ランゴバルド王国
- ランゴバルド王国
- Regnum Langobardorum
Regno dei Longobardi -
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←568年 - 774年 →
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740年-
首都 パヴィア 現在 イタリア
フランス
スロベニア
クロアチア
歴史[編集]
ランゴバルド族とゲピド族の抗争[編集]
ランゴバルド族は1世紀までにエルベ川下流域に定住し、その後547年に東ローマ帝国によって、パンノニアとノリクムの境界地域に定住を許された[3]。パンノニアはゴート戦争開始によって生じた防備の弱体化をついてゲピド族によって占領されており、彼らはシルミウムを首都として王国を築いた。そのため、東ローマ帝国はゲピド族と東ゴート王国への対抗の意味で領内にランゴバルド族を招き入れたのであった[4][5][注 1]。 ランゴバルド族はゲピド族と抗争を繰り返し、566年になって東ローマ帝国がゲピド族と同盟を結ぶと、ランゴバルド族はその東方にいたアヴァール人と結んでこれに対抗、結果としてゲピド族は567年に滅亡した[7]。アルボインによる王国創始[編集]
しかし強大なアヴァール人に圧迫を受けるようになったランゴバルド族は568年になると、王アルボインに率いられてイタリア半島に侵入し、その年のうちにヴェネト地方の大半を占領した[8]。569年にはメディオラヌムを、572年にはティーキヌムを占領し[注 2]、後者を首都としてランゴバルド王国が成立した[8][9][10]。 その勢いは衰えず、570/1年には諸公の一人ファロアルド1世はスポレートを支配下においてスポレート公国を築き、他の諸公ゾットーネはさらに南下してベネヴェントを占領、ベネヴェント公国を打ち立てた[11][12]。諸公の時代[編集]
572年にアルボインが暗殺され、王位を継いだクレフも574年に暗殺されると、ランゴバルド王国は30人以上の諸公が支配する連合政体へと変化した[11][12]。この統一王が存在しない時代は諸公の時代と呼ばれる[13]。 574年にランゴバルド人の一部がプロヴァンスに侵攻したが、フランク王国の逆侵攻を招き、北イタリアは危機的な状況となった。ここで諸公はクレフの息子アウタリウスを王に選出し、彼が貢納金を支払ったことでフランク軍は一旦撤退した。東ローマ帝国とフランク王国による征討[編集]
ランゴバルド諸公に対して、東ローマ帝国は金銭による懐柔外交を展開するとともに、フランク王国と同盟してこれを打倒しようとした[11][14]。 フランク王国は574年の遠征で貢納と領土の割譲を条件にランゴバルド族と講和しており、イタリア半島情勢への介入には消極的な姿勢を保っていた[15]が、東ローマの勧誘を受けて585年と588年にイタリアへ再侵入し、アウタリウスは貢納を条件に589年これと講和した。590年にもフランク族は大軍をもってランゴバルド王国を攻撃したが、これは掠奪をおこなうに止まった[16]。アウタリウス・アギルルフス[編集]
フランクによる対外危機は分裂する傾向にあったランゴバルド族に結束の必要を認識させた。574年以来ランゴバルド族は王を戴かずに諸公の合議によって統治されていたのであるが、584年になると、アウタリウスが選出されて王となった。アウタリウスの死後跡を継いだアギルルフスは591年、毎年の貢納を条件にフランク王国と和解し、東ローマ領を侵し始め、593年にはローマを包囲してグレゴリウス1世と交渉し、598年には教皇と講和した[17]。 アウタリウスの治世に首都パヴィアを中心として王国としてのまとまりが現れ始め、次代のアギルルフスの治世下には統治制度が整備されて国家としての体裁をとるようになった[18]。パウルス・ディアコヌスは﹃ランゴバルド史﹄の中で、このアギルルフスの治世に実現された平和を賞賛している。アダロアルドゥス時代のカトリックへの改宗[編集]
616年のアギフルススの死後はアダロアルドゥスが継いだが、妃であったテオデリンダが権力を握った。テオデリンダはカトリック信仰に熱心で、教皇グレゴリウス1世とも親しく、聖コルンバヌスによる修道院設立を支援した。アギフルススがアリウス派を捨て、カトリックに改宗したのも彼女の影響である。 また彼女以後歴代の国王は、三章書論争(三主題論争)で三章書を支持して分離したミラノやアクィレイアの教会とローマ教会との調停に尽力した。三章書とはモプスエスティアのテオドロスの著作、キュロスのテオドレトスによるアレクサンドリアのキュリロスに対する駁論、エデッサのイヴァスによるテオドロス賞賛の手紙を指す。単性説とカルケドン派の対立において、単性説側はこれら三章書がネストリウス的異端に染まっているとし、異端の書であるにもかかわらず、カルケドン公会議はこれらの書を批判していないとして非難した。ユスティニアヌスはこれを受けて三章書を異端とする勅令を543年と545年に出したが、これにローマ教皇ウィギリウスをはじめ西方教会が反発した。ユスティニアヌスはウィギリウスをコンスタンティノープルに招いて説得に努め、ウィギリウスは翻意して三章書を非難するようになったが、西方の司教たちは逆に教皇を非難して破門し、ウィギリウスは動揺して三章書批判を撤回した。553年の第2コンスタンティノープル公会議で三章書を異端とする勅令が出され、この問題の最終決着が図られたが、西方教会ではこれを認めなかった[19]。とくに三章書を積極的に支持し、ローマ教皇の不明瞭な態度を非難する一派はアクィレイア司教マケドニウスを中心にアクィレイアで教会会議を開き、独自の総主教をたてて独立した。この﹁三章書のシスマ﹂は658年まで続いた。︵en:Schism of the Three Chapters参照︶アリオアルドゥスの時代[編集]
626年にアダロアルドゥスは義兄アリオアルドゥスによって弑され、アリオアルドゥスは王位に就いた。この簒奪の背景には東ローマ帝国との融和政策に対するランゴバルド武人の不満があったと考えられる。アリオアルドゥスはアリウス派であった。ロターリのアロディ朝[編集]
636年にアリオアルドゥスが死ぬと、その妃グンディベルガを娶ったロターリが王に選出された。ロターリは東方でイスラーム教徒と争っている東ローマ帝国の支配のゆるみをついて領土を積極的に拡大し、リグーリア・コルシカ・ヴェネツィア周辺部などを奪取した[20]。またロターリは643年に﹁ロターリ王の告示﹂、いわゆるロターリ法典を編纂したが、これはランゴバルド人の法慣習を採録したものである[21]。ロターリはランゴバルド王国の最盛期を現出したが、652年のその死後、王国は急速に分裂、弱体化した。 彼の息子ロドアルドゥスは短命で、653年にアギロルフィング家のアリペルトゥス1世に王位が移った。アリペルトゥス1世の死︵661年︶に際して2人の息子に王国が分割されたが、これが内紛を生じ、662年ベネヴェント公グリモアルドゥス1世が王位を手に入れることとなった[22]。ベネヴェント朝[編集]
クレフ王の死後の10年間、ランゴバルド諸公は一種の合議政体をもって王国を運営し、この間に地方に割拠する諸公の力は強まった。特にイタリア中部のスポレート公国と南イタリアのベネヴェント公国はラヴェンナとローマの枢軸を維持する東ローマ帝国によって、北イタリアのランゴバルド王国の中央から隔てられているために、自立性が高かった。初代ベネヴェント公ゾットーの跡を継いだアリキス1世は東ローマ帝国領カラブリアと沿岸都市以外の南イタリアをほぼ制圧し、広大な領土を支配するようになった[22]。 第5代のグリモアルドゥス1世はランゴバルド王国で起きた王位継承を巡る争いに乗じて、ランゴバルド王位を獲得し、ランゴバルド王とベネヴェント公をかねてランゴバルド人を統一した[22]。しかし彼の死後は2人の息子がランゴバルド王位とベネヴェント公位を分割して保持することになり、再び両国は分かたれた。ベネヴェント公位を継いだロムアルドゥスは弟のガリバルドゥスにランゴバルド王位を譲った[23]。まだ幼かったガリバルドゥスは即位後1年で王位をペルクタリトゥスに奪われ、ランゴバルド人の統一は失われた。リウトプランド時代[編集]
滅亡[編集]
アイストゥルフの次代の王デシデリウスはカール大帝の弟カールマンと結んでフランク王国の政治に介入しようとし、また教皇領を攻撃して領土拡大を目指したが、逆に773年カール大帝のイタリア遠征を招き、翌774年には首都パヴィアが陥落してデシデリウスは廃され、カール大帝が自らランゴバルド王を兼ねるに至って、ランゴバルド王国は実質的に滅亡した[29][30][31]。ベネヴェント公国[編集]
他方、ロムアルドゥスの後継者たちが支配した南のベネヴェント公国は、774年のランゴバルド王国滅亡を傍観しながら生き残り、8世紀後半にはランゴバルド王国の正統を自認してベネヴェント侯国を名乗るようになる[32]。 侯国の地方統治はガスタルディウス (gastaldius) という地方役人が担っていたが、彼らは徐々に侯から独立するようになり、ベネヴェント侯国は分権化し始めた[33]。839年に第5代のベネヴェント侯シカルドゥスが暗殺された後、侯位を巡って争いが起こり、849年にはサレルノ侯国が分かれた[34]。ランゴバルド三侯国[編集]
このサレルノ侯国の有力者カープア伯は861年に自立してカープア伯領を形成するが、900年にカープア伯アテヌルフス1世がベネヴェント侯に即位してカープア・ベネヴェント侯国が成立した[34]。この統一侯国は982年まで続くが、その後はベネヴェント侯国とカープア侯国に分かれた[35]。こうしてランゴバルド三侯国が成立した。国王[編集]
レティング朝[編集]
ガウシ朝[編集]
諸侯の時代[編集]
- クレフ(クレーフィ)(572年 - 574年)
- 諸公の時代
- アウタリ(584年 - 590年)
- アギルルフ(591年 - 616年)
- アダルヴァルド(616年 - 626年)
- アリヴァルド(626年 - 636年)
ハロディング朝[編集]
アギロルフィング朝[編集]
ベネヴェント朝[編集]
アギロルフィング朝[編集]
- ペルクタリト(671年 - 688年)
- アライス(688年 - 689年)(反逆者)
- クニペルト(688年 - 700年)
- リウトペルト(700年 - 701年)
- ラギムペルト(701年)
- アリペルト2世(701年 - 712年)
諸侯の時代[編集]
- アンスプランド(712年)
- リウトプランド(712年 - 744年)
- ヒルデプランド(744年)
- ラトキス(744年 - 749年)
- アイストゥルフ(749年 - 756年)
- ラトキス(756年 - 757年)(2度目)
- デシデリウス(757年 - 774年)
- アダルギス(774年)
系図[編集]
クラッフォ |
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タート |
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イルドキス |
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| テオデバルド フランク王 |
| ワルドラーダ (531-572) |
| ガリヴァルト1世 バイエルン公 |
| クレーフィ |
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| アルボイーノ |
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| アウタリ |
| テオデリンダ |
| アギルルフ |
| グンドアルド (565-616) アスティ公 |
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| アギロルフィング家 バイエルン公 |
| アリヴァルド |
| グンディベルガ |
| ロタリ |
| アダルヴァルド |
| グンドペルト |
| アリペルト1世 |
| ベネヴェント公家 |
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| ロドヴァルド |
| ペルクタリト |
| ゴデペルト |
| テオデラード |
| グリモアルド1世 ベネヴェント公 |
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| クニペルト |
| ラギムペルト |
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| リウトペルト |
| アリペルト2世 |
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| アンスプランド |
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| リウトプランド |
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| デシデリウス |
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| ラトキス フリウーリ公 |
| アイストゥルフ フリウーリ公 |
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| タッシロ3世 バイエルン公 |
| リウトペルガ |
| デシデラータ |
| カール大帝 フランク王 |
| アダルギス |
| アデルペルガ |
| アリキス2世 ベネヴェント公 |
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| グリモアルド3世 ベネヴェント公 |
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ロンバルディアの鉄王冠[編集]
歴代のランゴバルド王が着けていた“ロンバルディアの鉄王冠”と呼ばれる冠がある。これはランゴバルド滅亡の後は、カール大帝をはじめロンバルディア王(すなわち北イタリア王)を兼ねた神聖ローマ皇帝の戴冠式で用いられ、後世ではナポレオン・ボナパルトやオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世もこれを戴冠した。
注釈[編集]
脚注[編集]
- ^ 北原敦 2008, pp. 129–130.
- ^ クリストファー・ダガン 2005, pp. 50–51.
- ^ 橋本龍幸 1998, p. 223.
- ^ 尚樹啓太郎 1999, p. 5.
- ^ Warren T. Treadgold 1997, p. 208.
- ^ Jonathan Shepard 2009, pp. 208–209, 217.
- ^ 橋本龍幸 1998, p. 224.
- ^ a b c 尚樹啓太郎 1999, p. 6.
- ^ Jonathan Shepard 2009, p. 124.
- ^ Warren T. Treadgold 1997, p. 222.
- ^ a b c 橋本龍幸 1998, p. 230.
- ^ a b 尚樹啓太郎 1999, p. 0.
- ^ "Lombard" (2008), Encyclopædia Britannica (retrieved 5 November 2008 from Encyclopædia Britannica Online).
- ^ Jonathan Shepard 2009, p. 216.
- ^ 橋本龍幸 1998, pp. 235–236.
- ^ 尚樹啓太郎 1999, p. 2.
- ^ 尚樹啓太郎 1999, pp. 234–235.
- ^ 北原敦 2008, p. 130.
- ^ 尚樹啓太郎 1999, pp. 208–210.
- ^ 北原敦 2008, p. 131.
- ^ 勝田有恒, 森征一 & 山内進 2004, p. 58.
- ^ a b c 高山博 1993, pp. 48–49.
- ^ 高山博 1993, p. 49.
- ^ a b c d Henry Bernard Cotterill 1915, p. 231.
- ^ J.Derek Holmes 1983, p. 54.
- ^ a b Edward Hutton 1913, p. 125.
- ^ Harold Samuel Stone 2002, p. 33.
- ^ 北原敦 2008, pp. 133–134.
- ^ 尚樹啓太郎 1999, p. 4.
- ^ 北原敦 2008, pp. 134–135.
- ^ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1996, p. 74.
- ^ 高山博 1993, pp. 49–50.
- ^ 高山博 1993, p. 50.
- ^ a b 高山博 1993, p. 51.
- ^ 高山博 1993, pp. 51–52.