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* [[1911年]](明治44年)の[[園遊会|観桜会]]にて[[明治天皇]]<ref>『我が記憶をたどりて』第21章3節「明治天皇に拝謁後不思議な力を託せらる」</ref>、同年[[室蘭市|室蘭]]にて皇太子時代の[[大正天皇]]<ref>『我が記憶をたどりて』第21章5節「大正天皇陛下(皇太子殿下当時)に御拝謁」</ref>、[[1922年]](大正11年)に道庁および[[豊平館]]にて皇太子時代の[[昭和天皇]]<ref>『我が記憶をたどりて』第24章1節「皇太子殿下に御拝謁」</ref>と、3代にわたって歴代天皇と謁見している。また[[1881年]](明治14年)に平取視察中の[[小松宮彰仁親王]]と[[永山武四郎]]に遭遇しているが、貴人と知らず、暑い日だったため上着を脱ぎ酒樽に腰かけた状態で応対したという<ref>『我が記憶をたどりて』第11章7節「ある宮殿下」</ref>。 |
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* 禁酒家であり、親しくなったアイヌから酒を交わすよう求められても頑なに断り続け、そのことでアイヌ語の師であるペンリウクにも深く失望されたという<ref>『我が記憶をたどりて』第11章8節「ペンリさんについての事件」など</ref>。 |
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* 禁酒家であり、親しくなったアイヌから酒を交わすよう求められても頑なに断り、反対に断酒を強く勧めた︵当時、近代化による環境の変化で酒に溺れるアイヌが多かった︶。禁酒に理解を示していたペンリウクも、送別の酒を断った際には深く失望したという<ref>﹃我が記憶をたどりて﹄第11章8節﹁ペンリさんについての事件﹂など</ref>。
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* アイヌに関心のある外国人がバチェラーのもとを訪ねることが度々あり、その中には[[バジル・ホール・チェンバレン]]や[[ブロニスワフ・ピウスツキ]]もいた。 |
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* アイヌに関心のある外国人がバチェラーのもとを訪ねることが度々あり、その中には[[バジル・ホール・チェンバレン]]や[[ブロニスワフ・ピウスツキ]]もいた。 |
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2022年6月27日 (月) 15:01時点における版
洗礼を授けた主な人物
●金成太郎︵1885年︶ - アイヌ初の受洗者であり、アイヌ初の伝道者。
●江賀寅三︵1917年︶
アイヌ観
●バチェラーはアイヌの境遇に心を痛める一方、近代化によるアイヌ社会の変化について﹁時勢でしかたのないこと﹂﹁変わらなければ進むことができない﹂とし、和人との混血が進むことは﹁大昔にあったように混血になってついに完全の日本人となることが出来るのだと思い、むしろ喜ぶべきこと﹂と晩年に記している[4]︵戦前期に日本人向けに書かれた文章であることに留意が必要︶。バチェラーはアイヌについて、北海道から九州まで日本列島全域の先住民族であり、本州以南のアイヌは大和民族と混血して消滅したと考えていた[5]。
●バチェラーは自身の遺稿の中で、アイヌと和人との混血が急速に進んでいることや、アイヌの子供が和人と同様に教育を受け、法の下に日本人となっていることから﹁一つの民族として、アイヌ民族は存在しなくなった[6]﹂と記している。
業績・評価
●バチェラーは、アイヌ語訳聖書の翻訳出版やアイヌ語の言語学的研究と民俗学的研究に多くの業績を残した。アイヌに関する多くの著作を発表してアイヌ民族のことを広く紹介した。このことから、バチェラーは日本のアイヌ文化研究の重要な研究者の一人とされているが、知里真志保は世界的名声に比してバチェラーの文法書や辞書は役に立たない珍本であり﹁バチラーさんにしても、永田方正さんにしても、開拓者としての功績はまことに偉大なものがあるのでありますが、進んだ今のアイヌ語学の目から見れば、もうその人たちの著書は、欠陥だらけで、満身創痍、辛うじて余喘を保っているにすぎない程度のものなのであります。﹂と批判している[7]。
●バチェラーの説には現在では否定されている説もあり、例えば﹁近江・アイヌ語由来説﹂は、現代の語形に基づく無理のある説であり、地名研究書の水準と信頼度を低くしている一端とされる[8]。
●バチェラー記念館がある。
逸話
●1911年︵明治44年︶の観桜会にて明治天皇[9]、同年室蘭にて皇太子時代の大正天皇[10]、1922年︵大正11年︶に道庁および豊平館にて皇太子時代の昭和天皇[11]と、3代にわたって歴代天皇と謁見している。また1881年︵明治14年︶に平取視察中の小松宮彰仁親王と永山武四郎に遭遇しているが、貴人と知らず、暑い日だったため上着を脱ぎ酒樽に腰かけた状態で応対したという[12]。
●禁酒家であり、親しくなったアイヌから酒を交わすよう求められても頑なに断り、反対に断酒を強く勧めた︵当時、近代化による環境の変化で酒に溺れるアイヌが多かった︶。禁酒に理解を示していたペンリウクも、送別の酒を断った際には深く失望したという[13]。
●アイヌに関心のある外国人がバチェラーのもとを訪ねることが度々あり、その中にはバジル・ホール・チェンバレンやブロニスワフ・ピウスツキもいた。
著書
●蝦夷今昔物語︵1884年︶
●蝦和英三対辞書︵1889年︶
●The Ainu and their Folk-Lore︵1901年︶
●アイヌ人と其説話︵1925年︶
●アイヌの炉辺物語︵1925年︶
●Ainu life and lore︵1927年︶
●我が記憶をたどりて︵1928年︶
●ジョン・バチェラーの手紙︵1965年︶
●わが人生の軌跡︵1993年︶
●来日から離日までの思い出をフローレンスが口述筆記したもの。長年日の目を見なかったが、1993年にその一部が邦訳出版された。
脚注
(一)^ 中村2011年、77-78頁
(二)^ "アイヌの父 ジョン・バチェラー"(1963, 仁多見巌 著, p.88,98)
(三)^ 中村2011年、82頁
(四)^ ﹃我が記憶をたどりて﹄第20章6節﹁アイヌの状況が変わる﹂
(五)^ ﹃我が記憶をたどりて﹄第7章
(六)^ 仁多見厳・飯田洋右﹃わが人生の軌跡―ステップス・バイ・ザ・ウェイ﹄北海道出版企画センター、1993年、154ページ
(七)^ 知里真志保 アイヌ語学
(八)^ 吉田金彦 糸井通浩編 ﹃日本地名学を学ぶ人のために﹄ 世界思想社 2004年 p.85 鏡味明克の見解
(九)^ ﹃我が記憶をたどりて﹄第21章3節﹁明治天皇に拝謁後不思議な力を託せらる﹂
(十)^ ﹃我が記憶をたどりて﹄第21章5節﹁大正天皇陛下︵皇太子殿下当時︶に御拝謁﹂
(11)^ ﹃我が記憶をたどりて﹄第24章1節﹁皇太子殿下に御拝謁﹂
(12)^ ﹃我が記憶をたどりて﹄第11章7節﹁ある宮殿下﹂
(13)^ ﹃我が記憶をたどりて﹄第11章8節﹁ペンリさんについての事件﹂など
参考文献
●高野勝夫﹃キリスト教逸話例話集﹄神戸キリスト教書店、1996年
●高橋昌郎﹃明治のキリスト教﹄吉川弘文館、2003
●中村敏﹃プロテスタント海外宣教史﹄新教出版社、2011年
●ジョン・バチェラー著、村崎恭子校訂﹃ジョン・バチラー自叙伝 我が記憶をたどりて﹄、北海道出版企画センター、2008年
関連項目
●芥川清五郎