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===幼少期 - 高校卒業=== |
===幼少期 - 高校卒業=== |
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{{出典の明記|date=2015年11月13日 (金) 04:20 (UTC)|section=1}} |
{{出典の明記|date=2015年11月13日 (金) 04:20 (UTC)|section=1}} |
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[[1928年]][[6月13日]]生まれ。出生地は[[ウェストバージニア州]][[ブルーフィールド (ウェストバージニア州)|ブルーフィールド]]で、電気技術者の父と、[[英語]]及び[[ラテン語]]の[[教員|教師]]であった母の間に生まれた<ref name=" |
[[1928年]][[6月13日]]生まれ。出生地は[[ウェストバージニア州]][[ブルーフィールド (ウェストバージニア州)|ブルーフィールド]]で、電気技術者の父と、[[英語]]及び[[ラテン語]]の[[教員|教師]]であった母の間に生まれた<ref name="nytimes19941113">{{Cite news|last1=Nasar|first1=Sylvia|authorlink1=:en:Sylvia Nasar|title=The Lost Years of a Nobel Laureate|url=https://www.nytimes.com/1994/11/13/business/the-lost-years-of-a-nobel-laureate.html|website=[[The New York Times]]|location=Princeton, New Jersey|date=1994-11-13|access-date=2024-06-17|language=en-US}}</ref>。幼い頃から、他人との共同作業を好まず、独りでいることを好み、また何事も自分の考えた方法で行うことを好む少年であった{{sfn|高橋|2024|p=347}}。
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小学生の時に両親から﹃コンプトン百科事典﹄を買い与えられ |
小学生の時に両親から﹃コンプトン百科事典﹄を買い与えられ{{sfn|高橋|2024|p=348}}、12歳の時、自室で[[科学]][[実験]]を始める。{{独自研究範囲|date=2015年11月13日 (金) 04:20 (UTC)|この頃既に、彼が非常に聡明な頭脳の持ち主であると家族や友人は気付いていたが、その知的聡明さゆえに友人からは拒絶され、また彼自身も友人たちが興じている[[ダンス]]や[[スポーツ]]が、自分の実験や勉強に対して悪影響を及ぼすものであると信じていたようである。}}
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高校は地元のブルーフィールド・カレッジに進学。この頃、E.T. Bellの著書 |
高校は地元のブルーフィールド・カレッジに進学。この頃、E.T. Bellの著書『''[[:en:Men of Mathematics|Men of Mathematics]]''』(邦題『数学をつくった人びと』ハヤカワ文庫)を読み、後の専門分野となる[[数学]]に興味を持つが、電気技術者の父の影響で[[化学]]や[[電気工学]]を専攻する<ref name="nobelprize" />。 |
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===大学入学 - 博士号取得=== |
===大学入学 - 博士号取得=== |
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17歳の時、[[カーネギー・メロン大学|カーネギー工科大学]]に[[ウェスティングハウス|ジョージ・ウェスティングハウス]][[奨学金|奨学生]]として飛び級進学 |
17歳の時、[[カーネギー・メロン大学|カーネギー工科大学]]に[[ウェスティングハウス|ジョージ・ウェスティングハウス]][[奨学金|奨学生]]として飛び級進学{{sfn|高橋|2024|p=350}}。入学当初は専攻が[[化学工学]]であったが[[化学]]に変更、その後教員の勧めで[[数学]]に変更。選択科目で[[国際経済学]]を学び、[[経済学]]に対する興味を持つ。この大学で[[1948年]]に、[[学士|学士号]]と[[修士|修士号]]を同時に取得。
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ナッシュは博士課程を[[プリンストン大学]]で過ごすことになるが、カーネギー工科大学での指導教官である{{仮リンク|リチャード・ダフィン|en|Richard Duffin}}がプリンストン大学へ送った推薦状には「'''He is a mathematical genius. |
ナッシュは博士課程を[[プリンストン大学]]で過ごすことになるが、カーネギー工科大学での指導教官である{{仮リンク|リチャード・ダフィン|en|Richard Duffin}}がプリンストン大学へ送った推薦状には﹁'''He is a mathematical genius.'''﹂︵この男は数学の[[天才]]である。︶と書かれていた<ref>{{Cite web |url=https://www.facebook.com/PrincetonU/photos/a.402851790773.195866.18058830773/10153451228495774/|title=A letter to Professor S. Lefschetz|publisher=[[Princeton University]]|date=2015-06-05|accessdate=2024-06-17|language=en-US}}</ref>{{sfn|高橋|2024|p=353}}。
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===研究者としての最盛期=== |
===研究者としての最盛期=== |
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[[プリンストン大学]]博士課程在学中は[[ゲーム理論]]を研究し、[[1950年]]、[[非協力ゲーム]]に関する[[博士論文]] ''"Non-cooperative Games"'' で[[博士号]]を取得 |
[[プリンストン大学]]博士課程在学中は[[ゲーム理論]]を研究し、[[1950年]]、[[非協力ゲーム]]に関する[[博士論文]] ''"Non-cooperative Games"'' で[[博士号]]を取得{{sfn|高橋|2024|p=355}}。この論文は[[アルバート・タッカー|アルバート・ウィリアム・タッカー]][[教授]]の指導の下に書かれ{{sfn|高橋|2024|p=353}}、後に[[ナッシュ均衡]]と呼ばれる非協力ゲームにおける均衡解に関する定義と特性が含まれていた。この頃にナッシュはゲーム理論に関する以下の三つの論文を発表している。
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*"Equilibrium Points in N-person Games" (1950年、科学[[雑誌]][[米国科学アカデミー紀要|PNAS]]にて発表) |
*"Equilibrium Points in N-person Games" (1950年、科学[[雑誌]][[米国科学アカデミー紀要|PNAS]]にて発表) |
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*"The Bargaining Problem" (1950年[[4月]]、経済学雑誌[[Econometrica]]にて発表) |
*"The Bargaining Problem" (1950年[[4月]]、経済学雑誌[[Econometrica]]にて発表) |
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*"Analyticity of the solutions of implicit function problem with analytic data"([[1966年]]、数学雑誌Annals of Mathematicsにて発表) |
*"Analyticity of the solutions of implicit function problem with analytic data"([[1966年]]、数学雑誌Annals of Mathematicsにて発表) |
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実際、ナッシュ自身が「(ゲーム理論は)私の仕事の中で特につまらないもの」と評しているように<ref>"[http://www.pbs.org/wgbh/amex/nash/ A Brilliant Madness]" — a [[Public Broadcasting Service|PBS]] ''American Experience'' documentary</ref>、ナッシュの数学者としての評価を高めたのはゲーム理論に関する仕事ではなく、このリーマン多様体に関する仕事であった<ref name=" |
実際、ナッシュ自身が「(ゲーム理論は)私の仕事の中で特につまらないもの」と評しているように<ref>"[http://www.pbs.org/wgbh/amex/nash/ A Brilliant Madness]" — a [[Public Broadcasting Service|PBS]] ''American Experience'' documentary</ref>、ナッシュの数学者としての評価を高めたのはゲーム理論に関する仕事ではなく、このリーマン多様体に関する仕事であった<ref name="nytimes19941113" />。 |
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[[1953年]]、当時の恋人であったエレノア(Eleanor Stier)との間に男児が生まれるが、結婚には至らなかった |
[[1953年]]、当時の恋人であったエレノア︵Eleanor Stier︶との間に男児が生まれるが、結婚には至らなかった{{sfn|高橋|2024|p=358}}。
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===闘病生活・快復=== |
===闘病生活・快復=== |
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1954年に[[サンタモニカ]]で逮捕されたこと(公衆トイレでの卑猥な行為)が原因でランド研究所でのポストを失った<ref>{{Cite news|title=John Nash, mathematician - obituary|url=https://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/11627306/John-Nash-mathematician-obituary.html|newspaper=The Telegraph|date= |
1954年に[[サンタモニカ]]で逮捕されたこと(公衆トイレでの卑猥な行為)が原因でランド研究所でのポストを失った<ref>{{Cite news|title=John Nash, mathematician - obituary|url=https://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/11627306/John-Nash-mathematician-obituary.html|newspaper=The Telegraph|date=2015-05-24|access-date=2024-06-17}}</ref>。 |
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[[1957年]][[2月]]に[[エルサルバドル]]出身でMITの学生であったアリシア︵Alicia Lopez-Harrison de Lardé︶と結婚する<ref name=" |
[[1957年]][[2月]]に[[エルサルバドル]]出身でMITの学生であったアリシア︵Alicia Lopez-Harrison de Lardé︶と結婚する<ref name="nobelprize">{{Cite web|url=https://www.nobelprize.org/prizes/economic-sciences/1994/nash/biographical/|title=John F. Nash Jr. – Biographical|editor-last=Frängsmyr|editor-first=Tore|website=The Nobel Prize|publisher=Nobel Foundation|access-date=2024-06-17}}</ref>。
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[[1958年]]、アリシアが妊娠し、また29歳の若さでMITの終身職員の権利を得る。しかし、この頃から異常な言動が目立ち始め、[[1959年]]に病院で検査を受けた結果、現在で言う[[統合失調症]]であると診断される<ref name=" |
[[1958年]]、アリシアが妊娠し、また29歳の若さでMITの終身職員の権利を得る。しかし、この頃から異常な言動が目立ち始め、[[1959年]]に病院で検査を受けた結果、現在で言う[[統合失調症]]であると診断される<ref name="nobelprize" />。この頃、ナッシュは数学界最大の難問とも言われる[[リーマン予想]]の証明に専心しており、そのあまりの困難さが彼の精神をむしばむ要因となったとする見解を{{誰範囲|date=2019年4月|示す者もいる}}。
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[[1959年]]、MIT職員を辞職し |
[[1959年]]、MIT職員を辞職し{{sfn|高橋|2024|p=360}}、ヨーロッパとアメリカを放浪する旅に出る。[[1960年]]にプリンストン大学近郊に戻り、病気の治療で入退院を繰り返しながらも数学の研究を再開した<ref group="注">プリンストン大学に正式に籍を置いていたわけではない。</ref>。この頃の病状は非常に重く、大学構内を無為に徘徊することもあり、﹁ファインホールのファントム﹂等と言われることもあった<ref>{{Cite book |和書 |title=ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡 |author=シルヴィア・ナサー |year=2002}}</ref>。
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[[1963年]]にアリシアと離婚。しかし、アリシアは[[1970年]]にナッシュを夫としてではなく、同居人の形で引き取り、彼の闘病生活を支えることを決心した。この頃からナッシュの病状は少しずつ回復のきざしを見せ始める<ref name=" |
[[1963年]]にアリシアと離婚。しかし、アリシアは[[1970年]]にナッシュを夫としてではなく、同居人の形で引き取り、彼の闘病生活を支えることを決心した。この頃からナッシュの病状は少しずつ回復のきざしを見せ始める<ref name="nytimes19941113" />。
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[[1978年]]には[[カルトン・レンケ]]とともに[[ジョン・フォン・ノイマン理論賞]]を受賞する。この受賞対象となった仕事は後にノーベル経済学賞を受賞するナッシュ均衡に関する仕事と大枠では同一であるが、こちらは情報工学における見地から贈賞されている。 |
[[1978年]]には[[カルトン・レンケ]]とともに[[ジョン・フォン・ノイマン理論賞]]を受賞する。この受賞対象となった仕事は後にノーベル経済学賞を受賞するナッシュ均衡に関する仕事と大枠では同一であるが、こちらは情報工学における見地から贈賞されている。 |
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[[1994年]]にゲーム理論に関する功績によりゼルテン、ハーサニとともに[[ノーベル経済学賞]]を受賞。[[1999年]]に{{仮リンク|マイケル・クランドール|en|Michael G. Crandall}}とともに[[スティール賞]]を受賞<ref>{{Cite web |url=http://www.ams.org/prizes-awards/pabrowse.cgi?purl=steele-prize?SCR |title=Prize: Leroy P. Steele Prize for Seminal Contribution to Research |accessdate=2022-04-15}}</ref>。この頃にはアリシアとの関係も元の状態に戻っており、[[2001年]]に再婚した。 |
[[1994年]]にゲーム理論に関する功績によりゼルテン、ハーサニとともに[[ノーベル経済学賞]]を受賞。[[1999年]]に{{仮リンク|マイケル・クランドール|en|Michael G. Crandall}}とともに[[スティール賞]]を受賞<ref>{{Cite web |url=http://www.ams.org/prizes-awards/pabrowse.cgi?purl=steele-prize?SCR |title=Prize: Leroy P. Steele Prize for Seminal Contribution to Research |accessdate=2022-04-15}}</ref>。この頃にはアリシアとの関係も元の状態に戻っており、[[2001年]]に再婚した。 |
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世界中の大学や学会で講演、指導を行い、[[1999年]]に[[カーネギーメロン大学]]から名誉博士号(科学技術)を、[[2003年]]に[[フェデリコ2世・ナポリ大学]]から名誉博士号(経済学)を<ref>{{Cite web |url= |
世界中の大学や学会で講演、指導を行い、[[1999年]]に[[カーネギーメロン大学]]から名誉博士号(科学技術)を、[[2003年]]に[[フェデリコ2世・ナポリ大学]]から名誉博士号(経済学)を<ref>{{Cite web |url=https://ricerca.repubblica.it/repubblica/archivio/repubblica/2003/03/19/napoli-laurea-nash-il-genio-dei-numeri.html |title=Napoli, laurea a Nash il 'genio dei numeri' |date=2003-03-19 |publisher=la Repubblica.it |first=Patrizia |last=Capua |language=it |accessdate=2024-06-17}}</ref>、[[2007年]]に{{仮リンク|アントワープ大学|en|University of Antwerp}}から名誉博士号(経済学)を、[[2011年]]に[[香港城市大学]]から名誉博士号(科学)を<ref name="cs-slate-2001-12">{{Cite news |first=Chris |last=Suellentrop |title=A Real Number |url=http://www.slate.com/articles/arts/culturebox/2001/12/a_real_number.single.html |magazine=Slate |date=2001-12-21 |archive-url=https://web.archive.org/web/20140104104531/http://www.slate.com/articles/arts/culturebox/2001/12/a_real_number.single.html |archive-date=2014-01-04 |dead-url=no |accessdate=2015-05-27}}</ref>、それぞれ贈られている。 |
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[[2012年]]に[[アメリカ数学会]]の[[フェロー]]に選出された<ref>[http://www.ams.org/profession/fellows-list List of Fellows of the American Mathematical Society], retrieved February 24, 2013.</ref>。 |
[[2012年]]に[[アメリカ数学会]]の[[フェロー]]に選出された<ref>[http://www.ams.org/profession/fellows-list List of Fellows of the American Mathematical Society], retrieved February 24, 2013.</ref>。 |
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[[2015年]][[5月19日]]にリーマン多様体の埋め込み問題に関する功績によりニーレンバーグとともに[[アーベル賞]]を受賞。[[オスロ]]で行われた授賞式からの帰路、[[5月23日]]に[[ニュージャージー州]]でアリシアと共に乗っていたタクシーが事故を起こし、夫婦は共に車外に投げ出され死亡した。ナッシュは86歳、アリシアは82歳であった<ref name="20150525NJ" /> |
[[2015年]][[5月19日]]にリーマン多様体の埋め込み問題に関する功績によりニーレンバーグとともに[[アーベル賞]]を受賞。[[オスロ]]で行われた授賞式からの帰路、[[5月23日]]に[[ニュージャージー州]]でアリシアと共に乗っていたタクシーが事故を起こし、夫婦は共に車外に投げ出され死亡した。ナッシュは86歳、アリシアは82歳であった<ref name="20150525NJ" />{{sfn|高橋|2024|p=361}}。 |
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== 精神障害 == |
== 精神障害 == |
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ナッシュの[[精神障害]]は最初は[[偏執病]]の形となって表れ、後に彼の妻はそれを常軌を逸した振る舞いであったと記している。ナッシュは、赤いネクタイをした男はすべて、[[共産主義]]的陰謀に巻き込もうとしている者と信じていた。 |
ナッシュの[[精神障害]]は最初は[[偏執病]]の形となって表れ、後に彼の妻はそれを常軌を逸した振る舞いであったと記している。ナッシュは、赤いネクタイをした男はすべて、[[共産主義]]的陰謀に巻き込もうとしている者と信じていた。 |
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ナッシュはワシントンDCの大使館に対して手紙を書き、共産主義者らが政府を設立しようとしていると訴えた<ref name=" |
ナッシュはワシントンDCの大使館に対して手紙を書き、共産主義者らが政府を設立しようとしていると訴えた<ref name="nytimes19941113" />{{sfn|Nasar|1998|p=251}}。ナッシュの精神問題が彼の職業人生に影響を及ぼしたのは、1959年の[[コロンビア大学]]における[[アメリカ数学会]]の講義においてであった。それは[[リーマン予想]]の証明に関するものであったが、講義の内容は理解不能なものになっていた。この講義にて聴講者らは、彼は何かがおかしいとすぐに理解した<ref>{{Cite book |title=Dr. Riemann's Zeros |first=Karl |last=Sabbagh |location=London |publisher=[[:en:Atlantic Books|Atlantic Books]] |year=2003 |isbn=1-84354-100-9 |pages=87–88}}</ref>。
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1959年4月、彼は{{仮リンク|マクリーン病院|en|McLean Hospital}}に入院し、5月までの入院となり、そこで彼は[[パラノイド型統合失調症]]︵paranoid schizophrenia、[[統合失調症]]の一種︶と診断された{{refnest|group="注"|徴候としては、聴覚障害、視覚障害、生活意欲の欠如、軽度の[[うつ病]]などがある<ref>{{Cite web |url= |
1959年4月、彼は{{仮リンク|マクリーン病院|en|McLean Hospital}}に入院し、5月までの入院となり、そこで彼は[[パラノイド型統合失調症]]︵paranoid schizophrenia、[[統合失調症]]の一種︶と診断された{{refnest|group="注"|徴候としては、聴覚障害、視覚障害、生活意欲の欠如、軽度の[[うつ病]]などがある<ref>{{Cite web |url=https://www.brown.edu/Courses/BI_278/Other/Clerkship/Didactics/Readings/Schizophrenia.pdf |title=Brown University Didactic Readings: DSM-IV Schizophrenia (DSM-IV-TR #295.1–295.3, 295.90) |publisher=Brown University |accessdate=2024-06-17 |pages=1–11}}</ref>。}}{{sfn|Nasar|1998|p=32}}。1961年、{{仮リンク|ニュージャージー州立トレントン病院|en|New Jersey State Hospital at Trenton}}に入院し<ref>{{MacTutor Biography|id=Nash}}</ref>、9年以上を[[精神病院]]で過ごし、そこで[[抗精神病薬]]と[[インスリン・ショック療法]]を受けた{{sfn|Nasar|1998|p=32}}<ref name="Roger Ebert's Movie">{{Cite book |last=Ebert |first=Roger |title=Roger Ebert's Movie Yearbook 2003 |publisher=[[:en:Andrews McMeel Publishing|Andrews McMeel Publishing]] |year=2002 |url=https://books.google.com/?id=HJGZOs4S4_EC |accessdate=2024-06-17 |isbn=978-0-7407-2691-0}}</ref><ref name="Gracefully Insane">{{Cite book |last=Beam |first=Alex |title=Gracefully Insane: The Rise and Fall of America's Premier Mental Hospital |publisher=[[:en:PublicAffairs|PublicAffairs]] |year=2001 |url=https://books.google.com/?id=M2ZrduulEAwC |accessdate=2024-06-17 |isbn=978-1-58648-161-2}}</ref>。
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ナッシュは薬物療法を受けていたが、それは薬を使用するようにとの圧力のためであったと後に記している。1970年以降、彼は病院に通院しなくなり、また薬物療法を受けることも拒否した。ナッシュによれば、映画『ビューティフル・マインド』では新種の[[非定型抗精神病薬]]を取っていたとされているが、それは不正確だとしている。ナッシュは映画のシナリオライターが、この障害を持っている人々が映画によって服薬を中断することのないようにと配慮したものだとしている<ref>Greihsel, Marika (September 1, 2004) [http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/economic-sciences/laureates/1994/nash-interview.html John F. Nash, Jr. – Interview]. Nobel Foundation Interview, September 2004.</ref>。ナッシュは抗精神病薬は過大評価されており、その副作用が十分に考慮されずに精神病患者に与えられていると感じていた<ref>Nash, John [http://www.pbs.org/wgbh/amex/nash/sfeature/sf_nash_11.html "PBS Interview: Medication"]. 2002。Nash, John [http://www.pbs.org/wgbh/amex/nash/sfeature/sf_nash_13.html "PBS Interview: Paths to Recovery"]. 2002。Nash, John [http://www.pbs.org/wgbh/amex/nash/sfeature/sf_nash_14.html "PBS Interview: How does Recovery Happen?"] 2002。</ref>。 |
ナッシュは薬物療法を受けていたが、それは薬を使用するようにとの圧力のためであったと後に記している。1970年以降、彼は病院に通院しなくなり、また薬物療法を受けることも拒否した。ナッシュによれば、映画『ビューティフル・マインド』では新種の[[非定型抗精神病薬]]を取っていたとされているが、それは不正確だとしている。ナッシュは映画のシナリオライターが、この障害を持っている人々が映画によって服薬を中断することのないようにと配慮したものだとしている<ref>Greihsel, Marika (September 1, 2004) [http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/economic-sciences/laureates/1994/nash-interview.html John F. Nash, Jr. – Interview]. Nobel Foundation Interview, September 2004.</ref>。ナッシュは抗精神病薬は過大評価されており、その副作用が十分に考慮されずに精神病患者に与えられていると感じていた<ref>Nash, John [http://www.pbs.org/wgbh/amex/nash/sfeature/sf_nash_11.html "PBS Interview: Medication"]. 2002。Nash, John [http://www.pbs.org/wgbh/amex/nash/sfeature/sf_nash_13.html "PBS Interview: Paths to Recovery"]. 2002。Nash, John [http://www.pbs.org/wgbh/amex/nash/sfeature/sf_nash_14.html "PBS Interview: How does Recovery Happen?"] 2002。</ref>。 |
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映画の元となった書籍『ビューティフル・マインド』の著者である[[シルヴィア・ネイサー]]によれば、ナッシュは時間をかけて徐々に回復したのだという。その時期には、アリシアに元気づけられながら共に生活し、プリンストン大学数学科の面々は病気により奇妙な行動をとるナッシュを受け入れてくれていた。アリシアによると、ナッシュの寛解は周りのサポートによる「静かな生活」のおかげであろうとしている<ref name=" |
映画の元となった書籍『ビューティフル・マインド』の著者である[[シルヴィア・ネイサー]]によれば、ナッシュは時間をかけて徐々に回復したのだという。その時期には、アリシアに元気づけられながら共に生活し、プリンストン大学数学科の面々は病気により奇妙な行動をとるナッシュを受け入れてくれていた。アリシアによると、ナッシュの寛解は周りのサポートによる「静かな生活」のおかげであろうとしている<ref name="nytimes19941113" />。 |
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ナッシュは、精神的不調が始まったのは1959年の序盤で、彼の妻が妊娠していた時であるとしている。彼はその過程を、﹁科学的な合理的思考から、精神医学的に﹃統合失調症﹄や﹃パラノイド統合失調症﹄とされるような人々特有の妄想的思考へと変化していった﹂と記している<ref name=" |
ナッシュは、精神的不調が始まったのは1959年の序盤で、彼の妻が妊娠していた時であるとしている。彼はその過程を、﹁科学的な合理的思考から、精神医学的に﹃統合失調症﹄や﹃パラノイド統合失調症﹄とされるような人々特有の妄想的思考へと変化していった﹂と記している<ref name="nobelprize" />。この時期のナッシュは、自身は特別な役割を担っており、世界で最も重要な人物であるという誇大妄想に取りつかれていた。ナッシュがこのような思考に陥った要因として、自身の望んでいたほど周りの評価が高くなく、もっと認められたいという願望や、ナッシュ独自の科学的思考による過度なプレッシャーを感じていたことが、自身の言葉から示唆されている<ref>{{Cite AV media |people=John Nash|date=2002|title=[[w:A Brilliant Madness|A Brilliant Madness]] (documentary)|medium=[[PBS]]|language=en|quote=People are always selling the idea that people with mental illness are suffering. I think madness can be an escape. If things are not so good, you maybe want to imagine something better. In madness, I thought I was the most important person in the world.}}</ref>。その後、妄想や幻聴による思考を無駄な労力として自ら意識的に排除することで、徐々に症状が落ち着いていったという<ref name="nobelprize" />。
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== 注 |
== 脚注 == |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book |first=Sylvia |last=Nasar |authorlink=:en:Sylvia_Nasar |title=A Beautiful Mind: A Biography of John Forbes Nash, Jr., Winner of the Nobel Prize in Economics, 1994 |year=1998 |month= |
* {{Cite book |first=Sylvia |last=Nasar |authorlink=:en:Sylvia_Nasar |title=A Beautiful Mind: A Biography of John Forbes Nash, Jr., Winner of the Nobel Prize in Economics, 1994 |year=1998 |month=June |publisher=Simon & Schuster |isbn=978-0-68-481906-8 |language=en |ref=harv}} |
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** {{Cite book|和書|author=シルヴィア ナサー |authorlink=シルヴィア・ネイサー |others=塩川優 訳 |title=ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡 |date=2002-03-15 |publisher=新潮社 |isbn=978-4-10-541501-3}} - 上記の日本語訳 |
** {{Cite book|和書|author=シルヴィア ナサー |authorlink=シルヴィア・ネイサー |others=塩川優 訳 |title=ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡 |date=2002-03-15 |publisher=新潮社 |isbn=978-4-10-541501-3}} - 上記の日本語訳 |
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* {{Cite book|和書|author=H.W.クーン |authorlink=ハロルド・クーン |others=[[シルヴィア・ネイサー|S.ナサー]] 編さん、落合卓四郎・松島斉 訳 |title=ナッシュは何を見たか 純粋数学とゲーム理論 |year=2005 |month=10 |publisher=シュプリンガー・ジャパン |isbn=978-4-43-171038-7}} |
* {{Cite book|和書|author=H.W.クーン |authorlink=ハロルド・クーン |others=[[シルヴィア・ネイサー|S.ナサー]] 編さん、落合卓四郎・松島斉 訳 |title=ナッシュは何を見たか 純粋数学とゲーム理論 |year=2005 |month=10 |publisher=シュプリンガー・ジャパン |isbn=978-4-43-171038-7}} |
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** {{Cite web|和書|author=中山幹夫 |url=https://mathsoc.jp/publication/tushin/1101/nakayama.pdf |format=PDF |title=『ナッシュは何を見たか』H.W.クーン,S.ナサー編(落合卓四郎,松島 斉 訳) シュプリンガー・フェアラーク東京 |website=会員誌「数学通信」 |publisher=日本数学会 |accessdate=2022-04-15}} - 上記書籍の書評 |
** {{Cite web|和書|author=中山幹夫 |url=https://mathsoc.jp/publication/tushin/1101/nakayama.pdf |format=PDF |title=『ナッシュは何を見たか』H.W.クーン,S.ナサー編(落合卓四郎,松島 斉 訳) シュプリンガー・フェアラーク東京 |website=会員誌「数学通信」 |publisher=日本数学会 |accessdate=2022-04-15}} - 上記書籍の書評 |
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* {{Cite book|和書|author=高橋昌一郎|date=2024-05|title=天才の光と影 ノーベル賞受賞者23人の狂気|publisher=PHP研究所|isbn=978-4-569-85681-0|ref=高橋 |
* {{Cite book|和書|author=高橋昌一郎 |authorlink=高橋昌一郎 |date=2024-05-02 |title=天才の光と影 ノーベル賞受賞者23人の狂気 |publisher=PHP研究所 |isbn=978-4-569-85681-0 |ref={{sfnref|高橋|2024}} }} |
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== 関連項目 == |
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John Forbes Nash Jr. ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニア | |
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生誕 |
1928年6月13日 ウェストヴァージニア州ブルーフィールド |
死没 |
2015年5月23日 (86歳没) ニュージャージー州 |
居住 |
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国籍 |
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研究分野 | 数学、経済学、ゲーム理論 |
研究機関 |
マサチューセッツ工科大学 プリンストン大学 |
出身校 |
プリンストン大学 カーネギー工科大学 (現在のカーネギーメロン大学) |
博士課程 指導教員 | アルバート・タッカー |
主な業績 |
ナッシュ均衡 ナッシュ埋め込み定理 代数幾何学 偏微分方程式 |
主な受賞歴 |
ノーベル経済学賞(1994年) ジョン・フォン・ノイマン理論賞(1978年) アーベル賞(2015年) |
配偶者 | Alicia Lopez-Harrison de Lardé(m. 1957年–1963年; 2001年–2015年) |
プロジェクト:人物伝 |
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経歴[編集]
幼少期 - 高校卒業[編集]
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大学入学 - 博士号取得[編集]
17歳の時、カーネギー工科大学にジョージ・ウェスティングハウス奨学生として飛び級進学[6]。入学当初は専攻が化学工学であったが化学に変更、その後教員の勧めで数学に変更。選択科目で国際経済学を学び、経済学に対する興味を持つ。この大学で1948年に、学士号と修士号を同時に取得。 ナッシュは博士課程をプリンストン大学で過ごすことになるが、カーネギー工科大学での指導教官であるリチャード・ダフィンがプリンストン大学へ送った推薦状には﹁He is a mathematical genius.﹂︵この男は数学の天才である。︶と書かれていた[7][8]。研究者としての最盛期[編集]
プリンストン大学博士課程在学中はゲーム理論を研究し、1950年、非協力ゲームに関する博士論文 "Non-cooperative Games" で博士号を取得[9]。この論文はアルバート・ウィリアム・タッカー教授の指導の下に書かれ[8]、後にナッシュ均衡と呼ばれる非協力ゲームにおける均衡解に関する定義と特性が含まれていた。この頃にナッシュはゲーム理論に関する以下の三つの論文を発表している。 ●"Equilibrium Points in N-person Games" ︵1950年、科学雑誌PNASにて発表︶ ●"The Bargaining Problem" ︵1950年4月、経済学雑誌Econometricaにて発表︶ ●"Two-person Cooperative Games" ︵1953年1月、経済学雑誌Econometricaにて発表︶ しかし、ゲーム理論の研究は着想としては興味深いものの、数学の博士号を得るには数学的に貧弱なものであったため、ゲーム理論に関する研究が博士論文として認められなかった場合に備え、ナッシュは当時から微分幾何学のリーマン多様体への埋め込み問題の研究にも着手していた。ゲーム理論の研究が一通りまとまった博士課程修了後に、1951年に専任講師として赴任したマサチューセッツ工科大学︵MIT︶やランド研究所でこちらの研究に本格的に取り組み、以下の重要な論文を残している。 ●"Real algebraic manifolds"︵1952年、数学雑誌Annals of Mathematicsにて発表︶ ●"C1-isometric imbeddings"︵1954年、数学雑誌Annals of Mathematicsにて発表︶ ●"The imbedding problem for Riemannian manifolds"︵1956年、数学雑誌Annals of Mathematicsにて発表︶ ●"Analyticity of the solutions of implicit function problem with analytic data"︵1966年、数学雑誌Annals of Mathematicsにて発表︶ 実際、ナッシュ自身が﹁(ゲーム理論は)私の仕事の中で特につまらないもの﹂と評しているように[10]、ナッシュの数学者としての評価を高めたのはゲーム理論に関する仕事ではなく、このリーマン多様体に関する仕事であった[2]。 1953年、当時の恋人であったエレノア︵Eleanor Stier︶との間に男児が生まれるが、結婚には至らなかった[11]。闘病生活・快復[編集]
1954年にサンタモニカで逮捕されたこと︵公衆トイレでの卑猥な行為︶が原因でランド研究所でのポストを失った[12]。 1957年2月にエルサルバドル出身でMITの学生であったアリシア︵Alicia Lopez-Harrison de Lardé︶と結婚する[5]。 1958年、アリシアが妊娠し、また29歳の若さでMITの終身職員の権利を得る。しかし、この頃から異常な言動が目立ち始め、1959年に病院で検査を受けた結果、現在で言う統合失調症であると診断される[5]。この頃、ナッシュは数学界最大の難問とも言われるリーマン予想の証明に専心しており、そのあまりの困難さが彼の精神をむしばむ要因となったとする見解を示す者もいる[誰?]。 1959年、MIT職員を辞職し[13]、ヨーロッパとアメリカを放浪する旅に出る。1960年にプリンストン大学近郊に戻り、病気の治療で入退院を繰り返しながらも数学の研究を再開した[注 1]。この頃の病状は非常に重く、大学構内を無為に徘徊することもあり、﹁ファインホールのファントム﹂等と言われることもあった[14]。 1963年にアリシアと離婚。しかし、アリシアは1970年にナッシュを夫としてではなく、同居人の形で引き取り、彼の闘病生活を支えることを決心した。この頃からナッシュの病状は少しずつ回復のきざしを見せ始める[2]。 1978年にはカルトン・レンケとともにジョン・フォン・ノイマン理論賞を受賞する。この受賞対象となった仕事は後にノーベル経済学賞を受賞するナッシュ均衡に関する仕事と大枠では同一であるが、こちらは情報工学における見地から贈賞されている。 1980年代後半には統合失調症から快復した。晩年・最期[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2d/John_Forbes_Nash%2C_Jr..jpg/220px-John_Forbes_Nash%2C_Jr..jpg)
精神障害[編集]
ナッシュの精神障害は最初は偏執病の形となって表れ、後に彼の妻はそれを常軌を逸した振る舞いであったと記している。ナッシュは、赤いネクタイをした男はすべて、共産主義的陰謀に巻き込もうとしている者と信じていた。 ナッシュはワシントンDCの大使館に対して手紙を書き、共産主義者らが政府を設立しようとしていると訴えた[2][20]。ナッシュの精神問題が彼の職業人生に影響を及ぼしたのは、1959年のコロンビア大学におけるアメリカ数学会の講義においてであった。それはリーマン予想の証明に関するものであったが、講義の内容は理解不能なものになっていた。この講義にて聴講者らは、彼は何かがおかしいとすぐに理解した[21]。 1959年4月、彼はマクリーン病院に入院し、5月までの入院となり、そこで彼はパラノイド型統合失調症︵paranoid schizophrenia、統合失調症の一種︶と診断された[注 2][23]。1961年、ニュージャージー州立トレントン病院に入院し[24]、9年以上を精神病院で過ごし、そこで抗精神病薬とインスリン・ショック療法を受けた[23][25][26]。 ナッシュは薬物療法を受けていたが、それは薬を使用するようにとの圧力のためであったと後に記している。1970年以降、彼は病院に通院しなくなり、また薬物療法を受けることも拒否した。ナッシュによれば、映画﹃ビューティフル・マインド﹄では新種の非定型抗精神病薬を取っていたとされているが、それは不正確だとしている。ナッシュは映画のシナリオライターが、この障害を持っている人々が映画によって服薬を中断することのないようにと配慮したものだとしている[27]。ナッシュは抗精神病薬は過大評価されており、その副作用が十分に考慮されずに精神病患者に与えられていると感じていた[28]。 映画の元となった書籍﹃ビューティフル・マインド﹄の著者であるシルヴィア・ネイサーによれば、ナッシュは時間をかけて徐々に回復したのだという。その時期には、アリシアに元気づけられながら共に生活し、プリンストン大学数学科の面々は病気により奇妙な行動をとるナッシュを受け入れてくれていた。アリシアによると、ナッシュの寛解は周りのサポートによる﹁静かな生活﹂のおかげであろうとしている[2]。 ナッシュは、精神的不調が始まったのは1959年の序盤で、彼の妻が妊娠していた時であるとしている。彼はその過程を、﹁科学的な合理的思考から、精神医学的に﹃統合失調症﹄や﹃パラノイド統合失調症﹄とされるような人々特有の妄想的思考へと変化していった﹂と記している[5]。この時期のナッシュは、自身は特別な役割を担っており、世界で最も重要な人物であるという誇大妄想に取りつかれていた。ナッシュがこのような思考に陥った要因として、自身の望んでいたほど周りの評価が高くなく、もっと認められたいという願望や、ナッシュ独自の科学的思考による過度なプレッシャーを感じていたことが、自身の言葉から示唆されている[29]。その後、妄想や幻聴による思考を無駄な労力として自ら意識的に排除することで、徐々に症状が落ち着いていったという[5]。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
People are always selling t
he idea that people with mental
illness are suffering. I think
madness can be an escape. If t
hings are not so good, you mayb
e want to imagine something bet
ter. In madness, I thought I wa
s the most important person in
the world.
参考文献[編集]
●Nasar, Sylvia (June 1998) (英語). A Beautiful Mind: A Biography of John Forbes Nash, Jr., Winner of the Nobel Prize in Economics, 1994. Simon & Schuster. ISBN 978-0-68-481906-8 ●シルヴィア ナサー﹃ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡﹄塩川優 訳、新潮社、2002年3月15日。ISBN 978-4-10-541501-3。 - 上記の日本語訳 ●H.W.クーン﹃ナッシュは何を見たか 純粋数学とゲーム理論﹄S.ナサー 編さん、落合卓四郎・松島斉 訳、シュプリンガー・ジャパン、2005年10月。ISBN 978-4-43-171038-7。 ●中山幹夫. “﹃ナッシュは何を見たか﹄H.W.クーン,S.ナサー編︵落合卓四郎,松島 斉 訳︶ シュプリンガー・フェアラーク東京” (PDF). 会員誌﹁数学通信﹂. 日本数学会. 2022年4月15日閲覧。 - 上記書籍の書評 ●高橋昌一郎﹃天才の光と影 ノーベル賞受賞者23人の狂気﹄PHP研究所、2024年5月2日。ISBN 978-4-569-85681-0。関連項目[編集]
●微分幾何学 ●ゲーム理論 ●リーマン予想外部リンク[編集]
- Nash's home page at Princeton - プリンストン大学
- 自伝 - ノーベル賞公式サイト
- 経済思想の歴史 ジョン・F・ナッシュ
- IDEAS/RePEc
- Nash, John (1928-2015) from Princeton's Mudd Library, including a copy of his dissertation (PDF)
- Video of Dr. Sylvia Nasar narrating the story of John Nash at MIT
- O'Connor, John J.; Robertson, Edmund F., “ジョン・ナッシュ”, MacTutor History of Mathematics archive, University of St Andrews.
- ジョン・ナッシュ - Mathematics Genealogy Project
- "A Brilliant Madness" — a PBS American Experience documentary
- John Nash speaks out - ウェイバックマシン(2013年1月6日アーカイブ分) about alleged omissions in film — Guardian Unlimited
- "John Nash and 'A Beautiful Mind'" (PDF) (2003年11月3日時点のアーカイブ) John Milnor responds to A Beautiful Mind, focusing on Nash's achievements.
- John H. Lienhard (1994). "John Forbes Nash, Jr.". The Engines of Our Ingenuity. Episode 983. NPR. KUHF-FM Houston。
- "John F. Nash by Lao Long"
- Penn State's The 2003-2004 John M. Chemerda Lectures in Science: Dr. John F. Nash, Jr. (PDF) (2003年10月31日時点のアーカイブ)
- video: Ariel Rubinstein's Lecture: "John Nash, Beautiful Mind and Game Theory"
- "Nash Equilibrium" 2002 Slate article by Robert Wright, about Nash's work and world government
- Video, with book, of Nash's meeting with Ennio De Giorgi, Trento, Italy, 1996.
- NSA releases Nash Encryption Machine plans to National Cryptologic Museum - ウェイバックマシン(2012年2月19日アーカイブ分) for public viewing, 2012