「ジョスカン・デ・プレ」の版間の差分
m Bot作業依頼#Cite webの和書引数追加 |
|||
(16人の利用者による、間の19版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家を参照 --> |
|||
[[Image:DESPREZ.jpg|right|frame|ジョスカン・デ・プレ]] |
|||
|名前 = ジョスカン・デ・プレ<br/>{{lang|fr|Josquin Des Prez}} |
|||
⚫ | |||
|画像 = Josquin des Prez.jpg |
|||
|画像説明 = <!-- 画像の説明文 --> |
|||
|画像サイズ = <!-- サイズが幅250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> |
|||
|画像補正 = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> |
|||
|背景色 = classic |
|||
|出生名 = <!-- 個人のみ --><!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 --> |
|||
|別名 = <!-- ミュージシャン/グループの別名を記載。愛称や略称ではありません --> |
|||
|出生 = [[1450年]]/[[1455年]]?<br/>[[サン=カンタン]]近郊 |
|||
|出身地 = <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> |
|||
|死没 = [[1521年]][[8月27日]]<br/>[[コンデ=シュル=レスコー]] |
|||
|学歴 = <!-- 個人のみ --> |
|||
|ジャンル = |
|||
|職業 = <!-- 個人のみ --> |
|||
|担当楽器 = <!-- 個人のみ --> |
|||
|活動期間 = |
|||
|レーベル = |
|||
|事務所 = |
|||
|共同作業者 = |
|||
|公式サイト = |
|||
|メンバー = <!-- グループのみ --> |
|||
|旧メンバー = <!-- グループのみ --> |
|||
|著名使用楽器 = <!-- 個人のみ --> |
|||
}} |
|||
⚫ | |||
⚫ |
'''ジョスカン・デ・プレ'''︵''Josquin Des Prez''; Josquin des Prés, Josquin des Pres, Josquin Desprezとも綴る。 [[1450年]]/[[1455年]]? - [[1521年]][[8月27日]] [[コンデ=シュル=レスコー]]︵[[w:fr:Condé-sur-l'Escaut|Condé-sur-l'Escaut]]︶<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/ジョスカン・デ・プレ-101405 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-02-12 }}</ref>︶は、盛期[[ルネサンス音楽|ルネサンス]]時代の[[フランス]]の作曲家、声楽家。本名はジョスカン・ルブロアット︵''Jossequin Lebloitte'' ︶。
|
||
ジョスカン・デ・プレは当時の全ての作曲技法を見事なまでに意のままに操っており、存命中既に著名な[[作曲家]]であり、現在ではその時代の最も優れた代表者であったと看做されている。 |
ジョスカン・デ・プレは当時の全ての作曲技法を見事なまでに意のままに操っており、存命中既に著名な[[作曲家]]であり、現在ではその時代の最も優れた代表者であったと看做されている。 |
||
==生涯== |
==生涯== |
||
⚫ | |||
ジョスカン・ルブロアット(通称ジョスカン・デ・プレ)は、[[1450年|1450]]/[[1455年|55年]]頃、ゴサール・ルブロアット(通称ゴサール・デ・プレ。[[1466年]](?)死亡)と、その妻(ジャンヌ(''Jeanne'' )という名だったらしい)との間に生まれたと考えられている。ジョスカンの誕生地は、[[フランス]]、[[サン=カンタン]]近くだったらしいエノー<!--[[エノー (ベルギー)|エノー]](現[[ベルギー]]領。仏語:[[:fr:Hainaut]]、独語: [[w:de:Hennegau|Hennegau]]、蘭語: [[w:nl:Henegouwen|Henegouwen]])←現エノー州ならサン=カンタンとは隔たりがある-->であると思われる。ジョスカンの少年時代及び青年時代のことを示す文書はない。ジョスカンはサン=カンタンの少年聖歌隊員だったらしい。当時の作曲家・声楽家である[[ロイゼ・コンペール]]が、作曲家の名前を列挙した部分を含むモテット“''Omnium bonorum plena''”(あらゆる善きものに充ちたる)において“Josquin”と呼んでいる人物がジョスカン・デ・プレ本人であるならば、その名が[[アントワーヌ・ビュノワ]]、[[ヨハネス・オケゲム]]、[[ティンクトーリス|ヨハンネス・ティンクトーリス]]、[[ヨハンネス・レジス]]、そして[[ギヨーム・デュファイ]]と一緒に呼ばれていることから、ジョスカン・デ・プレは[[1474年]]以前、多分[[1468年]]には既に同業者の間で高い評価を受けていたと思われる。 |
ジョスカン・ルブロアット(通称ジョスカン・デ・プレ)は、[[1450年|1450]]/[[1455年|55年]]頃、ゴサール・ルブロアット(通称ゴサール・デ・プレ。[[1466年]](?)死亡)と、その妻(ジャンヌ(''Jeanne'' )という名だったらしい)との間に生まれたと考えられている。ジョスカンの誕生地は、[[フランス]]、[[サン=カンタン]]近くだったらしいエノー<!--[[エノー (ベルギー)|エノー]](現[[ベルギー]]領。仏語:[[:fr:Hainaut]]、独語: [[w:de:Hennegau|Hennegau]]、蘭語: [[w:nl:Henegouwen|Henegouwen]])←現エノー州ならサン=カンタンとは隔たりがある-->であると思われる。ジョスカンの少年時代及び青年時代のことを示す文書はない。ジョスカンはサン=カンタンの少年聖歌隊員だったらしい。当時の作曲家・声楽家である[[ロイゼ・コンペール]]が、作曲家の名前を列挙した部分を含むモテット“''Omnium bonorum plena''”(あらゆる善きものに充ちたる)において“Josquin”と呼んでいる人物がジョスカン・デ・プレ本人であるならば、その名が[[アントワーヌ・ビュノワ]]、[[ヨハネス・オケゲム]]、[[ティンクトーリス|ヨハンネス・ティンクトーリス]]、[[ヨハンネス・レジス]]、そして[[ギヨーム・デュファイ]]と一緒に呼ばれていることから、ジョスカン・デ・プレは[[1474年]]以前、多分[[1468年]]には既に同業者の間で高い評価を受けていたと思われる。 |
||
31行目: | 55行目: | ||
[[1500年]]から2~3年の間、ジョスカンはフランス王[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]の宮廷楽団の一員であったらしい。[[グラレアヌス]]によれば、ジョスカンは報酬の未払いを国王に思い出させるために、モテット“Memor esto verbi”︵御言葉を思い出したまえ︶を書いたのだが、モテット“Bonitatem fecisti”︵仁慈をもてあしらいたまえり︶<ref>'''訳注''': “Memor esto verbi”及び“Bonitatem fecisti”は、それぞれ[[詩篇]]第119篇第49節及び第65節からとった言葉と思われる。</ref>の方は、どの約束でも守ってもらえたら感謝するつもりで書いたのだと云う。これは、サン=カンタンの司教座教会参事会員職の譲渡に関わっていたのかもしれない。ジョスカンは、実際にこの役職に就いていたと云うことが、[[1503年]][[5月30日]]の文書から判る。更に、グラレアヌスによれば、音楽的才能が僅しか無かったルイ12世︵あるいは、その前のルイ11世か?︶の為に、滑稽な方法で算段した楽曲を一つ書いていると云う。<ref>'''訳注''': 最後のセンテンスの意味であるが、とあるモテットに、﹁高貴なる声部﹂という声部があり、その声部のメロディはほとんどラ︵A︶の音しか使われていない、と云う。音痴でも歌える、という訳である。グラレアヌスはこの逸話に言及していると思うが、どのモテットであるかは検索中である。</ref>
|
[[1500年]]から2~3年の間、ジョスカンはフランス王[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]の宮廷楽団の一員であったらしい。[[グラレアヌス]]によれば、ジョスカンは報酬の未払いを国王に思い出させるために、モテット“Memor esto verbi”︵御言葉を思い出したまえ︶を書いたのだが、モテット“Bonitatem fecisti”︵仁慈をもてあしらいたまえり︶<ref>'''訳注''': “Memor esto verbi”及び“Bonitatem fecisti”は、それぞれ[[詩篇]]第119篇第49節及び第65節からとった言葉と思われる。</ref>の方は、どの約束でも守ってもらえたら感謝するつもりで書いたのだと云う。これは、サン=カンタンの司教座教会参事会員職の譲渡に関わっていたのかもしれない。ジョスカンは、実際にこの役職に就いていたと云うことが、[[1503年]][[5月30日]]の文書から判る。更に、グラレアヌスによれば、音楽的才能が僅しか無かったルイ12世︵あるいは、その前のルイ11世か?︶の為に、滑稽な方法で算段した楽曲を一つ書いていると云う。<ref>'''訳注''': 最後のセンテンスの意味であるが、とあるモテットに、﹁高貴なる声部﹂という声部があり、その声部のメロディはほとんどラ︵A︶の音しか使われていない、と云う。音痴でも歌える、という訳である。グラレアヌスはこの逸話に言及していると思うが、どのモテットであるかは検索中である。</ref>
|
||
[[1502年]][[8月14日]]付けの或る文書では、“Il Coglia”<ref>'''訳注''': “Il Coglia”は、その語形から︵中世?︶イタリア語かと推測されるが、語義は確認できていない。</ref>とも呼ばれていたジローラモ・ダ・セストラ ︵Girolamo da Sestola︶は、自分の領主の[[フェラーラ]]公[[エルコレ・デステ |
[[1502年]][[8月14日]]付けの或る文書では、“Il Coglia”<ref>'''訳注''': “Il Coglia”は、その語形から︵中世?︶イタリア語かと推測されるが、語義は確認できていない。</ref>とも呼ばれていたジローラモ・ダ・セストラ ︵Girolamo da Sestola︶は、自分の領主の[[フェラーラ]]公[[エルコレ1世・デステ]]︵[[1505年]]没︶に、[[1497年]]以来空席になっていた宮廷楽団長職をジョスカンに与えるよう提案している。すぐ後の1502年[[9月2日]]に、ジャン・ジ・アルティガノヴァ︵Gian di Artiganova︶が、やはり宮廷楽団長職に就いて、就任に乗り気であり適任でもあると見られる上、ジョスカンほど俸給を要求していない[[ハインリヒ・イザーク]]を採用するよう推挙した。公爵はジョスカンの方を採用して、[[1503年]][[3月]]以降の俸給支払いを認めた。しかしジョスカンは、[[1503年]][[4月]]末になってようやくフランスからフェラーラに到着した。1503年夏、フェラーラでペストが発生したため、公爵は9月に自らの宮廷から[[コマッキオ]]に移住した。疫病は[[1504年]]初頭まで続き、その後も繰り返し再発した。1年後にジョスカンがフェラーラを去ってしまったのは、おそらくこれが原因であろう。ジョスカンはフェラーラ公のために﹁ミゼレーレ﹂︵“Miserere”, ﹁憐れみたまえ﹂︶を作曲している。
|
||
[[1504年]][[5月3日]]、コンデ=シュル=レスコーにあるノートルダム教会の聖堂尖塔先端を新規に築造するのを記念して、4人の司教座教会参事会員が新たに任命されたが、その中に“Monsieur le prevost messire Josse de pres” (ジョス・ド・プレ閣下殿)<ref>'''訳注''': “Monsieur le prevost messire Josse de pres”は中世フランス語と思われる。“Monsieur”は勿論、“prevost”も“messire”も、高位の人物に対する敬称であるらしい。</ref>が含まれていた。ジョスカンは遅くとも[[1470年代]]以降、この教会と親密な関係を維持してきており、サン=カンタンにおける自分の教会禄との交換によって、すぐに当地における教会禄も得さえしたのだった。司教座教会主席司祭として、ジョスカンは管区での世俗権力を行使した。コンデ=シュール=レスコーでの礼拝は、同等の他の教会より豪奢に催された。聖歌隊は16人の助任司祭と6人の少年聖歌隊員からなり、6声部での音楽演奏が可能だったのだ。 |
[[1504年]][[5月3日]]、コンデ=シュル=レスコーにあるノートルダム教会の聖堂尖塔先端を新規に築造するのを記念して、4人の司教座教会参事会員が新たに任命されたが、その中に“Monsieur le prevost messire Josse de pres” (ジョス・ド・プレ閣下殿)<ref>'''訳注''': “Monsieur le prevost messire Josse de pres”は中世フランス語と思われる。“Monsieur”は勿論、“prevost”も“messire”も、高位の人物に対する敬称であるらしい。</ref>が含まれていた。ジョスカンは遅くとも[[1470年代]]以降、この教会と親密な関係を維持してきており、サン=カンタンにおける自分の教会禄との交換によって、すぐに当地における教会禄も得さえしたのだった。司教座教会主席司祭として、ジョスカンは管区での世俗権力を行使した。コンデ=シュール=レスコーでの礼拝は、同等の他の教会より豪奢に催された。聖歌隊は16人の助任司祭と6人の少年聖歌隊員からなり、6声部での音楽演奏が可能だったのだ。 |
||
37行目: | 61行目: | ||
ジョスカンの晩年のことは殆ど知られていない。[[1508年]][[5月23日]]には、[[ネーデルラント]]の総督[[マルグリット・ドートリッシュ|マルグリット]](フィリップ美公の妹)の参事会は、ジョスカンが健康であることを報告している。マルグリットの側近がこう進言したのは、1508年[[5月20日]]に死亡したデュヴェツ(Duwez)が、その死に至るまでコンデにおける司教座教会主席司祭であったことに関するのは明らかである。マルグリットはジョスカンのことを知らず、彼の滞在が意味するところについて何の考えも持っていなかったことが知られる。ジョスカンはローマと、[[1509年]][[5月]]に[[アラス]]での教会禄について、また[[1513年]][[1月]]に[[トゥルネー]]での教会禄について交渉している。[[1519年]]、マルグリットはイェハン(ジャン)・ロメル(Jehan Lommel)なる人物を、コンデの聖堂参事会長に任命するよう、ジョスカンに要請している。 |
ジョスカンの晩年のことは殆ど知られていない。[[1508年]][[5月23日]]には、[[ネーデルラント]]の総督[[マルグリット・ドートリッシュ|マルグリット]](フィリップ美公の妹)の参事会は、ジョスカンが健康であることを報告している。マルグリットの側近がこう進言したのは、1508年[[5月20日]]に死亡したデュヴェツ(Duwez)が、その死に至るまでコンデにおける司教座教会主席司祭であったことに関するのは明らかである。マルグリットはジョスカンのことを知らず、彼の滞在が意味するところについて何の考えも持っていなかったことが知られる。ジョスカンはローマと、[[1509年]][[5月]]に[[アラス]]での教会禄について、また[[1513年]][[1月]]に[[トゥルネー]]での教会禄について交渉している。[[1519年]]、マルグリットはイェハン(ジャン)・ロメル(Jehan Lommel)なる人物を、コンデの聖堂参事会長に任命するよう、ジョスカンに要請している。 |
||
[[1521年]][[8月23日]]、コンデの市役人がジョスカンを訪問して、遺産を遺す確かな権利についての彼の要求の合法性を審査している。ジョスカンは自らについて、“Noir Eauwe”︵黒い水︶の河の向こう側から来た﹁異国人﹂であり、国境の向こう側で生まれたと語った。ジョスカンは[[1521年]][[8月27日]]に死亡した。彼はノートルダム教会に、コンデにある一軒の家屋と土地を、そこからの収入込みで遺贈し、それで故人の追悼ミサのための費用を賄うようにした。その内容は、聖母マリアの祝日と一年中土曜日とには毎夕“Salve” <ref>'''訳注''': “Salve”とは“Salve Regina”︵サルヴェ・レジナ﹁めでたし元后﹂︶の略から波及し、ポリフォニーを用いた、聖母マリアに捧げる時祷︵聖務日課︶の俗称である。[[フランドル]]では、この様な時祷をギルドなどの団体で催すのが流行したとされる。</ref>を催すことと、祭日の行列が練り歩く間ずっと、市場にある彼の家の前で、彼が作曲したモテット“Pater noster / Ave Maria”︵﹁主の祈り/アヴェ・マリア﹂︶を詠唱する、と云うものだった。<ref>'''訳注''': ﹁その内容は、聖母マリアの……と云うものだった。﹂は、正しく訳されているか確証がない。Prozessionen︵英‥prosession︶には葬式の入堂式、葬列、十字架を立て聖職者を先頭にした祭日の行列、等の意味があるが、allgemeinen︵英‥general︶という形容詞が付くところから、﹁祭日の行列﹂と訳してみたが、遺言なので単に﹁葬列﹂でよいのかもしれない。原文は "Diese bestanden darin, an Marianischen Festtagen und den Samstagen des Jahres jeden Abend das Salve zu feiern und während der allgemeinen Prozessionen die von ihm komponierte Motette "Pater noster / Ave Maria" vor seinem Haus, das sich am Marktplatz befand, zu intonieren."</ref>ジョスカンはコンデにおいて埋葬されたが、その墓は[[1793年]]に破壊されてしまった。 |
[[1521年]][[8月23日]]、コンデの市役人がジョスカンを訪問して、遺産を遺す確かな権利についての彼の要求の合法性を審査している。ジョスカンは自らについて、“Noir Eauwe”︵黒い水︶の河の向こう側から来た﹁異国人﹂であり、国境の向こう側で生まれたと語った。ジョスカンは[[1521年]][[8月27日]]に死亡した。彼はノートルダム教会に、コンデにある一軒の家屋と土地を、そこからの収入込みで遺贈し、それで故人の追悼ミサのための費用を賄うようにした。その内容は、聖母マリアの祝日と一年中土曜日とには毎夕“Salve” <ref>'''訳注''': “Salve”とは“Salve Regina”︵サルヴェ・レジナ﹁めでたし元后﹂︶の略から波及し、ポリフォニーを用いた、聖母マリアに捧げる時祷︵聖務日課︶の俗称である。[[フランドル]]では、この様な時祷をギルドなどの団体で催すのが流行したとされる。</ref>を催すことと、祭日の行列が練り歩く間ずっと、市場にある彼の家の前で、彼が作曲したモテット“Pater noster / Ave Maria”︵﹁主の祈り/アヴェ・マリア﹂︶を詠唱する、と云うものだった。<ref>'''訳注''': ﹁その内容は、聖母マリアの……と云うものだった。﹂は、正しく訳されているか確証がない。Prozessionen︵英‥prosession︶には葬式の入堂式、葬列、十字架を立て聖職者を先頭にした祭日の行列、等の意味があるが、allgemeinen︵英‥general︶という形容詞が付くところから、﹁祭日の行列﹂と訳してみたが、遺言なので単に﹁葬列﹂でよいのかもしれない。原文は "Diese bestanden darin, an Marianischen Festtagen und den Samstagen des Jahres jeden Abend das Salve zu feiern und während der allgemeinen Prozessionen die von ihm komponierte Motette "Pater noster / Ave Maria" vor seinem Haus, das sich am Marktplatz befand, zu intonieren."</ref>ジョスカンはコンデにおいて埋葬されたが、その墓は[[1793年]]に破壊されてしまった。
|
||
⚫ | |||
⚫ | |||
== 作品 == |
== 作品 == |
||
203行目: | 224行目: | ||
== メディア == |
== メディア == |
||
[http://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/f/f2/Josquin_El_grillo_sung_by_the_dwsChorale.ogg Josquin - El Grillo ] |
[http://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/f/f2/Josquin_El_grillo_sung_by_the_dwsChorale.ogg Josquin - El Grillo ] |
||
・2021年8月27日、没後500年となる。 |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
==外部リンク== |
==外部リンク== |
||
* |
*{{Wayback|url=http://www.gocities.jp/gammautalamire/Josquin.html |title=ジョスカン・ルブロワット(通称デ・プレ) |date=20190101000000}} |
||
* |
*{{Wayback|url=http://www.geocities.jp/gammautalamire/frame.html |title=フランドル楽派の音楽家たち |date=20190330042607}} |
||
*[http://www.princeton.edu/~rwegman/opmeer.htm ジョスカン・デ・プレの画像] |
*[http://www.princeton.edu/~rwegman/opmeer.htm ジョスカン・デ・プレの画像] |
||
* |
*{{Wayback|url=http://www.geocities.com/Vienna/Choir/4792/ |title=Josquin Des Prez : Articles |date=20010404092614}} |
||
*[http://anaigeon.free.fr/mes_sons/bvirgjos.mid 楽曲 mid 音源 "Kyrie de la Missa de Beata Virgine"] |
*[http://anaigeon.free.fr/mes_sons/bvirgjos.mid 楽曲 mid 音源 "Kyrie de la Missa de Beata Virgine"] |
||
|
*[http://anaigeon.free.fr/mes_facs/fsjosq.jpg 楽譜画像 "Facsimile of Kyrie de la Missa de Beata Virgine"] |
||
*[http://anaigeon.free.fr/mes_sons/josdueil.mid 楽曲 mid 音源 "Plaine de dueil"] |
*[http://anaigeon.free.fr/mes_sons/josdueil.mid 楽曲 mid 音源 "Plaine de dueil"] |
||
*{{IMSLP|author=Josquin_Desprez|cname=ジョスカン・デ・プレ}} |
|||
{{Normdaten}} |
|||
{{DEFAULTSORT:てふれ しよすかん}} |
{{DEFAULTSORT:てふれ しよすかん}} |
||
[[Category:ルネサンスの作曲家]] |
[[Category:ルネサンスの作曲家]] |
||
220行目: | 249行目: | ||
[[Category:フランスの作曲家]] |
[[Category:フランスの作曲家]] |
||
[[Category:教会音楽家]] |
[[Category:教会音楽家]] |
||
[[Category: |
[[Category:1450年代生]] |
||
[[Category:1521年没]] |
[[Category:1521年没]] |
||
<!--[[ジョスカン・デ・プレ]] |
<!--[[ジョスカン・デ・プレ]] |
||
最新の研究成果を最も良く反映していると思われる [[w:de:Josquin Desprez]] (19:38, 20. Apr 2005) の和訳。ローカライズ、僅かに補足。 |
最新の研究成果を最も良く反映していると思われる [[w:de:Josquin Desprez]] (19:38, 20. Apr 2005) の和訳。ローカライズ、僅かに補足。 |
||
--> |
--> |
||
{{Link FA|en}} |
|||
{{Link GA|et}} |
2023年10月18日 (水) 02:33時点における最新版
ジョスカン・デ・プレ Josquin Des Prez | |
---|---|
基本情報 | |
生誕 |
1450年/1455年? サン=カンタン近郊 |
死没 |
1521年8月27日 コンデ=シュル=レスコー |
生涯
[編集]作品
[編集]ミサ曲
[編集]ミサ曲断片
[編集]- Credo chiascun me crie;
- Credo de tous biens playne;
- Credo vilayge (I);
- Credo vilayge (II);
- Gloria de beata virgine;
- Sanctus de passione;
- Sanctus D'ung aultre amer.
モテット
[編集]世俗曲
[編集]- A la mort / Monstra te esse matrem;
- A l’heure que je vous;
- A l’ombre d’ung buissonet, au matinet (3声部);
- Adieu mes amours「さらば愛しい人々よ」;
- Adieu mes amours (6声部又は7声部)「さらば愛しい人々よ」;
- Baisé moy, ma doulce amye (4声部);
- Belle, pour l’amour de vous;
- Bergerette savoyenne;
- Ce povre mendiant / Pauper sum ego;
- Cela sans plus;
- Comment peult haver joye;
- Cueur langoreulx;
- De tous biens plaine (3声部);
- De tous biens plaine (4声部);
- Douleur me bat;
- Du mien amant;
- Dulces exuviae;
- El grillo「こおろぎはよき歌い手」;
- En l’ombre d’ung buissonet tout, au long (3声部);
- En l’ombre d’ung buissonet tout, au long (4声部);
- Entré je suis en grant pensée (3声部);
- Entré je suis en grant pensée (4声部);
- Fama malum;
- Faulte d'argent;
- Fors seulement (6声のうち1声のみ残存);
- Fortuna d’un gran tempo;
- Helas madame;
- Ile fantazies de Joskin;
- In te Domine speravi per trovar pietà;
- Incessament livré suis à martire;
- Je me complains;
- Je n’ose plus;
- Je ris et si ay larme;
- Je sey bien dire;
- La belle se siet;
- La Bernardina;
- La plus de plus;
- Le villain [jaloux];
- Ma bouche rit et mon cueur pleure;
- Mon mary m’a diffamée;
- N’esse pas ung grant desplaisir;
- Nymphes des bois (オケゲムの死を悼む挽歌)「森のニンフ」;
- Nymphes, nappés / Circumdederunt me;
- Parfons regretz;
- Petite camusette;
- Plaine de dueil;
- Plus n’estes ma maistresse (ファロウズ Fallows が真作であると主張);
- Plus nulz regretz;
- Plusieurs regretz;
- Pour souhaitter;
- Quant je vous voye;
- Que vous madame / In pace in idipsum;
- Qui belles amours a
- Recordans de my signora;
- Regretz sans fin;
- Scaramella va alla guerra;
- Se congié prens;
- Si j’ay perdu mon amy (3声部);
- Si j’ay perdu mon amy (4声部);
- Tant vous aimme Bergeronette;
- Tenz moy en voz bras;
- Una mousse de Biscaye;
- Vive le roy (全体が、フランスのルイ12世に捧げられたもの);
- Vous l’arez, s’il vous plaist;
- Vous ne l‘arez pas;
- 歌詞紛失 (4声部).
- 王様万歳(王のファンファーレ) (器楽4声部)
- ラ・スパーニャ(器楽5声部。偽作?)
メディア
[編集]
・2021年8月27日、没後500年となる。
脚注・訳注
[編集]外部リンク
[編集]- ジョスカン・ルブロワット(通称デ・プレ) - ウェイバックマシン(2019年1月1日アーカイブ分)
- フランドル楽派の音楽家たち - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分)
- ジョスカン・デ・プレの画像
- Josquin Des Prez : Articles - ウェイバックマシン(2001年4月4日アーカイブ分)
- 楽曲 mid 音源 "Kyrie de la Missa de Beata Virgine"
- 楽譜画像 "Facsimile of Kyrie de la Missa de Beata Virgine"
- 楽曲 mid 音源 "Plaine de dueil"
- ジョスカン・デ・プレの楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクト