シャブタイ派
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シャブタイ派勃興にいたるまでの時代背景[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/94/Shabbatai2.jpg)
シャブタイ派の歴史[編集]
シャブタイ派は、その中心人物たるふたりのカバリストの出会いをきっかけに誕生している。そのふたりとは、奇人として知られていたシャブタイ・ツヴィ︵サバタイ・ツヴィ︶︵1626年〜1676年︶と﹁ガザのナタン﹂ことアブラハム・ナタン︵1643年〜1680年︶である。黎明期から全盛期まで[編集]
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トーラーではツヴィについてこう述べられています。「地は混沌であって、闇が深遠の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(『創世記』 1:2)この「神の霊」とは、救世主である王の霊であり、シャブタイ・ツヴィの名前を指しているに他なりません。そのとき、ツヴィの魂は深い闇の底にありました。彼はやがて、清浄なものを祝福するのです。 |
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イスラム教への改宗[編集]
シャブタイ派が公式に告示していた声明は、ひとえに魂の悔い改めであった。しかし民衆の間では、救世主の王国の到来、すなわちツヴィがオスマン帝国のスルタンを追放し、彼に代わって王位に就くという噂がまことしやかにささやかれていた。それ以外にも、イスラエルの失われた10支族が現れるという話や、メッカとペルシアが救世主との戦いで陥落するという話がまじめに議論されていた。イエメンでは賢者と称えられていたラビ・シャロム・シャバジ︵1619年〜1720年︶とツヴィとの関係が取り沙汰されていた。各国の新聞はシャブタイ派の話題に多くの紙面を割いて読者の不安を煽っていた。民衆の多くは、やがてシオンに救済が訪れ悪の王国が地上から掃討されると信じていた。なかにはパレスティナへの帰還に備えて不動産や家財を売却する者も大勢いた。シャブタイ派の信奉者は、彼らの信条に従って戒律違反を繰り返しながら、聖地に向かうにあたってなすべき行いについての命令がナタンの口から下されるの固唾を呑んで待っていた。シャブタイ派に同調したのはユダヤ人だけではなく、一部のキリスト教徒も終末の到来を信じてシャブタイ派に足並みをそろえた。悔い改めの証として行われた断食は瞬く間に各地で実践されるようになり、ユダヤ教徒も異教徒に負けじと断食を行った。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c8/Shabbatai3a.jpg/300px-Shabbatai3a.jpg)
ツヴィの改宗、および死後に派生した教派[編集]
ツヴィの改宗と死はシャブタイ派を骨抜きにしてしまった。信奉者の多くは彼に対する信仰を放棄してユダヤ教の伝統に立ち返った。しかし、後戻りできない頑迷な信奉者はヨーロッパから中近東の各地に集結し、シャブタイ派の残党として活動を継続させていた。とくにバルカン半島とアナトリア半島での信仰は根強く、ある者は公然と、ある者は秘密裏に救済の訪れを待っていた。 もっとも、シャブタイ派の間ではツヴィの改宗と死に関しての統一的な見解を見出せていなかった。それをカバラの神秘的な奥義として解釈するグループもあれば、改宗はおろか死さえをも否定するグループもあった。来るべき日に再び世に姿を現すという意見もあれば、ツヴィの魂は転生してすでに他の人間となって生まれ変わっていると考える者もいた。後にドンメ派の指導者となったバルキヤ・ロッソ︵1677年〜1720年︶や、フランク主義︵フランキズム︶の提唱者であるポーランドのヤコブ・フランク︵1726年〜1791年︶も、この時期にそれぞれの思想を固めていった。多くの信奉者はツヴィの再来を疑わなかったので、生まれ変わったツヴィが至高の光の中から姿を現す期日をさまざまな理論を用いて計算していた。また、ユダヤ民族には救済の最終段階において新しい律法が授与され、ツヴィが破棄した伝統的な律法に代わって適用されると信じられていたのだが、その日までに既存の律法には効力があるのか、あるいはすでに効力をなくしているのか、といったことが長らく議論されていた。 シャブタイ派の衰退が顕著になっていた1683年のこと、テッサロニキ在住のおよそ300名のユダヤ人がイスラム教に改宗した。シャブタイ・ツヴィの義父であったヨセフ・フィロソフを指導者とするこのグループは、ツヴィの時代にイスラム教に改宗したシャブタイ派の人々と深いつながりがあった。彼らはその後に誕生するドンメ派の黎明期における構成員となっており、テッサロニキの他にエディルネにも拠点を持っていた。このグループは最終的に三つの派閥に分離しているのだが、保守派から急進派にいたるまで、いずれもがバルキヤ・ロッソを指導者として崇め、シャブタイ・ツヴィに代わる新しい救世主とみなしていた。彼らの思想は共同体の枠を超えて各地に広がり、シャブタイ派の時代における熱狂をしのぐほどの勢いを見せた。ドンメ派から派生したグループはイタリアでも活動していた。彼らはマギ︵呪術師︶を立て、神から下される啓示に基づいて思想を形成していた。他のグループが極端なメシアニズムに傾倒するなか、彼らはむしろ黙示主義を前面に押し出していた。 18世紀にもなると、ユダヤ人社会のなかでさえシャブタイ派思想を受け継ぐ者はごく少数となっていた。ヨーロッパでは、ネヘミヤ・ヒヤ・ベン・モシェ・ハユン︵1650年〜1730年︶、ハイム・マルアフ、ゾルクワ出身のイツハク・カイダネル、アイゼンシュタット出身のモルデカイ・モキァハなどがシャブタイ派の新たな預言者、あるいは救世主として名前が上がったこともあるのだが、ラビや共同体の指導者は彼らに対して強硬な姿勢をとり、戦争さえも辞さなかった。シャブタイ派の時代に得た教訓のひとつとして、カバラと神秘主義の学習に一定の制限を設ける制度が確立した。また、ヴァアド・アルバア・アラツォト︵1580年から1746年まで東欧四カ国のユダヤ人地区を統治していた行政機関︶は、40歳になるまではカバラの学習を禁止し、それまでの間にタルムードとハラハーを習得するよう呼びかけた。 これらの制度が施行された後も、シャブタイ派に心を奪われていると思しき多くのラビに疑惑の目が向けられた。しかし彼らの多くは、伝統的な戒律の解禁などをイデオロギーに掲げていたかつてのシャブタイ派ではなく、敬虔主義を基盤にシャブタイ派の主題を織り交ぜた新しい思想を模索していた。ドイツやエルサレムで活動していたラビ・ヤアコブ・エムデン︵1698年〜1776年︶やラビ・モーシェ・ベン・ヤアコブ・ハギズ︵1671年〜1750年︶は、ユダヤ人迫害の口実となりかねないシャブタイ派に対する潜在的な恐怖心や強迫観念に後押しされ、シャブタイ派狩りを煽る書物を出版した。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/71/Eybeschuetz.jpg/200px-Eybeschuetz.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9b/Jakub_Frank.jpg/200px-Jakub_Frank.jpg)
シャブタイ派の現在[編集]
シャブタイ派直系の宗派として現在でも生き残っているのは、トルコを中心に活動しているドンメ派だけである。トルコ共和国の樹立後のイズミルでのアタテュルク大統領に対する暗殺計画の指導者の一人は、統一と進歩委員会の創設メンバーであり、オスマン帝国の元財務大臣であるドンメ派のメフメト・ジャビッド・ベイでした。[1][2][3][4] 広範囲にわたる政府の調査の後、メフメトジャビッドは有罪判決を受け、後に1926年8月26日にアンカラで絞首刑に処されました。[5] 1923年のトルコ共和国建国後、ケマル・アタテュルクのトルコ民族主義政策は、少数民族や宗教的マイノリティを置き去りにしていたが、1930年代から1940年代にかけて、民族主義出版社による反ユダヤ主義的プロパガンダが行われた。[6] イスラム主義者 たちは、ムスタファ・ケマル・アタテュルクを中傷するために、アタテュルクはデンメであるという陰謀説を唱えた。[7] ドンメ派は1683年にテッサロニキで誕生し、シャブタイ・ツヴィの時代にイスラム教に改宗したグループと合流して地盤を安定させた。彼らの人口は18世紀の段階で約3,000人とされ、19世紀の末になって10,000人を超えるようになった。20世紀の第一四半期の間は13,000人から15,000人だったと見積もられている。テッサロニキではドンメ派の出身者が要職に就いているケースが多く、銀行家や実業家、医者、法律家など、エリート層の比率は高い。また、国政に携わっている者も少なくない。 創設の経緯から分かるように、ドンメ派の構成員は代々イスラム教徒としての生活を営んできたのだが、それは建前でしかなく、実際には正規のイスラム教を受け入れていなかった。また、イスラム教徒、および一般のユダヤ教徒との結婚を許さず、近親婚を繰り返してきた。これはすなわち、近親相姦のタブーが代々破られてきたことを意味しており、かつては儀式において性的な乱交が催されていると非難されることもあった。また、西洋の宗教にある性における男女間の合意という観念も欠如していたようである。現在ではほとんどの地域で世俗化が果たされており、イスラム教徒との同化も進んでいる。そのため、ドンメ派としてのアイデンティティを持つ世代はいずれ消滅するのではないかと懸念されている。シャブタイ派の教義[編集]
アブラハム・ナタンの思想[編集]
シャブタイ・ツヴィは、当時もてはやされていたラビ・イツハク・ルリアのカバラではなく、それ以前に成立していた古典的なカバラを愛好し、﹃ゾハル﹄など古い書物から多大なインスピレーションを受けている。にもかかわらず、シャブタイ派の教義はおおむねルリアのカバラ理論に立脚している。その理由は簡単で、シャブタイ派の理論を形成したのは同派の預言者、兼スポークスマンで、ルリアのカバラに造詣が深いアブラハム・ナタンだったからである。ルリアのカバラには救世主待望の緊張感、切迫感がみなぎっており、救済に関する叙述は詳細でありながら難解を極めているのだが、それはナタンのカバラの特徴でもある。 ナタンは他にも、ラビ・モーセ・コルドベロ︵1522年〜1570年︶の著作からも多くを学んでおり、彼のカバラ理論は先人たちの思想、方法論を再構築したものである。なかでも明確にしている点は、シャブタイ・ツヴィこそが、ユダヤ人が待望した真の救世主であるということに他ならない。その真偽はともかく、カバリストの多くは、シャブタイ派の教義がすべてのカバラの世代を通じて見ても重要な教義のひとつであったことを認めている。 ナタンは大勢の弟子と共にガザの海岸を散歩するのを日課としており、そこで救世主の観念を中心としたカバラの仔細を弟子に教えていた。彼の著作には、﹃セフェル・ハ=ベリアー﹄、﹃シャアレー・ハ=ダアト﹄、﹃デルシュ・ハ=タンニニーム﹄︵﹃ゾハル﹄の注釈書︶などがあるのだが、それらの書物において、ルリアのカバラを継承しつつも独創性を失わない彼の思想が見て取れる。ナタンの教義で比較的大部を占めているのは、救世主たるツヴィと預言者たる彼自身の魂の遍歴である。それによると、両者の魂は天地創造の日より転生を繰り返しているのだが、救済の日の到来まで続けられるその運動のなかにこそ、全宇宙的な意義が秘められているという。シャブタイ・ツヴィの神性[編集]
シャブタイ派思想の根底には、神という観念に対するツヴィ自身による解釈が据えられている。ツヴィはカバラを学びはじめた当初から、カバラにおける神の概念エン・ソフと、同じくカバラの中心概念で世界創生のプロセスを明示するセフィロトとの関係に違和感を覚えていた。多くのカバリストに支持されていたルリアのカバラをツヴィが受け入れなかったのは、エン・ソフの働きを顕在化できるのはセフィロトだけであると述べられていたからである。一方のツヴィは﹃ゾハル﹄のテキストを文字通りに解釈していた。 ツヴィはイズミールで学んでいた青年時代のころにはすでに神の概念のおおよそのディテールを完成させていた。彼の発想で独創的だったのは、永遠の存在で万物の根源たるエン・ソフと被造物たる世界を完全に切り離して考えるということであった。エン・ソフはこの世に何の影響も与えておらず、また審判者のごとくこの世を監視しているわけでもない。一方、セフィロトの六番目のセフィラーであるティフエレト︵セフィロトの中心︶こそ、他ならぬ天地創造の神、すなわちユダヤ人に崇拝することが要求されているイスラエルの神であるとした。神性に対する彼の斬新な視点は、エピクロスの哲学における方法論にも通ずるイマジネーションに溢れたものだったのだが、一般には受け入れられないことを彼自身がよく理解していた。それゆえ、当時は弟子のなかでも特に親しかった者にしか自らの教義を教えなかった。ツヴィの思想は、後にシャブタイ派の指導者のひとりとなるアブラハム・ミグエル・カルドソ︵1630年〜1706年︶がツヴィの名を借りて執筆した﹃ラザ・デ=メヘマヌータ﹄のなかで詳らかにされている。 とはいえ、シャブタイ派の内部では神の観念についての統一的な見解が絞りきれていなかった。ナタンはシャブタイ・ツヴィと神との間には完全な合一が見られるとし、ツヴィの書記だったサムエル・プリモもツヴィの神性を認めていた。一方、カルドソをはじめとしたシャブタイ派のカバリストの多くはプリモの見解に否定的で、ツヴィを神格化することは背信行為に他ならないとしてプリモと彼の仲間に対して容赦ない論争を仕掛けた。それをきっかけに、ツヴィ、ナタン、プリモの陣営とカルドソの陣営との間に、全世界の創造主でありながら世界から切り離された存在としてのエン・ソフと、セフィロトのティフエレトに位置するイスラエルの神との関係についての議論が起こった。ツヴィは、世界が修復されるときにこそエン・ソフとイスラエルの神の一体化が図られると予見したのだが、カルドソは、両者の乖離は永久に不変であるとした。蛇と救世主の魂[編集]
各民族、各宗教の古代神話には、根源的な存在としての神と世界創生において誕生する被造物についての物語が共通して見られるのだが、もちろんヘブライ聖書にもそれらを見出すことができる。しかもカバリストによれば、ヘブライ聖書には、イスラエルの神が地獄を支配する悪の権化を相手に闘争を繰り広げていたことの暗示がみられるという。その権化は、ナハシュ・バリァハ︵逃げる蛇︶、タンニーン︵竜︶、レヴィヤタン︵怪物︶などと呼ばれている。︵以下、引用はすべて新共同訳聖書より︶「 |
お前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ/その舌を縄で捕えて/屈服させることができるか。-『ヨブ記』 40:25 |
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ところがシャブタイ派の教義では、これらの章句は善と悪、光と闇といった相反するふたつの勢力間における闘争の暗示ではなく、神自身に備わったふたつの側面による闘争の暗示であるとし、蛇のような存在はその一側面の具現化にすぎないとしている。また、古代の伝承によれば、古の時代の蛇は翼を持っており、鳥ではなく蛇として大空を飛ぶことができたという。
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「(前略)蛇の根から蝮が出る。その子は炎のように飛び回る。」-『イザヤ書』 14:29 |
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つまり、蛇の活動は世界の摂理における調和と安定に寄与しているのであり、万物を維持するためには必要不可欠な要素であるという。蛇のパーソナリティは神性を備えたツヴィのそれと対極にあるのではなく、蛇の目的もまた世界に救済をもたらすことにあり、それはすなわちツヴィの神性をも救済することになる。この世界観には、ルリアの弟子であったヨセフ・イブン・タブールによるツィムツム(神の自己収斂による世界創生を意味するルリア思想の中心概念)についての注釈の影響が多分に認められる。ルリアのカバラではツィムツムによる世界創生は失敗に終わったと説かれており、ラビ・ハイム・ベン・ヨセフ・ヴィタル(1543年〜1620年)など彼の弟子の多くはその思想を継承していた。ところがイブン・タブールだけは、ツィムツムは成功裏に完了しており、その後、神の思惑通りにエン・ソフが流出してケリフォトの浄化がはじまった考えていた。
シャブタイ派の教義は突飛な発想によって打ち立てられた革新的な理論ではない。並み居るカバリストの査証に耐えながら幾世代にもわたって信頼されてきた古典的なテキストにこそより多くの価値を認めるという点で、むしろ原理主義と言った方がふさわしいのかもしれない。たとえば、ラビ・ヨセフ・ジカティラ(1248年〜1310年)の著作もそのひとつである。
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以下の言葉を理解し、信じてください。世界創生のさいに姿を現したかの蛇は偉大な存在でした。彼には世界修復に不可欠な権能が与えられていました。つまり、君主制や奴隷制などによる地上の罪に耐え忍ぶために創造されたのです。蛇は世界を縦横無尽に這い回ります。その頭は聖なる地にまで達し、その尾は冥府の底にまで届いています。蛇はそれぞれの場所で自らの役割を遂行し、全世界を修復へと導くのです。 |
」 |
ツヴィの躁うつ病と改宗[編集]
預言者とされたナタンは、カリスマ性溢れる指導者であると同時に優れた修辞学者でもあった。ツヴィの特徴としてしばしば見られた起伏の激しい精神状態の変化は、現在では双極性障害が原因だと考えられているのだが、ナタンの見解によれば、ツヴィの精神世界のなかで繰り広げられていたケリフォトとの間の霊的な闘争が原因とされていた。 ツヴィのイスラム教への改宗をきっかけにナタンは自身の思想を結晶化させたのだが、そこでは自らを貶め、恥辱に染まったツヴィに備わる救世主としての資質にもっとも焦点が当てられている。つまり、一見したところ失墜したかに見えるツヴィの行動は、実は天上界における秘奥義に他ならず、法秩序との間における闘争が最終段階に突入したことを意味していると考えた。また、ナタンは様式化された伝統的な救世主像にも言及し、それを不浄、劣悪、無価値と評して斬り捨てつつ、自らが提示する神話的英雄像に多義性を持たせている。 シャブタイ派の信奉者の間では、ツヴィが弟子のイスラム化を推奨しているのか否かについての疑問が噴出し、飽くなき議論が繰り返された。ナタンは、ツヴィから直々に改宗を命じられた者だけが、イスラム化を通じて世界を修復する義務があると主張した。また、ツヴィとの面会時において彼が精神的に高揚しているようであれば、すぐさま引き返すよう弟子に指示を出している。これは、ツヴィが躁状態になると、すべてのユダヤ人のイスラム教への改宗を熱望するようになるからである。アブラハム・ミグエル・カルドソは、改宗という手段による世界修復は信奉者それぞれに割り当てられた義務ではなく、救世主のみが果たすべき義務であると主張した。また、改宗後のツヴィの行動がケリフォトに対して段階的に影響を及ぼしていると述べている。急進的なグループともなると、シャブタイ派信奉者のすべてがユダヤ教を破棄した暁にこそ救済が訪れると考え、こぞってイスラム教やキリスト教に改宗してしまった。シャブタイ派に関わった主な人物[編集]
●シャブタイ・ツヴィ ●シャブタイ派の救世主 ●アブラハム・ナタン︵ガザのナタン︶ ●シャブタイ派の預言者 ●サムエル・プリモ ●エルサレム出身の著名な注釈家。ツヴィの個人秘書で、終生ナタンの信頼すべき参謀であった。 ●マタティヤフ・ブロッホ・アシュケナジー ●ツヴィに追随したエルサレムのラビ。シャブタイ派の活動をエジプトに伝えた。 ●モーシェ・ピネロ ●ツヴィの青年時代の友人。ツヴィがイズミールを追放されたときに行動を共にした。その後はリヴォルノに定住し、同地のシャブタイ派の指導者となった。 ●エリシャ・ハイム・アシュケナジー ●ナタンの父。エルサレムのシャダル︵各地に派遣される使者︶で、シャブタイ派の書物の印刷に携わった。 ●アブラハム・ハ=ヤキニ ●コンスタンティノープルのラビ。ツヴィの近親者でもあった。 ●サムエル・ギンドル ●エジプトのラビ。生涯ナタンに随行した。 ●イスラエル・ハザン ●ナタンの弟子。シャブタイ派のカバラに関する多数の著作を執筆している。 ●ヨセフ・フィロソフ ●ツヴィの義父。1683年にイスラム教に改宗したテッサロニキのグループの指導者であった。このグループが後にドンメ派となる。 ●アブラハム・ミグエル・カルドソ ●シャブタイ派の代表的な論客。ポルトガルのアヌシームの家系に生まれ、ユダヤ教に改宗してからはリビアのトリポリに定住した。 ●バルキヤ・ロッソ ●ドンメ派の指導者。 ●モルデカイ・モキァハ ●アイゼンシュタット出身の偽メシア。 ●ネヘミヤ・ヒヤ・ベン・モシェ・ハユン ●シャブタイ派の説教師。ツヴィとナタンの死後、ヨーロッパにおいて活躍した。 ●ヘシル・ツォレフ ●クラクフで活躍したカバリスト。ナタン・ナタア・シェフィラー︵ポーランドのカバリスト︶の継承者を自認していた。彼の著作はハシディズムに対して肯定的な記述が多かったため、信奉者から重視されていた。 ●ヤコブ・フランク ●フランク主義の指導者。シャブタイ・ツヴィの生まれ変わりと自称していたのだが、後に信奉者と共にキリスト教に改宗している。脚注[編集]
- ^ Andrew Mango, Atatürk, John Murray, 1999, pp. 448-453
- ^ Ilgaz Zorlu, Evet, Ben Selânikliyim: Türkiye Sabetaycılığı, Belge Yayınları, 1999, p. 223.
- ^ Yusuf Besalel, Osmanlı ve Türk Yahudileri, Gözlem Kitabevi, 1999, p. 210.
- ^ Rıfat N. Bali, Musa'nın Evlatları, Cumhuriyet'in Yurttaşları, İletişim Yayınları, 2001, p. 54.
- ^ “Javid (Cavid) Bey, Mehmed”. 2021年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月8日閲覧。
- ^ "The journal İnkılâp and the appeal of antisemitism in interwar Turkey" by Alexandros Lamprou, Middle Eastern Studies, Volume 58, 2022, pp. 32-47
- ^ Marc David Baer (2013). “An Enemy Old and New: The Dönme, Anti-Semitism, and Conspiracy Theories in the Ottoman Empire and Turkish Republic”. Jewish Quarterly Review 103 (4): 523–555. doi:10.1353/jqr.2013.0033 .