コンテンツにスキップ

前九年の役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
前九年の役(前九年合戦)
戦争
年月日永承6年(1051年ユリウス暦)) - 康平5年(1062年
場所陸奥国奥六郡
結果朝廷清原氏側の勝利
交戦勢力
朝廷
清原氏
安倍氏
指導者・指揮官
藤原登任
平繁成
源頼義
清原武則
安倍頼時
安倍貞任
安倍宗任
藤原経清
戦力
- -
前九年の役


[]


1051106291083-108712313

[]

[]


[ 1][ 2]

[]


11[]61051

710521053

阿久利川事件[編集]


410562使

婿


[]


510575退使調7

黄海の戦い[編集]


9112,000500

4000

[]


21059

51062

7





鹿鹿

婿









10,0003,000

[]


917

1[3]

[]


51217106311962251063327

102[4]

[]


3111調

[]


[5]


その他[編集]

  • 前九年の役に源氏軍に従軍していた長谷川五郎兵衛実義なる武将は芦ノ牧温泉に近い小谷(おや)という地で負傷して、その地に隠れて土着した。前九年の役から約100年後の治承年間に長谷川の子孫は黒川(現:会津若松市)で飴屋(現:長谷川五郎兵衛)を創業したと伝わっている[6]
  • 盛岡市の町名に「前九年」があるが、昭和初期に住民によって命名された、比較的新しい地名である。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 蝦夷のうち朝廷に帰服した陸奥俘囚の長であったとの見方が強い。また王朝国家時代に朝廷側に雇われた傭兵隊長である兵(つわもの)だったのではないかとの説や、東北地方の獣皮や砂金を大和朝廷に提供する交易の仲介者の役割があったとの説もある。『陸奥話記』の記述によれば、永承の頃(1046年-1052年)陸奥の国奥六郡の司に安倍頼良という者があり、祖父安倍忠頼の頃から「東夷酋長」として権勢を振るい諸村落を服従させ、国司をも恐れぬ程であった、とある。ただし、「東夷酋長」の話は『陸奥話記』でも広く知られた群書類従本には記されているものの、それよりも古い形態とみられる尊経閣文庫本には忠頼の名はなく、ただ頼良が「酋長」を自称したとしか記されていない。これに対して戸川点は『範国記』長元9年(1036年)12月22日条に陸奥権守に任命された「安倍忠好」を頼良の父とされる安倍忠良と同一人物であるとし、忠良(忠好)父子が都から陸奥に下向してそのまま京都に帰らずに奥六郡に土着して現地の蝦夷を従えたとする「中央貴族出身」説を唱えている[1][2]
  2. ^ この頃多賀国府の在庁官人で伊具・亘理地方の豪族でもある平永衡(伊具十郎)・藤原経清(亘理権大夫)も安倍頼良の女を娶りその勢力に加わった。

出典[編集]

  1. ^ 戸川点「前九年合戦と安倍氏」(初出:十世紀研究会 編『中世成立期の政治文化』(東京堂出版、1999年)/所収:戸川『平安時代の政治秩序』(同成社、2018年))
  2. ^ 戸川点「安倍氏と鳥海柵」(初出:『国際開発学研究』16巻2号(拓殖大学国際開発研究所、2017年)/所収:戸川『平安時代の政治秩序』(同成社、2018年))
  3. ^ 大矢邦宣「黄金の都、平泉 栄枯盛衰ものがたり」『芸術新潮』2011年10月号、31ページ
  4. ^ 古澤直人「謀叛に関わる勲功賞」『中世初期の〈謀叛〉と平治の乱』(吉川弘文館、2019年) ISBN 978-4-642-02953-7 P49-52.
  5. ^ 関、2006年、78-81ページ
  6. ^ 日本経済新聞2009年11月4日

[]


 1966

 2017

  ]1991ISBN 4121010418

  1993224-229ISBN 4-404-02025-2 C0021

  2006

 () 20163ISBN 978-4642064910

[]




 ()

 (NHK)

 - 

 - 

  - 

[]


JTEXTS [] 

 -