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::::::::{{コメント}} 本記事を「九州平定」にし、現九州平定を「九州平定 (日本史)」とすることに賛成します。かげろんさんのご提案内容は曖昧さ回避のルールにのっとっており、問題ないと思います。日本史事典で単独項目されていることなどからも、一般的に「九州平定」は秀吉の九州平定を指すものと思いますし、読者の利益にかなった改名ではないかと考えます。なお「九州国分」との統合にも賛成します。--[[利用者:ぽん吉|ぽん吉]]([[利用者‐会話:ぽん吉|会話]]) 2012年11月13日 (火) 04:01 (UTC) |
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::::::::{{コメント}} 本記事を「九州平定」にし、現九州平定を「九州平定 (日本史)」とすることに賛成します。かげろんさんのご提案内容は曖昧さ回避のルールにのっとっており、問題ないと思います。日本史事典で単独項目されていることなどからも、一般的に「九州平定」は秀吉の九州平定を指すものと思いますし、読者の利益にかなった改名ではないかと考えます。なお「九州国分」との統合にも賛成します。--[[利用者:ぽん吉|ぽん吉]]([[利用者‐会話:ぽん吉|会話]]) 2012年11月13日 (火) 04:01 (UTC) |
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{{コ}} 議論実績のある人も書けるとのことなので意見を書きます。本記事を「九州平定」にし、現九州平定を「九州平定 (日本史)」とする合意案には賛成いたします。「九州平定 (日本史)」の名前はまだ議論の余地がありそうですが、基本的な枠組みはこれで良いと思います。--[[利用者:明銘|明銘]]([[利用者‐会話:明銘|会話]]) 2012年11月17日 (土) 07:26 (UTC) |
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== ステップ1 == |
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== ステップ1 == |
過去の経緯
ここでは、これまでの経過を踏まえて、以下について確認します。もしここで項目名について投票以外の結論的な合意が得られた場合、﹁ステップ1﹂以降の投票手続には進みません。
項目名について見直しの必要があるかの再確認
コメント 現在の項目名は﹁九州の役﹂ですが、これについて、どのような問題があるでしょうか。過去ログでは主として、用語として一般的でない、出典が限られている上に古い、といった批判が見られます。一方で、戦役記事であり、出典の内容としても﹁役﹂がふさわしいという支持意見があります。個人的には、これまで出典とされているものからすると、﹁九州の役﹂の用例が少ないことが気になります。出典の中では﹁九州役﹂もカウントされているようで、﹁九州の役﹂そのままの実例はきわめて限られているという点は、項目名として考えた場合にやや疑問です。候補として﹁九州の役﹂を否定はしませんが、より適切な項目名が他にあるならそちらを選びたいところ、ということで、私は見直しに賛成します。なお、過去ログで提示されていた候補ごとの出典については後日整理して﹁ステップ1﹂に示したいと思います。--みっち︵会話︶ 2012年7月30日 (月) 10:34 (UTC)
コメント みっちさん、コメント依頼での議事進行、ノートの過去ログ化などの整理作業などお疲れ様です。さて、本題の方にコメントしますが、私自身は﹁九州征伐﹂を項目名として採用するのは避けた方がいいと思っています。例えば、現在の高校日本史の検定教科書は﹁九州平定﹂で統一されているはずです。かつては﹁九州征伐﹂が主流だったはずですが、ここ数回の改訂で﹁九州平定﹂に置き換えられてきているのが現状なので。そういう観点から﹁九州平定﹂を改名候補に推したいと思います︵他の用語例も否定はしませんが、﹁九州平定﹂が最も無難かつ合意が一番得られやすい選択肢でしょう︶。--かげろん︵会話︶ 2012年8月2日 (木) 23:09 (UTC)
コメント 項目名は,﹁記事に何が書かれているか?﹂で決めるべきでしょう。︵本来は﹁記事に何を書くか﹂ですが。︶その観点からすれば,本記事は﹁九州の役﹂について書かれていますから,﹁九州の役﹂が最も妥当と考えます︵参謀本部を元として書かれてるんですから当たり前なんですが︶。書かれている内容と異なる項目名にすることには反対させていただきたいです。--Caserio︵会話︶ 2012年8月6日 (月) 09:48 (UTC)
コメント 最初から最後まで参謀本部の戦史のみで書かれているならのならともかく、現状の記事では﹁九州攻め﹂の用語を用いた書籍を出典とする記述部分などもありますよ。Caserioさんの意見は記事の現状とかみ合ってないように思いますがどうでしょうか。--かげろん︵会話︶ 2012年8月7日 (火) 14:01 (UTC)
コメント私が意図していたのは,本記事の中核となる部分︵=項目名としてふさわしい部分︶が参謀本部を元として書かれてる,ということです。最初から最後まで,と申し上げるつもりはございませんでした。言葉足らず申し訳ありません。--Caserio︵会話︶ 2012年8月8日 (水) 01:42 (UTC)
●ついでに追記。平定事業って,非戦闘の政治部分も含まれると思うんですよね︵独自研究?︶。そのあたりもしっかりと書かれた大きな記事となるなら,記事名は﹁九州平定﹂がふさわしいと思うんです。この戦役は,あくまで平定事業の一部ですから。でも現状は,その一部についての記事,というのが私の認識です。--Caserio︵会話︶ 2012年8月8日 (水) 01:53 (UTC)
かげろんさんもご指摘のように、なにが書かれているかということでは、﹁九州征伐﹂や﹁九州攻め﹂そのほかについても書かれているといえばいえるわけで、そもそも項目名と内容とが一意かつ不可分に結びついているなら、改名論争などなかったはずです。項目名は内容によって決めるべきというのも観点のひとつではあるのですが、現状の記事内容が決定版というわけでもありませんし、﹁ニワトリが先かタマゴが先か﹂のような議論になってしまうことは、これまでの過去ログが証明しているように思います。Caserioさんは平定は戦役より大きい事象を扱っているという理解のようで、私も基本的には同じイメージを持っていますが、平定の意味にも﹁乱をたいらげること。世の中が平和におさまること﹂︵広辞苑第六版︶、﹁︵異民族や賊などを︶武力で負かし服従させること︵新明解国語辞典初版︶﹂など解釈に多少の幅があり、後者の例では戦役とほぼ同内容となる場合もあり得ると思います。いずれにしろ、今後項目名にふさわしい記事内容としていく方向性があるなら改名に反対しない、ということでよろしいでしょうか?--みっち︵会話︶ 2012年8月8日 (水) 11:09 (UTC)
はい,<<今後項目名にふさわしい記事内容としていく方向性があるなら改名に反対しない>>です。--Caserio︵会話︶ 2012年8月9日 (木) 04:12 (UTC)
コメント みっちさん、各作業お疲れ様です。遅まきながらコメントいたします。現記事名﹁九州の役﹂が﹁記事の内容を著すのに最も一般的﹂であるか、また﹁最も著名であるか﹂につき疑問がありますので、項目名見直しに賛成いたします。新記事名につきましては、用例が多いこと、過去の議論でも支持者が多かったことから﹁九州平定﹂がよいと考えます。--ぽん吉︵会話︶ 2012年8月7日 (火) 13:17 (UTC)
投票によらない解決方法
コメント 見直しの必要があり、かつ投票に進む場合はステップ1以降の手続きを採ることになりますが、ウィキペディアでは本来的に合意形成によって解決することが推奨されており、投票によらない方法もすでに提起されています。
具体的には、Wikipedia:コメント依頼/コミュニティで合意された投票結果の扱いについてにおいて、利用者:Yassie︵会話 / 投稿記録 / 記録︶さんから提案いただいた﹁執筆ミニコンテスト﹂案、私利用者:みっち︵会話 / 投稿記録 / 記録︶が提案した、本記事を﹁九州平定﹂の子記事として位置づけて主語付けないしはカッコ付きの曖昧さ回避によって区別する方法です。ほかにもあるかもしれません。
まず、﹁ミニコンテスト﹂について私見を述べます。論争でなく記事で競う積極的な意味は認めますし発想は面白いのですが、実施するとなるとなかなか大変だと思います。コンテストは候補記事ごとに採点なり評価なりをしていくわけで、形態として投票とそれほど違わないのではないかということがある上、審査員のあり方や採点基準などは投票よりもさらに複雑になりそうです。また、コンテスト後の競合記事の扱いについて、統合かそれとも並立させるのかという問題が残ります。並立案は過去ログで利用者:Chokorin︵会話 / 投稿記録 / 記録︶さん︵現利用者:Greenland4︵会話 / 投稿記録 / 記録︶さん︶が主張された意見と近い、ということになるでしょうが、これは単に項目名をどうするかよりもよほど大きな問題ともいえそうです。
次に、﹁九州平定﹂案についてあらためて以下に述べます。過去ログに明らかなように、﹁九州平定﹂については、一時は多数意見を占めながら、議論中に別記事が立てられたために改名候補から外れたという経緯があります。この点で、この用語はいまでも合意取り付けの可能性を残していると考えます。別記事として立てられた九州平定は秀吉以外の事績も扱っており、そちらを﹁親記事﹂、本記事を﹁子記事﹂としてリンクさせれば、呼称の整合性も図れます。具体的には、﹁豊臣秀吉の九州平定﹂のように主語を付ける方法、﹁九州平定 (豊臣秀吉)﹂、﹁九州平定 (安土桃山時代)﹂のようにカッコ付きの曖昧さ回避とする方法が考えられます。これらは、この場で合意が整えば早い決着が可能ですし、また、ここで対応策を検討しておけば投票になった場合でも﹁九州平定﹂を候補から外す必要がなくなります。--みっち︵会話︶ 2012年7月30日 (月) 10:34 (UTC)
コメント︵コンテスト案について︶執筆コンテスト案は実質、重複記事を立てることになります。各記事で既存の加筆コンテストや執筆コンテストへの参加をしてもらって採点してもらうのも一つかなと思います︵あくまで既存のコンテストの企画が実施される場合に限る︶。ただし、WP:NOT違反だと強く主張される方もおられるので、いきなり外部から横槍が入る危険性が高いです︵少なくとも2名はその確率が高いと思われます︶。ここも参照していただけると助かります。--かげろん︵会話︶ 2012年8月2日 (木) 23:09 (UTC)
コメント︵九州平定で合意できる場合について︶もし、﹁九州平定﹂で合意できる場合は、親記事・子記事の考えには同意しますが、一般的な認知度からいえば、豊臣秀吉の方が圧倒的に認知度が高いように思います。ですので、豊臣秀吉の方︵本項目︶を括弧抜きの﹁九州平定﹂、現在の九州平定は﹁九州平定 (日本史)﹂とするか﹁九州平定 (通史)﹂として、Template:Otherusesで誘導するのもありかと思います。--かげろん︵会話︶ 2012年8月2日 (木) 23:09 (UTC)
コメント︵コンテスト案について︶ 優れた記事を書いた方が記事名を決める、ということでは記事の私有化を促すようにも見え、賛成できません。--ぽん吉︵会話︶ 2012年8月7日 (火) 13:17 (UTC)
コメント︵九州平定で合意できる場合について︶ みっちさん、かげろんさんの案に反対というわけではないのですが、露土戦争などの前例もあり歴史分野での他記事との整合性の観点から、現在の九州平定はそのまま改名せず親記事として残し、本記事を﹁九州平定 (1586年-1587年)﹂とするのもひとつどうかなと思いました。--ぽん吉︵会話︶ 2012年8月7日 (火) 13:17 (UTC)
ありがとうございます。かげろんさん、ぽん吉さんとは﹁九州平定﹂でほぼ意見の一致を見ています。この中で、本項目を﹁九州平定﹂とし、現九州平定を曖昧さ回避とする案については、ノート:九州平定でも呼びかけて合意を図る必要がありますが、かげろんさんはそのおつもりでしょうか? その他の案では、個人的には﹁豊臣秀吉の九州平定﹂が明快だと思いますがこだわりはないので、曖昧さ回避でも単純に支持が多いものでいいと思います。
あと、議論参加者の﹁CU同意﹂の条件について私の会話ページにコメントがあり、今後﹁井戸端﹂で提起された場合は、再度仕切り直しが必要になる可能性がありますので報告申し上げます。--みっち︵会話︶ 2012年8月8日 (水) 11:09 (UTC)
コメント ﹁九州平定﹂という語での知名度は豊臣秀吉の件が圧倒的に知名度が高いです。本件はWikipedia:曖昧さ回避#代表的なトピックを中心とする曖昧さ回避のパターンに沿って改名したほうがいいと考えています︵当然,向こうのノートで議論をして合意を得る必要はありますが︶。--かげろん︵会話︶ 2012年9月17日 (月) 08:26 (UTC)
コメント遅ればせながらの参加で誠に申し訳ないのですが、資料を調べた立場として一言。ここに書いていいのかどうかわからないのですがご容赦下さい。
﹁九州征伐﹂は、誤解を招く恐れがありますね。例えば、割とよく読まれた軍記物﹁南海治乱記﹂の現代語訳で九州征伐として出てくるのは、南北朝時代の細川頼之が懐良親王の征西将軍宮を攻めようとした話なのです。秀吉の九州攻めの件は、原本では﹁筑紫征伐﹂として出てくるのです。誤解を招くような表記はあまり良くないと思います。国史大辞典で﹁九州征伐﹂が立項されており、歴史辞典類では今でも有力な表記ではあるのですが︵2012年の泉秀樹﹃47都道府県戦国武将事典﹄では、4箇所に﹃九州征伐﹄とある︶、どうも難がありますね。
普通に考えれば﹁九州平定﹂か﹁九州攻め﹂で、出典量の多さからいって﹁九州平定﹂で問題ないのではないですかね。
なお、秀吉の消息︵宮坂文書︶も、﹁国を平らげて仕置を行い云々﹂というような文章ですから、秀吉としてみれば﹁征伐﹂より﹁平定﹂の方が強いイメージだと思いますよ。--中根東竜︵会話︶ 2012年9月1日 (土) 15:42 (UTC)
中根東竜さん、コメントをありがとうございます。﹁九州平定﹂については、すでに別記事が立てられているために、記事名をどうするかという問題があり、上に挙げたように頭に主語を付ける方法、あるいはカッコつきの曖昧さ回避とする方法、現在の﹁九州平定﹂記事を曖昧さ回避とする案が出ています。この点、中根東竜さんはどのようにお考えでしょうか。--みっち︵会話︶ 2012年9月2日 (日) 02:59 (UTC)
コメントが遅れ大変失礼致しました。九州平定については、﹁豊臣秀吉の九州平定﹂というように、頭に主語をつければ問題ないと思います。カッコつきの曖昧さ回避については、現状では必要ないかと思います。googleの検索結果を見ても、上位10位までが2012年9月現在で全て秀吉の九州平定を指している所から見て、他の九州平定が曖昧さ回避をするほどのボリュームがないと考えるためです。基本的にみっちさんの意見に賛成です。--中根東竜︵会話︶ 2012年9月17日 (月) 01:16 (UTC)
「九州征伐」を推す理由
コメントみっちさん作業御苦労様です。さて私は一番耳慣れていて一番普及している九州征伐が記事名に一番適していると思います。すでに根拠もでています。二番目以降から選抜する考えには反対です。--ラヒーム︵会話︶ 2012年8月9日 (木) 09:14 (UTC)
●解明議論の参加資格について一部の人が独断で一部の利用者を排除することはウィキぺディアの方針に反することですから絶対に反対です。私が反対ですし選民思想で議論を進める合意はないですし正当性もありません。--ラヒーム︵会話︶ 2012年8月9日 (木) 09:14 (UTC)
この際ですから、﹁九州征伐﹂に優位性があることの整理をお願いしましょうか。すでに出ている根拠なら容易でしょう。﹁一番耳慣れていて一番普及している﹂とのことですが、ウィキペディアで関連用語を﹁征伐﹂に書き換えることが目的のようなラヒームさんの履歴では、あなたの感覚にすぎないと思われるでしょう。客観的に説得力のある理由を提示願います。あともうひとつ、﹁○○以外はすべて反対﹂という方と合意形成するには、どんな方法があると思いますか?--みっち︵会話︶ 2012年8月12日 (日) 09:19 (UTC)
対立した意見から一つを選ぶのですから多数決の投票で決めるのが最善で最速の解決方法です。ログを読めば投票で改名を決めるのは合意事項です。合意は軽視できません。しかも投票すれば即解決の段階なのに! 第三者を名乗るなら投票条件だけ決めて第三者のまま退場すればいいじゃないですか?議論で九州平定という個人の意見を推しつけるなら、どう言い逃れてもその人はもう当事者ですよ。 しかもログを読めば﹁九州平定﹂は議論で一度退けられて別記事が独立しているのですから分割なりを解決してから議論に参加した方がいいんじゃないですか?今やっているのは改名の議論なんですよ? 論点の整理は一度表に整理されていたのでそちらを見てください、何で消したのですか?﹁九州征伐﹂が優れているのは秀吉の大義や戦争と結末まで表現していて記事と同じだからです。﹁九州平定﹂は﹁九州征伐に含まれる九州平定戦﹂の結末を表現しただけです。もし出典に﹁秀吉が島津氏を屈服させて九州平定に成功した﹂と書いてあったとしてもこの記事は﹁九州平定﹂を書いたんじゃなくて﹁秀吉が島津氏を屈服させて﹂を書いたものですから選外です。この記事は﹁九州征伐に含まれる九州平定戦﹂であって﹁九州平定﹂じゃないんです。--ラヒーム︵会話︶ 2012年8月17日 (金) 08:43 (UTC)
その投稿履歴からは九州征伐に限らず有意な執筆がただの一つもないわりには、意見だけは強硬ですね。︵参考︶。執筆能力が不足しているのか、単にやる気がないのか知りませんが。--以上の署名のないコメントは、221.245.155.66︵会話/Whois︶さんが 2012年8月18日 (土) 06:43 (UTC) に投稿したものです︵ぽん吉︵会話︶による付記︶。
申し訳ありませんが、#過去の経緯の5のとおり、IPの方は議論参加できませんので、お引き取りいただくか、アカウントをお持ちであればログインをお願いします。
ラヒームさんのコメントですが、この仕切り直しは﹁ゼロベース﹂が前提ですから、これまでの投票や合意事項は前提にしていません。整理をお願いしたのも、議論参加者に対して論点をわかりやすく提供するためであり、過去ログを全部読まなければ参加できない、みたいな理不尽さを解消する目的ですので、ご了解ください。投票は目的でなく、改名のひとつの手段にすぎませんから、他の方法を模索することは必要な手順だと考えます。とはいえ、ラヒームさんにとっては投票による決着しかない、ということはコミュニティに伝わったと思います。付け加えて言えば、そもそも現状の仕切り直しは、﹁合意﹂なるものの内容についてもめにもめた結果であり、もめた原因は、﹁征伐﹂に固執するあなたのような意見や一方的・機械的な用語置き換えが大きな原因のひとつです。はっきりいって、相互尊重を趣旨とするウィキペディアでは歓迎されない態度であることを認識すべきです。
さて、﹁九州征伐﹂が優れている理由として、﹁秀吉の大義や戦争と結末まで表現していて記事と同じだから﹂ということですが、よくわからないのは、項目名で大義、戦争、結末まで表現する必要がどこにあるんですか? 一般的に戦争やその関連記事でそういうことを求める基準があるなら教えてください。もしそういう基準があるとしても、﹁征討﹂や﹁討伐﹂も同等である上、﹁島津征伐﹂の方が優れています。つまり﹁優位性﹂はありません。
また、秀吉の大義という点では戦争の一方の当事者の観点に拠りかかった表現であり、このため﹁征伐﹂が﹁平定﹂に置き換えられている事実は無視ですか? 平定の意味が一意でなく﹁征伐﹂も含んだものであることは、すでにCaserioさんへのレスポンスで明らかにしているので、ご覧いただけていると思いますが。--みっち︵会話︶ 2012年8月19日 (日) 05:42 (UTC)
書き忘れましたが、﹁九州平定﹂は議論で一度退けられた、というのは事実ではありません。議論中に﹁九州平定﹂が別記事として立てられたために、そのままでは改名による移動ができなくなったというのが事実です。この間、﹁九州平定﹂を別記事として立てるという合意はなく、﹁九州平定﹂が改名候補として否定されたという合意も存在しません。過去ログにあるのは意見の対立です。﹁九州征伐﹂の優位性もそうですが、ラヒームさんの見解はその手法が腕ずくであると同様に牽強付会が過ぎるのではありませんか?--みっち︵会話︶ 2012年8月20日 (月) 10:22 (UTC)
﹁平定﹂に固執するみっちさんのコメントはちょっとおかしくはないですか?この改名議論はノート:小田原征伐の例が実証しているように再投票さえ実現すれば解決できる段階にあります。当初の投票条件や管理者投票の条件を今に合わせて焼き直しするだけで解決するのです。その解決寸前だった改名議論を蒸し返して今までの合意を踏みにじるのか理解に苦しみます。私が知らないだけなのか知りませんが、合意を無視して一部の参加者を任意に排除して解決するような方針は存在しません。参加制限はここで合意されたわけでもありません。合意の蓄積を無視して解決を遠ざけるような誘導に私は反対です。
まとめが必要なら比較表を復活させるだけです。既にまとめられていたのに、なぜこんな労力を費やさねばならないのか疑問です。項目名で大義、戦争、結末まで表現する必要を質問されていますが当然あります。征伐中は征伐ですが平定中は平定ではないので記事を表さない記事名は駄目です。平定は記事の極一部の結末だけしか表していません。--ラヒーム︵会話︶ 2012年8月22日 (水) 08:56 (UTC)
これは投票を行えば数週間後に解決する改名の議論です。だいたい記事名の重複さえ解決しないまま無闇に議論を遅らせないで欲しいですね。事前の合意を無視したり参加者を任意に排除したりと方針に違反して滅茶苦茶な状態です。この横暴をコミュニティは看過するのでしょうか?--ラヒーム︵会話︶ 2012年8月22日 (水) 09:06 (UTC)
なんというか、ご自分でもなにをいっているかわかっておられないのではないかと感じます。結局、﹁九州征伐﹂が優れているとする根拠はご本人の思い込み以上のものはなさそうですね。あれほど﹁九州征伐﹂にこだわる方ならもう少し客観的かつ説得力のある理由をお持ちかと期待したのですが、残念です。
私が﹁九州平定﹂に固執しているとのことですが、私の提案を読んでおられないのでしょうか。これまでの経過から合意の可能性が残っている用語が﹁九州平定﹂ではないか、というだけのことで、﹁九州の役﹂でも﹁九州征伐﹂でもどれでも、それで収まるなら私は反対しません。しかし、現実に収まらなかったのではありませんか? 収まらない原因を作ったひとりが、用語を一律・機械的に﹁征伐﹂に置き換えたあなたご自身であることは、ご本人ですから当然よくご存じのはずです。固執という言葉がふさわしいのは、私ではなくラヒームさんです。
また、議論への参加制限については、Wikipedia:コメント依頼/コミュニティで合意された投票結果の扱いについてにおいて合意されていることはラヒームさんもよくご存じのはずです。第三者の考え方について、ラヒームさんご自身がここ[1]でコメントを寄せておられるではありませんか。このとき反対しなかったあなたが仕切り直し後になってそれを持ち出し、私が固執しているなどと的はずれな批判まで始めたのは、ご自分の推す﹁九州征伐﹂が形勢不利になったと見たからでしょう。要するにあなたは結論ありきなのであり、答えから逆算し、その都合に応じて過程や議論相手を肯定したり否定したりするわけです。そのようなご都合主義は合意形成の障害でしかなく、ウィキペディアでの議論は遠慮された方がよろしいのではありませんか?--みっち︵会話︶ 2012年8月24日 (金) 10:56 (UTC)
最終的にページの改名を決定するのがノートであることは方針のとうりです。対立的な意見を言っているからといって過去の合意を無視したり個人攻撃で意見を排除するのはやめてくださいね。意見の対立は明確となったと思いますので合意にしたがって投票で決めましょう。--ラヒーム︵会話︶ 2012年9月10日 (月) 09:13 (UTC)
︵インデント戻す︶ラヒームさんの発言﹁九州征伐が一番耳慣れていて一番普及している﹂につき、8月12日にみっちさんが﹁客観的に説得力のある理由を提示願います。﹂との問いかけがありましたが、結局一ヵ月以上経った今でも﹁理由﹂のご提示が無く残念に思っております。根拠の説明がないご主張に説得力を感じませんので、可能であれば今からでもご説明願います。--ぽん吉︵会話︶ 2012年9月17日 (月) 13:01 (UTC)
改名までできませんでしたが九州征伐案は一度はコミュニティの最多支持を受けている案ですから、客観的な支持を受けると考えるのは自然なことです。だいたい九州平定案は重複記事の解消やカッコ内の内容をどうするかで統一候補さえ提案できていないのですから明快な九州征伐と比較にならないのが現状です。--ラヒーム︵会話︶ 2012年9月19日 (水) 08:34 (UTC)
ここまでのまとめ
さて、﹁九州征伐﹂についてラヒームさんからこれ以上まともな根拠を示してもらえることは期待できないでしょうし、他の方からもご意見をいただけないようなら、そろそろ次の段階にすすもうかと思います。これまでラヒームさん以外の議論参加者では、﹁九州平定﹂案にかげろんさん、ぽん吉さん、みっちの3名から支持がありました。Caserioさんからは﹁九州の役﹂を推す立場からの意見表明がありましたが、今後項目名にふさわしい記事内容としていく方向性があるなら﹁九州平定﹂にも反対しないという了解をいただきました。以上からすれば、この場は﹁九州平定﹂で合意されたと見なすことも十分可能だと思います。しかし、ラヒームさんのように﹁九州征伐﹂以外はなんでも反対する方がおられること、また議論から自主的に撤収いただいたとはいえ、もともと参加してこられた方の納得性を考えれば、このまま合意とした場合にまた蒸し返されるおそれがあるように感じます。私個人の判断としては、どちらにするか半々というところです。そこで、もう一度Wikipedia:コメント依頼/コミュニティで合意された投票結果の扱いについてで撤収された方々のご意向を伺った上で、投票に進むかどうかを判断したいと考えますが、いかがでしょうか。当面、あちらにコメントをお願いしてみることとします。--みっち︵会話︶ 2012年8月24日 (金) 10:56 (UTC)
まともな根拠については私がみっちさんの主張はおかしいと思うようにみっちさんも私の主張がおかしく見えるのでしょうね。
合意の可能性が残っている用語が﹁九州平定﹂ではないか>> 残念ながらこれは妄想だったようですね。昔提案されて合意できていないことからも容易に想像できましたが。
収まらない原因を作ったひとりが、用語を一律・機械的に﹁征伐﹂に置き換えたあなたご自身>> 議論の本筋から外れた個人攻撃はやめて欲しいです。とても合意を求めるための説得方法とは思えません。
議論への参加制限については、Wikipedia:コメント依頼/コミュニティで合意された投票結果の扱いについてにおいて合意されている>> 私の質問は参加者制限がどのような方針を根拠としているのか?九州の役の変更を決定する場所として別のテーマのコメント依頼に正当性があるのか?ですよ。九州平定に決めるためにあちらこちらに話題を振り乱して欠席裁判をする必要性は疑問です。
合意を尊重して投票を再開すればすぐに解決できるんですよ。過去に投票解決の合意は存在する。小田原征伐のような成功のお手本もある。この現実を前に投票を避けて重複記事の問題が解決していない﹁九州平定﹂をゴリ押ししてゴールから遠回りする理由が私にはわかりません。話を進める気があるのであれば投票をすべきです。--ラヒーム︵会話︶ 2012年8月28日 (火) 08:53 (UTC)
コメント 小田原の件は,議論の場で合意ができずに投票まで至ってしまったことを考慮すれば,議論による合意ができなかった失敗例︵教訓︶として挙げるべきものでしょう。成功例だと挙げられても,私はむしろ失敗例に思えてならないわけですが。--かげろん︵会話︶ 2012年9月17日 (月) 08:26 (UTC)
コメント 現参加者の間では,一人を除いて﹁九州平定﹂で合意がほぼ得られている状況であることは断定していいと思います。﹁九州平定﹂で一日でも早く合意が成立することを望みます。--かげろん︵会話︶ 2012年9月17日 (月) 08:26 (UTC)
コメント 現状﹁征伐﹂を支持してらっしゃるのはおひとりで、他の方は細部にご意見があるにせよ﹁九州平定﹂に賛同されてますので、投票をする意味がないと思います。--ぽん吉︵会話︶ 2012年9月17日 (月) 13:17 (UTC)
コメント(無印にして現存記事を(日本史)や(通史)に改名)、(豊臣秀吉)、(安土桃山時代)……等々バラバラ様々な九州平定案や現存記事の改名候補があるわけなのに。これでほぼ合意ができているととは理解不能です。他に﹁豊臣秀吉の九州平定﹂が明快であるとの意見などは多数根拠が崩壊するような提案ですよね?どれも九州征伐を越える候補とは思えないので合意不成立です。明確に。平定と平定戦が異なり記事の範囲を示していない件についても特に説得力のある意見は出ないようです。終了しない議論が成功例で終了した議論が失敗例というのも同意できません。--ラヒーム︵会話︶ 2012年9月19日 (水) 08:35 (UTC)
コメント提案される候補以前にノート:九州平定では何の合意も得られていないのにこちらへ持ち込んでいたんですね?こんな状況で同意はできません。--ラヒーム︵会話︶ 2012年9月19日 (水) 09:07 (UTC)
コメント 現参加者の中では,括弧の中身に各位の意見差はあるけども﹁九州平定﹂でという意見が多数なのは言うまでもないでしょう︵その点を無視するのはいかがなものか︶。括弧の中身は﹁九州平定﹂で本決まりになった後に詰めて議論すればいいだけです。現状で特に問題視する必要性は感じません。さらに付け加えれば,﹁九州平定﹂が括弧つきで移動ということで決すれば,ノート:九州平定での提案はそもそも不要になります︵括弧なしで移動しようという場合は,改めてノート:九州平定で議論・調整が行われればそれで問題は発生しないはずですがね︶。あと,成功例として取り上げるべきなのは議論のみで合意形成できた事例なのですから,私は小田原の件に関しては﹁失敗例﹂だと書いたのです。その点は理解していただきたいですけどね。--かげろん︵会話︶ 2012年9月19日 (水) 09:26 (UTC)
みなさん、コメントありがとうございました。以下にまとめます。
(一)条件付きも含めて﹁九州平定﹂でほぼ一致を見ており、ラヒームさんの﹁九州征伐﹂案及び投票への移行については他に賛同がありませんでした。Wikipedia:コメント依頼/コミュニティで合意された投票結果の扱いについて#仕切り直し以後の進め方についてでは撤収いただいた利用者3名の方からコメントをいただきましたが、﹁九州平定﹂でよいという意見が2名、﹁九州の役﹂を推す立場から﹁以前の状況と変わり映えがしない﹂という意見が1名であり、﹁九州征伐﹂案及び投票への移行については賛同意見がありませんでした。よって、ラヒームさんの投票提案は合意がありません。
(二)条件付きの内容は、﹁現記事は﹃九州の役﹄がふさわしいが、今後項目名にふさわしい記事内容としていく方向性があるなら改名に反対しない﹂というものです。したがって、今後﹁九州平定﹂によりふさわしい加筆がなされることが望ましいと考えます。
(三)ただし、﹁九州平定﹂はすでに別記事があるため、現状で本記事をそのまま﹁九州平定﹂とすることはできません。解決方法として、現﹁九州平定﹂を親記事と見立ててこちらを主語付きまたは曖昧さ回避とする方法と、こちらを本記事として改名し現﹁九州平定﹂記事を曖昧さ回避とする方法の二通りが示されています。このうち後者については、こちらの議論だけでは合意・解決できないため、今後の検討課題ということにしたいと思います。このため、当面する改名先の案として、前者のうち複数の利用者から支持のある﹁豊臣秀吉の九州平定﹂をあらためてお示しします。
(四)なお、ラヒームさんの議論姿勢と本ノートページにおける行為について、Wikipedia:コメント依頼/ラヒームを提起しましたので、こちらにもコメントをお願いします。--みっち︵会話︶ 2012年9月20日 (木) 08:17 (UTC)
●どこまで私の意見を無視するつもりか分かりませんが投票解決の提案については私の賛成の他に反対意見はありません。合意形成期間も一週間取りましたので通常の条件で言えば合意形成が成立しています。意見の対立は顕著ですが投票に代わる解決案がない以上は投票で解決すべきです。どこまでこの議論の解決を先延ばしにすればいいのでしょうか?--ラヒーム︵会話︶ 2012年9月21日 (金) 09:44 (UTC)
コメント あなた以外はここ︵ステップ0︶で議論のみでなんとか合意形成に向けて努力してます。また,ステップ2へと移行しようというあなたの意見への賛同はまったくありません。現状では,ステップ0を投げだしてステップ2に移行しようとしているのは,ラヒームさんだけです。ラヒームさんが今の行動を続けるようであれば,ステップ0での合意形成をしようという意思はあなたにない︵もしくはステップ0での議論は放棄した︶と私はみなしますが︵他の方もおそらくそう判断するでしょうが︶,それでも構いませんよね?--かげろん︵会話︶ 2012年9月21日 (金) 10:43 (UTC)
コメント すでに述べたように、この議論は投票も視野に入れたものではありますが、Wikipedia:コメント依頼/コミュニティで合意された投票結果の扱いについてでも、過去の投票で﹁九州征伐﹂を支持された複数の方から﹁九州平定﹂に理解を示していただいており、現時点ではあらためて投票する意義が見いだせません。このように、対立を超えて合意への努力がなされているにもかかわらず、それを無視して投票を実施しようとするのは、﹁九州征伐﹂以外認めない方の勝手な都合のみであるとともに、むしろ対立を助長して合意を妨げ、長引かせる手段として投票が用いられているといわねばなりません。--みっち︵会話︶ 2012年9月28日 (金) 10:40 (UTC)
「征伐」の妥当性
コメントコメント依頼から参りました。現在では、以下に挙げる検索結果からも、また、かげろん様の挙げる教科書の記載についても、高校などの教科書の記載は研究界の流れを数年後に反映し始めることから考えて、﹁平定﹂が良いのではと考えます。他にも挙げられていないであろう資料を以下に載せておきます。
●CiNiiで検索すると﹁九州征伐﹂が2件、﹁九州平定﹂が3件出てきました︵著者名よりはその媒体を中心にとりあげてみます︶。
●九州征伐…﹁ゆけむり史学﹂︵2011︶︵別府大学大学院文学研究科歴史学専攻院生研究報告会︶…歴史分野であるがおそらく査読無し。本文中に﹁九州を平定した秀吉は、︵中略︶九州征伐に関する十四ヵ条からなる条々があり﹂と記載。
●九州征伐…﹁観光科学研究﹂︵2010︶︵首都大学東京 大学院都市環境科学研究科地理環境科学専攻 観光科学専修︶…歴史分野の専門ではない。どの出典から﹁征伐﹂としたか確認できず。また、本文中では﹁九州攻め﹂と記載。
●九州平定…﹁日本史研究﹂︵2011︶︵日本史研究会︶…本文参照できず。著者は歴史の研究者と思われる尾下 成敏氏。
●九州平定…﹁別冊太陽﹂︵2010︶︵平凡社︶…この誌の信頼性は私には判じかねます。︵おそらく高くない︶
●九州平定…﹁茶道の研究﹂︵2006︶︵三徳庵︶…茶道系の専門雑誌のようで、史学そのものにたいする専門性は高くないと見られる。
つまり、CiNii検索の中では﹁九州征伐﹂との表題であっても本文中で別の記載がされており、専門性が高い著者︵尾下成敏︶による記載では﹁九州平定﹂ではないかと考えられる。
●KAKEN検索では、﹁九州征伐﹂は0件、﹁九州平定﹂は3件が出てきました。現在では﹁九州平定﹂がよく使われていることになります。
●なお、﹁九州征伐﹂を推すラヒーム様の論拠は﹁馴染み﹂と﹁過去の投票結果﹂が主体のようですが、それ以外の具体的根拠に乏しいようです。ある年代の方に取っては﹁馴染み﹂のある表現なのかもしれませんし、現在も学術上も同程度の頻度で使われている事が実証できるのであれば議論の余地もあるでしょうが、﹁馴染み﹂﹁投票結果﹂では根拠に乏しいです。
●﹁征伐﹂に賛成されている方が一人﹂とのコメントが﹁平定﹂を推す方々からなされています。この言い方は往々にして多数決原理と見られかねませんので、よろしくないのでは︵実際には﹁平定﹂に理があると考えています︶。また、ラヒーム様が投票に持ち込もうとされている行為自体はさておき、その候補の表に﹁平定﹂が含まれておらず、議論の攪乱を狙っているように見えます。--ClimaScience︵会話︶ 2012年9月23日 (日) 04:03 (UTC)
コメント重ねて失礼します。﹁まとめ﹂が既に出来ていて、その下にコメントを重ねるのも良くは無いかと思いますので、私のコメントが適切な位置で無いと判断されたときは適切な場所に移動してくださって結構です。それと私は史学には疎いため、的外れな話となりましたら申し訳ありません。ラヒーム様はおおよそ以下の様な表現をされています。これら数少ない根拠と思える表現の意味がいまいちよく分かりません。他の方からでも構いませんので﹁平定﹂﹁征伐﹂の包含関係を教えていただけませんでしょうか。特に4番目の主張であれば﹁平定﹂で良い、という主張のようにも見えます。5番目に至っては、正直理解不能です。﹁平定﹂や﹁征伐﹂の意味の根拠となる資料と共に教えていただけませんか。
(一)﹁征伐﹂は大義や戦争と結末まで表現していて記事内容と対応している
(二)﹁平定﹂は﹁征伐のうち平定戦﹂の結末だけ
(三)出典に﹁秀吉が島津氏を屈服させて九州平定に成功した﹂とあっても、この記事は﹁平定﹂を表しておらず﹁秀吉が島津氏を屈服﹂までを書いたのだから﹁平定﹂は選外
(四)この記事は﹁征伐に含まれる平定戦﹂であって﹁平定﹂じゃないんです
(五)征伐中は征伐ですが平定中は平定ではない
(六)平定は記事の極一部の結末だけしか表していません
以上よろしくお願いします。--ClimaScience︵会話︶ 2012年9月23日 (日) 15:55 (UTC)
●投票で解決する提案にはに今のところ反対はありません。反対する気があるなら反対したらどうですか?提案に反対がない以上合意は成立します。過去ログ化した部分の投票で解決する合意については今も有効です。合意を軽視しないでください。お互いが自論に固執して妥協できない以上、4年の議論が繰り返されるだけだと思います。こんなことをしている間に投票を進めれば数週間で小田原征伐のように解決して平穏が取り戻せます。なぜ投票合意を踏みにじって議論を長引かせようとするのか理解不能です。
●私も合意形成に向けて努力していろいろ考えてみましたが平定の具体的な改名候補も選出でない状態では﹁あいまいな九州平定﹂提案には反対するしかありません。具体的にどの平定で改名の提案をする気なのでしょうか?
●かげろんさんへ。合意の努力はしましたが一致していないし一致するような展望もないように思います。今までの議論から﹁九州征伐﹂で妥協できるなら私は賛成します。﹁九州平定﹂に賛成するのが合意の努力で、反対するのは合意の努力ではないという理屈は理解できません。﹁九州平定ホニャララ﹂候補には賛成できません﹁九州征伐﹂候補が断然ましだと判断します。これ以上平定案に説得力のあるコメントが聞けそうもないのですが……
●ClimaScienceさんの意見は昔に議論されていたことです。根拠は九州平定の使われ方です……九州平定前、九州平定中、九州平定完了、九州平定後の中で﹁九州平定﹂の意味は九州平定完了だけを表していますよね?﹁九州征伐﹂は最初から最後まで今の記事と同じ範囲を意味しています。
●例えば﹁5月8日に義久は秀吉に降伏しました。こうして秀吉による九州平定が成りました。[2]﹂と書いてあるので、島津降伏以前は平定が成っていません。九州平定前、九州平定中、九州平定完了、九州平定後の中で﹁九州平定﹂の意味は九州平定完了だけを表していて前後は表していないです。﹁九州征伐﹂は大義名分を掲げた最初から最後まで今の記事と同じ範囲を意味しています。--ラヒーム︵会話︶ 2012年9月24日 (月) 08:41 (UTC)
コメント 8月17日に﹁対立した意見から一つを選ぶのですから多数決の投票で決めるのが最善で最速の解決方法です。ログを読めば投票で改名を決めるのは合意事項です。合意は軽視できません。しかも投票すれば即解決の段階なのに!﹂と書いてのけた以上,ラヒームさんはすでにステップ0の議論に非協力的なのは言う間でもないし,無理矢理にでも投票に持ち込もうとしてるのがあからさまです。それにもかかわらず﹁合意の努力はしましたが﹂ですと? 呆れるという他ないです。﹁ステップ0で投票移行への合意がまったく得られていない状況﹂にもかかわらず,ステップ2の節で投票を勝手に進めようとしていることについては重ねての指摘になりますが,WP:CONの悪用そのものです︵ステップ2節のみで合意が成立すればいいってもんじゃない︶。今からでも遅くないので,下のステップ2の投票提案は自主的に取り下げたらどうですか。一応,忠告しておくけど,この状況でステップ2を勝手に進めて損するのはラヒームさんなんですがね?--かげろん︵会話︶ 2012年9月24日 (月) 11:40 (UTC)
コメントラヒーム様が提唱する﹁征伐﹂案の妥当性を検証するために新しい節を独立させました。なお、ラヒーム様の2012年9月24日 (月) 08:41 (UTC) のコメントは、投票の是非︵かげろん様が応答している︶と、﹁征伐﹂の妥当性に分かれているようです。﹁投票の是非﹂については別項目を作成し、ラヒーム様、かげろん様それぞれのコメントをその項目に移動してよろしいでしょうか。︵Wikipedia:ノートページのガイドライン#他人のコメントに従った提起。︶--ClimaScience︵会話︶ 2012年9月24日 (月) 15:00 (UTC)
コメント以下、ClimaScienceがコメントいたします。
●ClimaScienceさんの意見は昔に議論されていたことです。
この﹁意見﹂とは文献の用例のことでしょうか。︵そうであるとして︶どこで議論されていたのでしょうか?そもそも、ゼロベースで論議との趣旨からして﹁昔論議されたから﹂決着がついている訳ではないでしょう。
さて、過去ログ1~4を検索した限り、私のあげた資料群のうちCiNii検索結果は2010年7月頃に取り上げられていましたが、当時と現状では状況が異なっていますので、昔論議したからで済まされません。具体的には刊年の関係で﹁ゆけむり史学﹂︵征伐︶、﹁日本史研究﹂︵平定︶、﹁別冊太陽﹂︵平定︶が当時は上がっていないようです。当時話題に上がっていた刊行物も含めて資料価値がありそうなものは、その媒体・執筆者からみて﹁日本史研究﹂だけではないでしょうか。これすらも投稿規定を見るかぎり査読制度があるか不明です︵多分無くて編集委員裁定のよう︶。﹁日本史研究﹂の位置づけは史学上、どの程度のものでしょうか。
さらに、科研の検索は過去ログを検索してみても取り上げられている様子はありません。科研は、現在の研究者がどの用語を使っているかを良く反映している資料と言えます。そして、そこで上がっているものは﹁平定﹂が3件です。
内容が違っているのに、それを見ておられないようで、ラヒーム様が内容をしっかりと踏まえた上でコメントされているのか、疑念が湧いてしまいます。
●根拠は九州平定の使われ方です…︵以下略︶
客観的に﹁平定﹂を定義づける資料がないまま、おそらくラヒーム様の独自の見解で﹁平定﹂の意味を極端に狭めた包含関係の話をしておられ、現状のラヒーム様のコメントでは説得力を感じません。
ラヒーム様があげられた﹁PDFファイル﹂の﹁(2)秀吉、九州へ出兵﹂を見ると、﹁宗麟が秀吉に訴えた﹂~﹁島津の降伏﹂を以て﹁こうして秀吉による九州平定が成りました﹂と書いてあります。つまり、宗麟から島津の降伏までが﹁九州平定﹂であり、その一連の事業が﹁成った﹂と︵少なくとも私には︶読めます。
一方で﹁島津降伏以前は平定が成っていません﹂とするラヒーム様は、﹁こうして~平定が成りました﹂が何を受けているのかの文章解釈について﹁平定﹂︵島津が降伏した︶という瞬間︵あるいは降伏した以降?︶だとの、独自の見解をされているようです。これなら﹁征伐﹂との語でも﹁征伐は降伏した瞬間だ﹂﹁島津降伏以前は征伐が成っていません﹂などと言えてしまいそうです。
なお、本記事では、︵どこまでを背景とするかは意見が分かれるだろうが︶背景と﹁宗麟の大坂﹂~﹁島津の降伏﹂まで、そして戦後処理と、ラヒーム様が挙げられたPDFファイルの﹁平定﹂に沿った記述がなされています。
もう一度お伺いしますが、ラヒーム様の﹁平定﹂﹁征伐﹂の定義を根拠づける資料を示していただけませんか。--ClimaScience︵会話︶ 2012年9月24日 (月) 15:00 (UTC)
この節でのやりとりは、内容的に上にある#﹁九州征伐﹂を推す理由節で続けるのがよいと思いますが、すでにレスポンスが重なっており、移動すると混乱を増すかもしれませんのでこのままにしておきます。なお、この件では私はすでに上の節にコメントしているとおりで、ClimaScienceさんとほぼ同様の感想を持っており、ラヒームさんのコメントはこれまでの繰り返しの域から一歩も出ておらず、回答になっていません。--みっち︵会話︶ 2012年9月28日 (金) 10:40 (UTC)
●議論の解決に投票なら展望がありますが話し合いを続けて解決する展望があるのですか?妥協しないのはお互い様なのに。私は九州平定の推進の意見に説得力がないように判断しています。逆に九州征伐に反対する人はその説得がないと判断しているのでしょう?これ以降に努力としての説得材料がまだ出てくるのですか?出てくるならこちらも合意の努力として考えますよ。
●合意の展望が示されないのにステップを強制するのは疑問です。ここのノートでそのような強制を受け入れるような合意は成立していません。私の提案は話し合いで解決できそうもないので投票で解決しましょうという非常に建設的な意見です。あなた方は何年議論を続ければ気が済むのですか?私は投票以上の解決展望を示していただけるならその方法に賛同しますよ。
●﹁その候補の表に﹁平定﹂が含まれておらず、……--ClimaScience︵会話︶ 2012年9月23日 (日) 04:03 (UTC)﹂これは酷い中傷ではないですか?今のところ比較表を叩き台としてコピーしたところですから、﹁平定﹂を含む必要があれば皆さんに見てもらうために努力して編集する筋合いのものです。もちろん候補を絞らずに﹁九州平定のドレカ﹂を改名候補にしているために比較ができない状態なのかもしれませんけど。
●﹁宗麟から島津の降伏までが﹁九州平定﹂であり、……--ClimaScience︵会話︶ 2012年9月24日 (月) 15:00 (UTC)﹂いいえ。私にはそうは読めませんね。文章をよく読んでください。5月8日の降伏で九州平定が成立した。つまり5月8日以前は九州平定の条件が成立していません、それ以前の﹁宗麟が秀吉に訴えた﹂などは九州平定ではないのです。平定以前は征伐です。それから今まで出てきた﹁九州平定﹂の根拠には年代を1587年と指定してるものが沢山ありますよね?今の記事に書いてある1586年を範囲外とする九州平定には賛成できませんね。例を示します。
●﹁秀吉末期と家康時代の対外政策﹂奥深山 親司、﹃国士舘大学政経論叢 (52)﹄1985年﹁天正十五︵一五八七︶年六月十九日、秀吉は九州平定直後に滞在した筑前博多郊外の箱崎において、[3]﹂ 九州平定の成立が1587年5月8日を示している例。
●﹁天正15年︵1587年︶九州平定。﹂[4] 九州平定が1587年である説明例。
●﹁<論説>島津義弘の旅 : 島津義弘海行記﹂白井 忠功、﹃立正大学文学部論叢97﹄1993年﹁天正十五年︵一五八七︶豊臣秀吉の九州平定により……﹂[5] 同じく。
●﹁肥後国は戦国三大名の争奪の地となりました。その後、島津氏の勢力下におかれ、豊臣秀吉の九州平定まで続きました。 ﹂[6] 肥後の島津氏支配が続いたのは1587年の九州平定まで。--ラヒーム︵会話︶ 2012年10月1日 (月) 08:55 (UTC)
●ラヒームさんのコメントは、ClimaScience さんへの返答になっていないように思います。﹁九州平定の条件が成立して﹂いないとしても、﹁九州平定﹂を記事名とするのが不適切である理由が示されていません。辞書を引くと、﹁征伐 - 攻めて行って反逆者や悪者などを討つこと。﹂、﹁討つ - 相手を攻め滅ぼす。﹂とあるので、仮にラヒームさんの主張が正しいとすると、同じ理由により﹁九州征伐﹂も不適ということになります︵攻撃を開始した時点では島津氏は滅んでいないため︶。 ﹁項目名で大義、戦争、結末まで表現する必要がどこにあるんですか?﹂みっちさん、2012年8月19日 (日) 05:42 (UTC) にもあわせて返答すべきだと思います。あと﹁この記事は﹁九州征伐に含まれる九州平定戦﹂であって﹁九州平定﹂じゃない﹂ラヒームさん、2012年8月17日 (金) 08:43 (UTC) とのことですが、﹁この記事は﹁九州平定に含まれる九州征伐﹂であって﹁九州征伐﹂ではない﹂ともいえるので、この主張も根拠に乏しいと思います。さらに﹁﹁九州平定﹂は秀吉の大義や戦争と結末まで表現していて記事と同じだから﹂ともいえるので、やはり前出のご主張は不適なように思います。また前掲の出典[7] では (1) 秀吉の九州平定、(2) 秀吉、九州へ出兵、(3) 秀吉による大名配置、と目次が作られており、その内容 (1) では耳川の合戦や島津氏の動向などが記述されているので、﹁秀吉の九州平定﹂の主題で平定へ至るまでの背景を解説するのはおかしくないことが読み取れます。--Calvero︵会話︶ 2012年10月1日 (月) 11:39 (UTC)
●議論/投票についてですが、再三指摘させていただいているように、投票を行ったとしても、それは現時点でどのような意見・主張があるのかの確認であって、最多得票数の候補を即座に項目名として採用することはできません。そして議論で解決できそうにないように見えるのはラヒームさんが正しく議論をしていないからであり、そのことを理由として投票を行うのはどうもおかしいように思われます。ラヒームさんは速やかに、すでに提示されている疑問に答えるべきだと思います。合意に向けた努力とは、まずそのことではないのでしょうか。--Calvero︵会話︶ 2012年10月1日 (月) 11:39 (UTC)
コメントラヒーム様、コメントありがとうございます。ラヒーム様の御主張は﹁資料では﹁九州平定﹂は1587年に限られており、1586年以前も含めた秀吉の行動を示すには不適﹂ということのようです。内容は以下に詳述しますが、ラヒーム様は、都合の良い資料の引用および解釈によって﹁九州平定は1587年のみ﹂に限定しようとしておられます。実際の各種資料において、
(一)<パターン0>論理的にラヒーム様の論拠を満たさない記述である。
(二)<パターン1>﹁1587年の九州征伐﹂と期間を示している資料があり、ラヒーム様の理屈を借りれば﹁九州平定は1587年に限定される﹂と同じことが九州征伐でも言えてしまう。
(三)<パターン2>﹁九州平定﹂の記述に他の期間を含むことを示す資料があり1987年だけが﹁平定﹂でないことが示される。
を示せれば、ラヒーム様の論拠が失われることになります。
●まず、ラヒーム様ご自身が1つ目の根拠として取り上げた資料︵PDFファイル︶の章立ては、
10. 安土桃山時代
(1)秀吉の九州平定
(2)秀吉、九州へ出兵
(3)秀吉による大名配置
となっています。これですと、(1)の﹁九州平定﹂で年月が明示されているのは1578年でラヒーム様の期間決定法を用いると﹁1578年から九州平定﹂といえてしまいます。<パターン2>
●次に、同じ資料からラヒーム様が一部を引用された(2)節全体を、段落形式が分かる形で以下に引用しました。
「耳川の合戦」に大敗し、南・西・北の三方からせめられる形になった宗麟は、天正14(1586)
年4月、大阪城の秀吉を訪ね、義久軍の征討をお願いしました。
九州での島津義久の動きを苦々しく思っていた秀吉は、天正14(1586)年8月、毛利三軍(毛利
輝元、吉川元春、小早川隆景)に、義久方の小倉城主・高橋元種の攻略を命じました。
毛利三軍が門司城を攻め落とすと秀吉は、黒田孝高(如水)、森 吉成(後、改名して、毛利勝
信)を輝元のもとに送り込みました。元種軍も必死に抵抗しましたが、ついに秀吉に従うことを誓
いました。
天正15(1587)年3月1日、大阪城を出発した秀吉は、3月28日に小倉城に入りました。
小倉に入城した秀吉は、25万余の軍勢を二分し、島津義久と対決しました。秀吉軍は、北豊第一
の堅城を誇る岩石城(添田町)を半日もかからずに攻め落とすなど、戦いは圧倒的に優勢で、5月8日に義久は秀吉に降伏しました。
こうして秀吉による九州平定がなりました。
ラヒーム様は、この中の﹁5月8日に義久は秀吉に降伏しました。こうして秀吉による九州平定がなりました。﹂と、あたかもその部分が改段もない、ひとまとまりの文章であるかのように引用されています。実際の段落構成は、5つにわかれており、1~4段落を5段落目が受けていると読めます。実際に﹁九州平定﹂と書かれているのは(1)であり、(2)の最後で﹁九州平定が成りました﹂と書かれており、(1)の最初から(2)の最後までが﹁九州平定﹂と示されていることも述べておきます。
●続いて、新しくラヒーム様が挙げた資料と論点を見てみましょう。
●﹃国士舘大学政経論叢 (52)﹄[8]ですが、﹁天正十五︵一五八七︶年六月十九日、秀吉は九州平定直後に滞在した筑前博多郊外の箱崎において﹂との文面をもって、どうして、﹁九州平定の成立が1587年5月8日を示している﹂と言えるのでしょうか。例えば﹁君の偏差値は60以下だよ﹂との説明が﹁君の偏差値は35.0だよ﹂と一つの値を明示しないことと同じ関係です。︵パターン0︶
●﹁絵本太攻記﹂︵独立行政法人日本芸術文化振興︶[9]では﹁天正15年︵1587年︶九州平定。﹂と書かれています。︵ラヒーム様の主張は成り立つ︶
●﹃立正大学文学部論叢97﹄[10]では﹁天正十五年︵一五八七︶豊臣秀吉の九州平定により﹂と書かれています。︵ラヒーム様の主張は成り立つ︶
●﹃熊本県ホームページ﹄[11]では、﹁天正15(1587)年、九州を平定した秀吉﹂と書かれています。︵ラヒーム様の主張は成り立つ︶
●ついで、私がCiNii検索で示しておいた資料を見てみましょう。︵﹁九州平定﹂と記されている3件はネット上からの閲覧不可です︶
●﹃ゆけむり史学﹄[12]では、﹁翌、天正15年︵1587︶の豊臣秀吉の九州征伐により、島津氏は敗れ九州は平定され﹂となっています。︵パターン1︶
●﹃観光科学研究﹄[13]では、﹁1587年に、秀吉の九州征伐﹂と書かれています。︵パターン1︶
●さらに私が科研検索で示しておいた資料を見てみましょう。
●科研の﹁近世過渡期北部九州における城郭の縄張り構造に関する研究﹂[14]では、﹁研究当初の予見どおり、当遺構が天正14年の九州平定軍の来襲﹂となっており、九州平定軍の来襲が天正14年にあったことが示されています。(パターン2)
●科研の﹁北部九州における豊臣氏の支配と在地動向﹂[15]では、﹁天正15年豊臣秀吉は、島津征圧を理由に九州へ入ってきたが、九州の統一には明国を服属させる問題があった。すなわち唐国までの領土拡張のための九州平定という考えがあった﹂と記されています︵ラヒーム様の主張はなりたつ︶。ただし、九州平定は領土拡張につながる大きな流れの一つであることが示されています。
●他の資料も見てみましょう︵.comはやめて、.go.jpより︶
●﹁平成23年度購入文化財一覧﹂︵国立文化財機構︶ [16]では、﹁豊臣秀吉が天正15年(1587)に行った島津氏平定の戦いである九州征伐﹂と九州征伐が1587年であることを示している。︵パターン1︶また﹁島津氏平定=九州征伐﹂との記述。
●﹁名鳥橋歴史ロマン﹂︵福岡国道事務所︶[17]では、﹁1587年、九州征伐にやってきた豊臣秀吉﹂とパターン1であることを示している。
このようにラヒーム様ご自身が挙げた資料だけを見ても、それ以外の資料を見ても、ラヒーム様の論理は成り立たなくなります。つまり、ラヒーム様は、
(一)<パターン0>ある過去の一点を明示していない﹁ある時以前﹂と書かれた資料をもとに、ある過去の一点であると解釈している論理エラーがある。
(二)<パターン1>﹁1587年の九州征伐﹂と示している資料がすでに挙がっている、あるいは容易に検索できるにも関わらず、それを取り上げずに﹁1587年の九州平定﹂との記述のみを取り上げて、﹁九州平定は1587年だけを示す﹂とされている。
(三)<パターン2>﹁九州平定﹂に1587年よりも以前の期間を含むことを示す資料がすでに挙がっている、あるいは容易に検索できるにも関わらず、それを取り上げずに﹁1587年の九州平定﹂との記述のみを取り上げて、﹁九州平定は1587年だけを示す﹂とされている。
これら、ご自分の主張にあわせるのに都合のよい文献資料だけを挙げて、さらに都合良く曲解をして、ご自分の見解の正当性を主張しようとされています。このようなラヒーム様の手法は資料をもとにした的確な記述が求められるwikipediaの編集には不適格です。︵念のため触れておきますが、﹁1587年以外でも九州征伐﹂を示す資料もあります。上記論証上取り上げる必要が無いだけで、敢えて私が隠しているのではありません。︶--ClimaScience︵会話︶ 2012年10月3日 (水) 15:07 (UTC)
●ブロック依頼をちらつかせたコメント依頼で態度を改めるか?とのことですが漠然としていますね。こちらは会話によって既に改めているところもありますし妥協もしています。
●投票の提案については反対があるので不合意が成立しているようにかんがえます。ですから今のところは投票はできないでしょうね。この明かな態度変更をあなたは態度を変えたこととして認めてもらえますか?
●議論による解決については﹁九州平定案のどれか一つ﹂という段階の提案で﹁記事が1586年から1587年の期間を中心としているのに九州平定が1587年5月8日に焦点を当てた言葉である﹂という欠点があったりと。
●多数派だから従えという強引な議論誘導についても抗議です。私だって本当に﹁九州平定なら何でもいい﹂という案が多数派なら妥協して合意する用意がありますがその多数派を証明する手段である投票には反対する。しかし何が何でも議論の見た目だけで多数派の意見に従えというのでは矛盾です。一度は多数派なことが証明された﹁九州征伐﹂を尊重する気はないんですか?
●説得力のある議論があれば考え直して妥協もできるでしょうけど上に揚げたことの他にも総合的に考えて現時点で九州平定に賛成できません。論理的に考えて出した反対をブロックで排除して全会一致を強制的に作るようなことがないことを震えながら祈ります。もーほんと怖いんですよ!
●CalveroさんやClimaScienceさんの解釈の仕方はだいたいわかりましたがCalveroさんが考えるように私が思わないこともあるんです。他人の考え方が強要されるのがウィキペディアの議論ですか?﹁××の場合もある﹂﹁××と言えなくともない﹂﹁××と解釈できる﹂という肯定例を摘出するだけでは説得力に欠けます。一面だけ見て解釈せずに裏も表も読む必要があるのではないですか?過去の議論も参照して総合的に見てください。﹁記事が1586年から1587年の期間を中心としているのに九州平定が1587年5月8日に焦点を当てた言葉である﹂という欠点に変わりはないでしょう。ただの1587年5月8日をしおりに使っただけの九州平定が全記事を表していないのは読めば分かるはずです。それが今のところの結論です。--ラヒーム︵会話︶ 2012年10月9日 (火) 08:44 (UTC)
●ClimaScienceさんの解釈した反論もおかしなところだらけに思えます。私は別に私の考えに従えとは強要しませんが。
●﹁1578年から九州平定﹂ではなく﹁1578年が九州平定﹂でしょう。誘導は良くないです。
●﹁九州平定が﹃なり﹄ました。﹂を読めば 平定成立=なり=降伏 です。成る成らぬで平定不成立の時期は平定から外れます。
●﹁九州平定直後﹂が﹁六月十九日﹂ですからこの平定成立は島津降伏の5月8日ですね。
●﹁天正15年︵1587年︶九州平定。﹂を素直に読みましょう。
●﹁天正15(1587)年、九州を平定した秀吉﹂を素直に読みましょう。
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●翌、天正15年︵1587︶の豊臣秀吉の九州征伐により、島津氏は敗れ九州は平定され﹂この平定は島津が敗れた時点を指しています。この征伐は5月8日の平定成立以前を指しています。
●﹁1587年に、秀吉の九州征伐﹂端折らないで肝心なところまで全部読みましょう﹁1587年に、秀吉の九州征伐で案内役を務めた﹂とありますから案内役を務めた時点がこの征伐に該当します。この征伐は5月8日の平定成立以前を指しています。
●﹁天正14年の九州平定軍﹂平定軍は平定ではありませんよ。平定のどれでもいいらしいので平定軍に改名することも視野に入れた提案ですか?ますますあやふやな改名案のようです。
●﹁領土拡張のための九州平定という考えがあった﹂この平定は5月8日以降の状態を示す言葉です。
●﹁豊臣秀吉が天正15年(1587)に行った島津氏平定の戦いである九州征伐﹂よく読みましょう。この征伐は1587年も示していますが1586年は除外していません。注目すべきは 平定の戦い=九州征伐 であることです。それ以降が平定です。
●﹁1587年、九州征伐にやってきた豊臣秀吉﹂この征伐は1586年を除外する使い方ではない。1587年も征伐であることを示す言葉。
以上のことから妥当性が何処にあるのか明らかになりました。<パターン0><パターン1><パターン2>という分類についても平定に固執して一面ばかりを見ないでください。今回の証明のように対象の全文を読んで目的語や時限的な使い方やをよく検討すれは私の主張が良く理解できるはずです。過去に出た出典を読むことも大事です。
とはいえ、私もClimaScienceさんが一部征伐を認めているように平定案を全否定しているわけではありません。記事と同じことを表している平定もあるでしょう、しかし全体を見れば平定成立のタイミングを焦点とした使い方ばかりですから記事と異なり賛成できないのです。総合的な判断から征伐が勝っているように思います。もっとじっくり議論を戦わせるなら過去ログも読んでほしいです。--ラヒーム︵会話︶ 2012年10月9日 (火) 08:44 (UTC)
Wikipedia:投稿ブロック依頼/ラヒームを提出しました。--みっち︵会話︶ 2012年10月12日 (金) 23:24 (UTC)
投票を取り下げて依頼に応じた一々議論に応じているのになんで私がブロックされないといけないんでしょうか?人はそれぞれに考えをもっているんです。それを自分の考えだけをごり押しして反対されたらブロックなんですか?平定の問題点はいろいろ指摘してきましたが全然改善に向かっていなかったり着手さえもしていませんよね?--ラヒーム︵会話︶ 2012年10月14日 (日) 02:39 (UTC)
●﹁九州征伐﹂候補に賛成しておきます。論理でなく数に物を言わせるような論調があるようですね。﹁九州平定﹂は候補が絞られていない、今の九州平定をどうするのかノート:九州平定で合意が得られていない。このような調整不足な段階で強引にブロックに持っていき、沈黙させるようなやり方の議論はよくないと思います。今の﹁九州平定﹂候補案は杜撰ですから反対です。--鳥羽三二江︵会話︶ 2012年10月14日 (日) 00:51 (UTC)
コメント
●﹁態度を変えた﹂との事ですが、実態をともなわない主張・相手のコメント内容を無視した主張が余りにも多く、おつきあいさせられる側の徒労が多すぎます。機械的に置き換えられた用語も未だ復旧していない状態です。︵続く﹁議論による解決については…欠点があったりと。 ﹂の一文は、文章として成り立っていないのでコメントを避けます︶
●︵wikipedia上で︶﹁多数派だから従え﹂とは言っておらず、ラヒーム様の論拠が問題にされています。︵なお先述のように、現役研究者の使用用語が伺える科研検索では﹁平定﹂が多数派であることは述べています。︶
●﹁一度は多数派なことが証明された﹁九州征伐﹂とのことですが、当時は﹁平定﹂案が除かれた中での投票であったことを既にみっち様が指摘しています。
●以下、ラヒーム様は﹁平定﹂の意味を独自に決められた上での話をされています、その定義の根拠を問うても、﹁5月8日だけが平定である﹂とのラヒーム様独自の定義にあわせるための強引な文意解釈をされるのみで、未だに独自解釈、循環論法の域を出ていません。みっち様の言うところの﹁トートロジー﹂に陥っています。﹁論議﹂だと認識されている方もいるようですが、これでは話になりません。
なお、﹁九州平定﹂内の候補︵表記やリンクの手法︶については、続く論議で決めればよいことでしょう。--ClimaScience︵会話︶ 2012年10月14日 (日) 14:12 (UTC)
報告 ラヒーム氏はWikipedia:投稿ブロック依頼/ラヒームにより,無期限ブロックとなりました。--かげろん︵会話︶ 2012年10月20日 (土) 11:24 (UTC)
再まとめ
ラヒームさんの無期限ブロックを受けて再提案します。本仕切り直しの議論については﹁九州平定﹂で合意されたと見なしてよろしいでしょうか。また、当面する項目名として﹁豊臣秀吉の九州平定﹂を提案させていただいたところですが、現在までとくに反応頂けていません。もしこれでよろしければ、記事本文の具体的な書き出しを考えたいと思います。同時に、ご異議なければ移動保護の解除について申請します。なお、既設の﹁九州平定﹂への直接改名については、同ページとの兼ね合いがあるためこの場では結論を出さず、本議論終了後に別途再調整ということでお願いしたいと思います。--みっち︵会話︶ 2012年10月21日 (日) 02:23 (UTC)
コメント ﹁九州平定﹂を採用することで大枠の合意は成立したと判断してよいと思います。それでいよいよ細部の詰めに入るわけですが,一般的な知名度を考慮していただきたいと思っています。ルール上はWikipedia:曖昧さ回避#代表的なトピックを中心とする曖昧さ回避に則って処理するべきでしょう。日本史を大学以降で専門に学ばれた場合は別かもしれませんが,高校日本史までの段階で﹁九州平定﹂の語を用いるのは豊臣秀吉のものだけです。一般的な知名度を加味すれば,﹁豊臣秀吉の﹂を付けることは蛇足であると思います。既存の﹁九州平定﹂に影響がないようにするという制限が付けるのであれば,括弧つきで処理せざるを得ないでしょうが,一般的な知名度を考えれば向こうの記事を括弧つきに移動させる方が望ましいのですが。--かげろん︵会話︶ 2012年10月21日 (日) 05:24 (UTC)
すでに明らかにしているように、私自身はいくつかある﹁九州平定﹂への着地方法はどれでもかまわないと思っていますが、本ノートで解決できる現実的な案として﹁豊臣秀吉の九州平定﹂を提案しています。﹁豊臣秀吉の﹂は蛇足かもしれませんが、間違いではないしあって困るものでもないので、これで折り合えないかということです。
﹁九州平定﹂についてももちろん反対しませんが、かげろんさんがいわれるように現在の﹁九州平定﹂を曖昧さ回避とするためには、あちらで提起して合意を得ることが必要であり、ここでいくらやりあっても始まりませんから、提起していただけませんか?
私としては、どちらを曖昧さ回避とすべきかという点ではとくに意見を持っておらず、曖昧さ回避の決着が付くまでこちらを宙ぶらりんにするより、一致できるところで移動保護解除して改名した方がいいのではないか、ということです。--みっち︵会話︶ 2012年10月22日 (月) 10:49 (UTC)
コメント 議論場所はこちらで向こうの記事名もまとめて議論するという方向でいいでしょうか。こっちはこっち,向こうは向こうという議論になるのもなんですので。向こうを括弧つきで改名する場合,括弧内の用語候補をある程度絞ってから提案するか,提案するだけ先にしてしまうか悩ましいところです。--かげろん︵会話︶ 2012年10月22日 (月) 12:40 (UTC)
報告
提案 九州平定の方に,改名の告知を行ってきました。議論はこちらでまとめて行いたい旨も記しています。これからの詰めの議論ですが,九州平定の主筆者であるGreenland4さん︵旧Chokorinさん︶にも議論に参加していただいた方がいいように思いますが,いかがでしょうか。--かげろん︵会話︶ 2012年10月22日 (月) 13:14 (UTC)
わかりました。Greenland4さんに合意いただければベストでしょう。しかし、現状では参加制限に引っかかるため、下に節を設けて以降の議論からは撤収いただいた方々にも参加いただけるようにしましょう。なお、自主的に協力いただいた方もいらっしゃるとはいえ、こちらの都合で参加制限を解くからにはそれなりのけじめが必要ですから、言い出しっぺの私としては議論から撤収します。それでよろしければ、あとはお願いします。--みっち︵会話︶ 2012年10月24日 (水) 11:57 (UTC)
「九州平定」との調整
ここからの議論は、別記事として立てられている九州平定との項目名の調整を図ります。﹁九州平定﹂とそれに類する項目名以外は考慮しません。また、これまで撤収いただくとしていた、本ノート及びノート:九州の役の過去ログで計10回以上の編集実績がある利用者についても今後は議論参加可能とします。
﹁九州平定﹂については、すでに別記事が立てられているため、別記事はそのままにして本記事の項目名を工夫あるいは曖昧さ回避とする、逆に本記事を﹁九州平定﹂として別記事を曖昧さ回避とする、という大きく二つの考え方が出されています。
前者は、現﹁九州平定﹂を親記事、本記事を子記事と見るもので、以下の案があります。
(一)本記事を﹁豊臣秀吉の九州平定﹂とする。
(二)本記事を﹁九州平定 (豊臣秀吉)﹂とする。
(三)本記事を﹁九州平定 (安土桃山時代)﹂とする。
(四)本記事を﹁九州平定 (1586年-1587年)﹂とする。
後者は、本記事を代表的なトピックとして﹁九州平定﹂とし、別記事を曖昧さ回避とする考え方で、以下の案が示されています。
(一)現﹁九州平定﹂を﹁九州平定 (日本史)﹂とする。
(二)現﹁九州平定﹂を﹁九州平定 (通史)﹂とする。
以上について、ご意見をお願いします。私自身は﹁豊臣秀吉の九州平定﹂を推します。これは簡明かつ別記事に影響させないで対処できることと、これまでの議論で中根東竜さんからもご支持いただいていることによるものですが、他の案にも反対しません。--みっち︵会話︶ 2012年10月24日 (水) 11:57 (UTC)
コメント まず、具体的な問題点がある案として、九州平定 (日本史) は、日本史以外の九州平定があることを暗に示しており、混乱を引き起こすので、候補から外すべきでしょう。
次に、そもそも、現九州平定で述べられている﹁源範頼の九州平定﹂﹁南北朝時代の九州制圧戦﹂﹁今川貞世の九州平定﹂﹁島津氏の九州統一事業﹂﹁秀吉死後の九州の平定﹂について、﹁九州平定﹂とする出典はあるのでしょうか。これらを総合的に、あるいはそれぞれについて、﹁九州平定﹂とする出典が挙げられないのであれば、そもそも記事名に﹁九州平定﹂を使うこと自体が問題になります。--Greeneyes︵会話︶ 2012年10月24日 (水) 13:40 (UTC)
コメント ﹁(日本史)﹂の付記を提唱しているのは,Wikipedia:曖昧さ回避#代表的なトピックを中心とする曖昧さ回避に﹁その﹁項目名﹂で最も代表的だと考えられるトピックにその名前を割り当て、それ以外のものを﹁項目名 (分野)﹂にします。﹂と記されています。この原則から分野名に適する語は何かと考えれば﹁日本史﹂を選択するのが最も妥当ではないかと思い,そう提案しています。あと,悩ましい例として﹁九州平定﹂の用語が日本神話の分野︵Googleブック検索︶で登場することがあります。--かげろん︵会話︶ 2012年10月26日 (金) 14:22 (UTC)
コメントみっちさん、かげろんさんはじめ皆様には御迷惑をおかけして申し訳なく思います。お声をかけていただきましたので、自分の所論を申し述べます。自分としては、秀吉の九州侵攻戦の結果、秀吉による九州平定が成立し、その具体的な成果として秀吉による九州地方の大名配置︵すなわち﹁九州国分﹂︶がなされたというふうに一連の歴史事象を理解しています。したがって、本記事を﹁九州平定﹂とするのであれば、題意からして﹁九州国分﹂と統合した方がよいと思います︵そうでないと﹁九州平定﹂のすべてを説明したことにならないと思います︶。したがって、﹁九州国分﹂との統合が合意されたのであれば、﹁九州平定﹂への改名には賛成ですし、記事統合にも協力いたします。そのうえでの話ですが、上の6つの案のなかでは、﹁九州平定 (豊臣秀吉)﹂の案が一番よいと思います。検索を考えると、﹁九州﹂の語が先にくる方が見つけやすいと思いますし、﹁九州平定 (安土桃山時代)﹂や﹁九州平定 (1586年-1587年)﹂よりは、豊臣政権の大名配置︵九州国分︶も含意するものと理解されやすいからです。--Greenland4︵会話︶ 2012年10月27日 (土) 01:06 (UTC)
コメント こちらへの議論のご参加,感謝します。﹁九州国分﹂の本項目への統合についてですが,それで合意が得られるなら私は賛成します︵そもそも﹁九州国分﹂の立項もGreenland4さんによるものですから,統合提案も有意な反対は出ないのではないかと楽観的に考えたいです︶。ただし,こちらの記事のサイズが57kbほどになっています。サイズ的に分割したほうがいいという状況になれば,﹁九州国分﹂の大まかな概要をこちらに書いて,詳細説明を子記事の既存の﹁九州国分﹂の項目に割り当てるという方策もご検討いただければと思います。あとは,Greeneyesさんの出典に関する疑問にお答えいただけると助かります。--かげろん︵会話︶ 2012年10月27日 (土) 06:34 (UTC)
コメント島津氏、今川了俊、懐良親王に関しては﹁九州平定﹂の語は概説書や通史で普通に使われていたはずだと思います。現実に彼らのやろうとしたこと、やったことは﹁九州平定﹂ですから。源範頼については、それこそGoogleブック検索では﹁皆無ではない﹂というレベルであり、あまり使われませんね。範頼に関しては簡素化するなり、大幅に削除してもよいかもしれません。--Greenland4︵会話︶ 2012年10月28日 (日) 02:18 (UTC)
コメント Greeneyesさんからのレスポンスがない状態ですが,一応,島津氏,今川了俊,懐良親王に九州平定の用語を用いている書籍名を具体的に数例挙げていただけると助かります。--かげろん︵会話︶ 2012年11月2日 (金) 14:41 (UTC)
コメント 実際に使われるのであれば、この件は問題ないでしょう。もちろん、具体例を挙げていただければなお好ましいです。
そうした資料では、秀吉の九州平定は日本史上いくつかあった九州平定の1つという位置づけになっていることが予想されますが、そうならば、この記事を九州平定とすべきではないです。さらに、通史的な九州平定に関する資料の中では秀吉の九州平定が単に九州平定と呼ばれることはないでしょうから、同名物を区別するための括弧による曖昧さ回避にはそぐわず、豊臣秀吉の九州平定が好ましいでしょう。
ただしそうではなく、九州平定とはもともと秀吉の九州平定のことであり、通史的な九州平定に関する資料の中でも秀吉の九州平定を単に九州平定と呼ぶことがありうるということなら、逆に、この記事を九州平定とし、現九州平定を移動するほうがいいでしょう。
︵もちろん実際には、このどちらのケースかはっきりするとは限らず、どちらかといえば……的な話になるでしょうが︶
ところで﹁(日本史)﹂は﹁分野名﹂であるとのことですが、秀吉の九州平定も日本史なので、曖昧さ回避のための分野名としては不適格でしょう。--Greeneyes︵会話︶ 2012年11月4日 (日) 17:22 (UTC)
コメント たしかに,日本史を深く学習した人にとっては,秀吉の九州平定もいくつかあった九州平定の1つであるでしょうが,そうでない人にとっては,九州平定はほぼ秀吉のものに限定されますよ。例えば,高校日本史の教科用図書では﹁豊臣秀吉の九州平定﹂なんていう用語では学習しません。単に太字語句として記述されている﹁九州平定﹂として学習します。一般的な認知度もぜひ考慮していただきたいという意味で﹁豊臣秀吉の九州平定﹂という項目名には反対です。次に,分野名の件ですが,﹁日本史以外の九州平定があることを暗に示しており~﹂というご意見は,いくらなんでも穿った物の見方でしょう。もっと単純に考えていただきたいです。日本史全般の﹁九州平定﹂について取り上げているわけですから,﹁︵日本史︶﹂という分野書きで問題はないと思いますが。--かげろん︵会話︶ 2012年11月5日 (月) 00:41 (UTC)
コメント 本項を﹁九州平定﹂とすることに合意いたします。現行の九州平定については、﹁何が九州平定と呼ばれ、何が九州平定と呼ばれていないか﹂をもう一度精査した上で、必要であれば各時代の戦いへ転記して、残りを必要であれば本項の冒頭に、こういうのもあります、というかたちで書けば良いのではないでしょうか?--貫鉄︵会話︶ 2012年11月10日 (土) 10:51 (UTC)
︵コメント︶秀吉の九州征伐が良いと思います。理由は九州を本当に平定したのはほぼ島津で、その島津を大兵力で降伏させて日本統一を果したのが太閤さんだからです。﹁征伐﹂がいいと思う理由は1586年太政大臣となった秀吉は、いわば朝廷のご名代。それに逆らっては島津氏も逆賊といわれても仕方ないでしょう。わたくしは九州平定というと、日本書紀の時代であると思ってしまいます。以後は日本の国ですから平定はちよっとヘンなな気がいたします。どちらにしても﹁秀吉の﹂とつけたく思います。でなければ、﹁豊臣秀吉の九州平定﹂とする、みっちさんに賛成です。--HASIDATE︵会話︶ 2012年11月11日 (日) 16:55 (UTC)
コメント すでに上で,この項目名に﹁九州平定﹂を使用することは合意済みです。ここでは,既存の九州平定とこの記事の項目名の調整を行っている段階です。今さら,﹁九州征伐﹂を持ち出して話を蒸し返すのは,はっきり申し上げて迷惑です。--かげろん︵会話︶ 2012年11月12日 (月) 02:17 (UTC)
︵コメント︶前段は私の意見です。大義名分論からは九州征伐が正しい表現です。しかし、それが廃れた現代では﹁征伐﹂は﹁誰が誰を征伐?﹂と多くの人に奇異に思えるから﹁九州平定﹂でよいでしょう。これは、無視していただいて結構です。
>本項を﹁九州平定﹂とすることに合意いたします。が貫鉄さまの個人としての意見ではなく、皆さまが>本記事を代表的なトピックとして﹁九州平定﹂とし、別記事を曖昧さ回避とする考え方で﹁合意いたしました﹂ということならそれもそれで結構です。でなければ、現﹁九州平定﹂を親記事、本記事を子記事と見て﹁豊臣秀吉の︵秀吉の︶九州平定﹂とする、みっちさんに賛成です。--HASIDATE︵会話︶ 2012年11月12日 (月) 17:10 (UTC)
コメント 本記事を﹁九州平定﹂にし、現九州平定を﹁九州平定 (日本史)﹂とすることに賛成します。かげろんさんのご提案内容は曖昧さ回避のルールにのっとっており、問題ないと思います。日本史事典で単独項目されていることなどからも、一般的に﹁九州平定﹂は秀吉の九州平定を指すものと思いますし、読者の利益にかなった改名ではないかと考えます。なお﹁九州国分﹂との統合にも賛成します。--ぽん吉︵会話︶ 2012年11月13日 (火) 04:01 (UTC)
議論実績のある人も書けるとのことなので意見を書きます。本記事を﹁九州平定﹂にし、現九州平定を﹁九州平定 (日本史)﹂とする合意案には賛成いたします。﹁九州平定 (日本史)﹂の名前はまだ議論の余地がありそうですが、基本的な枠組みはこれで良いと思います。--明銘︵会話︶ 2012年11月17日 (土) 07:26 (UTC)
上記議論の結果投票になった場合は、この節で候補を抽出します。同時に、各候補の出典、メリット・デメリットを簡潔にわかりやすく整理します。
以下に、過去ログで出典とされたものを候補ごと、発表年順に列記します。年数が不明なものは後にしています。専門書、論文、一般書などに分類した方がより参考にしやすいかと思いますが、私にはうまくできないので、どなたかできる方がいらっしゃったらお願いします。--みっち︵会話︶ 2012年7月31日 (火) 11:11 (UTC)
分類・加筆させていただきました。なお、私が目を通していないもの、著者名などから判断せざるを得なかったものがありますので、分類が誤っておりましたら修正して頂ければ幸いです。
尚、分類については以下のように致しました。
史料…古文書・軍記物など
専門書…歴史学者・戦史研究家の手による、記述が専門的な単著もしくは事典で、書店で入手可能であったもの、事典の場合は執筆担当者が明確で研究業績として記載できるレベルのもの
論文…歴史学者によって学術発表されたもの
概説書…歴史学者・歴史作家の手による、歴史事実を平易に噛み砕いて述べたもの及び、一般的な歴史辞典、歴史雑誌で執筆担当者が明確で研究業績として記載できるレベルのもの
辞書…歴史の専門事典ではない、国語辞典・百科事典の類
一般書…それ以外のもの、教科書の副読本、興味本位の雑誌など
なお、ややこしいことですが、出典の分類加筆を行なっている時に幾つか疑問を発見しました。
﹁九州の役﹂という表記は出典調査をした﹃日本戦史﹄﹃朝鮮役における水軍編成について﹄にはそもそも存在せず、﹁九州役﹂という表記になっていたようです。戦後の﹃日本戦史﹄復刊時、﹁九州の役﹂という表記が出現したのですが、学界ではその後も﹁九州役﹂という表記が残っています。三鬼論文・毛利論考はいずれも﹁九州役﹂のようです。
この辺りの字揺れは過去において問題になったことがあったのでしょうか?
また、九州征伐の出典になっている﹃南海治乱記﹄には、ざっと見たところ﹁九州征伐﹂なる表記は見当たらないようです。私が見た﹁近代デジタルライブラリー﹂の大正2年の香川新報社刊本には、﹁筑紫征伐﹂とあり、九州征伐なる表記は見当たりません。伊井春樹氏の現代語訳の解説部分にのみ﹁九州征伐﹂とあるようです。
--中根東竜︵会話︶ 2012年9月1日 (土) 14:01 (UTC)
九州の役(九州役)
出典:
専門書:『日本戦史 小牧・九州・小田原の役』(参謀本部編、元真社、1903年。刊行時表記は「九州役」。なお、1965年の現代語訳による復刻版に、追記として桑田忠親「概説」の見出しに「九州の役」表記がある)、『大日本戦史 第4巻』(桑田忠親、1942)
論文:『朝鮮役における水軍編成について』(三鬼清一郎、名古屋大学文学部二十周年記念論集. 1969)
本文中表記は「九州役」
概説書:『天下一統』(熱田公、集英社<日本の歴史11>1992)
一般書:『九州役の陣立書』(毛利亮太郎、新人物往来社『歴史研究434号』所収論考.1997)
九州征伐
出典:
専門書:『国史大辞典』(執筆担当・今井林太郎、吉川弘文館、1983)、『豊臣秀吉事典』(杉山博他編・新人物往来社、2007)、『原本現代訳・南海治乱記』(香西成資[1632生まれ・没年未詳]原著、伊井春樹訳・解説、教育社、1981、原文には「九州征伐」の表記なく、解説部分に登場)
概説書:『日本の合戦 豊臣秀吉』(桑田忠親、新人物往来社、1978、「九州征伐」表記出現は3例)、『47都道府県「戦国武将」事典』(泉秀樹、PHP文庫、2012)、『日本史小辞典』(山川出版社)
辞書:『万有百科大辞典』(小学館、1973)、『大辞泉』(小学館、1998)、『大辞林』(小学館、2006)
一般書:『豊臣島津九州征伐』(松林伯知他、今古堂、1891年、講談速記か)、『豊臣時代史』(明治書院、1925)、『豊臣秀吉と天下統一』(双葉社、2008)、『図解戦国史』(成美堂出版、2009)、『クイズ大人の日本史221』(PHP文庫)、『学習漫画日本の歴史』(集英社)、『逆転の日本史 つくられた「秀吉神話」』(洋泉社)
九州平定
出典‥
専門書‥﹃豊臣秀吉事典﹄︵杉山博他編・新人物往来社、2007︶
概説書‥﹃岩波日本史事典﹄︵岩波書店、1999︶、﹃日本歴史大事典﹄︵小学館、2000︶、﹃日本の合戦 豊臣秀吉﹄︵桑田忠親、新人物往来社、1978、﹁九州平定﹂表記出現は3例︶、﹃日本全史﹄︵講談社、1991︶、﹃天下一統﹄︵熱田公、集英社<日本の歴史11>1992。ただし、ここでは﹁九州の役﹂の結果として﹁九州平定﹂が用いられている。︶、﹃戦国合戦大全 下巻﹄︵執筆担当・高橋義夫、学習研究社<歴史群像シリーズ>1997︶、﹃福岡県の歴史﹄︵梶原良則、山川出版社、1997︶、﹃大分県の歴史﹄︵豊田寛三、山川出版社、1998︶、﹃佐賀県の歴史﹄︵宮島敬一、山川出版社、1998︶、﹃熊本県の歴史﹄︵松本寿三郎、1999︶
一般書‥﹃詳解日本史用語事典﹄︵三省堂、2003︶、﹃最新日本史教授資料﹄︵明成社、2003︶、﹃街道の日本史51火の国と不知火海﹄︵松本寿三郎・吉村豊雄、2005︶、﹃入門講座 安土・桃山の茶(39)九州平定﹄︵田中仙堂、2006︶、﹃小学社会科事典﹄︵旺文社︶、﹃資料カラー歴史﹄︵浜島書店︶、この他、九州各県の公式webページで頻出する。
九州攻め
出典:
概説書:『角川新版日本史事典』(角川書店、1997)、『日本史広辞典』(山川出版社 1997)、『日本史小事典』(山川出版、2001)、『日本史事典』(平凡社、2001)、『秀吉の天下統一戦争』(小和田哲男、吉川弘文館<戦争の日本史15>2006)
九州出兵
出典:
概説書:『織豊政権と江戸幕府』(池上裕子、講談社<日本の歴史15>2002)、『日本中世史事典』(朝倉書店、2008)
九州征討
出典:
概説書:『日本重要戦乱事件事典』(教育社、1988)、『日本史事典』(旺文社、2000)
九州の陣
出典:
概説書:『戦国史事典』(秋田書店、1980)
九州派兵
出典:
概説書:『図説・戦国合戦集』(学研)
九州征服
出典:
概説書:『クロニック戦国全史』(講談社、1995)
九州遠征
出典:
概説書:『戦国合戦大全 下巻』(執筆担当・高橋義夫、学習研究社<歴史群像シリーズ>1997)、『鹿児島県の歴史』(日隈正守、山川出版社、1999)
九州侵攻
出典:『宮崎県の歴史』(大賀郁夫、山川出版社、1998)
島津征伐
出典:
概説書:『島津征伐と本願寺光佐』(百雲道昭、1974年)
島津攻め
出典:
概説書:『朝日百科日本の歴史』(朝日新聞社、2005)
ステップ2
このステップでは調査投票によって候補の支持状況を明らかにしつつ、決選投票に向けて候補を絞り込みます。投票については一利用者につき複数の候補への投票を認め、合意形成のためにコメントを推奨します。投票結果から上位2候補を選び、2位までに票数が同じ2つ以上の候補がある場合は同着として決選投票に進みます。ただし、この段階で過半数の支持を得た候補があった場合はその候補をもって決着とし、次のステップには進みません。
提案 両論並立で話し合いでは埒が開かないので投票で多数を取った候補に改名することを提案します。これは以前にも合意のあった解決法です。合意をなかったことにするのなら、それなりの理由と別の合意が必要でしょう。--ラヒーム︵会話︶ 2012年9月10日 (月) 09:09 (UTC)
確認投票提案から一週間が過ぎましたが、提案に反対意見はつきませんでした。ウィキペティアにおける通常の合意形成基準はクリアしたものとみなします。--ラヒーム︵会話︶
●
提案 それでは具体的な投票条件について話し合いたいと思います。私は管理者投票に準じる条件を提案します。比較表については以前の物を流用して投票までに候補の追加や差し替え内容の修正をすればいいと思います。--ラヒーム︵会話︶
賛成 --ラヒーム︵会話︶ 2012年9月21日 (金) 09:45 (UTC)この合意形成提案に反対票を表明する人がいませんが一応。
●2012年9月19日 (水) 08:47時点[18]で投票解決の合意提案を出していますが反対意見はついていません。提案に反対なら2012年9月24日 (月) 08:49 (UTC)から一週間以内に意見を提出してください。ただし反対なら投票以上に長引かない解決手段を提案してほしいですね。--ラヒーム︵会話︶ 2012年9月24日 (月) 08:49 (UTC)
反対 ステップ0で投票移行への合意は得られていないので,現時点での投票は反対します。ステップ0で投票移行で合意を得てからにしてください。--かげろん︵会話︶ 2012年9月24日 (月) 11:44 (UTC)
反対 現状、ステップ0で議論しています。他の参加者もステップ0にて議論すべきとしていることが、上記コメント群を見れば分かります。--ClimaScience︵会話︶ 2012年9月24日 (月) 13:59 (UTC)
反対 ステップ0で述べているように、お話になりません。またこのステップ2は、斜体で明記しているように、投票の手続きに入った後の節ですから提案する場所が違います。あとから参加する方はわけがわからなくなりますので、このようなやり方はご遠慮下さい。同様に、ラヒームさんが過去ログからコピペされた各論比較は3項目しかなく今回の議論には不適合であり、この表自体がすでに過去ログでも﹁見づらい﹂という指摘があったものです。ステップ1の節に各候補を抽出しており、過去ログの内容で活かせるものはそちらに活かすことにしていることからも、混乱の原因となるだけのコピペの除去を提案します。--みっち︵会話︶ 2012年9月28日 (金) 10:34 (UTC)
●反対する者の意見に耳を傾けずに議論から排除する方法に反対します。投票以外でこの議論をいつごろまでにどのように解決するつもりか。何年も議論をするつもりでないなら展望のある説明をしてください。--ラヒーム︵会話︶ 2012年10月1日 (月) 08:56 (UTC)
改名提案の各論比較
過去の比較表を利用して投票のために利用しましょう。--ラヒーム(会話) 2012年9月19日 (水) 08:57 (UTC)
改名候補比較表 (p=:肯定的意見、n=批判的意見)
番号
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評価要素
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A.九州の役
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B.九州攻め
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C.九州征伐
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11
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日本語話者の大多数にとって、最も曖昧でなく、最も理解しやすいもの[1] (→他項へ統合)
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12
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その記事へのリンクを作成しやすいもの[2] (→下22項へ統合)
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21
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認知度が高い[3] (出典で最も一般的、主題表現で最も著名)
|
- (p)1.史学的な書籍名・論文名に採用されている。記事主題を表す場合に多用されている。
- (n)1.書籍・事典類での使用例が少ない。
|
- (p)1.書籍・事典類で多用されている。
- (n)1.記事主題でなく、主体者の行為の意味で多用されている。主題を表現する史学的な書籍名・論文名に採用が少ない。
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- (p)1.書籍・事典類で多用されている。
- (n)1.記事主題でなく、主体者の行為の意味で多用されている。主題を表現する史学的な書籍名・論文名に採用されていない。
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22
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見つけやすい[4] (リンクしやすい)
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- (p)1.主題と同じ戦争名称なので各勢力からのリンクに制約なし。
- (n)1.
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- (p)1.各勢力からのリンクに制約なし。
- (n)1.披攻撃側・第三極の行動表現でのリンクに不適。
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- (p)1.各勢力からのリンクに制約なし。
- (n)1.披攻撃側・第三極の行動表現でのリンクに不適。
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曖昧でない[5] (的確である)
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- (p)1.公刊戦史で命名された固有名詞である。
- (n)1.
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- (p)1.
- (n)1.異なる複数の九州攻めがある。2.戦争名称として代名詞。
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- (p)1.戦争名称・政治事象双方の意味を持っている。
- (n)1.異なる複数の九州征伐がある。2.戦争名称として代名詞。
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簡潔[6] (短く要点を突いている)
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- (p)1.
- (n)1.主語が省略されている。用例の多くは「豊臣秀吉の」や「豊臣政権の」の主体者の主語が省略された略語である。
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- (p)1.固有名詞である。
- (n)1.主語が省略されている。用例の多くは「豊臣秀吉の」や「豊臣政権の」の主体者の主語が省略された略語である。
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首尾一貫している[7] (類似記事の傾向)
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- (p)1.現状、三韓征伐、武田征伐、紀州征伐、会津征伐がある。
- (n)1.現状の非採用として「奥州征伐」、「四国征伐」、「小田原征伐」、「朝鮮征伐」、「琉球征伐」、「長州征伐」がある。
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31
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信頼できる情報源における慣例[8] (→他項へ統合)
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正式な名称を使うこと[9]
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- (p)1.公刊戦史によって命名された戦争名称。公刊戦史で命名された固有名詞である。[10]
- (n)1.書籍・事典類での使用例が少ない。
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- (p)1.書籍・事典類で多用されている。
- (n)1.ただし、戦争名称でなく秀吉の行為としての用例が殆ど。
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- (p)1.書籍・事典類で多用されている。
- (n)1.最近の書籍・事典・教科書では使用しない傾向。戦争名称でなく秀吉の行為としての用例が殆ど。
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41
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出来る限り一般的に知られており通用しやすい(歴史的事件の慣例)[11] (→他項へ統合)
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51
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中立的な用語[12]
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- (p)1.政権側視点であり、歴史学上異質ではない(例:長州征伐)。
- (n)1.一方視点の用語。
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番号
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出典、その他
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A.九州の役
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B.九州攻め
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C.九州征伐
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61
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主題の専門書名
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- 1.『日本戦史 九州役』参謀本部編[13]
- 2.『日本の戦史4 小牧・九州・小田原の役』(現代語訳)旧参謀本部編 [14]
- 3.『日本戦史13 九州役』(復刻)参謀本部編[15]
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- 1. 「豊臣島津九州征伐」 松林伯知[16]
- 2. 「九州征伐薩摩攻」 神田伯龍[17]
- 3. 「九州征伐」 神田伯竜[18]
- (神田伯龍は講談神田派の名人の著作であり、娯楽作品。史学分野の専門書籍ではない。同じく松林伯知も講釈師で非専門書)
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62
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主題の論文・専門書小題
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- (↓戦争名称としての用法か?)
- 1.「九州停戦令と九州攻め」小和田哲男(戦争名称としての用法か?)[22]
- 2.「秀吉の九州攻めと北九州の城」小和田哲男[23]
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- 1. 第二編第十二章 「九州征伐」 渡辺世祐[24]
- 2. 第十五章「九州征伐」 田中義成 [25]
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主題の辞典類項目
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71
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その他1
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72
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その他2
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脚注
投票要綱4
管理者投票と同程度の投票条件を提案します。--ラヒーム(会話) 2012年9月19日 (水) 09:04 (UTC)
投票の主題
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現「九州の役」の改名
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投票場所
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ノート:九州の役#投票所3
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投票に先立つ議論
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投票者の資格
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投票資格は管理者投票に準じる。投票は次の条件を満たすログインユーザーに限られます(以下「有権者」)。
- 初めて編集した時から投票条件の合意時まで1か月以上を経過していること(1か月とは立候補が提起された時刻の前月同日同時刻を指します)
- その間、標準名前空間(記事名前空間)を50回以上編集し、投票条件の合意時から遡って直近1か月間の標準名前空間の編集回数が5回以上あること
- 標準名前空間の編集回数は、移動、保護、保護解除などの履歴を含め、利用者の投稿記録において標準名前空間の編集として表示されるもの全てを数えるものとします。
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投票期間
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投票候補の登録:投票資格者は投票条件の合意から一週間後まで#改名提案の各論比較を整備し、候補を登録できる。 合意されるべき投票結果に付随して「定義の変更」や「過去の版への巻き戻し」、「用語の排除や統一」の条件がある場合は、#改名提案の各論比較に登録期間に記載する。 投票期間:投票候補の登録が締め切られてから一週間(後日UTCで表示)。
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投票のルール
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- 投票候補は登録期間にエントリーされた候補とする。
- 支持する記事名の候補に一人一票を投票する。複数候補への投票は可とする。
- 最多得票を獲得した候補を記事名とする。同数の場合は現状維持とする。
- 投票終了から一年間は改名・改題の提案を禁止する。
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ステップ3
決選投票です。投票数最多の候補を項目名とします。利用者は候補のうちひとつだけ投票できます。票が同数の場合は、投票権を見直して再投票とします。
#「九州平定」との調整で議論されているようです。--Greeneyes(会話) 2012年10月24日 (水) 13:40 (UTC)