ジョルジュ・バタイユ
ジョルジュ・バタイユ(1940年) | |
別名 |
ジョルジュ・アルベール・モリス・ヴィクトール・バタイユ Georges Albert Maurice Victor Bataille |
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生誕 |
1897年9月10日 フランス共和国、ビヨム |
死没 |
1962年7月8日(64歳没) フランス、パリ |
時代 | 20世紀の哲学 |
地域 | 西洋哲学 |
学派 |
大陸哲学 実存主義 神秘主義 |
研究分野 |
形而上学、認識論、死、存在論 性の哲学、エロティシズム 罪、犯罪、悪 文学、文学理論 社会哲学、倫理学 |
主な概念 |
犠牲、悪 性、エロティシズム 死 至高性 連続性、不連続性 一般経済、限定経済、普遍経済 消費、蕩尽、浪費 |
署名 |
ジョルジュ・アルベール・モリス・ヴィクトール・バタイユ︵Georges Albert Maurice Victor Bataille、1897年9月10日 - 1962年7月8日︶は、フランスの哲学者、思想家、作家。フリードリヒ・ニーチェから強い影響を受けた思想家であり、後のモーリス・ブランショ、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダなどに影響を及ぼし、ポスト構造主義に影響を与えた。
概説[編集]
1879年にフランスのビヨムに生まれる。父親は梅毒に侵され全盲状態であった。両親は無宗教であったが、本人の意志で1914年にカトリックに入信。敬虔なクリスチャンとして過ごす。その頃から神秘主義的な素養が芽生え始めている。その後フリードリヒ・ニーチェの読書体験を通して1920年代の始めまでには無神論者となった。﹁死﹂と﹁エロス﹂を根源的なテーマとして、経済学・社会学・人類学・文学・芸術・思想・文化・宗教・政治など多岐の方面にわたって執筆。発表方法も批評や論文・評論、対談集から詩・小説・哲学書まで様々な形態をとる。1922年に名門グランゼコールの一つである国立古文書学校を卒業後、パリ国立図書館に勤務していた。 哲学的には、レオン・シェストフから基礎をおっている[1]。シェストフとは、フョードル・ドストエフスキーとニーチェから哲学の出発をした哲学者であり、バタイユはシェストフの本を共訳でロシア語から訳してもいる(1924年)[2]。この頃から、シュルレアリストたちと行動を共にし始める。精神的に変調をきたし始め、アドリアン・ボレルの精神分析の治療を始める︵1925年から26年まで︶。一年で打ち切られるが、ボレルがバタイユに書くように励まし勇気づけたことで、その結果﹃眼球譚﹄という作品が生まれる。1929年から雑誌﹃ドキュマン﹄の編集に携わり、グラヴィアを交えながら様々な論を展開する。西欧の観念論を批判し、シュルレアリストから非難を買うことになる。アレクサンドル・コジェーヴのヘーゲルに関する講義に、衝撃を受け、打ちのめされる[3]。ロード・オーシュ名義で発表された処女作﹁眼球譚﹂をはじめとして、トロップマン︵﹃空の青﹄の登場人物名。Henri Troppmann。また、1869年頃に暗躍した大量殺人鬼の名前でもある。Jean-Baptiste Troppmann︶、ルイ三十世、ピエール・アンジェリック等の様々な筆名を使ったことでも有名。 バタイユには、主として3つの作品群が存在する。 ●第一に、神秘主義的、内的体験的であり、ときに一貫する論理的︵科学的︶な整合性を欠きながら思弁される、思想的文章群。代表としては、戦間期に書かれた﹃無神学大全﹄三部作︵﹃内的体験﹄、﹃有罪者﹄、﹃ニーチェについて――好運への意志﹄、タイトルの﹁無神学大全﹂の語は中世の哲学者トマス・アクィナスの﹃神学大全﹄のパロディ︶がある。この三部作は、断片形式で書かれていること、主として従来では﹁神秘体験﹂と称されてきた﹁体験﹂――語ることの困難な体験――を論理的な整合性を欠きながらも、語っていることがその特徴にある。 ●第二に、バタイユがいうところの﹁学問的/科学的﹂に論理的明晰な、思想的文章群。﹃無神学大全﹄が﹁体験﹂を内在的に語るのに対して、ここでは外在的に、ときには歴史的に﹁体験﹂を探求している。﹃呪われた部分――普遍経済学の試み﹄︵第一巻:﹃呪われた部分――有用性の限界﹄[4]︶、第二巻‥﹃エロティシズムの歴史﹄、第三巻‥﹃至高性﹄︶が象徴的である。 ●第三に、小説群。これは﹃眼球譚﹄、﹃空の青﹄、﹃わが母﹄などである。 バタイユが思想的にとりわけ影響を受けたのは、1920年代に読み始めたフロイトおよびニーチェ、そしてコジェーヴの講義以降終生彼を捉えることとなるヘーゲル、そして西欧の神秘家たち︵アンジェラ・ダ・フォリーニョ、ディオニシオス・アレオパギタ、アビラの聖テレサ、十字架の聖ヨハネ、etc.︶である。 神秘主義に傾倒する前は共産主義を伝統的な(制度的)至高性souverainetéに最も対抗できる運動として称揚し、1931年から後のフランス共産党の創設者の一人ボリス・スヴァーリヌ率いる﹁民主共産主義サークル﹂のメンバーになるなど革命的知識人の側面があった。この団体が解散された1934年でも一時的にトロツキスト団体に加入したことがあるが、バタイユはこの頃に﹁内的体験﹂や﹁瞑想の方法﹂に目覚めたとされる。 また、ニーチェ研究者としては、ナチスによるニーチェ思想の濫用を早い段階から非難し、著作においてマルティン・ハイデッガーを﹁︵主体的な︶至高性が足りない﹂﹁ドイツの教授先生﹂などと批判していた。影響[編集]
ジャック・デリダ︵﹃エクリチュールと差異﹄にバタイユ論がある[5]︶やミシェル・フーコー︵﹃侵犯の思考﹄というバタイユ論がある[6]︶への影響は見逃せない。また、フーコーはガリマール版﹃バタイユ全集﹄の序文に﹁Bataille est un des écrivains les plus importants de son siècle︵バタイユは今世紀の最も重要な書き手の一人である︶﹂と記した[7]。バタイユと親交のあったモーリス・ブランショは、文学、思想、政治論などのあらゆる著作のなかでバタイユを参照している。その他、ジャン・ボードリヤールの経済思想は、バタイユの思想を踏襲・継承して展開される[8]。政治哲学者として有名なジョルジョ・アガンベンにおける﹁動物﹂と﹁人間﹂に関する考察は、バタイユからの影響が強く、アガンベン自身もそれを自覚的にバタイユを扱っている[9]。生涯[編集]
●1897年、ビヨムに生まれる。 ●1908年、ランスのリセに入学するも1913年中退し、エペルネーのコレージュに入学。 ●1914年、カトリックに入信。 ●1916年、第一次世界大戦に動員されるが、肺結核を患う。 ●1918年、パリに移転し、国立古文書学校に入学、1922年に卒業し、国立図書館司書に任命される。 ●1928年、女優シルヴィア・バタイユ︵シルヴィア・マクレス︶と結婚し、﹃眼球譚﹄を偽名のロード・オーシュ(小便をする神)名義で出版。 ●1929年から1930年まで、雑誌﹃ドキュマン﹄編集長を務める。 ●1930年、一女︵ローレンス・バタイユ1986年没︶を設ける。 ●1931年から1934年まで、反スターリン主義を掲げる左翼政治集団﹁民主共産主義サークル﹂に加入。そこの機関紙で﹁消費の概念﹂や﹁国家の問題﹂などといった論文を発表し続けた。 ●1934年、同年にシルヴィア・マクレスと離婚。彼女はのちにジャック・ラカンの妻となる。 ●1936年、反ナショナリズムを掲げる政治団体、<反撃>を結成するが、半年ほどで解散する。 ●1937年、私的結社﹃アセファル(無頭人)﹄を結成。 ●1943年から1945年にかけて、後に﹃無神学大全﹄と総称される﹃内的体験﹄﹃有罪者﹄﹃ニーチェについて﹄の三作品を出版する。 ●1946年、月刊書評誌﹃クリティク﹄を創刊する。 ●1951年、ディアーヌ。コチュベ・ド・ボアルネと結婚する。また同年に、オルレアン市立図書館の艦長に就任する。 ●1955年、頸部動脈硬化症と診断される。 ●1962年、病状が急速に悪化し、永眠。聖マドレーヌ教会堂裏の墓地に埋葬される。 詳しくは、ミシェル・シュリヤ﹃G・バタイユ伝﹄上・下︵西谷修ほか訳 河出書房新社、1991年︶や酒井健 ﹃バタイユ入門﹄(筑摩書房、1996年)などを参照。主要著作[編集]
1920年代に書かれた著作・論考・文学作品[10] ●﹃眼球譚﹄ "Histoire de l'œil" ●﹃W.C.﹄ 1930年代に書かれた著作・論考・文学作品 ●雑誌﹃ドキュマン﹄︵1929-1931︶所収の各論文︵日本語訳﹃ドキュマン﹄バタイユ著作集第11巻、2002年︵第八版︶︶ ●﹃太陽肛門﹄(1931) ●雑誌﹃社会批評﹄所収の各論文︵ex. ﹁ヘーゲル弁証法の根底批判﹂︵1932年3月︶、﹁消費の概念﹂︵1933年1月︶、﹁国家の問題﹂(1933年9月︶、﹁ファシズムの心理構造﹂(1933年11月、および1934年3月︶ ●﹃空の青﹄︵1934年︶ "Le Bleu du ciel" ●雑誌﹃アセファル﹄所収の論考 ●﹃社会学研究会﹄︵聖社会学︶で発表した論考︵講演含む︶ 1940年代に書かれた著作・論考・文学作品 ●﹃内的体験﹄﹁﹃無神学大全﹄1﹂︵主要部分は、1941-1942に書かれた。刊行は43年。︶L'expérience intérieur ●﹃マダム・エドワルダ﹄︵1941年12月︶ ●﹃有罪者﹄﹁﹃無神学大全﹄2﹂(1944年出版︶ ●﹃ニーチェについて――好運への意志﹄﹁﹃無神学大全﹄3﹂(1945年2月出版︶ ●﹃有用なものの限界﹄︵1930年代後半から45年までに書かれた草稿︶ ●﹃呪われた部分――有用性の限界﹄﹁﹃呪われた部分――普遍経済の試み﹄1﹂︵45-49年に書かれた。49年に刊行︶ ●﹃宗教の理論﹄︵推定48年頃に書かれた。生前刊行されず、1974年にガリマールから刊行。︶ 1950年代に書かれた著作・論考・文学作品 ●﹃C神父﹄(1950年︶ ●﹃エロティシズムの歴史﹄﹁﹃呪われた部分――普遍経済の試み﹄2﹂︵51年頃に書かれる。﹃呪われた部分﹄の第二巻となるよう予定されていた草稿。︶ ●﹃ラスコー﹄︵1953年から執筆され、55年に刊行。︶ ●﹃マネ﹄︵1953年から執筆され、55年に刊行。︶ ●﹃わが母﹄︵1954-55に書かれた。︶ ●﹃文学と悪﹄︵1957年ガリマールから出版。︶ ●﹃エロティシズム﹄︵1957年ミニュィ社から出版。︶ 1960年代に書かれた著作・論考・文学作品 ●﹃エロスの涙﹄︵61年出版︶日本語訳[編集]
訳書刊行は、1950年代からが始まり﹃蠱惑の夜︵C神父︶﹄、﹃エロティシズム﹄、﹃文学と悪﹄などが出版、再刊もあり読まれ続けている。著名な﹃眼球譚﹄と﹃マダム・エドワルダ﹄は、1967年に生田耕作が初訳出版︵度々改訳︶。1969年から1973年にかけ二見書房で﹃ジョルジュ・バタイユ著作集﹄全15巻が刊行した︵新版も再刊︶。 新訳版は2020年代現在まで、筑摩書房・ちくま学芸文庫や河出書房新社・河出文庫、平凡社・平凡社ライブラリー、光文社・光文社古典新訳文庫で、他にも大学出版局、月曜社などで出版されている。
●﹃バタイユ書簡集 一九一七-一九六二年﹄︵岩野卓司ほか全10名訳、水声社、2022年︶がある。