マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)
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マクシミリアン1世 Maximilian I. | |
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神聖ローマ皇帝 | |
アルブレヒト・デューラー画 | |
在位 |
1477年 - 1482年(ブルゴーニュ公) 1493年 - 1508年(ローマ王) 1508年 - 1519年(神聖ローマ皇帝) |
戴冠式 | 1486年4月9日(ローマ王) |
出生 |
1459年3月22日 神聖ローマ帝国 オーストリア大公国、ウィーナー・ノイシュタット |
死去 |
1519年1月12日(59歳没) 神聖ローマ帝国 オーストリア大公国、ヴェルス |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 オーストリア大公国、ウィーナー・ノイシュタット、聖ゲオルク教会 |
配偶者 | マリー・ド・ブルゴーニュ |
ビアンカ・マリア・スフォルツァ | |
子女 |
フィリップ マルグリット |
家名 | ハプスブルク家 |
王朝 | ハプスブルク朝 |
父親 | フリードリヒ3世 |
母親 | エレオノーレ・フォン・ポルトゥガル |
サイン |
マクシミリアン1世︵ドイツ語: Maximilian I., 1459年3月22日 - 1519年1月12日︶はオーストリア大公ハプスブルク家6人目のローマ王︵ドイツ王、在位‥1486年 - 1493年)[注釈 1]、そして1508年からは神聖ローマ帝国史上初めてローマで戴冠式を挙げることなく選ばれしローマ皇帝を名乗り以後のローマ王もこれに倣い皇帝を称した[注釈 2]。また諸侯の要請を受け帝国を領邦国家連邦として法制化し、帝国の範囲を﹁ドイツ国民の神聖ローマ帝国﹂という国号でドイツに限定した[注釈 3]。治世を通して皇帝と帝国の権威は縮小したが、一方で一諸侯としては自身と子・孫の結婚政策で成功をおさめてハプスブルク家の隆盛の基礎を築きマクシミリアン大帝︵Maximilian der Große︶と称される。また武勇に秀で体躯に恵まれ、芸術の保護者であったことから、中世最後の騎士︵the Last Knight 独‥der letzte Ritter︶とも謳われる。ハプスブルク家ならではの多民族国家の姿が、マクシミリアン1世の時代に生み出されていった。ポルトガル王アフォンソ2世の雲孫、ポルトガル王アフォンソ3世の仍孫、ルドルフ1世とポルトガル王ディニス1世の昆孫、アルブレヒト1世とポルトガル王アフォンソ4世の来孫、ポルトガル王ペドロ1世の玄孫、ポルトガル王ジョアン1世の曾孫、ポルトガル王ドゥアルテ1世の孫である。
フリードリヒ3世と皇后エレオノーレ
14、15世紀当時、神聖ローマ皇帝位は実態を伴わない官職の一つと化し、ドイツ圏には領邦国家が乱立していた[1]。このような時代の中、勢威ある選帝侯たちに祭り上げられる形で、1440年、凡庸なハプスブルク家のフリードリヒがローマ王となる[2]。1452年3月16日、ローマで教皇ニコラウス5世によって、ポルトガル王ドゥアルテ1世の王女で15歳のエレオノーレと結婚式を執り行う[3]。そして3月19日、教皇の手により戴冠した。
海洋国として裕福だったポルトガルから嫁したエレオノーレに、ノイシュタットの宮廷は陰鬱であり、またフリードリヒ3世との年齢差や迷信深く寡黙な性格に失望する[4]。長男の夭折を経て、結婚7年後の1459年3月22日、待望久しい皇子マクシミリアンが誕生するが、フリードリヒ3世の子ではないと噂された[5]。
フリードリヒ3世も皇子誕生を喜び、占い師に皇子の将来を占わせると、次のような結果を得た[6]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
「 | 充実した、楽しい、意気盛んな人生。戦いにつぐ戦い。辛苦。雄大な計画。胸はずむような期待。幾度かの幻滅。しかし赫々たる勝利の連続。 | 」 |
マクシミリアン1世の生涯において、この予言はほぼ現実となった[6]。また、数々の打撃の都度、彼自身﹁暗い星座﹂のためと発言したとされる[7]。
少年時代[編集]
母后の影響[編集]
マクシミリアンが3歳の1462年8月、父帝フリードリヒ3世に対し、野心家の叔父アルブレヒト6世︵オーストリア大公︶が叛乱をしかけ、混乱に対処しない皇帝に対しアルブレヒトに煽動され、ウォルフガング・ホルツァーを筆頭に市民が議会に殺到し、マクシミリアンと母后エレオノーレはウィーンの王宮に幽閉される[8]。アルブレヒトがウィーンを支配するが、ほどなく死去し、ホルツァーも処刑され、再びフリードリヒ3世がウィーンを治めた[9]。 マクシミリアンは言語面での発達が遅く、5歳まで言葉を喋れなかった[10]。母后の期待を一身に背負い成長するが、彼女はマクシミリアンが8歳のときに逝去した。マクシミリアンの社交的で明るい性格や芸術・学問への関心は、母エレオノーレの影響が大きいとされる[11][12]。一方、母の早世により信仰心は深まり、父帝同様に錬金術や迷信にも関心を持った[13]。若き﹁騎士﹂として[編集]
マクシミリアンは父フリードリヒ3世が付けたスコラ学の家庭教師に関心を示さず、一方、乗馬をはじめあらゆる武芸に秀でた。親しい学友にウォルフガング・フォン・ポルハイムらの名前が残る[14]。 マクシミリアンは騎士道物語や年代記、紋章学などに関心を持ち、宮廷にかつて出仕していたカスパール・シュリックやエネアス・シルヴィウス・ピッコローミニらの書物による影響を受けた[14]。 10代に成長したマクシミリアンは、眉目秀麗な若者となり、その話術は多くの人を惹きつけた[15]。結婚直前まで唯一の妹クニグンデの侍女であるロジーナ・クライクに思いを寄せていたとされる[16]。ブルゴーニュ公家との縁談[編集]
ブルゴーニュ公[編集]
ブルゴーニュ継承戦争[編集]
幸福な結婚生活[編集]
摂政として[編集]
マリーの死後、フィリップが公位を継承してマクシミリアンが摂政になると、フランス王ルイ11世の煽動により公国内のヘント、ブルッヘ、イーペルを初めとする各地で反乱が起こった[46]。さらに国境に軍を進め、他都市への煽動を継続した[47]。父帝フリードリヒ3世もハンガリーを巡る抗争によって本拠地を転々とさせており、フリードリヒ3世どころかドイツ諸侯の支援を受けられる状況になかった[48]。計略に追い詰められたマクシミリアンは、同1482年12月に締結されたアラスの和約によって、2歳のマルグリットをフランス王太子シャルル︵後のシャルル8世︶と婚約させられ、さらに次の項目を認めざるを得なかった[49]。 ●婚資として、フランシュ=コンテ、アルトワ、シャロレーを割譲 ●上記の領地は、シャルルとマルグリットに嗣子が無ければフィリップが継承する ●フィリップに嗣子が無ければ、フランス領となる また、フィリップも急進的なヘント市民の下で養育されることとなったしかし、マクシミリアンは摂政の地位を事実上剥奪されながらも、オーストリアへ帰郷せず、ヘントをはじめとするブルゴーニュ内の反ハプスブルク派の都市や諸侯、フランス王︵ルイ11世と次代のシャルル8世︶との間で旧ブルゴーニュ所領を巡る戦争を続けることになった[50][51]。 なお、1477年のシャルル突進公の戦死から、このアラスの和約までは、ブルゴーニュ継承戦争と総称される。 1483年、エンゲルベルト・フォン・ナッサウやジョス・ド・ラランを従え、2か月かけてユトレヒトを陥落させて反撃の狼煙を上げる。クレーフェ、アーネム︵アルンヘム)、ゲルデルン、デンデルモンデを相次いで陥落させ、ついに1485年1月にはヘントの上流側に位置するアウデナールデを陥落させた[52]。各都市の相次ぐ開城を目の当たりにして、ブルッヘは同年6月に、ヘントは同年7月にそれぞれ開城し、マクシミリアンはフランス軍や叛徒を追放した[53]。ヘントでは約3年ぶりにフィリップと再会した[53]。 マクシミリアンは、叛乱の首謀者を処刑し、また、ヘントには1477年の大特許状による特権を返上させた[54]。この他、歴代のブルゴーニュ公が授与した特権も剥奪し[54]、毅然とした態度でフランドルの市民を恭順させた[55]。 ブリュッセルでネーデルランド議会を招集し、ブルゴーニュの統治とフィリップの保護をエンゲルベルト・フォン・ナッサウ、フィリップ・フォン・クレーフェ、宰相カロンドレの3名による特別顧問団に託し、1485年11月にブルゴーニュを後にした。同年12月、アーヘンで父帝フリードリヒ3世と再会する。ローマ王[編集]
ローマ王選出[編集]
オスマン帝国と同盟したハンガリー王マーチャーシュ1世による侵攻を受け、帝都ウィーンを失ったフリードリヒ3世は、マクシミリアンに公の役職を確保すべく選帝侯を説得した[56]。26歳となったマクシミリアンの、君主としての資質はドイツ諸侯の間でも高く評価されていた[57]。 1486年2月16日、フランクフルトの聖バルトロメウス大聖堂で行われた、ベーメン王を除く6人の選帝侯の投票により、神聖ローマ帝国の後継者ローマ王に選出され[58]、同年4月9日にアーヘンで戴冠式を行った[59]。 また同年には、チロル領主ジークムント大公の下にいた妹クニグンデが、半ば騙される形で、フリードリヒ3世の意に反してバイエルン公アルブレヒト4世と結婚する事件が起こる[60]。虜囚[編集]
ローマ王になったものの、マクシミリアンは東方のハンガリー問題の前に、西方のブルゴーニュ問題の解決を図らねばならなかった。 帝国諸侯の賛同を得られない場合、ローマ王は戦費を自費で賄わなければならなかった[61]。戦争を継続していたマクシミリアンは軍事費としてネーデルラントにビール税など新しい税を課したが、この一方的な増税は、古くから封建制や中央集権化と対立し、地方自立主義を堅持するネーデルラントの州や都市には受け入れがたいものであった[62]。また、ドイツ傭兵も素行が悪く、市民はその責任をマクシミリアンに転嫁した[63]。 不満を抱いた市民たちを、フランスのシャルル8世とその姉の摂政アンヌ・ド・ボージューが煽動した[64]。1488年1月、マクシミリアンは500名を従えて聖燭祭へのブルッヘ市民の招きに応じて同地を訪問した[64]。しかし聖燭祭の前日、2月1日、外部との往来が制限され、市内はにわかに騒乱を呈する[65]。そして翌2月2日、市民は市長ピーテル・ランシャル以下の高官の更迭をマクシミリアンに要求し、市内は暴動が起こる[66]。マクシミリアンは許可なく市内に出ないことを宣言して、マルクと広場の一角にある屋敷に幽閉された[67]。側近らはヘントに移送されて投獄され、うちカロンドレは処刑された。一部は、身分を隠して市外へ脱出し、マクシミリアンもフリードリヒ3世へ救いを求める手紙を出した[67]。ヘント、ブルッヘ、イーペルを首班とする親仏派のネーデルラント諸都市はマクシミリアンをフランスへ引き渡すべく彼の身柄を拘束したものの、王の処遇に困ったまま3か月余りが経過した。 ローマ王の虜囚には、ドイツの諸侯のみならず、ローマ教皇やスペインのカトリック両王も強く反発した。同年5月にローマ王救出の帝国軍が派兵された。数か月に及ぶ無法状態によって、通商も成立できず荒廃を極める中、進軍の報を受けて、ヘントとブルッヘは﹁ローマ王は、ブルゴーニュ公フィリップの後見の地位を放棄し、フランスと和平を認めること﹂などの要求を出した[68]。心身ともに衰弱したマクシミリアンは、この要求に署名し、5月16日に解放された[69]。 帝国軍は諸都市への攻囲を行ったが、マクシミリアンの信任を得ていたフィリップ・フォン・クレーフェが諸都市側に寝返って善戦したため、諸都市を陥落させるには至らなかった。﹁ローマ王救出﹂という当初の目的が達成され、駐留の意義を失った帝国軍は、同年8月頃から撤収を開始し、10月にフリードリヒ自身もネーデルラントから撤退した[70]。この戦いで市民や商人が最も手強い相手となり、彼らと対立して窮地に追い込まれたマクシミリアンは異なる文化の統治の難しさを経験した。これ以降、彼は他の各地で商人たちを積極的に味方につける施政を執るようになった。 ザクセン公アルブレヒト︵勇敢公︶の活躍により最終的にクレーフェが降伏し、内戦が終結するのは1492年10月のことである[70]。その結果、ハプスブルク家によるネーデルラントの中央集権的統治が確立された[70]。バイエルン問題[編集]
マクシミリアンは、1489年2月にネーデルランドを離れ、同年4月にドイツ南部のウルムを訪れ、妹クニグンデの婿でバイエルン公アルブレヒト4世の一件の解決を図ろうとする[71]。 1488年2月、野心家のアルブレヒト4世に対し、シュヴァーベン地方の諸都市や領主らがシュヴァーベン同盟を結成し、翌1489年春時点では、さらに両者の関係が悪化していたのだった[72]。そこでマクシミリアンは、4月にウルムで義弟となったアルブレヒト4世と対面し、5月には妹クニグンデと11年ぶりに再会を果たす[73]。フリードリヒ3世が2人の結婚に今も憤慨するのに対し、マクシミリアンは容認した。またシュヴァーベン同盟各都市とも根強く対話を続け、両者の調停に成功する[74]。こうして、ローマ王としての名声は一層高まった。 さらに、アルブレヒト4世とチロル領主ジークムント大公の間に、ジークムントが領地を抵当にアルブレヒト4世から莫大な借金をしながらも返済しないことが原因で紛争が起こっていた。マクシミリアンはシュヴァーベン同様、根気よく交渉にあたった。最終的に、1490年3月、州議会において、抵当にされたチロルおよびフォアラントがハプスブルク家に帰属するとともに、マクシミリアンがチロル伯位を借金ごと継承し、紛争は和解した[75] マクシミリアンはアルプスに囲まれた街インスブルックに都を置き、借金を返済のための経済改革に着手した。当時のチロルは法律も整備されず、貴族が勝手に税金を取るなど、宮廷内部の汚職や腐敗が蔓延し、ジークムント自身も放蕩の限りを尽くしていた。マクシミリアンは6年間でチロルの腐敗を一掃し、借金を返済した。その手助けをしたのが商人たちで、中でもフッガー家のヤーコプ・フッガーには銀の採掘権を与えた。引き換えに莫大な収益を上げ、そこから惜しみなく芸術へつぎ込まれた。また、チロルの鉱山から産出される豊かな資源を利用して、インスブルックに武器工場を建てた。ブルターニュ問題[編集]
1490年、マクシミリアンはフランスを挟撃するため、ブルターニュ公国の継承権を持つアンヌ女公と婚約し、代理人を派遣して結婚式を挙げた[76]。さらにハンガリーに制圧されていたオーストリア諸都市の奪回を進め、同年8月にハンガリー軍からウィーンを解放した。しかし父フリードリヒ3世の命により、対ハンガリー政策に専念せざるを得なくなり、アンヌとの正式な結婚は先送りにされた。 1491年、フランス王シャルル8世がブルターニュへ侵攻、首都レンヌを包囲し、孤立したアンヌに結婚を迫った。同年12月6日にアンヌはシャルル8世と結婚し、1492年2月15日にローマ教皇インノケンティウス8世がシャルルとアンヌの結婚の追認とシャルルとマクシミリアンの娘マルグリットとの離婚を特赦したため、マクシミリアンはアンヌとの婚姻によるブルターニュとの同盟を断念した。マクシミリアンは娘の帰国を要求して何か月間もフランスと交渉を続けたが、マルグリットをフランスの侯爵と縁付かせ、彼女の婚資をフランスへ併合しようという目論みのため、交渉は平行線をたどった。マクシミリアンは自分と娘が世に笑い者にされた屈辱とフランスのあざとさに激怒し、開戦した[77]。 1492年10月、ネーデルラントにおける叛乱が終結し、同地におけるハプスブルク家の統治が確立した。同年12月、マクシミリアンはマルグリットの婚資としてフランスに併合されていたブルゴーニュ自由伯領︵フランシュ=コンテ︶に侵攻、翌1493年3月にはブルゴーニュ自由伯領のほぼ全域を奪還し、フランス側の譲歩を引き出すことに成功した。 1493年5月23日、サンリスの和約が締結され、マルグリットのフランスからネーデルラントへの帰国とブルゴーニュ公の遺領分割が決定された。この時からハプスブルク家とフランス王家の長きにわたる対立が決定的になった。これが解消されるのは、18世紀の﹁外交革命﹂まで待たねばならない。神聖ローマ皇帝[編集]
結婚政策[編集]
「幸いなるオーストリアよ」も参照
功績[編集]
●1498年、旅から旅への日々を過ごしていたマクシミリアンは、やがて楽団を同行させるようになり、旅先での儀式はもちろん、旅の途中でも演奏をさせた。旅の楽団のメンバーは、後に作られたウィーンの王宮礼拝堂の聖歌隊に参加させ、宮廷礼拝堂少年聖歌隊と創設したが、これがウィーン少年合唱団の前身となった。 ●アルブレヒト・デューラーを庇護した。死の前年に肖像画を依頼し、デューラーはマクシミリアンの死後に﹃皇帝マクシミリアン1世の肖像﹄を完成させた。 ●1490年、領地における迅速な連絡手段の確保のため、ヤネット・デ・タシス(独‥ヤネット・フォン・タクシス︶に駅伝網敷設を命じ、これが近代郵便制度の起源とされる︵詳細は帝国郵便を参照)[81]。人物[編集]
●武勇に秀で、ギネガテの戦いでは自らも下馬して勇戦し、大砲を撃つのが好きだった。 ●文化や技術の面でも様々な民族から優れたものを取り込み、帝国全体に拡げていった。しかし、各民族の文化を尊重し、言語の統一はしなかった。 ●ラテン語、ドイツ語、フランス語、フラマン語、スペイン語、イタリア語、英語、チェコ語、ハンガリー語、スロベニア語と、領土内の様々な言語を学び、語学力に長けていた。いくつもの言葉で書かれたマクシミリアンのサイン入りの文書が現存しており、白王伝には﹁王が民衆と同じ言葉で語ると、民衆はとても満足し、王に特別な愛情を抱いた﹂と述べている。 ●甲冑を好んだ。フリューテッドアーマーはマクシミリアン1世の命により開発された。そのためマクシミリアン甲冑︵Maximillian armour︶とも呼ばれている。そしてヘンリー8世にあげるために作られた兜も有名である。系譜[編集]
マクシミリアン1世 | 父: フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝) |
祖父: エルンスト |
曽祖父: レオポルト3世 (オーストリア公) |
曽祖母: ヴェルデ・ヴィスコンティ | |||
祖母: ツィンバルカ・マゾヴィエツカ |
曽祖父: シェモヴィト4世(マゾフシェ公) | ||
曽祖母: アレクサンドラ・アルギルダイテ | |||
母: エレオノーレ |
祖父: ドゥアルテ1世[1] |
曽祖父: ジョアン1世 (ポルトガル王) | |
曽祖母: フィリパ | |||
祖母: レオノール |
曽祖父: フェルナンド1世 (アラゴン王) | ||
曽祖母: レオノール |
より詳細な血統図
マクシミリアン1世の血統(ハプスブルク家) | (血統表の出典) | |||
父 ローマ皇帝フリードリヒ3世 |
父の父 オーストリア公エルンスト |
オーストリア公レオポルト3世 | オーストリア公アルブレヒト2世 | |
ヨハンナ・フォン・プフィルト | ||||
ヴェルデ・ヴィスコンティ | ベルナボ・ヴィスコンティ | |||
レジーナ・デッラ・スカラ | ||||
父の母 ツィンバルカ・マゾヴィエツカ |
マゾフシェ公シェモヴィト4世 | マゾフシェ公シェモヴィト3世 | ||
エウフェミア・オパヴスカヤ | ||||
アレクサンドラ・アルギルダイテ | リトアニア大公アルギルダス | |||
ユリヤニヤ・トヴェリスカヤ | ||||
母 エレオノーレ・フォン・ポルトゥガル |
ポルトガル王ドゥアルテ1世 | ポルトガル王ジョアン1世 | ポルトガル王ペドロ1世 | |
テレサ・ロレンソ | ||||
フィリッパ・オブ・ランカスター | ランカスター公ジョン・オブ・ゴーント | |||
ブランシュ・オブ・ランカスター | ||||
母の母 レオノール・デ・アラゴン |
アラゴン王フェルナンド1世 | カスティーリャ王フアン1世 | ||
レオノール・デ・アラゴン | ||||
レオノール・デ・アルブルケルケ | アルブルケルケ伯サンチョ | |||
ベアトリス・デ・ポルトゥガル |
関連資料[編集]
- 『白王伝』(Der Weisskunig ) - マクシミリアン1世の生涯を表した木版挿絵入り書籍。1775年刊行。ウィーン美術史美術館所蔵
- 『マクシミリアン1世の凱旋』- 偉大さを誇示するために架空の行進を描いた、ハンス・ブルクマイアー作の連作版画。1526年発表。サンフランシスコ美術館所蔵
脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ ローマ王は帝位の前提となった東フランク王位から改称された王号。現代から見れば実質ドイツ王だが、当時のドイツはまだ国家・地域・民族以前の文化集団に過ぎない。またイタリアへの宗主権を備える。
(二)^ マクシミリアン1世以前は古代ローマ帝国内でローマ人と混交したゲルマン諸国の後継国家群を漠然と神聖ローマ帝国と呼び、皇帝は古代帝国の名残であるローマ教会の教皇に認可され戴冠していた。﹁神聖ローマ皇帝﹂は歴史学的用語で実際の称号ではない。
(三)^ 帝国の制度はドイツに限定されたが、ボヘミア王は皇帝が兼任する選帝侯であり続けたし、北イタリア諸邦も帝国イタリアと呼ばれ司法面で皇帝の宗主権を仰いだ。
(四)^ マクシミリアンや幾人かのフランドル諸侯は、この戦いで一時的にではあるが戦列に加わって歩兵を鼓舞した。その後の戦争でもしばしば彼らは自ら隊列に加わったが、当時の貴族騎士と歩兵の社会的な隔たりを考慮すれば革新的なことだった︵バウマン 2002,p.51-52︶
(五)^ これらの部隊は条件付きでしか召集出来ず、戦争が終結した後には召集を解除しなければならなかった︵バウマン 2002, p.49-50︶
(六)^ それまでローマ皇帝はローマで教皇により戴冠される習わしであった。
出典[編集]
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参考文献[編集]
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●ラインハルト・バウマン 著、菊池良生 訳﹃ドイツ傭兵の文化史﹄新評論、2002年10月。ISBN 978-4794805768。
●菊池良生﹃検閲帝国ハプスブルク﹄河出書房新社︿河出ブックス﹀、2013年4月。ISBN 978-4309624556。
●岩﨑周一﹃ハプスブルク帝国﹄講談社︿講談社現代新書﹀、2017年8月。ISBN 978-4-06-288442-6。
●森田安一 編﹃スイス・ベネルクス史﹄山川出版社︿新版世界各国史14﹀、1998年4月。ISBN 978-4-634-41440-2。
●E・ツェルナー 著、リンツビヒラ裕美 訳﹃オーストリア史﹄彩流社、2000年5月。ISBN 978-4882025801。
●三浦灌利﹃図説 西洋甲冑武器事典﹄柏書房、2000年2月。ISBN 978-4760118427。
関連項目[編集]
- ヨハン・ホイジンガ
- フリューテッドアーマー(マクシミリアン式甲冑)
- 黄金の小屋根
外部リンク[編集]
- サンフランシスコ美術館「マクシミリアン1世の凱旋」がサイト上で閲覧可能。
- ウィーン美術史美術館「白王伝」の一部がサイト上で閲覧可能。
- 東京藝術大学コレクション展「ドイツ・ネーデルラントの近世版画―マクシミリアン1世の時代を中心に―」
- インスブルックの霊廟(英語)
先代: フリードリヒ3世 |
ドイツ王(ローマ王) 1486年 - 1519年 |
次代: カール5世 |
オーストリア大公 シュタイアーマルク公 ケルンテン公 1493年 - 1519年 | ||
先代: ジークムント |
前方オーストリア大公 チロル伯 1490年 - 1519年 | |
先代: マリー |
ブルゴーニュ公(名目上) ブルゴーニュ伯 ブラバント公 リンブルク公 ルクセンブルク公 フランドル伯 エノー伯 ホラント伯 1477年 - 1482年 マリーと共同統治 |
次代: フィリップ美公 |