「フィレンツェ共和国」の版間の差分
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[[12世紀]]に[[マティルデ・ディ・カノッサ]]の死亡とともに、[[カノッサ家]]に統治されていた[[トスカーナ州|トスカーナ辺境伯領]]内で既にフィレンツェの人々らはコミュニティを結成しており、[[神聖ローマ帝国]]下の中で皇帝の力を弱めようと行動し始めた。そしてこのコミュニティがフィレンツェ共和国となった。一般的にマティルデが亡くなり、フィレンツェでコミュニティができた[[1115年]]をフィレンツェ共和国の建国年とする。 |
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独立して間もないフィレンツェ共和国は、経済面においては他国との貿易により瞬く間に発展した<ref>{{Cite web |title=What was the Florentine Republic? |url=https://www.circaproject.com/historytodayblog/what-was-the-florentine-republic |website=Circa Project |access-date=2023-03-29 |language=en-US}}</ref>。その結果、教会や宮殿の建設が進み、フィレンツェの人口増加につながった。しかし[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]がフィレンツェを獲得、その後フリードリヒ1世が死亡した際にトスカーナの侯爵家が領土を入手、[[1197年]]に神聖ローマ皇帝[[ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ6世]]がフィレンツェを奪還する中で、フィレンツェ共和国は力を強めていた。またそれを表すかのように、マティルデが以前作っていた城壁を拡張していた<ref name=":02">{{Cite web |title=About Florence, history of Florence |url=http://www.aboutflorence.com/history-of-Florence.html |website=www.aboutflorence.com |access-date=2023-03-29}}</ref>。
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一般的にマティルデが亡くなり、フィレンツェでコミュニティができた[[1115年]]をフィレンツェ共和国の建国年とする。 |
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=== 13世紀 === |
=== 13世紀 === |
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[[13世紀]] |
[[13世紀]]に[[共和制]]となる。当初は[[寡頭制|寡頭政治]]であったが、[[1216年]]から[[教皇派と皇帝派]]に社会が分かれた。この派閥抗争では教皇派が勝利したが、フィレンツェでは教皇派がさらに'''白党'''と'''黒党'''という2つの勢力に分かれた<ref name=":22">{{Cite web|和書 |title=フィレンツェ/フィレンツェ共和国 |url=https://www.y-history.net/appendix/wh0603_1-049.html |website=www.y-history.net |access-date=2023-03-29}}</ref>。ちなみに[[ダンテ・アリギエーリ]]は白党に入っており、渦中の重要人物だった。[[1244年]]からは白党が勝利し政治を行っていたが、その後[[1250年]]に黒党が政権を奪取。その後{{仮リンク|モンタペルティの戦い|en|Battle_of_Montaperti}}の後に皇帝派が教皇派自体に勝利するも、皇帝派は脆弱だったため[[教皇|ローマ教皇]][[クレメンス4世 (ローマ教皇)|クレメンス4世]]に仲裁を求めた。しかしクレメンス4世は教皇派を支持したため、教皇派は再度政権を獲得。﹁プリモ・ポポロ﹂︵第一次平民政府︶と呼ばれる時代に突入する<ref name=":03">{{Cite web |title=About Florence, history of Florence |url=http://www.aboutflorence.com/history-of-Florence.html |website=www.aboutflorence.com |access-date=2023-03-29}}</ref>。
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13世紀のフィレンツェ共和国 |
13世紀のフィレンツェ共和国では人口は増え続け、3万人に達した。増大した人口が貿易を支え、逆に貿易も増大した人口を支えた。建築では[[1252年]]に[[バルジェロ美術館|ポポロ宮殿]]等、[[1294年]]に着工された[[サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂]]を筆頭に、いくつかの新しい橋や教会が建設された。この時代の建物は、フィレンツェで最も優れた[[ゴシック建築]]の例として知られている。
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経済では |
経済では1252年に[[フローリン金貨]]が鋳造され、貿易で広く使われるようになる。金の含有量が一定で信頼性が高かったためフィレンツェ国外でも広く使用され、やがて[[ヨーロッパ]]と[[近東]]の共通通貨のひとつとなった。 |
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13世紀後半 |
13世紀後半にフィレンツェの経済力は頂点に達し、その成功は[[アルノルフォ・ディ・カンビオ]]の設計による[[ヴェッキオ宮殿]]の建設に反映された。[[1292年]]、フィレンツェの町は行政区に分割された。[[1293年]]、フィレンツェ共和国の憲法﹁正義の条例﹂が制定された<ref>{{Cite book |title=The Renaissance in Italy : a history |url=https://www.worldcat.org/oclc/1128195630 |date=2019 |location=Indianapolis |isbn=978-1-62466-820-3 |oclc=1128195630 |others=Gillian C. Bartlett |first=Kenneth R. |last=Bartlett}}</ref>。街の数々の豪華な[[宮殿]]は、繁栄し続ける商人階級が建てた[[タウンハウス]]に囲まれるようになっていった<ref name=":22" />。[[1298年]]にはヨーロッパ有数の銀行家[[シエーナ|シエナ]]のボンシニョーリ家が破産し、シエナはヨーロッパ有数の銀行センターとしての地位をフィレンツェに奪われる<ref name=":42">{{Cite book |title=The Medici : godfathers of the Renaissance |url=https://www.worldcat.org/oclc/440091700 |publisher=Vintage Books |date=2007 |location=London |isbn=978-0-09-952297-3 |oclc=440091700 |first=Paul |last=Strathern}}</ref>。
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=== 14世紀 === |
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{{引用|セルキ家とジュニ家の間で、まずガルボ通りの家で戦闘が始まった。彼らは昼も夜も戦い、カヴァルカンティ家とアンテレジ家の助けを借りて、前者がその地区すべてを制圧した。1000人の田舎の信者が彼らの結束を強化し、その日は、不測の災害が規模を変えなければネリ家が滅びるところだった。サン・ピエロ・シェラッジョの司祭でネリ・アバティと呼ばれるある不心得な司祭が、家族に偽り、黒人の首長たちと協力して、オルト・サン・ミケーレの自分の親族の住居に火を放つことを承諾した‥ 商店、倉庫、塔、個人の住居や宮殿、旧市場から新市場まで、ヴァッケレッチャからサンタマリア門、ヴェッキオ橋まで、すべてが一面の火の海となった。1900軒以上の家が焼け落ち、略奪と荒廃が炎の中で無制限に歓喜し、全民族が一瞬にして乞食となり、最も高価な商品の膨大な雑誌が破壊された。フィレンツェで最も豪奢な家系のひとつであるカヴァルカンティ家は、全財産が焼失したのを見て、勇気を失い、それを救おうとせず、街をほぼ手中に収めた後、ついに反対派に打ち破られた。|''Florentine History''より。直訳|size1=1080}}
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{{引用|セルキ家とジュニ家の間で、まずガルボ通りの家で戦闘が始まった。彼らは昼も夜も戦い、カヴァルカンティ家とアンテレジ家の助けを借りて、前者がその地区すべてを制圧した。1000人の田舎の信者が彼らの結束を強化し、その日は、不測の災害が規模を変えなければネリ家が滅びるところだった。サン・ピエロ・シェラッジョの司祭でネリ・アバティと呼ばれるある不心得な司祭が、家族に偽り、黒人の首長たちと協力して、オルト・サン・ミケーレの自分の親族の住居に火を放つことを承諾した‥ 商店、倉庫、塔、個人の住居や宮殿、旧市場から新市場まで、ヴァッケレッチャからサンタマリア門、ヴェッキオ橋まで、すべてが一面の火の海となった。1900軒以上の家が焼け落ち、略奪と荒廃が炎の中で無制限に歓喜し、全民族が一瞬にして乞食となり、最も高価な商品の膨大な雑誌が破壊された。フィレンツェで最も豪奢な家系のひとつであるカヴァルカンティ家は、全財産が焼失したのを見て、勇気を失い、それを救おうとせず、街をほぼ手中に収めた後、ついに反対派に打ち破られた。|''Florentine History''より。直訳|size1=1080}}
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またボンシニョーリ家の銀行が破産したため、当時もまだ現役のフローリン金貨を持つフィレンツェ内でいくつもの銀行ができ、政治では教皇派と皇帝派の対立、経済では銀行同士の争い状態に突入した<ref name=":4" />。 |
またボンシニョーリ家の銀行が破産したため、当時もまだ現役のフローリン金貨を持つフィレンツェ内でいくつもの銀行ができ、政治では教皇派と皇帝派の対立、経済では銀行同士の争い状態に突入した<ref name=":4">{{Cite book |title=The Medici : godfathers of the Renaissance |url=https://www.worldcat.org/oclc/440091700 |publisher=Vintage Books |date=2007 |location=London |isbn=978-0-09-952297-3 |oclc=440091700 |first=Paul |last=Strathern}}</ref>。
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ただそれも長くは続かず、ヨーロッパ全体の経済不況により[[1340年]]頃から幾つも銀行が消えていった。その裏で文化面では大成長した[[フィレンツェ]]は[[ルネサンス]]の中心となり、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]や[[ミケランジェロ・ブオナローティ]]など著名な芸術家を生んだ<ref name=":4" /><ref>{{Cite web|和書|title=フィレンツェの歴史。フィレンツェの創設、発展、出現 |url=https://ja.aroundtravels.com/article-about-italy/article-about-florence/history-florence-foundation-development-emergence.html |website=AroundTravels |date=2016-03-30 |access-date=2023-03-29 |language=ja |last=aroundtravels}}</ref>。
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ただそれも長くは続かず、ヨーロッパ全体の経済不況により[[1340年]]頃から幾つも銀行が消えていった。その裏で文化面では大成長した[[フィレンツェ]]は[[ルネサンス]]の中心となり、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]や[[ミケランジェロ・ブオナローティ]]など著名な芸術家を生んだ<ref name=":4" /><ref>{{Cite web|和書|title=フィレンツェの歴史。フィレンツェの創設、発展、出現 |url=https://ja.aroundtravels.com/article-about-italy/article-about-florence/history-florence-foundation-development-emergence.html |website=AroundTravels |date=2016-03-30 |access-date=2023-03-29 |language=ja |last=aroundtravels}}</ref>。
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15世紀に[[コジモ・デ・メディチ]]が支配して以降は、実質的には[[メディチ家]]が支配した[[シニョリーア]]制となり、メディチ王朝と呼ばれる時代に入る。 |
15世紀に[[コジモ・デ・メディチ]]が支配して以降は、実質的には[[メディチ家]]が支配した[[シニョリーア]]制となり、メディチ王朝と呼ばれる時代に入る。 |
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メディチ朝では[[コジモ・デ・メディチ]]が[[ローディの和]]を推し進めるも、[[第一次イタリア戦争]]でメディチ家は追放されてしまう<ref name=":3" /><ref name=":2" />。 |
メディチ朝では[[コジモ・デ・メディチ]]が[[ローディの和]]を推し進めるも、[[第一次イタリア戦争]]でメディチ家は追放されてしまう<ref name=":3" /><ref name=":2">{{Cite web|和書 |title=フィレンツェ/フィレンツェ共和国 |url=https://www.y-history.net/appendix/wh0603_1-049.html |website=www.y-history.net |access-date=2023-03-29}}</ref>。
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国内は混乱状態に入る。この中で、[[ニッコロ・マキャヴェッリ]]は[[君主論]]を書いたともいわれる<ref name=":2" />。 |
国内は混乱状態に入る。この中で、[[ニッコロ・マキャヴェッリ]]は[[君主論]]を書いたともいわれる<ref name=":2" />。 |
2024年5月22日 (水) 02:00時点における版
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- フィレンツェ共和国
- ラテン語: Respublica Florentina
イタリア語: Repubblica fiorentina -
←
←1115年 - 1532年 →
(国旗) (国章)
フィレンツェ共和国の版図(1494年)-
公用語 トスカーナ語、イタリア語、ラテン語 首都 フィレンツェ 通貨 フローリン 現在 イタリア
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2b/Italy_1494_AD.png/150px-Italy_1494_AD.png)
歴史
12世紀
13世紀
14世紀
「セルキ家とジュニ家の間で、まずガルボ通りの家で戦闘が始まった。彼らは昼も夜も戦い、カヴァルカンティ家とアンテレジ家の助けを借りて、前者がその地区すべてを制圧した。1000人の田舎の信者が彼らの結束を強化し、その日は、不測の災害が規模を変えなければネリ家が滅びるところだった。サン・ピエロ・シェラッジョの司祭でネリ・アバティと呼ばれるある不心得な司祭が、家族に偽り、黒人の首長たちと協力して、オルト・サン・ミケーレの自分の親族の住居に火を放つことを承諾した: 商店、倉庫、塔、個人の住居や宮殿、旧市場から新市場まで、ヴァッケレッチャからサンタマリア門、ヴェッキオ橋まで、すべてが一面の火の海となった。1900軒以上の家が焼け落ち、略奪と荒廃が炎の中で無制限に歓喜し、全民族が一瞬にして乞食となり、最も高価な商品の膨大な雑誌が破壊された。フィレンツェで最も豪奢な家系のひとつであるカヴァルカンティ家は、全財産が焼失したのを見て、勇気を失い、それを救おうとせず、街をほぼ手中に収めた後、ついに反対派に打ち破られた。」 |
—Florentine Historyより。直訳 |