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「ニュー・アカデミズム」の版間の差分

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==概要==

==概要==

'''ニュー・アカデミズム'''とは1980年代中頃に[[浅田彰]]、[[中沢新一]]の著作がベストセラーとなり、既存のアカデミズムの枠におさまらない新しい形の知のブームが生じたことを、マスメディアが社会現象として捉えて名付けた造語<ref> 佐々木敦『ニッポンの思想』p33</ref>であり、厳密な定義のない用語である。


''''''1980[[]][[]]<ref> p33</ref>[[|]][[]][[]][[]]西


既存のアカデミズムの学問領域の区分けを横断する[[学際]]的な思想である点<ref>佐々木敦『ニッポンの思想』p47-49</ref><ref>仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』p14-15</ref>、旧来的な学問の論述方法・作法から逸脱した自由な表現方法をとる場合がある点<ref>仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』p16-18</ref>に特徴がある。したがって学会や学術誌よりも、ジャーナリズムを主要な活動の舞台とした。ただし論者のほぼ全ては大学に籍を置いていた<ref>佐々木敦『ニッポンの思想』p43-44</ref>。

既存のアカデミズムの学問領域の区分けを横断する[[学際]]的な思想である点<ref>佐々木敦『ニッポンの思想』p47-49</ref><ref>仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』p14-15</ref>、旧来的な学問の論述方法・作法から逸脱した自由な表現方法をとる場合がある点<ref>仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』p16-18</ref>に特徴がある。したがって学会や学術誌よりも、ジャーナリズムを主要な活動の舞台とした。ただし論者のほぼ全ては大学に籍を置いていた<ref>佐々木敦『ニッポンの思想』p43-44</ref>。


[[記号学|記号論]]や[[構造主義]]、[[ポスト構造主義]]、[[ポスト・モダニズム]]といった西欧の新しい学問の潮流の日本への輸入と並行して生じた潮流である。



==沿革==

==沿革==

===近代主義への懐疑とマルクス主義の退潮===

===近代主義への懐疑とマルクス主義の退潮===

1960年代までの既存の[[アカデミズム]]の議論の主流は、[[政治学]]における[[丸山真男]]、[[経済史]]における[[大塚久雄]]、 [[法社会学]]の[[川島武宜]]に代表される西欧の近代市民社会の諸原理を社会に確立しようとする近代主義であった<ref>仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』 p35</ref>。また、社会に[[マルクス主義]]が受け入れられており、それを実践の側面から補完する[[サルトル]]の[[実存主義]]<ref>仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』 p112</ref>が流行の思想であった。

1960年代までの既存の[[アカデミズム]]の議論の主流は、[[政治学]]における[[丸山真男]]、[[経済史]]における[[大塚久雄]]、[[法社会学]]の[[川島武宜]]に代表される西欧の近代市民社会の諸原理を社会に確立しようとする近代主義であった<ref>仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』 p35</ref>。また、社会に[[マルクス主義]]が受け入れられており、それを実践の側面から補完する[[サルトル]]の[[実存主義]]<ref>仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』 p112</ref>が流行の思想であった。



1960年代後半に[[全共闘]]の学生の支持を受けた在野の[[文芸批評家]]の[[吉本隆明]]が丸山真男のアカデミズムの権威性と近代主義を批判して主著『[[共同幻想論]]』を発表する<ref>仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』 p63</ref>。同じころ、[[新左翼]]に影響を与えた哲学者の[[廣松渉]]はマルクス解釈の内部から関係論的な共同主観性の議論を導き出す<ref>仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』 p71</ref>。

1960年代後半に[[全共闘]]の学生の支持を受けた在野の[[文芸批評家]]の[[吉本隆明]]が丸山真男のアカデミズムの権威性と近代主義を批判して主著『[[共同幻想論]]』を発表する<ref>仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』 p63</ref>。同じころ、[[新左翼]]に影響を与えた哲学者の[[廣松渉]]はマルクス解釈の内部から関係論的な共同主観性の議論を導き出す<ref>仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』 p71</ref>。

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記号論や構造主義的な思考を取り入れた文化人類学者[[山口昌男]]は社会・文化を「中心と周縁」の対立構造として捉える理論を提唱、哲学者[[中村雄二郎]]がやはり構造主義の影響を受けて「共通感覚論」「深層=パトスの知」という考えを提唱する。

記号論や構造主義的な思考を取り入れた文化人類学者[[山口昌男]]は社会・文化を「中心と周縁」の対立構造として捉える理論を提唱、哲学者[[中村雄二郎]]がやはり構造主義の影響を受けて「共通感覚論」「深層=パトスの知」という考えを提唱する。



[[経済人類学]]の栗本慎一郎は[[カール・ポランニー]]に[[バタイユ]]を結びつけた独自の理論を展開、心理学者[[岸田秀]]は[[ジークムント・フロイト]]を独自に解釈した「唯幻論」を唱えた。

[[経済人類学]]の栗本慎一郎は[[カール・ポランニー]]に[[ジョルジュ・バタイユ]]を結びつけた独自の理論を展開、心理学者[[岸田秀]]は[[ジークムント・フロイト]]を独自に解釈した「唯幻論」を唱えた。

文芸批評においては[[柄谷行人]]が『[[資本論]]』をマルクス主義から独立したテクストと捉えて[[フェルディナン・ド・ソシュール|ソシュール]]言語学を援用して読み解いた。また[[蓮實重彦]]は[[ミシェル・フーコー]]、[[ジル・ドゥルーズ]]、[[ジャック・デリダ]]などのフランス現代思想の知見を文芸批評の世界に導入する。こうした新しい知の主要な発表の場となったのは[[三浦雅士]]が編集長を務めていた雑誌『[[現代思想 (雑誌)|現代思想]]』{{Refnest|group="注釈"|この雑誌が「思想界へのデビュー」となった人物には[[丸山圭三郎]]、[[木田元]]、[[栗本慎一郎]]、[[岸田秀]]、[[粉川哲夫]]、[[今村仁司]]、[[岩井克人]]などがいる。}} であった。

文芸批評においては[[柄谷行人]]が『[[資本論]]』をマルクス主義から独立したテクストと捉えて[[フェルディナン・ド・ソシュール|ソシュール]]言語学を援用して読み解いた。また[[蓮實重彦]]は[[ミシェル・フーコー]]、[[ジル・ドゥルーズ]]、[[ジャック・デリダ]]などのフランス現代思想の知見を文芸批評の世界に導入する。こうした新しい知の主要な発表の場となったのは[[三浦雅士]]が編集長を務めていた雑誌『[[現代思想 (雑誌)|現代思想]]』{{Refnest|group="注釈"|この雑誌が「思想界へのデビュー」となった人物には[[丸山圭三郎]]、[[木田元]]、[[栗本慎一郎]]、[[岸田秀]]、[[粉川哲夫]]、[[今村仁司]]、[[岩井克人]]などがいる。}} であった。



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===ニュー・アカデミズムの退潮===

===ニュー・アカデミズムの退潮===

その後、ニュー・アカデミズムが主に扱っていたフランス現代思想の輸入が進んで大学の制度にとりこまれていったこと、世界的な知の潮流が英米系の[[分析哲学]]やリベラリズムに立脚した正義論・責任論など理性的な主体を前提する議論にシフトしたこと、ポスト[[冷戦]]の[[新自由主義]]化やバブル後の不況によって旧左翼的な資本主義批判にリアリティがでてきたことなどから、ニューアカデミズムは退潮していく<ref>仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』p215-219 </ref>。[[宮台真司]]の登場によりニューアカデミズムの流れは若者論に受け継がれていった<ref>[https://gendai.media/articles/-/49782?page=2 なぜ大人たちは「若者」を語りたがるのか? 幻想、暴論、狭い正義…(後藤 和智) | 現代ビジネス | 講談社(2/3)]</ref>。


[[]][[]][[]]退<ref>!p215-219 </ref>[[]]<ref>[https://gendai.media/articles/-/49782?page=2    |  | 2/3]</ref>


==略年譜==

==略年譜==

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*[[1985年]] - [[岩井克人]]『『ヴェニスの商人の資本論』

*[[1985年]] - [[岩井克人]]『『ヴェニスの商人の資本論』



==ニューアカデミズムの定義や範囲==

==ニューアカデミズムの定義や範囲==

ニューアカデミズムとは[[浅田彰]]、[[中沢新一]]の著作がベストセラーとなったことを受けて、1984年の朝日新聞の学芸欄で記者が「これまでの学問体系や秩序に挑戦する若い研究者の本」が「「新しい知」を求める若い世代の関心を集めている」状況を指して名付けた造語<ref>1984年1月23日 朝日新聞読書欄p33</ref>であり、厳密な定義のない用語である。

ニューアカデミズムとは[[浅田彰]]、[[中沢新一]]の著作がベストセラーとなったことを受けて、1984年の朝日新聞の学芸欄で記者が「これまでの学問体系や秩序に挑戦する若い研究者の本」が「「新しい知」を求める若い世代の関心を集めている」状況を指して名付けた造語<ref>1984年1月23日 朝日新聞読書欄p33</ref>であり、厳密な定義のない用語である。



大澤聡は『現代日本の批評 1975-2001』においてニューアカデミズムを論じているが、期間で区切っており、1983年に『構造と力』、『チベットのモーツァルト』が異例の販売部数を記録して知のブームが起きて、四方田犬彦、細川周平ら若手がフックアップされていき、同時に、柄谷行人、蓮實重彦、山口昌男、栗本慎一郎ら先行世代もブームの圏内へとどんどん引きずりこまれていく状況をもってニューアカデミズムとしている。そして先行する山口昌男、中村雄二郎らが牽引した1970年代の知の状況をプレ・ニューアカ期と呼称している。ただ論の中に「狭義のニューアカ・ブームは、一九八三年から八六年の期間に相当する」という記述があり、広義の、もっと広い期間のニューアカデミズムがあるかの含みがある。

大澤聡は『現代日本の批評 1975-2001』においてニューアカデミズムを論じているが、期間で区切っており、1983年に『構造と力』、『チベットのモーツァルト』が異例の販売部数を記録して知のブームが起きて、四方田犬彦、細川周平ら若手がフックアップされていき、同時に、柄谷行人、蓮實重彦、山口昌男、栗本慎一郎ら先行世代もブームの圏内へとどんどん引きずりこまれていく状況をもってニューアカデミズムとしている。そして先行する山口昌男、中村雄二郎らが牽引した1970年代の知の状況をプレ・ニューアカ期と呼称している。ただ論の中に「狭義のニューアカ・ブームは、一九八三年から八六年の期間に相当する」という記述があり、広義の、もっと広い期間のニューアカデミズムがあるかの含みがある。



1986年のニューアカデミズムのブームの渦中に出版された概説書である小阪修平・竹田青嗣他著『わかりたいあなたのための現代思想・入門II―吉本隆明からポスト・モダンまで、時代の知の完全見取図!』は吉本隆明以後、浅田・中沢の登場までの日本の知的状況を「現代思想」として一体のものとして扱っている。

1986年のニューアカデミズムのブームの渦中に出版された概説書である小阪修平・竹田青嗣他著『わかりたいあなたのための現代思想・入門II―吉本隆明からポスト・モダンまで、時代の知の完全見取図!』は吉本隆明以後、浅田・中沢の登場までの日本の知的状況を「現代思想」として一体のものとして扱っている。



==評価==

==評価==


2022年9月24日 (土) 00:09時点における版


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参考図書

  • 『ニューアカデミズム その虚像と実像』(新日本出版社、1985)
  • 小阪修平・竹田青嗣・西研他著『わかりたいあなたのための現代思想・入門―サルトルからデリダ、ドゥルーズまで、知の最前線の完全見取図! 』(別冊宝島、1984)
  • 栗本慎一郎『鉄の処女―血も凍る「現代思想」の総批評』(カッパ・サイエンス 1985)
  • 小阪修平・竹田青嗣他著『わかりたいあなたのための現代思想・入門II―吉本隆明からポスト・モダンまで、時代の知の完全見取図!』(別冊宝島、1986)
  • 仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』(NHKブックス、2006)
  • 佐々木敦『ニッポンの思想』(講談社現代新書、2009)
  • 東浩紀・市川真人・大澤聡・福嶋亮大『現代日本の批評 1975-2001』(講談社 2017)

脚注

注釈



(一)^ 

(二)^ 2626

出典

  1. ^ 佐々木敦『ニッポンの思想』p33
  2. ^ 佐々木敦『ニッポンの思想』p47-49
  3. ^ 仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』p14-15
  4. ^ 仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』p16-18
  5. ^ 佐々木敦『ニッポンの思想』p43-44
  6. ^ 仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』 p35
  7. ^ 仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』 p112
  8. ^ 仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』 p63
  9. ^ 仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』 p71
  10. ^ 仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』p55-58
  11. ^ 外山恒一野間易通 徹底批判
  12. ^ 佐々木敦『ニッポンの思想』p33
  13. ^ 東浩紀、市川真人、大澤聡、福嶋亮大『現代日本の批評 1975-2001』講談社 2017年
  14. ^ 小阪修平・竹田青嗣他著『わかりたいあなたのための現代思想・入門II―吉本隆明からポスト・モダンまで、時代の知の完全見取図!』
  15. ^ 仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』p215-219
  16. ^ なぜ大人たちは「若者」を語りたがるのか? 幻想、暴論、狭い正義…(後藤 和智) | 現代ビジネス | 講談社(2/3)
  17. ^ 1984年1月23日 朝日新聞読書欄p33
  18. ^ 山脇直司2013「〈駒場をあとに〉西部劇から四半世紀の想い出と所感」『教養学部報』554号、東京大学 大学院総合文化研究科・教養学部HP、2013年7月12日掲載