主義と禁欲主義が引き起こした不幸と見なされ、離婚ゆえに評判を落とすことはなかった。ただし、このころより奇行や錯乱が目立つようになり、彼自身もそれに悩まされていた。当時のツヴィを記録したいくつかの資料からは、重度の[[双極性障害]](躁うつ病)を患っていたことがうかがえる。彼に襲い掛かる躁うつの波は激しく、精神的に高揚しているときは興奮のあまりに平静を失って奇行に走り、たとえば、公衆の面前で預言状態(憑依状態)に陥り、あたかも救世主であるかのごとく謎めいた言葉を発するなどして聴衆の度肝を抜いていた。ところが鬱状態になると隠遁生活がはじまり、決して人前に姿を見せようとしなかった。



ツヴィは若くしてカバラに熟達していたものの、当時もっとも権威があった[[モーセ・コルドベロ|ラビ・モーシェ・コルドベロ]]([[1522年]] - [[1570年]])の著作や、カバリストの間だけでなく一般大衆からも支持を得るようになっていたラビ・[[イツハク・ルリア]]([[1534年]] - [[1572年]])の著作にはあまり興味を示さず、むしろ『[[ゾーハル|ゾハル]]』や『セフェル・ハ=カナー』、『セフェル・ハ=ペリアー』といったカバラの古典を愛読していた。ルリアの著書に関しては、その巨視的なカバラを嫌う傾向があった。彼はこの時期に自らの急進的なカバラのおおよその骨格を形作っていたのだが、それは異なるふたつの神聖、かつ本質的な命題を礎に据えていた。ひとつはアビラー・レシェマー(神聖護持のために罪を犯すこと)の義務で、これにより早急に必要とされる世界の[[ティックーン|ティクン]](本来あるべき姿に修復すること)が果たされるとした。もうひとつは、伝統的に[[ハラハー]]によって定められていたいくつもの禁制が世界の修復の暁には解禁されるという約束であった。ただしツヴィは、自らのカバラが当時の有力なラビには到底祝福されるものではないことを冷静に受け止めていたため、数年間はごく親しい弟子以外に教えることはなかった。


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===青年時代===



ツヴィの急進的な活動は、もちろんイズミールのラビの目には狂人の戯れごととしか映らなかった。ツヴィは救世主を自称するようになってから2年間はイズミールにとどまり、弟子や信奉者たちと共にカバラの探究に努めながら懺悔と沐浴の日々に明け暮れていた。この間、彼は再びトラウマを抱えることになる出来事に遭遇している。イズミールの海岸にて沐浴を行っている最中に竜巻に巻き込まれ、九死に一生を得たのである。彼が命を取り留めた日はキスレヴの月の16日だったのだが、この日もシャブタイ派では祝日に定められていた。

少年時代よりエン・ソフ(カバラにおける神の概念)や[[セフィロト]](カバラでは全宇宙の縮図、あるいは「善の領域」とされている)といったカバラの概念に馴染んでいたツヴィは、ラビ・ヨセフ・エスカパ([[1572年]]~[[1662年]])やラビ・イツハク・デ・アルボといったイズミールの著名なラビの手ほどきでユダヤ教の教育を受けた。エスカパからは「ハハム」(賢者)の称号が与えられ、若くしてイズミールの賢者のひとりに数えられるようになった。ツヴィはまもなく二十歳になろうとするころから隠遁生活をはじめ、カバラと神秘主義に没頭しつつ禁欲的な生活を送った。彼は二十代の前半に二度結婚しているのだが、性生活を敬遠したため二度とも離婚せざるを得なかったという。イズミールでは極度の敬虔主義と禁欲主義が引き起こした不幸と見なされ、離婚ゆえに評判を落とすことはなかった。ただし、このころより奇行や錯乱が目立つようになり、彼自身もそれに悩まされていた。当時のツヴィを記録したいくつかの資料からは、重度の[[双極性障害]](躁うつ病)を患っていたことがうかがえる。彼に襲い掛かる躁うつの波は激しく、精神的に高揚しているときは興奮のあまりに平静を失って奇行に走り、たとえば、公衆の面前で預言状態(憑依状態)に陥り、あたかも救世主であるかのごとく謎めいた言葉を発するなどして聴衆の度肝を抜いていた。ところが鬱状態になると隠遁生活がはじまり、決して人前に姿を見せようとしなかった。




2[[|]]<ref>  /   /   [[]] 10:1210:14 [[]]</ref>

ツヴィは若くしてカバラに熟達していたものの、当時もっとも権威があった[[モーセ・コルドベロ|ラビ・モーシェ・コルドベロ]]([[1522年]]~[[1570年]])の著作や、カバリストの間だけでなく一般大衆からも支持を得るようになっていたラビ・イツハク・ルリア([[1534年]]~[[1572年]])の著作にはあまり興味を示さず、むしろ『[[ゾーハル|ゾハル]]』や『セフェル・ハ=カナー』、『セフェル・ハ=ペリアー』といったカバラの古典を愛読していた。ルリアの著書に関しては、その巨視的なカバラを嫌う傾向があった。彼はこの時期に自らの急進的なカバラのおおよその骨格を形作っていたのだが、それは異なるふたつの神聖、かつ本質的な命題を礎に据えていた。ひとつはアビラー・レシェマー(神聖護持のために罪を犯すこと)の義務で、これにより早急に必要とされる世界の[[ティックーン|ティクン]](本来あるべき姿に修復すること)が果たされるとした。もうひとつは、伝統的に[[ハラハー]]によって定められていたいくつもの禁制が世界の修復の暁には解禁されるという約束であった。ただしツヴィは、自らのカバラが当時の有力なラビには到底祝福されるものではないことを冷静に受け止めていたため、数年間はごく親しい弟子以外に教えることはなかった。


[[1590]] - [[1674]][[1651]][[1654]]


=== 放浪時代 ===


[[1648]]611540821יהוה[[|]][[|]] 50.121

故郷を追放されたツヴィが最初に向かった先は[[テッサロニキ]]であった<ref>いくつかの資料では、はじめに向かったのはコンスタンティノープルだったのだが、イズミールのラビから事前にツヴィの来訪を手紙で知らされていた同地のラビによって入城を阻まれてしまったという。</ref>。



[[]][[]]

ツヴィの急進的な活動は、もちろんイズミールのラビの目には狂人の戯れごととしか映らなかった。ツヴィは救世主を自称するようになってから二年間はイズミールにとどまり、弟子や信奉者たちと共にカバラの探究に努めながら懺悔と沐浴の日々に明け暮れていた。この間、彼は再びトラウマを抱えることになる出来事に遭遇している。イズミールの海岸にて沐浴を行っている最中に竜巻に巻き込まれ、九死に一生を得たのである。彼が命を取り留めた日はキスレヴの月の16日だったのだが、この日もシャブタイ派では祝日に定められていた。



[[|]]<ref> / /  [[]] 10:1210:14 [[]]</ref>[[1590]][[1674]][[1651]][[1654]]

===放浪時代===


故郷を追放されたツヴィが最初に向かった先は[[テッサロニキ]]であった<ref>いくつかの資料では、はじめに向かったのはコンスタンティノープルだったのだが、イズミールのラビから事前にツヴィの来訪を手紙で知らされていた同地のラビによって入城を阻まれてしまったという。</ref>。彼はこの地で大勢の弟子と信者を獲得したものの、いつもの奇行を控えることはできなかったようである。ある日のこと、彼は自分のために結婚の儀を催したのだが、その作法はハラハーに則ったものではなく、さも[[預言書]]などに書かれた救世主の到来のごとく、自らを[[モーセ五書|律法]](モーセ五書)の主人と見立て、律法との婚姻関係を企図したものなのであった。このパフォーマンスに関して、テッサロニキのユダヤ人社会からは激しい非難の声が上がったため、ツヴィは当地のラビの前で公式に謝罪をする羽目になった。ただし、この謝罪が彼の地位を回復させることはなく、結局はイズミールのときと同様にテッサロニキからも追放されてしまった。




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イズミールに戻ってからのツヴィは深刻な鬱状態に陥っていたようである。世間体を憂慮した兄弟たちは、当面の生活費を援助した上で彼を[[パレスティナ]]の地へ送り出すことにした。[[1662年]]、ツヴィは[[ロドス島]]と[[エジプト]]を経由してパレスティナへと向かった。エジプトでは財務大臣の要職にあったユダヤ人、ジェレビ・ラファエル・ヨセフ(「ジェレビ」はエジプト在留ユダヤ人の頭領に与えられる称号)が彼に魅了され、有力な支援者のひとりとなった。

イズミールに戻ってからのツヴィは深刻な鬱状態に陥っていたようである。世間体を憂慮した兄弟たちは、当面の生活費を援助した上で彼を[[パレスティナ]]の地へ送り出すことにした。[[1662年]]、ツヴィは[[ロドス島]]と[[エジプト]]を経由してパレスティナへと向かった。エジプトでは財務大臣の要職にあったユダヤ人、ジェレビ・ラファエル・ヨセフ(「ジェレビ」はエジプト在留ユダヤ人の頭領に与えられる称号)が彼に魅了され、有力な支援者のひとりとなった。



エジプトに滞在中のこと、ツヴィの耳に[[リヴォルノ]]在住のサラという名前の風変わりな女性についての噂が届いた。それによれば、彼女は救世主の妻となるべく運命を背負わされているという啓示を受けたというのである。ツヴィはこの知らせを非常に喜び、すぐさま彼女をエジプトへと招き寄せた。両者は短時間の対面を済ませると結婚した<ref>この出来事は[[1665年]]における二度目のエジプト滞在時に起きたとも言われている。</ref>。サラは弟子や信奉者から「王妃」と呼ばれるようになった。彼女には過去に犯した淫行をはじめとした数々の醜聞が付きまとっていたのだが、弟子や信奉者はそれを否定しないばかりか、預言者[[ホセア]]と姦淫の女の結婚になぞらえてこの出来事を解釈していた<ref>主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」 -『[[ホセア書]]』 1:2 新共同訳</ref>。

エジプトに滞在中のこと、ツヴィの耳に[[リヴォルノ]]在住のサラという名前の風変わりな女性についての噂が届いた。それによれば、彼女は救世主の妻となるべく運命を背負わされているという啓示を受けたというのである。ツヴィはこの知らせを非常に喜び、すぐさま彼女をエジプトへと招き寄せた。両者は短時間の対面を済ませると結婚した<ref>この出来事は[[1665年]]における二度目のエジプト滞在時に起きたとも言われている。</ref>。


[[ ()|]]<ref> [[]] 1:2 </ref>


ツヴィはエジプトから[[エルサレム]]へ向かうと、そこで懺悔とカバラの修練に専心した。いつもの奇行が鳴りを潜めることはなかったものの、エルサレムのユダヤ人社会では信頼を得ることに成功し、ついにはエジプトへ派遣されるシャダル(エルサレムから各地のユダヤ人共同体に派遣される特使)に任命されるまで出世した。エジプトの大臣ジェレビ・ラファエル・ヨセフと親しい関係にあったことが任命を後押ししたとされている。ツヴィは[[1664年]]の末にエジプトに向けて出発した。エルサレムへの経済的支援を募るこのミッションは大変な成功を収めることになった。

ツヴィはエジプトから[[エルサレム]]へ向かうと、そこで懺悔とカバラの修練に専心した。いつもの奇行が鳴りを潜めることはなかったものの、エルサレムのユダヤ人社会では信頼を得ることに成功し、ついにはエジプトへ派遣されるシャダル(エルサレムから各地のユダヤ人共同体に派遣される特使)に任命されるまで出世した。エジプトの大臣ジェレビ・ラファエル・ヨセフと親しい関係にあったことが任命を後押ししたとされている。ツヴィは[[1664年]]の末にエジプトに向けて出発した。エルサレムへの経済的支援を募るこのミッションは大変な成功を収めることになった。

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一方、ツヴィがエジプトに滞在しているころ、パレスティナでは彼の人生を決定的に変えることになる出来事が起きていた。

一方、ツヴィがエジプトに滞在しているころ、パレスティナでは彼の人生を決定的に変えることになる出来事が起きていた。



===ガザのナタンとの出会い===

=== ガザのナタンとの出会い ===


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ナタンは後に手紙の中で、これら一連の預言について次のように述べている。

ナタンは後に手紙の中で、これら一連の預言について次のように述べている。


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ナタンは自らを預言者であると公言するようになった。すると、彼のもとには魂の修復を求めて大勢の民衆が集まったので、罪の悔い改めを説いた。ガザに預言者が現れたという噂は[[1665年]]にはエジプトにも届いていた。当時、魂の平安を切に望んでいたツヴィはすぐにガザへ赴いてナタンとの接触を試みた。1665年に起きたツヴィとナタンの出会いは、その後数年にわたるユダヤ人社会の混乱の序章として今日の歴史には刻み込まれている。

ナタンは自らを預言者であると公言するようになった。すると、彼のもとには魂の修復を求めて大勢の民衆が集まったので、罪の悔い改めを説いた。ガザに預言者が現れたという噂は[[1665年]]にはエジプトにも届いていた。当時、魂の平安を切に望んでいたツヴィはすぐにガザへ赴いてナタンとの接触を試みた。1665年に起きたツヴィとナタンの出会いは、その後数年にわたるユダヤ人社会の混乱の序章として今日の歴史には刻み込まれている。




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<cite>-『トラト・カナウート』(ラビ・ヤアコブ・エムデン著)より引用</cite>}}



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ナタンは救世主に関する預言を繰り返して民衆を煽った。また、ツヴィには古いゲニザ(書物の保管庫)で発見した羊皮紙の巻物の存在を明かした。もちろんナタン自らが偽造した贋作なのだが、イェフダ・ハ=ハシード([[レーゲンスブルク]]のユダ・ベン・サムエル)の一派に属するカバリストによって[[13世紀]]に書かれた古文書であると言いくるめて信じ込ませた。その巻物には、まさに「シャブタイ・ツヴィ」という名の救世主がユダヤ暦5386年アーブの月の9日に出現する旨が預言されていた。さらには、性的虐待をはじめとした預言者がたどる運命までもが記されていたのである<ref>巻物に記された物語は時代考証もいい加減な与太話でしかなかった。ゲルショム・ショーレムの著作ではナタン本人による贋作とされているが、現在ではツヴィの近親者であったアブラハム・ハ=ヤキニがその制作に深くかかわっていたと推測されている。</ref>。この巻物にツヴィ自身が非常に感銘を受けたこともあり、ナタンはその預言内容の宣伝に躍起になった。一方、弟子たちには、救世主が到来する日になるとルリアが世界修復のために定めた祈祷をはじめ、カバラ的な内容のあらゆる祈祷が効力をなくし、より簡素な言葉が祈祷に用いられると教えた。こうしてナタンは、世界の修復を謳うルリアによるカバラ神学における世界観、あるいは反シャブタイ派の世界観に内包された矛盾を見極めながら、内省的、かつ神秘的な考察によって叡智に達する方法論を提唱するに至った。


[[]][[]][[]]姿[[10]][[]]<ref></ref>101010姿[[]]殿殿[[]]

|『トラト・カナウート』(ラビ・ヤアコブ・エムデン著)より引用

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ナタンは救世主に関する預言を繰り返して民衆を煽った。また、ツヴィには古い[[ゲニザ]]([[:en:Genizah]])(書物の保管庫)で発見した羊皮紙の巻物の存在を明かした。もちろんナタン自らが偽造した贋作なのだが、イェフダ・ハ=ハシード([[レーゲンスブルク]]のユダ・ベン・サムエル)の一派に属するカバリストによって[[13世紀]]に書かれた古文書であると言いくるめて信じ込ませた。その巻物には、まさに「シャブタイ・ツヴィ」という名の救世主がユダヤ暦5386年アーブの月の9日に出現する旨が預言されていた。さらには、性的虐待をはじめとした預言者がたどる運命までもが記されていたのである<ref>巻物に記された物語は時代考証もいい加減な与太話でしかなかった。ゲルショム・ショーレムの著作ではナタン本人による贋作とされているが、現在ではツヴィの近親者であったアブラハム・ハ=ヤキニがその制作に深くかかわっていたと推測されている。</ref>。

===シャブタイ派の興隆===





=== シャブタイ派の興隆 ===


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この運動に誘発されるかのように、[[アナトリア半島]]や[[バルカン半島]]では老若男女を問わず大勢の預言者が現れ、シャブタイ・ツヴィと救済の日についての預言を公衆の面前で堂々と訴えていた。こういったヒステリーを起こした者の数はイズミールだけでも150人を超えたそうで、預言者の中にはコンスタンティノープルのラビ・モーセ・セルヴァルといった著名なラビも含まれていた。セルヴァルの預言はオスマン帝国内のすべてのユダヤ人に知れ渡り、いよいよ終末の到来が迫っていることを自覚させた。その後も預言者の出現は後を絶たず、彼らは民衆に悔い改めの必要性を説きながら魂の修復を行っていた。

この運動に誘発されるかのように、[[アナトリア半島]]や[[バルカン半島]]では老若男女を問わず大勢の預言者が現れ、シャブタイ・ツヴィと救済の日についての預言を公衆の面前で堂々と訴えていた。こういったヒステリーを起こした者の数はイズミールだけでも150人を超えたそうで、預言者の中にはコンスタンティノープルのラビ・モーセ・セルヴァルといった著名なラビも含まれていた。セルヴァルの預言はオスマン帝国内のすべてのユダヤ人に知れ渡り、いよいよ終末の到来が迫っていることを自覚させた。その後も預言者の出現は後を絶たず、彼らは民衆に悔い改めの必要性を説きながら魂の修復を行っていた。




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こうした出来事を経た末に、ついにシャブタイ派の活動は臨界点に達することになる。1665年12月11日(ユダヤ暦5426年テヴェトの月の22日)のこと、支援者に促されたツヴィは、オスマン帝国の[[スルタン]]、[[メフメト4世]]から王位を剥奪し、彼の代わりに玉座に就くことを目論んでコンスタンティノープルに向けて出発したのである。

こうした出来事を経た末に、ついにシャブタイ派の活動は臨界点に達することになる。1665年12月11日(ユダヤ暦5426年テヴェトの月の22日)のこと、支援者に促されたツヴィは、オスマン帝国の[[スルタン]]、[[メフメト4世]]から王位を剥奪し、彼の代わりに玉座に就くことを目論んでコンスタンティノープルに向けて出発したのである。



===ガリポリでの監禁===

=== ガリポリでの監禁 ===


[[Image:Shabbatai3a.jpg|thumb|right|300px|<small>牢獄内で拘禁具にはめられているツヴィと、謁見に訪れた客人を描いた版画。ただし、ガリポリでの監禁時なのかウルチニで監禁時なのかは分かっていない。</small>]]

[[Image:Shabbatai3a.jpg|thumb|right|300px|<small>牢獄内で拘禁具にはめられているツヴィと、謁見に訪れた客人を描いた版画。ただし、ガリポリでの監禁時なのかウルチニで監禁時なのかは分かっていない。</small>]]



シャブタイ・ツヴィがコンスタンティノープルへ向けて出発したという情報はすぐさま王宮に届けられたため、大宰相[[キョプリュリュ・アフメト・パシャ]]は躊躇なくツヴィの逮捕を命じた。ツヴィは数千人の信奉者に迎えられてコンスタンティノープルの港に上陸したところでオスマン・トルコ軍の衛兵によって身柄を拘束され、信奉者の一団も武力によって解散させられてしまった。ツヴィは数日間勾留された後、反逆罪の嫌疑で大宰相自らによる裁判にかけられることになった。

シャブタイ・ツヴィがコンスタンティノープルへ向けて出発したという情報はすぐさま王宮に届けられたため、大宰相[[キョプリュリュ・アフメト・パシャ]]は躊躇なくツヴィの逮捕を命じた。ツヴィは数千人の信奉者に迎えられてコンスタンティノープルの港に上陸したところでオスマン帝国軍の衛兵によって身柄を拘束され、信奉者の一団も武力によって解散させられてしまった。ツヴィは数日間勾留された後、反逆罪の嫌疑で大宰相自らによる裁判にかけられることになった。




[[]]<ref>[http://en.wikipedia.org/wiki/Sabbatai_Zevi#At_Abydos_.28Migdal_Oz.29 ]</ref>5426[[1666]]419

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=== 改宗 ===


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===シャブタイ派の衰退===

=== シャブタイ派の衰退 ===

シャブタイ・ツヴィのイスラム教への改宗という知らせは、各地のユダヤ人社会に計り知れない打撃を与えた。多くの信奉者が救世主のふがいなさに絶望して思想を放棄し、ある者はイスラム教に、またある者はキリスト教へ改宗するなどしてユダヤ教との決別を図った。また、この悪夢を早急に払拭したいがため、信奉者団体が所有していたツヴィに関連する文書が廃棄、焼却されたり、「シャブタイ・ツヴィ」という名前を文書に記録することが禁じられたりするようになった。東欧では同様の偽メシア騒動が繰り返されないよう、ヴァアド・アルバア・アラツォト([[1580年]]から[[1746年]]まで東欧四か国のユダヤ人地区を統治していた行政機関)によってカバラの学習に制限が設けられ、タルムードとハラハーに熟達した者にのみ、カバラの指導資格が得られるよう制度が改められた。




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シャブタイ・ツヴィのイスラム教への改宗という知らせは、各地のユダヤ人社会に計り知れない打撃を与えた。多くの信奉者が救世主のふがいなさに絶望して思想を放棄し、ある者はイスラム教に、またある者はキリスト教へ改宗するなどしてユダヤ教との決別を図った。また、この悪夢を早急に払拭したいがため、信奉者団体が所有していたツヴィに関連する文書が廃棄、焼却されたり、「シャブタイ・ツヴィ」という名前を文書に記録することが禁じられたりするようになった。東欧では同様の偽メシア騒動が繰り返されないよう、ヴァアド・アルバア・アラツォト([[1580年]]から[[1746年]]まで東欧四カ国のユダヤ人地区を統治していた行政機関)によってカバラの学習に制限が設けられ、タルムードとハラハーに熟達した者にのみ、カバラの指導資格が得られるよう制度が改められた。



ようやく入城が許可されるとナタンはすぐさま信奉者を集め、シャブタイ派思想の堅持を懸命に訴えた。ツヴィの改宗については、ハアラアト・ハ=ニツォツォットのために一時的にイスラム教徒に落ちぶれ、ケリフォトの世界を潜行しているに過ぎないと説明した。数か月後、ナタンはエディルネに赴いてツヴィとの接触を試みようとしたのだが、ここでも入城を拒否された。そのままトラキア、小アジア、バルカン地方などを放浪して最後にはイタリアにたどり着き、ここに新たな拠点を築いた。


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ようやく入城が許可されるとナタンはすぐさま信奉者を集め、シャブタイ派思想の堅持を懸命に訴えた。ツヴィの改宗については、ハアラアト・ハ=ニツォツォットのために一時的にイスラム教徒に落ちぶれ、ケリフォトの世界を潜行しているに過ぎないと説明した。数ヶ月後、ナタンはエディルネに赴いてツヴィとの接触を試みようとしたのだが、ここでも入城を拒否された。そのままトラキア、小アジア、バルカン地方などを放浪して最後にはイタリアにたどり着き、ここに新たな拠点を築いた。




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ユダヤ暦5437年の[[ヨム・キプル|大贖罪日]](1676年9月19日)のこと、テヒラト・ネイラー(大贖罪日の最後の祈り)を終えたところでツヴィは息を引き取った。50歳であった。ツヴィの訃報を知るとナタンは信奉者に対して布告を出し、ツヴィは死んだのではなく、至高の光に照らされて姿が見えなくなったに過ぎず、必ずもう一度姿を現してイスラエルを解放してくれると説いた。しかし、そのナタンもツヴィの死をきっかけに精神を病むようになり、最後までシャブタイ・ツヴィこそが救世主であると信じながら、1680年に[[マケドニア]]の[[スコピエ]]で死んだ。

ユダヤ暦5437年の[[ヨム・キプル|大贖罪日]]([[1676]]9月19日)のこと、テヒラト・ネイラー(大贖罪日の最後の祈り)を終えたところでツヴィは息を引き取った。50歳であった。ツヴィの訃報を知るとナタンは信奉者に対して布告を出し、ツヴィは死んだのではなく、至高の光に照らされて姿が見えなくなったに過ぎず、必ずもう一度姿を現してイスラエルを解放してくれると説いた。しかし、そのナタンもツヴィの死をきっかけに精神を病むようになり、最後までシャブタイ・ツヴィこそが救世主であると信じながら、1680年に[[マケドニア]]の[[スコピエ]]で死んだ。



シャブタイ派思想は、東欧では[[18世紀]]の中まで、ときに密かに、ときに公然とカバリストの間で語り継がれていた。そのころポーランドで台頭していたフランク主義が、しばらく息を潜めていたシャブタイ派を歴史の表舞台に引きずり出したこともあった。しかし、フランク主義者の多くがキリスト教に改宗したころにはヨーロッパでのシャブタイ派の活動は完全に息絶えていた。バルカン半島、小アジア、イタリアなどでかろうじて守られていた共同体も[[19世紀]]を待たずして崩壊してしまった。一方、シャブタイ派思想の中心的な主題であった「アビラー・レシェマー」や「ハアラアト・ハ=ニツォツォット」といった概念は命をとりとめ、後代に起きたカバラ論争においてしばしば用いられていた。

シャブタイ派思想は、東欧では[[18世紀]]の中まで、ときに密かに、ときに公然とカバリストの間で語り継がれていた。そのころポーランドで台頭していたフランク主義が、しばらく息を潜めていたシャブタイ派を歴史の表舞台に引きずり出したこともあった。しかし、フランク主義者の多くがキリスト教に改宗したころにはヨーロッパでのシャブタイ派の活動は完全に息絶えていた。バルカン半島、小アジア、イタリアなどでかろうじて守られていた共同体も[[19世紀]]を待たずして崩壊してしまった。一方、シャブタイ派思想の中心的な主題であった「アビラー・レシェマー」や「ハアラアト・ハ=ニツォツォット」といった概念は命をとりとめ、後代に起きたカバラ論争においてしばしば用いられていた。



ツヴィと共にイスラム教に改宗した弟子たちはツヴィの死後もオスマン帝国にとどまった。彼らの子孫はドンメ派の設立にかかわっているのだが、その伝統は今日まで受け継がれている。

ツヴィと共にイスラム教に改宗した弟子たちはツヴィの死後もオスマン帝国にとどまった。彼らの子孫はドンメ派の設立にかかわっているのだが、その伝統は今日まで受け継がれている。



==西洋史におけるシャブタイ・ツヴィの位置づけ==

== 西洋史におけるシャブタイ・ツヴィの位置づけ ==






[[]][[]]1980[[|]]




== 研究文献 ==


[[]][[|]]1980[[|]]

* [[ゲルショム・ショーレム]] 伝記『サバタイ・ツヴィ伝 神秘のメシア』 

*: 石丸昭二訳、叢書ウニベルシタス・[[法政大学出版局]]、2009年 



==脚注==

== 脚注 ==

{{Reflist|2}}

<small>

<references />

</small>



==外部リンク==

== 関連項目 ==

{{commonscat|Shabbatai Tzvi}}

[http://www.jewishencyclopedia.com/view.jsp?artid=531&letter=S SHABBETHAI ẒEBI B. MORDECAI (Jewish Encyclopedia)]

* [[改革派ユダヤ教]]

* [[カームヤネツィ=ポジーリシクィイ]]

* [[メサイアコンプレックス]]



== 外部リンク ==

==関連項目==

* [[シャブタイ派]]

* {{Kotobank|1=サバタイツビ}}

* {{Webcat|2259955}}

* [[カバラ]]

* [http://www.jewishencyclopedia.com/view.jsp?artid=531&letter=S SHABBETHAI ẒEBI B. MORDECAI (Jewish Encyclopedia)]



{{Normdaten}}

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[[Category:ユダヤ人]]

{{DEFAULTSORT:つうい しやふたい}}

[[Category:オスマン帝国のユダヤ人]]

[[Category:カバラ]]

[[Category:異端]]

[[Category:イズミル出身の人物]]

[[Category:1626年生]]

[[Category:1676年没]]



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2023年12月29日 (金) 13:38時点における最新版

1665年に描かれたシャブタイ・ツヴィの肖像。

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1630 - 1706

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1819


西[]




1980

研究文献[編集]

脚注[編集]



(一)^ 162415259162616668105426940

(二)^ 6Sabbatai Zevi16

(三)^   /   /    10:1210:14 

(四)^ 

(五)^ 1665

(六)^   1:2 

(七)^ 4213

(八)^ 

(九)^ 

(十)^ 

(11)^ 1645

(12)^ 

(13)^ 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]